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どんな時代のことなのでしょうか?
ご説明おねがいします。
>>8
オスマンはオスマン朝の始祖の名で、第三代正統カリフ・ウスマーンに由来するムスリム人名です。
ただし、オスマン1世自身の本来の個人名は
アタマン、トマンのようなトルコ語のもので、
アラビア語に書き移されるときにムスリムらしいオスマンに改められたという説が有力です。
>>11-12
キョプリュリュ時代は、キョプリュリュ家出身の大宰相
(キョプリュリュ・メフメト・パシャ、
その子キョプリュリュ・ファーズル・アフメト・パシャ、
メフメトの娘婿カラ・ムスタファ・パシャの3人)
が相次いで就任して国政を主導した17世紀後半のおよそ35年間を指す言葉です。
キョプリュリュ朝という語は初耳ですが、英語でKopururidとでも言うのでしょうかね?
この時代にオスマン朝はある程度の国勢を回復し、
クレタ島征服、トランシルヴァニア併合、ポドリア・右岸ウクライナ占領を果たして
オスマン朝の最大版図を達成することにも成功しますが、
結局第二次ウィーン包囲に失敗、それに始まる戦争にも敗れて
オスマン朝衰退の始まりであるカルロヴィッツ条約を招きました。
キョプリュリュ家自身は没落せずに中央政府の有力家門として残り、
オスマン朝の滅亡まで多くの高級官僚を輩出しました。
詳しい解説有難うございます。
やっぱり「キョプリュリュ朝」は変ですよね。
王家が交代したわけでもないのに、なんだって
こんなこと書くんだろ。
広大な領土が欧米列強に侵食されていく近代の歴史に
悲哀感を感じる
現在のトルコの領土ってオスマン朝の最盛期の何分の一なんだろう?
おいらも同感。
オスマン朝好きには悲しいよ。
十分の一・・・そこまでいくかなあ?
ティムールはアンカラの戦いの後に
実際に孫のムハンマド・スルタンを派遣して
ブルサを攻略しているよ。
>>31
ブルサしか残らなかったわけではありません。
アンカラの戦い(1402年)直後
(このあたり本によって記述が錯綜していて私も混乱しているのですが、どうも)
ブルサ近郊の西アナトリアを領したのはバヤズィトの諸子のうちイサ皇子で、
エディルネ(アドリアノープル)を中心とするバルカン領には
アンカラから無事撤退しほぼ無傷で中央軍を維持していたスレイマン、
アマスィヤを中心とする北アナトリアには同じく無傷のメフメトが
それぞれ自らの基盤を固めて、後継者争いを起こしていました。
しばらくのちにはバヤズィトとともにティムールの捕虜になっていた
ムサ皇子が帰還してこれに加わっています。
要するに、分裂したってことですな。
バヤズィト晩年の征服地には再独立されてしまったようです。
イサはスレイマン・メフメト・ムサ連合に敗れて早々に脱落、
スレイマンは酒乱で自滅しメフメトの支援を受けたムサがエディルネを継承、
最後にアナトリアを押さえたメフメトとバルカンのムサが決戦して、
1413年にメフメトがオスマン朝の再統一を果たしました。
このメフメトの息子ムラト1世(メフメト2世の父)が英主で、
彼の時代にバヤズィトが失ったものをほとんど取り戻したようです。
メフメト1世の後継者はムラト2世では?
ムラト1世はバヤジッド1世の父親のはずです。
すんません、御訂正の通りです…。
あと、ハーレム内で育ったせいで人格的に異常な者が多かったとか。
「酩酊者」と仇名されたスルタンがいたような気がする。
「酩酊者」といえばスレイマン1世の息子セリム2世ですね。
ハーレムというか、「兄弟殺し」が廃れたのち(17世紀~)は
新たな帝位争奪予防策としてスルタンの兄弟たちは
「鳥かご」と呼ばれる座敷牢みたいな部屋に幽閉されたそうです。
なので、しばしば兄弟や叔父、甥、従兄弟を継いで即位した後期のスルタンは
異常人格者とまでは言わずとも、酒好き・狩猟好きが多かったと言われています。
政治に熱心だと、逆にうざったいというので廃位されてしまうくらい。
やはり征服された地方のキリスト教徒なんだろうか?
アクンジュは主にアナトリアのトルコ系遊牧民(ユルック)です。
征服地のキリスト教徒も入っていたかもしれませんが、
正規の報酬はなく、代わりに敵地での略奪が認められていたそうですから
性質的にはまったく遊牧民という気配がしますね。
正規騎兵であるスィパーヒーの初期の登録台帳には
明らかにキリスト教徒と見られる人名が混じっているそうです。
征服地の騎士がそちらに取り込まれた可能性もあるでしょう。
やはり、ビザンツの内紛に積極的に介入しガリポリを獲たこと、でしょう。
そしてオスマン朝の実質的な建国者として、国家組織を整備したこと。
かつてはイェニチェリの創設もオルハンの功績とされてきたのですが、
最近の説ではどうやら次のムラト1世の時代だったということです。
イエニチェリもティムールの騎馬軍団にはサパーリ
だったのかな。あと急速に復興した理由ってなに?
>>61
バヤズィトの時代はまだイェニチェリも数が少なく、
主力というよりは親衛隊だったみたい。
たった10年で再統一したというのもあるけど、
けっきょくオスマン朝の他にロクな勢力がいなかったからでしょう。
ビアンツもなーんにもしなかった(できなかった?)し。
バヤズィト1世はアナトリアに割拠していた小君候国を制圧し、
ヨーロッパ方面ではニコポリスの戦いで十字軍を撃破(1396年)、
コンスタンチノープルを断続的に包囲して圧迫していた。
ティムールのほうはすでにイラク・クルディスタンを占領しており、
インド遠征(1398-1399年)から帰還後、
グルジアに再進出して西方を伺っていた(1400年)。
はじめティムールはマムルーク朝と事を構えるため、
オスマン朝領のシヴァスを攻撃するに留め
コンスタンチノープル攻撃を「聖戦」とたたえて兵を退いた。
ティムールはダマスカスとアレッポを落し(1401年)
マムルーク朝を屈服させると
再び兵をアナトリアに向けアンカラの街を包囲、
バヤズィトはコンスタンチノープルの包囲を解いて
アンカラ救援に向い、こうしてアンカラの戦いが起きた(1402年)。
この戦いで、バヤズィト1世と末子ムサが捕虜になり、
離脱した長子スレイマンはヨーロッパ側の領土に逃走。
アナトリアのオスマン領の多くは元の君候に返還され再建
(コニヤのカラマン君候国、キュタヒヤのゲリミヤン君候国など)、
わずかに西アナトリアのブルサ周辺がイサ(バヤズィトの子)に、
北アナトリアのアマスィヤ周辺がメフメト(同上)に残された。
1403年に虜囚のバヤズィトが死に、ティムールが中央アジアに引き上げると
バヤズィトの息子たちの間で後継者争いが起こった。
1404年にメフメトがイサを破りアナトリアを制覇するが、
バルカン側のキリスト教徒を味方に付けたスレイマンに脅かされた。
対抗してメフメトはティムールの元から解放されてきた弟ムサを助け、
バルカンでムサはワラキア公やセルビア公の支援を受けて
スレイマンの根拠地エディルネ(アドリアノープル)を制圧(1410年)。
バルカン側のムサとアナトリア側のメフメトの間で決戦となり、
1413年にメフメト(1世)が勝利してオスマン朝の再統一が果たされた。
オスマン史概説書の語るところによると、こんな経緯。
ビザンツ側の対応についてはギボンの『ローマ帝国衰亡史』が詳しいです。
この機に成果を残せなかったビザンツは国家として寿命だったのか。最後のチャンス
だったのにね。
与えてたと思うんだけど。
他の中央アジアの帝国と違って、全然取り上げられないのは何でなんだろ。
単純にオスマンの属国だったのかな?
キプチャク・ハン国はオスマン朝の属国ではないですよ。
ただ、キプチャク・ハン国の継承国家のひとつ
クリム(クリミア)・ハン国が15世紀から18世紀までオスマン朝の保護国でした。
ここのガザン・ハーンはシーア派に帰依した。
モンゴル帝国のあとはティムール帝国で、その後
クリム・ハーン国
アストラハン・ハーン国
カザン・ハーン国
シベリア・ハーン国
ヒヴァ・ハーン国
ブハラ・ハーン国
などの小王朝が並立していた。
ガザン・ハーンはスンナ派だったと思いますが…。
サファヴィー朝のイスマーイル1世と混同してませんか?
僕はメフメト2世かな。
ビサンツファンには申し訳ないが・・・。
アラビア海からポルトガル船締め出す位やって欲しかった。
あと、アラブ人もきっちり抑圧しとけって。
そこが原因で今だ中東は混迷状態じゃねーか。
エゲレスがいけない
ああ、もちろん責任なんてないよ。
でも、中東や北アフリカはオスマン内なのに、半独立政権の温床だったから。
エジプトのムハンマド・アリーやワッハーブ派に対して、きちんと対処してたら、列強も迂闊に果てを出せなかったのでは?と言いたいのだ。
もちろん、無理な話だろうが、、、
オスマン時代にパレスチナ地区のユダヤ人を迫害してきたことが、
今日の火種のひとつじゃないか?
そうなんですか?
オスマン帝国は寛容で
スペインを追われたユダヤ人が大量に流入したりと、
マイノリティにとって良い国だったようにしばしば言われますが、
実際のところどうだったんでしょ。
寛容だったから、ユダヤ人も暮らしやすかった
って聞いたよ。
ヨーロッパで迫害されまくって逃げ込んできたユダヤ人を、受け入れたから
感謝されたという話
法学部出身なのに歴史学にも詳しいの?
十数年前に教えを受けました。
東大法学部の政治学科だったのではないでしょうか。(確か舛添洋一も)
それで現在は東洋文化研究所の教授でしたっけ?
「薫」じゃなくて「董」です。
詳しいもなにもほとんど史学の論文しか書いてないと思います。
法学部出身どころか法学博士なんですが…。
京大系は何が強いの?
中央アジア史(ティムール朝とか)
大学はどこがいいでしょうか?
このスレを読む限りでは東大がいいみたいですが私では学力的に少し難しいと
思います。
ちなみに私は関西在住です。
国公立、私立全国どこでも構いません。
誰かアドバイスをお願いします。
大学院進学志望ですか?
それによっても変わってくると思いますが、
できるものなら東大を狙ったほうがよいと思います。
(特に地方の大学では)残念ながら
史料や文献に圧倒的にアクセスしにくくなりますから。
小松香織さん(トルコ近代史・海軍史)は今も筑波の専任講師です。
>>106、>>108
レス遅れて申し訳ありません。
それと私の質問に答えていただきどうもありがとうございます。
そうですか、やっぱり東大がいいですか・・・
実は私は現在高2で今年から受験生です。
東大は難しそうですが一生懸命頑張ってみようと思います。
できれば大学院にも進学したいですね。
史学科の大学院は大変と聞いていますが・・・
でも歴史資料って各大学に保管されているものなんですよね?
関東なら東大ですけど、関西はやっぱり京大が有名なんですか?
他にも資料が充実している施設にはどんなものがあるんですか?
オスマン朝だけでなくイスラム史全般についてお聞きしたいです。
何度も質問して申し訳ありません。
オスマン史研究者が教官として在籍する大学であれば、私の知る限り、
東大、筑波、東京外語大、明治、立命館、関西大、桃山学院などがありますが、
院まで視野に入れるのであれば、しっかりとした史学の講座がある大学で、
しかもトルコ語やアラビア語・ペルシア語が勉強できるところが良いでしょう。
東大はベストというだけであって、絶対ではありません。
さしあたり思い付く限りでは、京大と慶応。
それから、神大や九大でもできるかもしれません。
商業のhattenに利用して税収で儲けたって見方もできる?
どうだろ。
異教徒に対する寛容はもともとイスラム世界共通の現象ですけどね。
結局、オスマン朝の場合はビザンツやバルカン諸国の故地を基盤に成立したため
イスラム国家であるにも関わらず、住民のほとんどが異教徒だったという点が
特異であるというだけのこと。
もちろん、商人としてアルメニア人、ギリシア人、ユダヤ人が活躍したのも確かです。
オスマンの子孫はなにしてるの?
1924年のカリフ制廃止のときに
50年期限の国外追放処分を受けたようです。
現在は1974年以降に帰国してイスタンブールで暮らしている者、
追放先の外国で定住した者などいろいろ。
現オスマン家当主はニューヨーク在住とか。