1: 名無し 01/09/30 04:42
この2人が戦国時代で一番好きだ。地味だけど。
5: 名無し 01/09/30 05:04
重秀の最期ってどーなったの?秀吉と和睦して雑賀とうをまとめたんだっけ?
6: 名無し 01/09/30 05:08
>5
粉川寺かなんかで変死したらしい。
7: 名無し 01/09/30 05:12
かわいそーに!佐太夫は?
8: 名無し 01/09/30 05:21
わからん。
紀州は他国と違い独特で、統一領主を出さず、土豪の集まりだったが
信長や秀吉などと交戦するときは、連合を組み戦上手な者(孫市など)
を指導者に推して戦った。ゆえに土豪者間で色々あったみたいだ。
9: 名無し 01/09/30 05:31
雑賀党はいつのまにか歴史の表舞台から消えている。
11: 名無し 01/09/30 06:55
っていうか、どっちかにまとめないと書き込めないよ。
12: 名無し 01/09/30 07:08
おれは立花宗茂派なんだけど。ぶっちゃけ鈴木重秀はそんなにくわしくないから笑)いいんじゃないどっちでも?一人一人の話しで盛り上がればさ。宗茂の話題がでれば宗茂でさ!孫一の話題が出れば孫一で。
15: 名無し 01/09/30 09:28
立花宗茂って関が原の時どうして決戦に間に合わなかったのよ?
17: 名無し 01/09/30 09:40
説明しましょう。立花宗茂は京極高次の大津城を攻略していたが城が堅固でなかなかおちなかった。むろん立花宗茂鉄砲隊は大活躍だったが。6日間で決着をつけようとしたがつかずに関ヶ原が始まった。たぶん早くけりがついても関ヶ原にはいかなかったと思うよ。
18: 名無し 01/09/30 09:47
あっやっぱり関ヶ原の合戦にいったかな?大津あたりから1日、2日で城攻めが終わってからすぐに着くとは思われないなー。
19: 名無し 01/09/30 09:53
大津攻略には15000人参加してるからそれがもしも関ヶ原に間に合っていたとしたらまた違う歴史になったかもね。もしも東軍についていたら九州50万石はかたいでしょう!しかしそこは宗茂の心いきからしてありえません(笑)
20: 名無し 01/09/30 10:40
ふーん立花宗茂って西軍の秀忠なんだね。
21: 名無し 01/09/30 10:48
立花宗茂はあのとき瀬田の唐橋の守備をしていたのじゃ大津城の京極が
あやしい動きをしておるし守山の小早川もあやしいので大垣に行きたく
ても行けなかったのじゃ
25: 名無し 01/09/30 17:22
彼の人生はドラマテックだな。関ヶ原で一度つぶされてもう一度再興したのは彼ぐらいなんじゃない?ねっからの殿様気質で本当に自分じゃなにもできないらしいし(笑)童門冬二氏の立花宗茂を読めば感動しもっと彼を好きになるでしょう。
27: 名無し 01/09/30 19:13
立花宗茂最強再興最高
29: 名無し 01/10/01 02:35
柳川の御花に宗茂公のかぶとあるのだけど かっこよかった。
雑賀孫一に関しては 主体が不明だからなんともいえないけど
カコイイ
30: 名無し 01/10/01 21:37
立花宗茂
大友家の宿老・高橋紹運の嫡男として生まれるが、
紹運の同僚である立花道雪の求めによって
道雪の娘・ギン(門構えに誉)千代と婚礼を挙げ立花家の養嗣子となる。
1586年の島津軍北上の際には実父紹運が岩尾城で討死にし、
実弟高橋直次が宝満城落城の際に捕虜となってしまうが
自身は堅城立花山城に篭って島津軍を迎え撃って
篭城戦を耐えぬいたのち、退却する島津軍を追撃して岩尾城と家族を奪還する。
九州征伐を行った豊臣秀吉に西国随一と褒め称えられ大友家から独立し
秀吉の直参大名に昇格する。
朝鮮出兵の際には各地で活躍。特に碧蹄館の戦いで
小早川隆景の指揮に従って勝利を収めるが、この戦いに関しては
戦った兵力、戦闘の重要性、敵の戦術目的に関して疑問・異論がある。
帰国後関ヶ原。西軍の近江侵攻部隊の一員として
大津城攻めで活躍するも本隊は関ヶ原で惜敗。大坂城に退却し
毛利輝元に徹底抗戦を説くも容れられず、九州へと退いていった。
その際、敗軍の島津義弘隊と出会ったときに家臣の一人が
「島津はお父上の仇。この機会に討ち取りましょう」と進言したが
これを退け、義弘と協力して九州へ帰還する。
柳川帰国後、篭城戦を開始。しかしその将才を惜しんだ
攻め手の大将・加藤清正の説得によって開城。
各地を放浪した後に徳川家康・秀忠親子によって旗本に取り立てられる。
その後上野2万石を経て筑後柳川11万石に復帰。島原の乱にも従軍している。
32: 名無し 01/10/03 18:56
あの、単純な質問で恐縮なんですが、
雑賀孫一と鈴木家の関係ってどうなんでしょう?
鈴木佐大夫の子供重秀と同一人物なんですか?
ではないとすると、孫一の出生は?
あと、晩年の様子もご存知でしたら教えて下さい。
33: 名無し 01/10/03 20:25
鈴木重秀と雑賀孫市は同一人物だ!
『たまに同一人物だ!』とか言う愚物がいるがそれは無視!
晩年は確か天正13年の秀吉の雑賀攻めで消息不明になったはず。
消息不明と言われてるが、その後、討たれたとも落ち延びたとも言われてる。
結局、秀吉の雑賀攻めは孫市の息子の子孫市の開城降伏により終結したと思った。
35: 名無し 01/10/03 22:10
ここのスレ題が孫一って書いてあるけど間違いだ!
正しくは『孫市』だぜ!文献でもそうなってた。
37: 名無し 01/10/03 22:53
35の言う通り、『孫一』じゃなくて『孫市』だ!
雑賀孫市(鈴木重秀)についてオモシロオカシク知りたい奴は
司馬遼太郎の
『尻くらえ孫市』を読め!
38: 名無し 01/10/03 23:27
雑賀孫市は伝説的な自分でだれかは今だにわからないとされている。
鈴木重秀説が強いがの佐太夫の息子鈴木義兼説も強い。鎌倉時代の雑賀家の始めとされる源義兼と名が同じであるために、雑賀孫市の可能性がある。
42: 名無し 01/10/04 02:17
みなさん、ありがとう。
すると、孫市は重秀と思ってもいいわけですか。
兼重説だとすると、重秀の弟になるんですか
44: 名無し 01/10/04 03:57
まだまだ質問しなされしなはれ
45: 名無し 01/10/04 04:06
お言葉に甘えて。
鈴木佐太夫の息子は主だったところ何人ですか?
義兼と重秀と確かもう一人弟がいましたよね。
息子たちの生没年とか判りませんか?
あと、佐太夫の下の名前は伝承されてないんでしょうか?
ご存知の方、宜しくお願いします。
46: 名無し 01/10/04 04:15
おれもしったかぶりの範囲だけど、たしか鈴木重朝だったかな?彼らの生まれや死んだ年は不明のはず。佐太夫は1585年じゃなかったか?くわしくは榎本に。立花っちわかるけど(笑)
47: 名無し 01/10/04 04:15
佐太夫は本名は鈴木重意(シゲタダ)。
鈴木家の系図にあるのみで実際にそう名乗っていたかは分かりません。
48: 名無し 01/10/04 04:18
ついでに質問。源義経主従の一人の鈴木重家。
彼は紀伊出身なのですが、名前から見ても鈴木家と関係ありそうなんですが、詳細をご存知の方はいますか?
50: 名無し 01/10/04 04:29
自己解決。鈴木重家は雑賀鈴木一族で間違いないみたい。
51: 名無し 01/10/04 04:31
雑賀と鈴木の関係は?
56: 名無し 01/10/04 04:42
雑賀と鈴木はイコールです。
57: 名無し 01/10/04 04:44
鈴木氏が後に雑賀氏を名乗るようになった、ということです。
58: 名無し 01/10/04 04:45
では雑賀衆という単位は鈴木家も中にふくまれますよね?他にもいるんですから本当に=になるのですか?
59: 名無し 01/10/04 04:46
ある説によると鈴木氏の家督相続者のみが「雑賀」を名乗ったともいいます。
60: 名無し 01/10/04 04:48
鈴木氏以外の雑賀氏もいますが、紀伊の雑賀氏は鈴木とイコールと思って間違い無いと思います。
67: 名無し 01/10/04 04:59
乱暴な例を上げれば、奥州畠山氏が二本松氏と呼ばれるのと同じと思ってもらえればいいです。