龍造寺氏について語りましょう。
この村に竜造寺って寺があったらしい。
徐福伝説でこの地で竜頭船を造ったのが地名由来じゃなかったか?
もう少し詳しく教えてほしい
>>16
スマン、覚え間違いだった。徐福伝説ではなく大和武尊伝説。戦前の小学校の国定教科書に記載されたそうだ。
記紀の川上尊討伐の話で、大和武尊は多布施川の川沿いの小津江川を遡る江中の島に龍艇を泊め、この島を龍造島と名付けた。
(天皇の乗船する船首には龍の頭の彫刻があり大和武尊も天皇の代理として許されてた)それが現在の佐賀城付近
西に上陸して仮の御殿を建てた地が本所(佐賀市本庄)。龍艇を留めた場所が堀江大明神付近。
小舟に乗り換え上流に進み上陸した場所には蠣殻が沢山あり踏み去られた場所がカキフサ(鍋島町蠣久)
川上尊が親族を集め宴会の際に女装した大和武尊が刺そうとした時、「待て!」と叫んだ場所が(大和町真手)
その後、地元の人達が建福寺に川上尊を祀った
討伐後、大和武尊は南下し森で休憩をとり、15才だった記念にこの場所を十五と(嘉瀬町十五)
残党討伐は弟彦が行ったがその陣屋があった場所が(小城町彦島)
弟彦を川上に乙の明神として崇めたが後に淀姫神社を建てる時、峰の頂上に移した
サンクス
今山なんか局地戦に過ぎないと思うんだけど
鍋島信生の武功マンセーのため
島原半島方面は
秀吉に
だいぶ
安堵されたよな
筑後を取られたからかわりに島原半島方面をもらった
大友が佐嘉を包囲した時、龍造寺勢は5千人と云われているけど必死の覚悟だったんだろうな
この当時は納富、福地、小河、鍋島、安住、江副、百武、副島、徳島、野田、高岸、石井、
鴨打、成松、小林、土肥、西村などが譜代の家臣だったらしい。
結果は今山合戦で龍造寺勢が勝利を得て大友氏と和睦した。
いう説もあるらしいね
現在の場所へ移転してる
隆信が「残虐非道」と云われているがこれは間違ってる。
よく云われるのが、恩義を忘れて蒲地鎮並を騙し打ちにしたとか、
赤星統家の子供を磔にしたなどだが下克上の時代としては当り前の事と思う。
懲罰された武将
馬場頼周 少弐冬尚と計り龍造寺一族(6名)を殺害した張本人
土橋栄益 鑑兼を推して少弐氏へ内応した(19城将に囲まれ隆信筑後へ逃亡)
小田鎮光 隆信の娘と婚姻したが今山合戦で大友に味方した
高木鑑房 少弐氏武将として最後まで抵抗した
蒲地鎮並 隆信の娘と婚姻したがその後も島津へ内通した
赤星統家 再々の佐賀城呼出しに理由をつけて応じない。
隆信は戦った相手でも降伏した者は許すが、裏切り行為は徹底的に根絶やしにする考えだったんだろ。
しかし他の戦国大名みたいに親兄弟を殺害するような行為は一切していないし
一時少弐方へ内応した叔父鑑兼(家晴の父)さえも許して水ヶ江龍造寺家を相続させている。
当時の平城なんて犬夜叉に出てくるような屋敷を武装化した程度でしょ
当時どこが歩けるか地元民しかわからない深田、湿地に囲まれてたら、十分
要害だと思う。
「佐嘉龍造寺の城、四方の総構を築き、牛島敵繰の土手の松を植う。其役成富甲斐守なり」
天正4年に補強したらしいけど、これによると城外に砦を作ってみたいだね。
城に近づくまでに地の利を生かした城方の伏兵がどこから攻撃して来るか不安だよね。
それに守る側は決死の覚悟だろうし、攻める側も相当の犠牲の覚悟が必要だったと思うな。
そんなになかったんだから。例えば大友が佐嘉を囲んだときも、大軍に慢心し
てただけじゃなくてそのうち降伏してくるはず、っていう油断もあっただろう。
それまでに巨勢あたりで小競り合いはやってたらしいけど。
確かに決戦と云ったのは間違いだった。
今山で戦ったのは龍造寺も大友もごく一部の軍勢だった訳だからね。
われらの広辞苑さんによれば、「勝敗を決める戦い」らしいから、
認識次第だな。
軍勢の一部しか戦ってないから決戦とはいえないってことはない。
今山の戦いが勝敗の決め手になったと考えるなら決戦と言えるし、
今山の後も包囲は続いて結局戦前と同じ龍造寺の大友への従属で終
わったという新説(?)に従うなら決戦と言うのはどうかと思う。
今山合戦以来、大友は佐嘉の龍造寺に手も足も出せなかったのは事実。
宗麟から隆信に対して度々書状が届いていたが適当にあしらい領地拡大を図っている。
隆信は宗麟と和睦したのは元亀元年10月だがすぐさま大友に加勢した肥前の豪族達の
掃討作戦に出て東肥前19城将は神代、横岳氏を除いて1年で平定したし、抵抗してた神代、
横岳氏さえ数年後には降伏してる。
その間宗麟がやったことは横岳氏に武器、ひょう量を援助したくらいであった。
隆信は今山後に宗麟に降伏したと数年前の佐賀新聞に載ってたよ
普通に考えたらそうだよな
普通に考えて偉大なる宗麟公が隆信を降伏させたは当たり前だよね
1573年までには西肥前の隆信を虐めていた諸将は偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信に伏しているし、同じく隆信を虐めた北肥前にも隆信は何度も攻撃加えてる
1574年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は北肥前も平定したけど、偉大なる宗麟公の名を騙る不届き者が隆信追討令を発しても筑後諸将は当然の如く誰も動かなかったし
1575年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は南肥前に執拗に攻撃を加えているし、筑後諸将も偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信の傘下に治まりつつあったし
1576年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信が肥前・筑後諸将の過半をその傘下に組み込んだしね
偉大なる宗麟公の武威は西海に轟きまくりだよね
鉄砲の数は
大友 > 龍造寺
ではなかったか?
大友は更に上をいくのか?
しかも耳川の段階で既にフランキ砲もあるし
硝石の関係で鉄砲のフル運用は出来ないにしても凄くないか?
だって秀吉の九州征伐時でも10000丁って話だし
九州連合軍とか作ってれば天下統一出来そうだ。
今山のあと、降伏までどれくらい期間あったっけ?
>>47
貿易港へのアクセスを比べれば、大友の方(府内、博多)が多く持ってても
おかしくはないと思う。
>>48
今山合戦が8月19日夜半より20日早朝で、
午後には宗麟に加担した小田鎮光の多久城を落している。
和睦交渉は9月下旬より始まり10月1日成立、
同月3日に高良山の宗麟は豊後へ引き揚げている。
宗麟は佐嘉城攻めを2回行なっている
1回目は永禄12(1569)年
隆信は佐嘉城奪還のち周辺、東肥前の反隆信派を平定して少弐氏が滅亡すると
こんどは西肥前へと勢力を拡大していった。
こうした動きに肥前守護(名目上だが)の宗麟が軍勢を繰り出し佐嘉城攻めを開始した。
その為それまで隆信に従属していた肥前の諸将までが宗麟に味方した為に人質を出し
無条件降伏している。
一方宗麟の方も和議を急いでいたらしいが、この頃筑前へ毛利勢が攻入っている。
2回目が元亀元(1570)年
毛利が尼子との合戦で中国へ軍勢を退いたので再度佐嘉城攻めを開始した。
そして今山合戦だが、隆信の勝利で宗麟に加勢した軍勢は全て地元へ逃げ帰っている。
残ったのは宗麟の直属軍勢のみとなった訳だが、隆信の方から和議の申し出があり
宗麟も喜んだことだろう。
九州にいてキリシタン弾圧するとかアホだろ
それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?
>>50
隆信が敵とする大名(大友・有馬・大村氏など)がたまたまキリシタンであって
直接イエズス会は弾圧してないと思うけど。
大村純忠を平定した時に、隆信に対して家臣が大村領のキリシタンを排除するように
進言したが隆信は「今しばらくは、キリシタンたちに対して、さもない風を装い、
伴天連たちにも表向きには鄭重に対処せよ」と云ったとイエズス会の記録にある。
鉄砲の入手はマカオから日本に来るポルトガルの定航船で、その為にも表立って
キリシタン弾圧はしなかっただろね。
天正時代頃の龍造寺城付近の地図に南蛮寺と記載箇所があるから領内でもキリスト布教は許されたはず
>それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?
単純にイエズス会が火縄銃関係の流通を握れてなかっただけだと思うよ。
種子島に持ち込んだのだってイエズス会と関わってる人とは限らない。いわゆ
る冒険商人たちにとっては、仮にイエズス会が銃や火薬の供給を禁じる相手が
いたら、絶好の売り先になる。
本願寺だって銃で有名じゃない。銃そのものは国内生産地で賄えたとしても、
火薬は明らかに海外からの輸入でしょう?
フロイス日本史を信じるなら、龍造寺家には戦術を知ってる西洋人が加担して
た可能性まで妄想したくなるね。
坊さんあがりだから、まあしょうがないかと。
苗字も龍造寺だし。
>>56
前哨戦として4月23日に戸次鑑連と隆信が正面衝突した。
隆信勢は先陣が信昌(直茂)、小川信友、第2陣が納富信景、殿軍が自ら隆信で総勢1500人
場所は鑑連勢(2000人)が布陣してた巨勢から若宮あたりと云う。
状況を云えば、先陣が攻め口へ突入して優位に進めていたが、突然に鑑連本隊(1000人)が
隆信の本隊(500人)へ突入してきた。信昌は本陣の隆信危急の報を受け、直ちに救援に向い
この時信昌と鑑連が直接対決を演じ、双方引き分けとなったが鑑連の作戦勝ちと云えるだろう。
鑑連は足が悪く六尺四角の手興に乗っていたらしい。
サンクス
戸次勢がえらく少なく感じるけど、単独じゃそんなものだったの?
他の軍勢は応援に来なかったのかな
あれ?俺が持ってる郷土史には、
隆信本隊は居城の大手、高尾口に出陣。鍋島直茂、信景が先陣として大友軍の先陣、田尻鑑種と交戦。
この時戸次鑑連(2000)が隆信本隊に奇襲。直茂は納富に自分が救援に赴くから納富にこの場を死守してくれと言ったが
倉町信吉は直茂に「今、急に軍を分けると後陣にいる味方の軍勢は先手の兵が敗れたと疑うだろう。
このまま一同で鬨の声を上げ切り込むべき」と進言、
直茂も之に賛同、総勢一斉に進撃し、この奇智に戸次鐘連は家臣に助けられ敗走と書いてあるけどね
九州治乱記を元ネタにしてるんだが、そちらの郷土史は何が元ネタだろうか。
>>75
参考文献の項には関連しそうな物では
佐賀郡誌(佐賀郡教育会)佐賀県史(佐賀県史編纂委員会)佐賀市史(佐賀市役所)
佐賀県郷土教育資料集(佐賀県学務課)肥前叢書(肥前史談会)肥前国史(森錦洲)下村生運実録(第3子、下村利充)
今山合戦を大まかに現代佐賀の地理に当てはめて考えると。
・大和―神埼―諸富―川副(ほぼ水軍)のラインで大友が佐賀を囲う
・大和―小城のラインで肥前国人衆が佐賀を囲う
・大友筑前衆は三瀬を背に嘉瀬川の東川上に着陣(大和―神埼)
・大友豊後衆は犬童川を前面に着陣(神埼―諸富)
・筑後国人衆は筑後川下流域に分散して着陣(諸富―川副)
・肥前国人衆は嘉瀬川を前面に出して嘉瀬川の東側に着陣(大和―小城)
・大友豊後衆の備はかなり分厚く最前面が巨勢と境原の中間ぐらい? 最後方の総大将宗麟は久留米高良山に着陣
・戦域は大まかに嘉瀬川―城原川間の佐賀平野
・一番の係争地は一番突き出た部分の巨勢川一帯から、諸富―川副・筑後川最下流域
・大友の主戦は筑前衆か? 佐賀若宮辺りまで攻勢をかけたり、一部が豊後衆の前面(巨勢辺りか?)に陣を移したりと大規模に展開している
・筑後衆は包囲線や兵站線の維持確保担当? 水軍衆の動員で撃ち合いもしていて、佐賀側との交戦も多い
・豊後衆は数による前線の押し上げ担当か?
・肥前衆はかなり遠巻きに佐賀を囲って戦闘にはあまり参加せず
・そうして1570年4月~8月まで競り合いが続くが決着つかず
8月20日に大友側は(大和―小城)嘉瀬川の戦線、肥前衆も川越えさせて前面に押し出し、総攻撃を掛けようとするも失敗(鍋島によると大和今山に派遣された親貞が討ち取られたため)。
そうして隆信が小城方面に攻勢を掛けた結果、肥前衆が撤退し嘉瀬川一帯(大和―小城)の包囲線が崩壊。
これをみた筑後衆も陣払いをし、結果として包囲が完全に解け、ほどなく講和。
と佐賀平野を南北に流れる幾つかの川で自然と戦線が構築され、今山合戦は川を挟んでの進退が争点で。
4ヶ月にも渡る臨戦状態での長期対陣により、大友側が攻勢限界点へ達したのが終結の主因だったんじゃないのかなと。
>>60
佐嘉城の隆信が決めた守備体系を云えば
東口大手方面へ鍋島信房、信昌兄弟と小川信安の部隊
北方川上口方面は龍造寺家就と納富信景、広橋一祐軒の部隊
有馬義純を主力とする西肥前勢には龍造寺信周と龍造寺鑑兼の部隊
南の海岸から来る敵には龍造寺長信と龍造寺長信の部隊
しかし総勢5000人では6万の大友軍には勝ち目はなく四面楚歌の様相
大友親貞が今山に布陣し、佐嘉城総攻撃が8月20日との情報が城内に伝わると、
隆信は武将を集めて軍議を開いた。
「成松信勝の報告によれば、大友勢は明日を期して城攻めを始めるらしい。
そこで篭城死守するか、先んじて討って出るかの戦法は二つのみ、
皆の意見を聞きたい」と切り出した。
他は筑後にいたんじゃないの
肥陽軍記では総勢6万、九州治乱記には総勢8万(包囲軍3万)と記してあるね。
今山合戦当日に隆信軍が隈部親永、城親冬などを生捕ってるから肥後勢は今山に
布陣していたんだろうね。それから筑後の五條鎮定も同様に生捕りされてるね。
田尻鑑種の水軍を除いて、肥後・筑後勢は殆ど豊州三老の指揮下に入って最前線に
いたんじゃないかな。
筑後に残っていたのは高良山の宗麟を警護する旗本程度だったと思うけど。
次男が家を継いだら長男の息子が恨む可能性は無いか?
まして本家が残ってるのに分家が主流になったら?
隆信の曾孫は自分が龍造寺の正統な跡継ぎだと主張して騒いだ。
それを題材にした創作が流行った。
龍造寺高房の死に様が凄くて、江戸屋敷で妻を殺し、自分も毒を飲んで自害しようとしたがなかなか死ねず、
毒の回りを早くするため馬に乗って町中を走り回って死んだ。
その後、真夜中になると白装束を纏った隆房の怨霊が馬に乗り佐賀城下を走り回ったとか。
こんな狂気の様見せられたら講談等の格好のネタになるだろうよ
一部(もともと龍造寺の傍流で、鍋島に変わっても厚遇が約束されたのだろう)
は「任せます~」に同意したらしいが、伯庵は隆信の直系を自認してて、「本
来なら自分が大名になるはずだった」「乗っ取られた」と主張した。
だけど少数派で、他の龍造寺一族は鍋島(現状)を支持した。
伯庵は龍造寺の正統な後継者だと主張してたから、鍋島を潰そうとしたわけ
じゃない。理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。
自殺直前はただ恨みで動いてたかもしれないけどね。
>理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。
鍋島側がウンと言っても、幕府が認めないでしょ。
幕府が認めるかどうかと本人の理想は関係ないだろう?
むしろ幕府が認めないから理想が理想でしかないんだよ。
>>108
姉川城跡って周辺は田んぼだらけで戦国当時の雰囲気を残しているよね。
今にも甲冑をまとった武将が出て来そうで多少不気味な感もするけど。
村中と姉川は多少規模は違ってたかもしれんが似ていたんじゃないかな。
周辺はクリークが縦横無尽にあって城の四方には堀を巡らしていたとか。
佐賀のどこに姉川城はあるの?
アスカの地上絵と同じように航空写真では凄く壮大に写ってるが
実際に行ったら堀以外遺構らしきものが無い(小さな神社がある程度)
ただ田んぼと堀があるだけで「これ?」ってなると思う。過度な期待はしないほうがいい。
石垣の一部でもあればそれっぽくもなるだろうが、、、
たぶん貧乏豪族(失礼)の館だっただろうから、きらびやかな甲冑コスプレは場
違いじゃないかな。現状も静かな農村だし。
とりあえずgoogleマップで「葦辺の館」を調べて見てくれ。横武城だけど、佐
嘉平野のクリークの城のイメージは伝わると思う。ちょっと掘ればすぐ水濠に
なる。まわりには今でも曲輪の中に住んでる集落がある。
東肥前19城将の1人で反龍造寺派だったがのち隆信の重臣となって活躍してる。
朝鮮の役で姉川氏当主が戦死すると鍋島直茂は従兄弟の鍋島道虎(生三)に
姉川氏の名籍と知行を継がせた。
のち鍋島騒動の主人公となった伯庵は幼年期を生三のもとで育ったと云われている。
姉川鍋島家は代々鍋島本藩の家老職を務め知行高は5000石だったらしい。
佐賀市兵庫町掘立(34号線と51号線が分岐する場所)にある
光圓寺住職兼光生幼稚園園長の生三(いくみ)家が鍋島道虎直系の子孫らしい。
以前は伊賀屋駅の南辺りに生三屋敷があったとか
となかっただろうし、もっとよく遺ってたとしてもかきあげた土居くらいじゃ
なかろうか。
水濠がある、曲輪の配置が想像できる、ってだけで城跡としては十分。
けっこう隆信も負けてるし
活躍してるし、神代家自体がなかなかの強勢だったと言えるね。
一豪族の墓としては驚くようなモノだよね
神代氏の力が想像できるんじゃないかなと思う
自分は、高伝寺の鍋島、龍造寺家の墓よりも感動したよ
勝茂の娘が作らせたなら、一豪族のものではないのでは?
近世大名佐賀鍋島家の重臣(一門?)の御霊屋ってことだろ?
>>145
神代家は鍋島家の親類だね。
それにしても龍造寺と神代は家兼が馬場頼周の騙し討ち(1545年)に始まって
神代氏が龍造寺氏から養子を貰う(1579年)まで34年間も戦い続けてたとは。
和睦は勝利が死んだ65年くらいじゃなかった?養嗣子を迎えるのはもう一段
階先だ。
隆信と勝利は川上合戦(1561)のち長良の娘初菊と隆信三男(鶴仁王のち後藤家信)の
婚約で和睦(1562)したけど、勝利が病死(1565)し、さらに婚約者の初菊が死ぬと
隆信が突然神代領へ攻め込んでいる。
長良は一旦筑前へ逃亡したが勢力を盛り返し(1566)逆に佐賀郡北村・五領・高木・
渕・藤木・三溝郷あたりまで攻めた。
その後も今山合戦(1570)をはさみ睨み合いは続いたが、その後長良が龍造寺から
養嗣子(小川信俊三男のち家良)を貰うことで最終的に決着(1579)したらしい。
一ヶ月ほど前勝利の墓目指して行ったけどダム工事で近寄れなかったよ。
>>143
神代氏の領内はほとんど山岳地帯だから守り易い。
反対に敵方から見ると山岳合戦は不慣れで攻めにくかっただろうね。
神代勢がどこから飛び出してくるかわかんない状況?
分かりやすいんじゃないかな
確か、御霊屋がある小高い山も人工の山だったような気がする(記憶違いかもしれないけど)
実際に行って見てみるといいよ 久保泉の白髭神社近くだから↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=33.33253167690076&lon=130.32334439169966&z=15&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=33.312060962084&hlon=130.33623600602&layout=&ei=utf-8&p=
名義上一門扱いの別家と、実際血のつながりがある別家、だから後者が優遇
される部分もあるかもしれない。
石高と家格は正比例しないものだし。
隆信と勝利は川上合戦(1561)のち長良の娘初菊と隆信三男(鶴仁王のち後藤家信)の
婚約で和睦(1562)したけど、勝利が病死(1565)し、さらに婚約者の初菊が死ぬと
隆信が突然神代領へ攻め込んでいる。
長良は一旦筑前へ逃亡したが勢力を盛り返し(1566)逆に佐賀郡北村・五領・高木・
渕・藤木・三溝郷あたりまで攻めた。
その後も今山合戦(1570)をはさみ睨み合いは続いたが、その後長良が龍造寺から
養嗣子(小川信俊三男のち家良)を貰うことで最終的に決着(1579)したらしい。
兵の足腰に差があったかもしれない。龍造寺はひたすら低地で伸びた勢力だ
から。
隆信と勝利は川上合戦(1561)のち長良の娘初菊と隆信三男(鶴仁王のち後藤家信)の
婚約で和睦(1562)したけど、勝利が病死(1565)し、さらに婚約者の初菊が死ぬと
隆信が突然神代領へ攻め込んでいる。
長良は一旦筑前へ逃亡したが勢力を盛り返し(1566)逆に佐賀郡北村・五領・高木・
渕・藤木・三溝郷あたりまで攻めた。
その後も今山合戦(1570)をはさみ睨み合いは続いたが、その後長良が龍造寺から
養嗣子(小川信俊三男のち家良)を貰うことで最終的に決着(1579)したらしい。
ノコノコ出陣して味方側に内応者がいるのにも気づかず大敗してるから(川上の戦い)山岳ゲリラ戦は得意だったが
平地戦、計略、謀略の類は得意じゃなかったのだろうな
隆信はその前の山岳でやった鉄布峠合戦で痛い目に合ってるからね。
勝敗を決した戦いだったから致し方ないな。
そもそもが前年の佐嘉城攻めで隆信が降伏した時に大友への人質として
秀島家周を差し出したがこともあろうに逃げ帰ってきた。
それで宗麟が激怒して再度佐嘉城攻めとなったという。
それでも今山合戦という言葉で表される戦いがあって、そこに神代は関わって
ないんだから。
神代勢は今山大願寺原に布陣してたが、鍋島、納富を始め龍造寺勢に攻められて
軍奉行の古川佐渡守ほか三瀬、名尾、杠、川浪等の主たる武将が戦死して
長良自身は命からがら逃げたらしいよ。
大願寺原では神代勢を含む2千人の大友勢が戦死したと云われているしね。
鍋島と山手の陣にいた?それとも佐嘉城で留守番をしてた?。
隆信敗死の報を聞いて鍋島さんと一目散に逃げた
当主と跡継ぎと続けざまに討たれちゃ織田家みたいになっちゃうだろうし
鍋島に実権取られちゃうのが政家の凄いとこ
そりゃ、政家を支持している重臣たちがが沖田畷で全滅したのと、
生き残った有力者がこぞって政家を支持してなかったからだろうな。
特に信周、長信、家晴のビッグ3が不支持表明してたらどうもならん。
逃げ戻った政家には一族からの風当たりが強かったことだろ。
武雄の家信はノイローゼになってしまったらしい。
葉隠物語読んでるんだが、直茂って依怙贔屓ばっかしてんのな
成富兵庫が加藤清正から駆け落ちした姫を奪還した話は痺れたわ
面白そうな話なので
もう少し詳しくお願いします
>>286
鍋島茂治の娘が夜中に若侍と駆け落ち
その数年後、加藤家の家老の側室になっていることが判明
茂治の家来が連れ戻しに行ったが、本人も加藤家も拒否する
で、成富兵庫の出番となる
大勢の共を連れて熊本入りした兵庫だが清正は仮病を使って会わない
兵庫は慌てず、そのまま居座り物見遊山よろしくあちこちを見て回る
その内、噂が広まり仮病で会わないのは卑怯だという世論に負けた清正は兵庫に会う
そこでも女の引き渡しを渋る清正だが兵庫が朝鮮での借りを持ち出すと一も二もなく陥落
かくして姫は佐賀へ連れ戻されたとさ
そいでばっきゃあ
毛利の大幅譲歩による秀吉との和睦の決断を促す書状で、
百姓同然の龍造寺と書いていてワロタw
他の大名については悪口書いてないのに。
毛利領を侵犯するかもしれないぞって感じ?
中央の人間とか、大内・陶家の文化をまるまる吸収した大毛利にしてみれば
そりゃあ九州ってだけで田舎モン扱いされるだろうねえw
しかも大名自身がクマーなんだからどんだけだよって話だw
しかしトンデモ学説では当時日本最大の鉄砲保有大名だったって資料もあるくらいで
さすがにそれは大げさだとしても、純粋な軍事力では馬鹿に出来ないだろう
クマー本人は馬鹿だけどね^^
金ピカ装備で大量の銃を
龍造寺は所持してて
島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。
有馬らは鉄砲は使わず突撃戦法と、
海岸からの砲撃で
隆信の息子らを押しまくったので
隆信が彼らを督戦するために中央から海岸側へ移動したとか。
もともとの作戦では、
隆信は山側へ布陣予定だったが、
柳川にいた信生が、突然に主命を破ってやってきて、
自分が山側に布陣した島津と対陣するので、
隆信は山側でなく
中央を進軍に作戦を
土壇場で捻じ曲げたんだよね。
信生は、わざわざその変更のために柳川から来たわけで、
柳川での調略や外交で、
何らかの勝算が出来ての陣替えだったのだろうか。
>島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。
実際にはどういう表現で書いてあるの?
有馬兵ら味方があまりに少なく
島津兵はこりゃ絶対に敗北確定だわと確信したらしく
兵力・装備が充実している隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流したとか
鎮痛な面持ちになったとか書いてあるね。
有馬軍が鉄砲の餌食になりそうだから
義久が篭った山へ退却しようとしたが
島津側がそれを許さなかったので
有馬はその山の麓で
地面にうっぷして銃弾を避けてから
肉薄突撃をして戦ったが、
竜造寺は槍兵と槍兵の間からも銃弾をぶっ放してきて
苦戦してたが、海岸からの大砲の支援を受けて盛り返した。
そんでなぜか突然現れた少人数の島津軍の川上に、隆信は味方だと誤解した挙句に殺されたと書いてる。
ちなみにフロイスは日本では盾を使わないと書いてる。
>>318の文章の『その山』は元々陣を敷いていた場所の事だろうね、好意的に解釈すると
あと直前に合志城を政家が落としているので、軍勢の一部が近辺に駐屯したままだったのは十分考えられる
だいたい八代の手前40km付近の話
島津の主戦は八代に居ただろ
沖田畷合戦は八代の側面にある島原を隆信が潰しに来た戦い
文章読む限りでは、義久が籠った山のふもとで戦ったように見えるけど、
隆信は沖田畷の戦いで八代にまで軍を伸ばしてたの?
そんで沖田畷のあたりで討ち取られたの?すげえな
普通に考えて義久と家久を間違えて書いただけだろ。
鍋島厨は読解力がこれ程無いとは。
これだからアンチ鍋島は…どこの猫だよ
どう考えても隆信が死んだ理由は鍋島の内通による案内以外考えられんな。
仮に下克上を狙ってたとしてもこのタイミングはありえんと思うわけだが
それはそれとしてもしその意思があったとして動機を考えるならば
ただひとつ「隆信に呆れ見切りをつけた」だろうなあ
どう考えても沖田畷前の数年の行動は人として疑問符が付くし
そういう家臣の声が、一番人望のあった鍋島を動かした、っていう風になっちまうな
酷いって評判だけひとり歩きしてるだけで
隆信の悪行は同盟国や自勢力下の領主・武将たちへの仕打ちだからな
それも歳を取ってから猜疑心が強くなってそういう傾向が強まった
決して評判のひとり歩きじゃない
そして蒲池の事件は確かに鍋島と計ってという記述をしてる場合が多いが
鍋島は反対したが結局主君の命には逆らえずというのも見たことがある
その辺の真実は分からないが結果的に共犯になるのは間違いないだろう
だが隆信のやり方で配下の叛乱が連発したのに
それを主導したのが鍋島だというのなら当然ながら隆信亡き後の
鍋島に他の家臣が従うはずがない
その辺りの推移を考えても隆信に往年のカリスマが無くなっていたのは明らかであり
隆信亡き後に残された家臣団には鍋島以外に立て直してくれる能力を持った武将は
いないという共通認識があったのは間違いない
竜造寺家臣団も一時的に信生に家政を任せただけだな。
その基盤の弱さを補うために信生は秀吉政権を味方につけて
家内掌握を図っただけ。
鍋島藩がかなり信生の悪事を隆信の悪事に摩り替えて捏造藩史を
残しているからこそ化け猫伝説まで民間で生まれたんだろうな。
結局鍋島分家強化で弾圧されたのに
>>352
> 龍造寺四家もなんで鍋島受け入れたんだろ
幕府の意向なら逆らえないでしょ。
幕府は継承の追認しかしてない
意向を示したとするなら直茂を長崎奉行にしたうえで
龍造寺領の中に鍋島領をねじ込んだ秀吉
されたか?
むしろ、幕末まで四家には気を使い続けた印象
四家の家臣団からすれば鍋島の問題をこっちまで持ってくるなという感じ
「佐賀藩の圧政に堪えかねた諫早民が立ち上がった」とつくのがお約束
実質的には多久諫早の二家の勝利かと
爵位は手に入らなかったけど
あと爵位貰えなかったのは親類同格中だと須古だけ
そういや佐賀藩家臣席次一位ってどこ?
官位を直茂と同じ加賀守を貰う家
大名として勢力を張れる根拠が戦争に強いという事だけ
その根拠が大将敗死で一挙に吹き飛んじゃったんだろうな
逆に言うと勝ててるうちは内部の事なんてどうとでもなった
>>365
名前がかっこいいアドバンテージもあったぞ。
東北にも「大宝寺」氏がいて、名前だけは天下人。
「じゃあ、次に戦争強い人誰よ?」
「鍋島じゃね?」
「しょうがないから、野郎にやらせとけ」って感じになったんだろうな
龍造寺は確かに名前がいいよなあw
ま、戦の強さが戦国大名として存在し得る根拠というのは確かにあるわな
でその当主が死んだらもともと地方国人・城主の集まりなんだから空中分解する可能性高い
しかしせっかくここまで大きくなった龍造寺勢力を空中分解させるわけにもいかない
戦争に強いリーダーが必要だった
「どうするよ、若殿さまじゃまとめきれんぞこれ」
「もう鍋島でいいんじゃね、一応龍造寺一門と言えなくもないしw」
「サルどのの覚えもめでたいしそれで行くか」
こんな感じで家中特に異論もなくまとまった気がするw
状況からすると一番現実的に考えられるのは
政家らが頼み込んで直茂に当面の仕切りを完全委任したという感じだろうな。
政家は病弱だったと言われているが、少なくとも自身の力を過大評価するほど
愚鈍ではなかったと思われる。
それは隆信の血の繋がる誰にも言えることで、
隆信急死後に誰かが直茂の仕切りに反発してたら肥前は大藩として生き残ることはなく
幕末の肥前の活躍もなかっただろう。
その時の龍造寺の後継候補たちが自らの器を量れる人間であったことは
肥前にとっての幸いであったと思う。