短期集中連載「覆される元寇の常識」の第3回をお届けします。前回、前々回は、中世日本における唯一の国際戦争である元寇(1274年、1281年)について、近年の研究を紹介するとともに、従来説が見直されていることを解説しました。
最終回となる今回は、現代中国人が元寇をどのように見ているのかについて紹介したいと思います。
■中国ではほとんど知られていない
日本人にとって元寇は、承久の乱(1221年)とともに鎌倉時代における2大事件の1つです。また、台風が結果的に日本に味方したことから、後年の「神風」信仰の発端ともなりました。そうした背景もあり、日本では小学校の段階から元寇が教えられ、元寇を知らない日本人はほとんどいないと思われます。
では、もう一方の当事者である中国側はどうなのか?
…続きはソースで。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65896
2021年7月5日
ニュース
>>2
それもあるし、異民族のやった戦争なんで。
元史にもあっさりとしか書いてないんだよ
>
『元史』では、文永の役に関する記述は僅かにしか記載がない。
『元史』日本伝によると「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。
しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」[188]としている。
そらそうだ
大中華が他国に負けたの史上初めてなんだもの
弘安の役はもっと長く書いてるよ
>>120
>大中華が他国に負けたの史上初めてなんだもの
ウリナラファンタジーならぬ、我が国ファンタジーだな。
唐はタラス河畔でアッバース朝に負けてるし、
元にしたところで、日本に攻め込む前にベトナムで負けてる。
隋なんて朝鮮に侵略して負けるなんていう
だらしない黒歴史があるよ
ぶっちゃけ早々に滅びた原因の一つ
>>170
安市城の戦いとか、韓国ではもてはやされるみたいだな。
古代朝鮮三国の中で、高句麗は南朝鮮と一番縁がないけど。(´・ω・`)
>>5
いや、さすがにそこは本当やろ。
元寇直前まで南宋(漢民族)はモンゴルと戦っていた。
日本のモンゴル陣営入りを阻止するために、自国にいた日本人僧侶を帰国させて政治工作もやってた。
だが、その南宋が滅びたので元は南宗兵と船を徴発して
日本も蒙古の捕虜は殺したが南宋の捕虜は帰してやったそうだから大体あってる。
脅されたというか元に征服された後だから
そりゃまあ一般兵士は行けと言われたらどうしようもなかったんじゃね
范文虎みたいな南宋時代からアレなやつは知らんけど
確かこいつ弘安の役賛成派だったから元々ノリノリっぽい
黒歴史でも首都は今の中国内にあったよ
モンゴルと一緒に日本だけでなく、ヨーロッパにも攻め込んでるし、全く無関係とは言えない筈なのにな
中華文明的に黒歴史でもなんでもないんだがな……
モンゴル系は周辺部族も取り込んでそれなりにうまくやったと思う
中国の真ん中じゃどの民族が支配しても
長く続く官僚システムはあまり変わらないからな
漢民族的には黒歴史なんだろう
中華文明的には元って快挙なんでないのかね
あそこまで版図広げた時代は元時代しかない
中東とか軒並み征服した時代だろう
そうでなければ通貨を元にはしないと思うんだけど
あれくらいの勢力を保てるようにってことで通貨を元にしたのではないのかね
圓の簡体字が中国の紙幣には記載されてあってだな
これが日本でいうとこの円であって更に同じ発音の元と呼びならされていてだな……
日本は明治に今までの両とか文止めてその当時東洋で国際的に名が売れていた円を採用というか真似っこしたのであっ以下ry
その後、「円」っていう通貨単位だったから円=360°だから 1ドルは 360円でええやろ?
ってなったんだっけか?
マジレスすっと、当時の実勢経済を比較したのと、
日米国家の金保有量の差で1ドル=360円になった
近代史に突入する頃には卒業だもの
あれなんなんだろうな
わざと??
今もそうだが?(現在大学の人間)
>>199
大学の人間なら、中等教育の現状とか知らんのやないか?
今の社会科は、中学3年の夏休みまでは近現代史しか教えんぞ。(地理は中2で終わる)
教師やってた友人曰くそこまで教える時間が全然足りないとのこと
縄文、弥生が長すぎるw
あんなのは1時間て終わらせて良いw
負けそうな戦だったけど神風で奇跡的に勝てた!! ←大嘘
これ本当にどうにかしろよ
この記事で出てる
褒美がないから神風のおかげにした説はあり得そう
このシリーズの一つ前の記事では、
八幡愚童訓の話だったから神社主導説を考えてたかと思ったけど、
幕府主導説も捨てきれないと考えてるみたいね。
あれがあのまま歴史なわけじゃなくてあくまでエンタメだからね
まぁそれな。
あのゲームで歴史を認識されてもな・・・逆に困るわ。
国としてはもう滅んでるけど人でいうと宋人も当事者ではある
記事にある范文虎も旧南宋人
元寇については元側の事情もよく言及されてると思うが
それでもなんで元が、というかフビライが日本を攻めたのかって
色んな説はあってもまだ決定的なことわかってないみたいなんだよな
日本人だって、片目のバイバルスがモンゴルに勝ったとかベトナムの陳朝とか知らねーじゃん
普通に知ってたよ
ていうかゲームで知った
まぁそんなもんだよ
割と負けてて無敵ではないんだよねモンゴル軍
南宋滅ぼして中華皇帝位もゲットしたんじゃない?
皇帝名乗った異民族国家なら五胡十六国時代にもうじゃうじゃあるじゃない
正確に言うと唐も漢民族じゃ無かった気がする
形の上では、前皇帝から位を譲られか奪う
皇帝が何人もいる時代は、我こそ正当な皇帝と争ってる
隋唐は中国化した鮮卑族だな
日本人が詳しいのは三国志演義な
つまり小説版
日本でしかザビエルの名が知られていないのと一緒で
あのイグナティウス・ロヨラの仲間だぞ
カトリック的には結構重要なところだぞ
肖像画のインパクトでザビエル覚えてるのは日本だけだろうけどw
は?
北京が首都になる基礎を
作ったのが元だろ
なんで?知らない?
マルコ・ポーロがべた褒めした大都の話はやるべきだよな
あれが紫禁城の元になっている
胡同という懐かしの風景ができたのも大都の時代
都市設計にかかわった劉秉忠という偉いおっちゃんがいたんや
>>297
北方騎馬民族は
どういうわけか、北京周辺がお気に入り
元だけじゃないが
元が金かけたのは事実
てか北京に首都おいたの元が最初
金じゃね?
>>344
大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、
元朝の冬の都(冬営地)である。
現在の中華人民共和国の首都の北京の直接の前身であり
旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。
> 北京地方はモンゴル高原・東北地区(満州)と中国中原の間の中継点に当たることから軍事的に重要な土地で、
契丹人の遼は現在の大興区に大興府(中国語版)を設置し、遼を滅ぼした金は首都中都大興府を置いた。
1215年5月にモンゴルの圧力を受けた金が中都を放棄し、チンギス・カンの親征にともないモンゴル帝国軍による攻囲ののち接収される。
モンゴル本土と中国の中継点であることからいち早くモンゴル帝国による北中国支配の拠点として復興され、燕京大興府と称した。
>
モンケ歿後のアリクブケとの後継者争いに勝利したクビライは、
1267年に劉秉忠らに命じて燕京の城市の東北に接する土地に新たな都市を建設し始めた。
大都の構造は、周礼の匠人営国の記載に則って構成され、
南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝後市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られた。
こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、
異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものである。
中国史観としてはモンゴル帝国ってどういう扱いなの?
モンゴル帝国に支配された側なのか
元=モンゴル帝国でユーラシアを征服した側なのか
立ち位置はどっち?
元朝(実態はモンゴルの植民地)
清朝(満州族の支配)
は 中華民族の1部族による 堂々たる中華王朝になってると思うよ
インドがイギリス帝国を誇りに思ってるようなもんで 奇妙だが
中国4000年の歴史は確か100年前に言い出した事だよ。(´・ω・`)
日本が2000年の歴史なら俺達はもっとる筈って勝手に言ってるだけで調べてる訳ではない。単なる売り込み営業みたいな軽い考え。
最近5000年の歴史になりまた
「ハウス・中華三昧」のCMの罪は大きい。
おい!
中華三昧は明星だろが!!
あ、ハウスは「本中華」だったか。