日露戦争で収容「捕虜でなく人間」 ロシア兵の手紙、母国の新聞に
日露戦争(1904~05年)の捕虜として姫路市に収容されていたロシア兵が母国に送った手紙の全文が当時の地元新聞に掲載されていたことが分かった。
手紙には捕虜たちの日々の暮らしや、市民との交流の様子などが詳細につづられている。
姫路のロシア人捕虜の手紙が見つかるのは初めてで、専門家は「識字率が低かった下級兵士が収容された姫路では、手紙の発見は大変貴重」と評価する。(地道優樹)
捕虜に関係する歴史の掘り起こしを進める同市のNPO法人「姫路タウンマネージメント協会」が、1906年2月発行の「ニジニーノブゴロド・ゼムストヴォ新聞」に、捕虜の手紙が掲載されているのを見つけた。
ニジニーノブゴロドは、モスクワの400キロ東に位置する県(現在は州)で、ゼムストヴォは旧ロシア帝国の地方自治機関。
同紙は週刊の機関誌で、手紙は「日本からの手紙」の見出しで全文掲載されていた。
筆者は同県チェルヌハ村出身のF・Iフィラレトフ軍曹。
手紙は05年10月15日付で、米国ポーツマスで日本とロシアが講和条約を結んで間もない時期に当たる。
姫路市の捕虜に同紙が送られていたらしく、同軍曹は書き出しで、編集者に感謝を述べている。
自身らの本国送還については何も知らされていないことに触れ、「無為の10カ月は、軍務の意味でも人間的な意味でも、人々を大いに堕落させてしまいました」「規律もなければ、教練もなく、何もすることがない」と苦悩をつづっている。
一方で、日本人について「今ではあらゆる面で私たちを捕虜でなく、同等の人間に対するような態度で接してくれます。収容所でのたまにある作業の際には、(日本人の)下級労働者たちは門に入るとすぐに帽子をとります」「ものすごく腰の低い人たちです」などと記している。
ニュース
しかしシベリアへ抑留された、日本人150万人は悲惨だった
帰国できたのは1割程度らしい??
>>12
抑留されたのは、約50万人で
9割は帰国したそうだ
>>24
一割というとそんなもんかと思ってしまうが、5万人以上は死んでるからな
>厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が死亡した
武士道精神の名残と国際社会で野蛮人と思われたくなかったから
日支事変の頃から捕虜虐待や住民虐殺が起きたのは、抗日ゲリラが日本人捕虜を虐待したり住民を隠れ蓑にしたりしたからだろ
ベトナム戦争のように正規軍と非正規軍が戦うと国際法の遵守はグダグダになるな
日露戦争では日本軍が(文明世界では常識となっていた)宣戦布告も無しにロシア陣地を攻撃した。(これ契機に1907年の万国平和会議で討議、10月18日に国際法として成文化された)
>>161
当時の国際法では日本が満州における協定の遵守を求めてロシアの基地撤去を要求して
容れられなかったので大使引き上げた時点で最後通告だよ
その時点からいつ戦争になってもおかしくない
日露戦争の時、捕虜にされてこんな風な待遇だったんで
爺ちゃん達は酷い扱いされずに無事帰国できた
うむ
情けは人のためならずじゃよ
そういやロシアに捕まったドイツ人捕虜とかは、殆ど殺されたらしいな・・・(がくぶる
日本人とは第二次世界大戦では、ほとんど戦ってないからな
ドイツ人とは戦争史でも稀に見る殺し合いをしたから・・・
スターリングラードとかマジ地獄
スターリングラードのドイツ軍の捕虜の生き残りって、100分の1くらいのはず。
ほとんど死んでる。
捕虜を歩かせて、歩けない奴は、銃殺とかだし。
第一次大戦頃に古い秩序が崩れて戦争も変わってしまった。
社会の広義の民主化、大衆化が進行して、ウエストファリア体制的な管理された戦争観が崩れ、正戦、あるいは聖戦的な性格が強まったというか復活した。
そういう傾向を代表したのがアメリカと共産主義の伸長だな。
当時は西洋の作った国際秩序を信じて欧米世界に認められようと必死だった時代。
第二次大戦のときは、英米中心の国際秩序は不公正だと反発していた時代で、国際法に対しても意識が違っただろうな。
>>96
太平洋戦争においても、日本の捕虜の扱いは変わらんかったけどな。
余り、プロパガンダに騙されないことだ。
たとえば、アメリカ海軍のエースパイロットが撃墜されて日本の捕虜となり、
日本国内に送られて労働をさせられてるが、(日本側はその男がエースパイロットであることに最後に気づいた)
日本人庶民とも仲良くなり、
戦後はアメリカに帰って、日本人擁護の手記を出してるな。
日露戦争は死体回収の時間に両軍の兵士がタバコ交換したりと殺伐とした中でほのぼのとした話もよく聞くのに
第二次大戦じゃそういった類の話は全く聞かんな
何でたった40年でこうまで敵を憎めるようになったのか
通州事件が原因だろうな
>>1
ちなみに黒柳徹子の父親もシベリア帰還組だが、ロシア人への印象は良かったと語っていて
妹の黒柳眞理はロシアに渡ってボリショイ・レニングラードバレエ団に入団しプロバレリーナとして活躍した。
私もその本読みましたよ。良い本
国滅ぶまで戦わざるを得ないような太平洋戦争期と同列には語れん
こいつら捕虜だと言うのを忘れて慰安旅行気分でエンジョイしてやがる!!(っ´ω`c)
なんとこのご夫妻は素晴らしいことか!
日本の貴族は徹底的に教養があり、思いやりがあり、
洗礼されていて、比べるものがないくらい
威厳ある作法を守っている。
私がいちばんうすいリンネルのブラウスを着て、
暑さにあえいで扇子を使っているのに対し、
この日本の貴婦人は、銀灰色の絹の着物をきて、
銅に二つ折の重いサテンの織り帯を締めて、涼しげに坐っておられる。
着物の色と光った鳩色の帯がみごとに調和している。
その帯を固定させるための帯紐には、小さな黄金の留め金がついている。
琥珀色の貝ピンを差した黒い髪と、象牙色の首は一体となって完璧な曲線を描き、
着物のつくりだすたくさんのひだの中から覗いている。
それは華麗なエッチングのようである。
彼女は芸術品として完全であり、端正に構成されたバランスのとれた作品なのだ。
その風格と値打ちは本物で、私はすっかり魅せられて知事夫人を見つめていた。
それに比べると、ロシアの劇場に出てくる日本婦人の役の、俗悪滑稽な姿は何だ!
今、私の目の前にいる夫人と、何とかけ離れていることか!
私がロンドンで観た「蝶々夫人」や「神々の寵児」の舞台を想い出す。
縮れ毛で両耳にキャベツ玉のような花束をつけたクスクス笑いのお転婆娘と、
ここにおられる和服姿の大名の息女との間には、何と大きな隔たりがあることか!
ヨーロッパは日本を理解していない。
ヨーロッパ人は、ここ数年、日本旅行をしたり写真でみたりしていても、
今なお日本の貴婦人がどのような顔つきをし、服装がどうかも知らないのだ。
その髪型はいかに絶妙で滑らかであるかをまったく知らない。
(日露戦争下の日本 ロシア軍人捕虜の妻の日記)
残念な事にそういう高い視点から他国の文化を見る教養があった人は革命後粛正されたんだろうな…