コーエーの歴史シミュレィションゲィムに、登場して欲しい武将の、能力値や、特技などを考えるスレです。
(漫画等の架空の人物は、成る可く避けて下さい。)
名前を挙げるだけでも結構ですが、出来れば、
その武将に対するコメントを、一言添えて頂ければ幸いです。
それでは、まず私から。
王リョウ 字:彦雲 董卓を誅殺した王允の甥。魏に仕え、治民の才を発揮。
統率77 軍事でも功績を上げ、建武将軍→征東将軍・仮節揚州諸軍事
武力75 →車騎将軍・儀同三司→司空→太尉と昇進。
知力68 甥の令孤愚が才能によってエン州刺史に任じられた為、
政治80 一族で淮南地方の権力を掌握する事になった。
魅力77 次第に司馬氏の専制に反感を持つようになり、
令孤愚と共謀して、クーデターを計画するも、
特技:商才、無双、 決行前に令孤愚が病死。また、彼の計画も事前に発覚。
警備、謀略×、*夢枕 司馬懿の、「油断させておいて、速攻する作戦」にはまり、降伏。自殺した。
*(魏の忠臣で友人の、賈逵と共に司馬懿の夢枕に立ち、祟った為、
司馬懿は非常に気に病み、間も無く死んだ、という逸話から。
怨みに思う相手を、自殺した後、じわじわと弱らせ、
死に至らしめる特技。まぁ、メガンテのようなモノです(藁 )
ニュース
統60
武50
政25
魅65(劉備に敬意を表して)
成廉
戦闘83
知力60
政治20
統率70
魅力55
趙岑 董卓の配下
統率69
智謀63
武力77
政治35
魅力47
後漢(こうかん)
劉渕
戦闘113
知力87
政治88
統率104
魅力75
劉聡
戦闘101
知力50
政治20
統率45
魅力30
劉曜
戦闘136
知力97
政治86
統率99
魅力89
簡単な略歴も書いてくれ。
劉渕
五胡十六国の幕開けとなる漢の初代皇帝。字は元海。
匈奴人であったが高い中国的教養を持ち、『春秋左氏伝』と
孫呉の兵法を特に好んだという。
劉聡
劉渕の息子。316年に長安を占領して中原を制した。
名君だが晋を滅ぼしたあと政治に倦む。
三代皇帝、烈宗。
劉曜
少々お家騒動があったのち、318年に洛陽・長安攻略の殊勲者
で あった劉曜が即位。国号を趙(ちょう)と改めた。
文武とも優れた人物だが即位の後酒と女に耽溺した。
余談だが・・・
諸葛亮だとか司馬いだとかは攻める攻めないで何年もグズグズしていた
んだが、劉聡や劉曜の手にかかると、中原など赤子の手を捻るが如く蹂躙されたな。
八王の乱につけこんだだけだろ
統率 30
武力 15
政治 24
魅力 56
特技 強行
アイテム シューズ(必ず退却が成功する)
もうワラッタじゃない。
エン紹のところのキクギって出てる?
結構実績残してると思うけどなあ。
少なくとも、武安国とかよりは。
夏侯玄を讒言したあたり、なんかあくどくて
好きなんで、新武将でつくってる。
名前は・・・何て言ったっけ?(w
韓遂配下の閻行と成コウエイ
閻行は馬超をほとんど殺すとこまでいった武勇の持ち主。だが将軍としてはいまいちなかんじ。
成コウエイは韓遂がイスイの戦いで負けた後、キョウ族の力を借りるように進言した。
二人とも後に曹操に降る。
>>50
閻行と成公英は私も好きです。
僭越ながら、私が二人の能力を愚考させて頂きました。
(説明は、50氏が為さっているので、省かせ頂きます。)
成公英 ~韓遂の腹心~
統率75(軍隊の指揮もいける。)
武力75(弓の腕も中々のモノ。)
知力79(曹操に降ってから軍師、参軍を歴任。)
政治56(特に実績はないが…。)
魅力71(忠義心厚く、曹操に愛される。)
特技:*偽退、連射、激励
*(蛮軍との戦いで、偽退却をして敵を伏兵のいる所まで
誘い込み、前後から挟み撃ちし、撃破した功績から。
この特技が成功すると、敵は自部隊を追ってくる間、
側背に迫る味方部隊が見えなくなる。)
閻行 字:彦明 ~剛勇馬超を倒す金城の益荒男~
統率65(韓遂夜襲に失敗、敗北。)
武力97(馬超並って事で…。)
知力54(韓遂に馬超との連合を諌める。しかし、知恵はそれ程回らない印象。)
政治48(曹操への使者に。)
魅力60(年少の頃から益荒男との評判があった。)
特技:警備、騎兵、突撃、*奇襲×
*(奇襲が敵にばれ易くなる)
成公英の特技欄に「騎兵」を書き忘れてしまった。スマソ。
コーエーの『信長の野望』『三國志』シリーズでは、おおむね最後の
シナリオ開始30年後に最後の武将が登場します。数え16歳で成人するのが
普通なので、たとえば235年開始ですと、250年生まれがほぼ下限になる訳です。
が、『三國志7』だけは257年開始だとゲーム開始後登場の武将が一人も
いないという無茶な設定。
てっきり晋初期の武将が追加されると期待していただけに慌てたものです。
というわけで、このシナリオは新武将登録が欠かせません。
晋の「八王」でいちばん若い司馬穎が279年生まれなのを逆算しますと、
265年開始のシナリオが有れば、八王の乱関係者や南北朝初期の異民族武将を
出せますね。
ちなみに、>>10の挙げた劉淵はゲームに登場する劉豹の息子で、魏の嘉平年間
(249~254)の生まれとあるので、250年生まれまで新武将登録出来る『7』ならば
ぎりぎりで登録が可能です。『8』の下限は何年に成っているのか、教えて
頂けないでしょうか。
まず手始めに、1さんの挙げた王凌の息子から。
王広 字 公淵 ?~251
統率 58
武力 37
知力 86
政治 66
魅力 74
王凌の子。父の挙兵計画を「司馬一族は善政を行い人心を掴んでおり、
簡単に倒せる相手ではない」と諌めたが、父は聞き入れなかった。
そのいきさつから司馬懿によって父の降伏を説得する使者となったが、
結局父の自殺後殺された。
司馬懿の側近蒋済は主人に対し「広らの志と力は、父よりも優れたものが
あります」と評価したが、あとで後悔して親しい人に「わしのこの言葉は、
人の一門を滅ぼすことになるな」ともらしたという。
王広の義理:9
次に、君主の一族。生年の()は生年不詳者に仮に設定した年です。
司馬防 字 建公 149~249
統率 58
武力 30
知力 65
政治 77
魅力 73
義理 11
司馬懿の父。漢の尚書右丞であった頃、曹操を尉に推挙した。
のち曹操が魏王となると、「わしが今日でもやはり尉とすべきかね」と
聞かれたので、防は「昔、大王様を推挙いたしましたときは、尉に
するのがちょうど良かったので」と応え、曹操は大笑いした。
最後は京兆尹(都知事)にまでなった。
司馬衷 字 正度 259~306
統率 16
武力 21
知力 10
政治 15
魅力 85
義理 14
司馬炎の次男、晋の恵帝。暗愚で当初外戚の楊駿、ついで皇后の賈南風
(賈充の娘)に実権を握られていた。その後の皇族の権力争いによる内乱も
含めて「八王の乱」と呼ばれるが、本人は殆ど蚊帳の外だった。
最後は食中毒で死んだが、毒殺説もある。
司馬逸 字 熙祖 277~299
統率 70
武力 43
知力 69
政治 63
魅力 83
義理 13
司馬衷の長男。暗愚な父が皇帝になれたのは彼が祖父の司馬炎に期待されて
いたからという。しかし賈后の子でないことから彼女の手の者に殺され、
これが各地の皇族が反賈后の兵を挙げるきっかけとなった。
あ、司馬一族は君主じゃないか。晋乗っ取りイベントも欲しいところです。
司馬亮 字 子翼 ?(225)~291
統率 79
武力 63
知力 46
政治 67
魅力 69
義理 10
司馬懿の五男。晋の汝南文成王、八王の一人。
諸葛誕との戦いに従軍。晋の時代に成って、賈后に反楊駿の挙兵に誘われたが
拒否。楊駿の死後、新官職の太宰となるが、賈后に嗾けられた楚王司馬[王韋]に
殺された。
司馬[イ由] 字 子将 227~283
統率 81
武力 78
知力 50
政治 64
魅力 66
義理 9
司馬懿の六男。晋の琅邪王。279年冬、王渾、王戎らとともに呉征服に出兵、
呉の孫晧は降伏すると彼に印綬を差し出した。この功により大将軍となった。
司馬倫 字 子彝 ?(235)~301
統率 54
武力 66
知力 32
政治 60
魅力 70
義理 0
司馬懿の九男、晋の趙王。八王の一人。賈后が司馬逸を殺すと斉王司馬冏と
共に挙兵、賈氏一党を皆殺しにした。
ところが301年、勝手に皇帝を称して恵帝を太上皇帝に棚上げしたため、
司馬冏らによって殺された。
>>65>司馬防 字 建公 149~249
149~219です。訂正します。
司馬冏 字 景治 ?(266)~302
統率 75
武力 69
知力 33
政治 58
魅力 67
義理 5
司馬攸の子。晋の斉王、八王の一人。若い頃から恵み深く、父の風格があった。
司馬倫らと共に賈氏一党を滅ぼすが、倫が勝手に皇帝を称すると長沙王司馬乂、
成都王司馬穎、河間王司馬[禺頁]と共に倫を討ち、大司馬となった。
しかし、酒色におぼれ、今度は彼が司馬乂らに殺された。
司馬[王韋] 字 彦度 271~291
統率 72
武力 85
知力 28
政治 23
魅力 42
義理 7
司馬炎の五男。晋の楚王、八王の一人。
無学で暴力的な性格。賈后に楊駿打倒を持ち掛けられると先に断った司馬亮と
裏腹に乗り、楊駿らを粛清。その後実権を握った司馬亮らは[王韋]が軍事力を
持ち、しかも人を殺しまくる性格なのを恐れて遠い国の王に飛ばそうとしたが、
またも賈后にけしかけられて先に司馬亮らを殺害。そこで賈后に「勝手に人を
殺した」と罪を着せられ、彼もまた殺された。
統率 60
武力 65
知力 28
政治 17
魅力 40
義理 5
董衡と共に于禁の副将として、ハン城の曹仁の援軍に赴く。
董衡一緒にホウ徳に降伏を勧めた為に斬られる。
それってたいして活躍してないんじゃ・・・・
>>61
詳しいですね。
『晋書』を読まれるんですか?
では私も一人。
趙儼 字:伯然 ~曹軍、影の司令官~
統率82
武力47 *(仲の悪い武将の間を取り持ち、親密度を上げる。)
知力84
政治79
魅力80
特技:警備、*仲裁、収拾、激励
荊州に乱を避け、杜襲・繁欽と一緒に暮らしていたが、
曹操が献帝を迎えて許に都を移すと、一族を率いて曹操の下に赴き、
朗陵の長に取り立てられた。官渡の戦いの時、陽安郡では李通が急いで税をとりたて
たが、趙儼はそれを緩和させ、荀彧に進言して、とりたてられた税を返還させたので、
上も下も歓喜し、郡内は安定した。中央に召されて司空エン属主簿になった後、
仲の悪かった于禁・楽進・張遼ら三つの軍の参軍を兼任し、親睦させた。
荊州征討の時、趙儼を章陵太守を兼任させ都督護軍に官を移し、于禁・張遼・張コウ・
朱霊・李典・路昭・馮楷の七軍を統括させた。
曹操は元韓遂・馬超ら配下の兵五千余人を漢中から外へ移動させ、
平難将軍殷署らにとりしきらせて、趙儼を関中護軍として諸軍全部の指揮を取らせ、
来攻してくる羌族や反乱者を撃破した。
樊城が関羽に包囲された際、趙儼は議郎として援軍に参画し、
他の援軍も到着せず、包囲を解くには不十分な兵力であるのに、
決戦に逸る諸将をなだめ、徐晃に的確な進言をして勝利に導いた。
このように、趙儼は裏から軍を支え、この後も、征東軍師、監豫州諸軍事、大司馬軍師、
監雍涼諸軍事・仮節などを歴任し、二四三年、老齢と病気を理由に中央に帰還し、
驃騎将軍となり、司空に昇進し、死去した。通好みの人物と言えるのではないでしょうか。
>>77
『晋書』は大学図書館にあるものを少しずつ(かなり適当)。卒業してしまったので、利用出来るとはいえなかなか行く機会がありません。主な人物は山川出版社の『中国史』や福原啓郎著『西晋の武帝 司馬炎』(白帝社、1995年)、陳舜臣著の『中国の歴史』(講談社文庫)、あと題は忘れましたがこれまた図書館にあったアジア人名辞典。これらであたりを付けました。
司馬壞(王へんが正しい) 字 子泉 ?(240)~274
統率 50
武力 48
知力 65
政治 58
魅力 62
義理 9
司馬孚の七男。晋の太原烈王、中郎将。
司馬[禺頁] 字 文載 ?(259)~306
統率 55
武力 73
知力 49
政治 58
魅力 62
義理 5
司馬カイの子。晋の河間王、八王の一人。長沙王司馬乂の死後、成都王司馬穎
らと争う。司馬穎から皇太弟の地位を剥奪し、豫章王司馬熾を新たにその地位に
就けた。部下の張方は洛陽を荒らして半独立状態にあり、強引に長安に遷都。
この為またも反対の兵が挙がり、東海王司馬越らに攻撃される。
[禺頁]は張方を暗殺して降伏するが、結局南陽王司馬模に殺され、三人の子もまた
殺された。
司馬越 字 元超 ?(258)~311
統率 79
武力 74
知力 68
政治 72
魅力 75
義理 4
司馬懿の弟、司馬馗の孫、司馬泰の子。晋の東海王、八王の一人。八王で最後まで
生き残った。
恵帝の死後、弟の司馬熾(懐帝)が即位し、越が実権を握った。
ところが匈奴の劉淵の後継者、劉聰が攻撃の機会を伺っているにも関わらず、
懐帝と対立してそれどころでは無かった。
懐帝が司馬越打倒の密勅を出そうとしたのを阻止したものの、やがて憂悶のうちに
死んだ。
司馬乂 字 士度 277~304
統率 80
武力 75
知力 40
政治 53
魅力 71
義理 8
司馬炎の六男。晋の長沙王、八王の一人。司馬冏らとともに司馬倫を討つが、その後
司馬冏も殺した。やがて河間王司馬[禺頁]の部下、張方にけしかけられた
司馬[禺頁]・成都王司馬穎、とも争い、善戦したが敗北。張方によって炙り
殺された。
司馬穎 字 章度 279~306
統率 76
武力 78
知力 54
政治 62
魅力 75
義理 2
司馬炎の十六男。晋の成都王、八王の一人。盧志(盧植の曾孫)に勧められ、
司馬倫征討に参加。司馬乂の死後、丞相となるが、司馬倫や司馬乂が洛陽に
留まって討たれたのを恐れ、領地に留り、政治を司馬[禺頁]の部下、張方に任せた。
恵帝の皇后と皇太子を廃して自ら皇太弟となり、次の皇帝を狙った。そこで東海王
司馬越と豫章王司馬熾に攻撃され、この時劉淵を寧朔将軍として味方に引き入れ
撃退。しかし司馬越らも匈奴・鮮卑の傭兵を集め、遂に敗北。最後は田徽に縊り
殺された。遺体は盧志が葬った。
この様に八王が相次いで異民族の兵を引き入れた事で、やがて異民族の間に自立の
気運が高まってゆく。
司馬熾 字 豊度 284~313
統率 53
武力 45
知力 36
政治 49
魅力 77
義理 5
司馬炎の二十五男。晋の(孝)懐帝。
東海王司馬越に擁立されるが、やがて彼を疎んじ対立。
しかし司馬越の死後、匈奴の劉聰に攻め込まれ、あえなく降伏。
劉聰は熾に青衣を着せ、宴会の給仕をさせた。これを見て泣いた晋の旧臣は聰に
殺され、熾もまた殺された。
司馬[業β] 字 彦旗 297~317
統率 35
武力 48
知力 31
政治 43
魅力 72
義理 10
司馬炎の孫で、司馬晏の子。晋の(孝)愍帝。
洛陽が匈奴の劉聰に落とされると、長安に逃れた。懐帝が殺されると即位するが、
316年、劉曜に攻撃され降伏。匈奴の漢の首都、平陽に連行される。
そこで劉聰に、司馬熾と全く同じ事をさせられ、やっぱり殺された。
ここに西晋は滅亡した。年齢的に若すぎますが、西晋の最後を飾ったということで。
司馬覲 字 思祖 256~290
統率 43
武力 62
知力 52
政治 60
魅力 63
義理 9
司馬[イ由]の長男。晋の琅邪王。
司馬ヨウ(劉ヨウと同じ漢字) 字 思玄 ?~305
統率 77
武力 66
知力 68
政治 33
魅力 65
義理 6
司馬[イ由]の三男。諸葛誕の外孫にあたる。晋の東安公、のち王に昇格。
美しい鬚の持ち主で、剛毅且つ博識だった。
彼は諸葛誕が殺されたのは文鴦の所為だと思っていた(どう考えても恨む相手を
間違えている)。291年、晋の権臣楊駿が誅殺されると、このどさくさで文鴦が反逆を
謀ったとでっち上げ、彼の三族を皆殺しにした。
八王の乱で成都王司馬穎が実権を握ると、たまたま母の喪中で[業β]にいた為
止む無く穎に降伏した。ところが後に会議での発言が気に食わないとの理由で、
穎に殺されてしまった。
司馬睿 字 景文 276~322
統率 75
武力 58
知力 73
政治 82
魅力 90
義理 11
司馬覲の子。晋の琅邪王、東晋の元帝(元皇帝)。東晋初代皇帝。
親しくしていた叔父の司馬ヨウが司馬穎に殺されると、彼も心中穏やかでは
無かった。
琅邪の有力豪族、王導の進言で、雷雨に紛れて[業β]を脱走。途中、司馬穎の敷いた
検問で呼び止められると、とっさに従者の宋典が睿の馬をうち、「舎長
(学生寮の管理人で、大した身分ではない)よ、お上は貴人の通過を禁じている
そうだ。貴様も拘引されるのか、偉くなったものだな」とからかって見せた。
そのやり取りを見て役人は通過を許した。
睿は琅邪に戻り、後に建業に逃れた。
西晋の愍帝、司馬[業β]が匈奴の漢の捕虜となると晋王を称し、彼が殺されると
皇帝となった。これが東晋である。また、司馬[業β]の名を避ける為、建業を建康と
改めた。
東晋は王導を初めとする北方から逃れて来た豪族と、呉の旧臣である江南土着の豪族
によって支えられていたが、王導ら北方豪族が主導権を握った。特に王一族の勢力は
強く、「王と馬(司馬)が天下を共にす」と呼ばれる程だった。
その為途中から王導を遠ざけ、劉隗やチョウ(司から口を除いた文字)協らを重用
する様に成った。
王導のいとこ王敦が劉隗らの打倒を名目に謀反を起こすと、王導に助命を条件に
王敦征伐を命じたが、間も無く死んだ。
先祖が魏を乗っ取ったいきさつを聞かされ、自分の子孫もただでは済まないと怯えて
いたという。
司馬彪 字 紹統 ?(245)~306?
統率 16
武力 35
知力 77
政治 52
魅力 65
義理 12
司馬懿の弟である司馬進の孫。司馬睦の長男。晋の散騎侍郎。
好色な性格で廃嫡にされた。しかし一方学問に熱心で、後漢時代を記した「良史」が
無いとして、『続漢書』全80巻(『隋志』に拠れば83巻)を著した。正史三國志の注
にも使われており、おおむね穏当な内容とされる。
本書の大半は失われたが、現在の正史である范曄の『後漢書』に志(法律や暦法、
国家儀礼などの社会史)が無い為、現在でも志8巻のみは范曄の書に付されて現存
する。
これでやっと司馬一族が一段落着きました。次に、曹一族です。
曹嵩 字 巨高 ?(140)~194
統率 48
武力 40
知力 56
政治 82
魅力 76
義理 11
曹操の父、夏侯惇の叔父。夏侯氏の出だが宦官曹騰の養子となる。イベント人物と
しては登場済みですが、武将としての登場が待たれます。
中国では異姓の者の養子となるのは大変な禁忌で、「宦官の養子」と共に曹氏に
取ってダブルパンチとなった。
当時の後漢では金で官職を買う風潮が蔓延しており、金一億万(一億の事か)銭で
三公の一つ、太尉の位を買った。相場の十倍の値段で、足元を見られていた事が
判る。金持ちとはいえ、そこまでして太尉になったのは曹操の為に形だけでも
「三公を出した家柄」に成って置きたかったからだとされている。
董卓の乱が起こると琅邪へ避難したが、陶謙配下の張ガイ(もんがまえに豈)に
殺された。曹操は陶謙領に攻め入り、住民を虐殺した。
曹彪 字 朱虎 195~251
統率 68
武力 59
知力 43
政治 60
魅力 68
義理 6
曹操の子、母は孫姫。魏の楚王。
魏では曹爽の失脚後、司馬懿の権勢が高まっていた。
249年、これに不満を持った王凌は、外甥(姉妹の子)の令孤愚と共謀して
幼い斉王芳に代わって曹彪擁立のクーデターを計画するが、失敗。曹彪も加わった事
から、自殺を命じられた。
曹林 ?(194)~256
統率 39
武力 50
知力 63
政治 51
魅力 68
義理 8
曹操の子、母は杜夫人。魏の沛の穆王。名は豹ともいうところから、
「もう一人の曹豹」として一部で知られる。竹林の七賢の一人、ケイ康の妻は彼の
孫娘。
曹肇 字 長思 ?(208)~?
統率 64
武力 57
知力 51
政治 68
魅力 70
義理 10
曹休の子。魏の屯騎校尉。明帝曹叡が病の床につくと、曹宇と共に一度は後事を
託される。しかし、曹叡の寵臣、劉放と孫資を疎んじていたのを察した先方に
讒言され、免職となった。もはや面会も許されず、肇らは涙を流して立ち去った。
正始年間(240~248)、亡くなった。
曹チョ(慮に手偏) 字 顔遠 ?(253)~302
統率 63
武力 66
知力 60
政治 81
魅力 77
義理 11
曹肇の子である曹興の子。晋の武将。文才を持ち、洛陽の令などを歴任。晋の曹一族
では、曹志(曹植の子)に次ぐ評価を受けた。
斉王司馬冏が大司馬となった時に襄陽太守・征南司馬にまでなるが、賊討伐の為
呉に出兵し、戦死した。
魏系の人材ばかり取り上げていましたので、
人材不足が深刻な(;´Д`)<あぁ…、蜀の武将を補おうと思います。
羅憲 字は令則 ~蜀、最後の名将~
統率80
武力76
知力74 *(篭城戦で能力1.2倍)
政治68 *(優れた人材を発見、推挙できる)
魅力75
特技:警備、外交、連射、*守城、*鑑識眼
若い頃から才能・学問によって評判を立てられ、
十三歳で巧みに文章を書いた。
宣信校尉として呉に使いして、呉の人々に称讃された。
当時、黄皓に追随する者が多かったが、彼だけは同調しなかった。
その為、腹を立てた黄皓に、巴東太守に左遷された。
右大将軍閻宇が巴東都督として赴任し、領軍に任じられ副将になった。
魏の征蜀軍が来ると、羅憲は永安城の守備に回された。
呉は、蜀が敗北し、鍾会・鄧乂が死んで全ての城に主がないと聞くと、
蜀を併合しようと巴東を攻撃してきた為、羅憲は怒り、弓を射て堅守した。
一方、参軍の楊宗を脱出させ、魏の安東将軍の陳騫に危急を告げさせた。
歩協が城を攻撃してくると、羅憲は城外に出て、歩協を大破した。
孫休は憤怒して、陸抗らを軍勢三万を派遣して包囲を強化した。
六ヶ月たっても救援は来ず、城内の者の大半が病気にかかっていた。
しかし羅憲は、逃亡策を進言されても、意志を曲げず抗戦した結果、
陳騫の進言が司馬昭に通り、援軍が派遣され、陸抗らは撤退した。
司馬昭はそのままの任につかせ、リョウ江将軍に任命し、万年亭侯に封じた。
晋の武帝の時入朝し、冠軍将軍・仮節に昇進した。帝に蜀の大臣の子弟で、
任用に適する者について下問された際、陳寿、諸葛京らを推薦したが、
即刻皆任用され、世間より盛名を謳われた。任地に戻り、呉の巫城を襲撃し、
奪取し、呉討伐の計策を上奏した。羅憲は真面目で厳正で、士を倦む事なく
もてなし、財を軽んじ、施しを好んだという。
二七〇年死去し、安南将軍の号を追贈され、烈侯と諡された。
>>91何故彼が未だに登場出来ないのかと思います。結構前から取り上げられて
いましたから。
しかし、羅憲に限らず、蜀漢滅亡後、呉を頼った人が調べた限りでは一人も
いない。単に呉の滅亡は時間の問題、と判断しただけとは思えません。ここから、
蜀漢の人の呉への意識を察する事が出来ます。
>人材不足が深刻な(;´Д`)<あぁ…、蜀
正史準拠ですと、『演義』で無視された武将が多いのは魏と呉なので、どうしても
相対的に不利になります。特に魏の人材は豊富ですね。しみじみ思います。
曹冏 ?(203)~?
統率 45
武力 16
知力 79
政治 54
魅力 52
義理 14
曹騰の兄、曹字は叔興の子孫。曹芳の祖父の世代に当たる。
魏は後継争いを恐れ、皇族を極端に冷遇した。特に曹植などの皇位に近い皇族は
公職に就けず、常に厳しく監視されていた。たとえば曹植は朝臣としての勤務や
最前線への従軍まで願い出たが、何時も却下されていた。その為平民となる事を
願う者が多かったが、これも許されなかった。
こうした実情から、曹爽が魏の実権を握ると、曹冏は皇族を大事にしなかった為に
あっけなく滅んだ秦などの過去の実例を挙げ、「皇族は朝廷の枝葉」という先人の
言葉を引用し、皇族の登用を上奏した。しかし曹爽はこれを受け入れる事が出来
なかった。
こういう有り様だったから、曹爽が司馬懿に倒されると、殆ど抵抗出来ずに
司馬一族にしてやられてしまったのである。
曹楷 ?(209)~?
統率 43
武力 50
知力 41
政治 56
魅力 65
義理 14
曹彰の子、魏の任城王。一説によると、曹芳の実父。父の死後跡を継いだ。
晋の時代に成って、崇化(太后の宮殿の名)少府に任じられた。
曹志 字 允恭 ?(214)~288
統率 16
武力 24
知力 80
政治 75
魅力 78
義理 9
曹植の末っ子だが、「家を保全する君主の人柄」であるとして彼の跡を継いだ。
魏の征北王、晋のケン(曹丕の皇后、ケン氏と同じ字)城公・博士祭酒。
魏の皇族でありながら早くから司馬炎に接近。その為晋でもスムーズに出世出来た。
学問好きで、才能・品行共にすぐれ、晋の時代の曹氏では最も高い名声の持ち主
だった。
首都洛陽に留まっていた斉王司馬攸(炎の弟)が藩国に行く事になった時、
部下の[广臾]敷(の異体字)がこれを諌める上奏文を書いた。上司である曹志は、
父が魏で不遇だった事から、斉王は皇帝の側近として補佐役にすべきで、遠く地方に
追いやってはいけない、と考えていた。そのためわざわざ[广臾]敷に同意する旨の
上奏を奉った。しかし怒った司馬炎により免職にされ、廷尉の劉頌は大不敬の罪状で
死刑を主張したが、尚書の夏侯駿の反対で議論は紛糾、辛うじて命を取り留めた。
数年後、再び仕官して散騎侍郎となるが、母の死で錯乱し、間も無く後を追うように
死んだ。
曹霖 ?(210)~249
統率 22
武力 58
知力 32
政治 20
魅力 41
義理 3
曹丕の子。母は仇昭儀。魏の東海定王。曹叡の代、先帝曹丕の遺志によって特別な
寵愛が与えられた。しかし粗暴な性格で、後宮の中や婢妾の中には彼に傷つけられ
たり殺されたりした者が多数あった。
なお、曹髦は彼の子である。
典満とかでたのか?
名前だけでいいからズラッと教えてくれると嬉しい。
典満は2で登場済
ニュース
>>98
曹沖字は倉舒(196~208)は、没年齢が幼すぎるので、成人する前に死んでしまい、事実上ゲームに出せません。彼が生きていれば曹丕は天下を支配出来なかった、と自分で言っているくらいなので、魏がどのような運命を辿ったのか興味はありますが…。
次に、蜀漢の劉一族。
劉[王睿] 字 文衡 224~264
統率 51
武力 67
知力 37
政治 63
魅力 80
義理 10
野望 10
劉禅の長男。238年、蜀漢の皇太子となる。なのに『演義』では名のみの存在の
不幸な人。
騎馬・射術を好み、宮中の出入りに節度が無かった。この為霍弋に諌められたが、
祖父譲りの趣味とも取れる。また、孟光も彼の性格を郤正に心配している。
蜀漢滅亡後、鐘会が成都で謀叛を起こすと、乱兵の為に殺された。おそらく姜維と
行動を共にしたと思われる。
劉恂 ?(239)~?
統率 43
武力 24
知力 48
政治 65
魅力 71
義理 8
野望 1
劉禅の六男。父に従って魏に降伏。父の死後、晋によりその跡を継いで安楽公に
任ぜられた。
劉玄 ?(272)~?
統率 20
武力 34
知力 63
政治 62
魅力 70
義理 6
野望 3
劉永の孫。永嘉の乱(東晋十六国の乱)で一族は絶滅したが、ただ劉玄だけは
蜀に逃亡出来た。
蜀では巴[氏_]([氏_]とは別)の李雄が成国王を名乗って独立していた。
李雄は劉玄を勝手に安楽公に任命した。
347年、東晋が李勢(李雄の後、父の弟李壽が位を奪い、その後を李勢が継いだ)
を討った際、従軍した孫盛(正史の注によく出てくる評論家)は成都で劉玄と
出会った。
劉林 ?(211)~?
統率 54
武力 61
知力 37
政治 42
魅力 65
義理 8
野望 5
劉封の子。蜀漢の牙門将。蜀漢滅亡後の264年、魏に命じられて河東に移住した。
劉輯 ?(241)~?
統率 28
武力 16
知力 44
政治 49
魅力 66
義理 7
野望 4
劉理の子。蜀漢の梁王。父の死後、兄の劉胤が跡を継いだが、256年亡くなり、
その子の劉承も翌年亡くなった。そこで261年、改めて輯が跡を継いだ。
蜀漢滅亡後の264年、洛陽に移住し、奉車都尉に任命され、郷侯に封じられた。
…劉一族はもうおしまい。うう、少ないなあ。これでもかなり無理しているの
です。
劉禅には7人の子供がいましたが、司馬一族や曹一族、そして次に紹介する
孫一族とは比べ物になりません。既にゲームに登場している劉諶と、ここで紹介した
二人の他は、本当に名のみ登場の存在なので、出すには無理があります。
やはり元が小さい上に放浪続きだったのが影響していますね。厳しいです。
統率 10
武力 100
知力 10
政治 0
魅力 80
義理 50
種付 5000万円
適距離 3000m~100000m
赤兎馬 【系統:グレイソブリン系】 赤毛
距離適正:長距離 重:◎ ダ:◎ 種付料:3000万円
成長:晩成 気性:激 主戦騎手:呂布
主な産駒:なし
辺章
統率75
武力62
知力31
政治8
これ知ってる?
>>103
韓遂の反乱仲間ですね。
>>98
曹沖絡みでこの人はどうでしょう?
周不疑 字は元直 ~曹操が恐れた神童~
統率20
武力17
知力90
政治76
魅力85
特技:*天才、文才 *(年齢を重ねるごとに知力・政治+2)
幼少の頃から並外れた才能があり、聡明で優れた理解力を持っていた。
曹操は自分の娘と結婚させようとしたが、拒んでいる。
曹操は曹沖の相手役をさせようと思っていたが、曹沖が亡くなると、
疎ましく思うようになり、殺そうと思った。
曹丕はそれを諌めたが、曹操は、
「この人物は、とてもお前が使いこなせるような代物ではない」
と言い、刺客を向けて暗殺した。十七歳だった。
兵法?政治?哲学?
十七歳で暗殺されるまでに、『文論』四篇を書き著しているので、
とりあえず、文才はあったと思います。
劉先が、甥である周不疑を劉巴のもとで勉強させようとした時、
劉巴は、「いったいどうやって指導すればよいのでしょうか」
と劉先に語った程ですから、矢張り相当な人物だったんでしょう。
キャラもだしてくれよ!
正直、司馬一族、曹一族、劉一族はさむいんだけど。
>>109
まだ 現在進行形なんだからしばらく待とうや
私は呉将の紹介楽しみにしてるよ…
>>109
そうですね。分かりました。
ではこの人はどうでしょう。
張超
統率71
武力61
知力67
政治62
魅力70
特技:謀略、登用
広陵太守。兄張バクと共に、反董卓連合軍に加わる。
後に陳宮、許汜、王楷らと結託し、曹操に謀反し、
兄を担ぎ上げるも、曹操に敗北。
雍丘で一族を引き連れ、数ヶ月篭城したが、
楽進に一番乗りされ、一族諸共斬り殺された。
私も呉将は楽しみ。後半のシナリオで武将数がダントツに少なくて寂しい...
とりあえず、私は、鍾離牧、吾燦(火偏なし)、シギ、趙達、劉惇あたりを作って
入れてるけど甘寧の息子とかも入れたいんでよろしゅう。これだけだと叩かれそ
うなんで...
鍾離牧 (山越討伐に大功)
統率83
武力78
知力81
政治65
魅力80
吾燦(火偏なし) (御家騒動に消えた硬骨の名将)
統率82
武力65
知力88
政治74
魅力84
劉惇 (占い師)
統率14
武力9
知力91
政治60
魅力76
特技:天文
簡単だけど出先なんでカンベン。
>>103辺章
『8』で初登場しました。そこでの能力は以下の通りです。
武力 69
知力 56
政治 47
魅力 60
義理 8
野望 9
人物 能力重視
戦略 バランス好戦
ちょっとこじんまりし過ぎと思います。
他に『8』で初登場した主な人物。
区星 おうせい ?(157)~187
正史のみ登場。187年、長沙で反乱を起こすが、孫堅に鎮圧された。
戴陵 たいりょう ?(199)~?(257)
魏の武将。長水校尉。220年、曹丕がたびたび狩猟に出掛けるのを諌めた為怒りを
買い、死刑になる所一等を減ぜられた。
231年、司馬懿に従って諸葛亮の北伐を迎撃した。『演義』では諸葛亮の策略に
翻弄される。
張温 ちょうおん ?(146)~191
呉の同姓同名の人とは別人。後漢の司空。反乱を起こした羌族を攻撃した際、
孫堅を参謀に任じ、また董卓を召し寄せたが、董卓は遅れて来た上態度が
でかかった。
孫堅は張温に董卓を殺すよう進言したが、張温は従わなかった。
のち董卓が朝廷の実権を握ると、孫堅は胸を叩いて嘆息していった。「張公が
あの時私の言葉に従っておれば、朝廷は今こんな災難に遭わずに済んだものを」。
最期は董卓の差し金で殺された。
張挙 ちょうきょ ?(150)~188
漁陽郡の人。187年、張純と共に反乱を起こし、皇帝を称した。十数万の衆を
集めたが、公孫サンに討伐され、張純の死後自殺した。
張純 ちょうじゅん ?(152)~188
元中山国の相。羌族の反乱鎮圧の司令官を志願したが、張温は公孫サンを任命
した。その不満から張挙を誘って謀叛を起こし、弥天将軍を称した。公孫サンに
討伐され、敗走した先で部下に殺された。
『8』で追加された人物の続き。
田与 でんよ ?(198)~?(255)
おそらく正史の田豫、字は国譲と同一人物。
田豫は幼少の頃、平原の相時代の劉備に仕え、高く評価された。劉備が豫州刺史と
なると、母の老齢を理由に帰郷した。その後公孫サンに仕えるが、田豫が臨機応変の
策に長じていた事を理解しながらも任用出来なかった。
公孫サン滅亡後、曹操に仕え、烏丸・鮮卑の異民族統制に当たった。彼の手法は
異民族を常に争わせて弱体化させるというもので、「分割して統治する」植民地政策
を地で行っていた。また、烏丸王の骨進(『6』のみ登場)が従わないのを見て、
ある時彼の部落を襲撃。骨進は出迎えて拝伏したが、田豫は彼を斬って弟に代える
事により、異民族を威圧した。
のち南方に回り、満寵の元で呉と戦った。孫権が合肥の新城を攻撃した時、満寵は
救援を送ろうとしたが、田豫はすぐに派兵せず、敵の疲れを待つべきと主張。
結局孫権は兵を退いた。後に再び呉が攻め込んだが、今度は迎撃して撃退した。
最後は衛尉にまで昇進。正始年間(240~248、あるいは9)、70歳を超えて
たびたび辞任を請うたが、司馬懿は許さなかった。82歳で亡くなった。
『演義』では曹叡の命令で襄陽守備に当たった場面に登場するのみ。
おかげでゲームでも、最初に劉備に仕えた頃はまだ生まれていないというおかしな
設定にされている。
[广龍]会 ほうかい ?(202)~?(264)
[广龍]徳の子。魏の中衛将軍。勇気があって厳しく、父の風格があった。
諸葛誕が反乱を起こした時、誘われたが応じなかった。
鍾会配下として蜀漢攻撃に従軍。蜀漢が滅亡すると、父を殺した関羽の一族を
ことごとく滅ぼした。『演義』では関一族皆殺しの場面は削除されている。
北宮玉 ほくきゅうぎょく ?(142)~?(186)
羌族の首領の一人。北宮伯玉とも。正史のみ登場。黄巾の乱が起こると、反乱を
起こした。続いて漢族の韓遂らが加わるが、やがて仲間割れし、韓遂に殺された。
呂拠 りょきょ 字 世議 ?(196)~256
呂範の子。呉の驃騎将軍。
256年、魏への出兵の途上、呉の実権を握っていた孫峻が亡くなり、孫[糸林]が
勝手に跡を継いだとの知らせを受けると呂拠は自分の立場が危なくなる事を心配し、
滕胤と連絡を取り、共に孫[糸林]を討とうとした。
しかし孫[糸林]が素早く迎撃した為、部下は魏への投降を勧めたが、「叛臣と
なるのは恥だ」と言って自殺した。その一族は皆殺しにされた。
※長く重くなるので4つに分けます