沖田畷隆信生存ルート
鍋島・松浦・大村が島原から南下し天草占領
家晴・隈部・阿蘇も南下して隈本・宇土占領
隆信本隊が肥後入りした後に氷川付近で島津本隊と決戦
という電波を受信した
島津みたいに夢見がちな戦略はとらず秀吉を受け入れそうな感じはする
秀吉と戦ってもやっぱり全滅前に降伏して、結局佐賀藩の範囲くらいに
なるんじゃない?
筑前筑後以東、肥後は取り上げて、唐入りに重要な肥前北岸も没収。
肥前西部は残してくれるかどうか。
普通に従っても筑前・豊前・肥前北部は取り上げられるだろうけど、
十分な代替地もらえるかなぁ。
長宗我部だって国替え案がキツいから戦ったわけだし、龍造寺も強いまま
ならヘコまされるのでは。
>>8
織田政権から引き継いだ外交ムードがある長宗我部とは違って
領土問題で隆信に文句言ってくる奴が居るかどうかかが最初の課題
それで沖田畷の勝ち方は結構重要
有馬・肥後衆・島津を全員取り逃がした場合、島津と泥沼継戦で後々まで尾をひくだろうし
主要人物を残らず討ち取ったら維持出来るかはともかく、八代まで文句無しに進出出来る可能性も高くなる
長宗我部の場合は毛利が伊予欲しがったのが原因なんだよな。
龍造寺が大版図を維持したら、文句言うヤツがいるいないに関わらず、
筑前と肥前北部(とたぶん筑後も)が秀吉自身の唐入り構想に必要だから
没収確実。
肥後・筑後は閉塞した内海にしか(肥後は天草を考えなければ)接しておらず
どちらかというと褒賞用・戦力抽出の土地で海外戦略上の優勢順位は低い
策源地にしたいなら唐入り用の木材集積地になった豊後日田みたく直轄領に組み込む筈
閉塞した内海は言い過ぎだよw シナの船来て貿易してたんだしw
それは読み間違いだ。
肥後は佐々に遣ったくらいだもんな。
でも筑後はどうだろ?没収されたのは史実だし。
意味が出て来るのは国内の政治状況的に何かある場合
だろうか。
佐々が小西役で肥前にどこか足して加藤役かな
実際出した兵数から見るに、誰が将帥でも肥前肥後は3万人ぐらい出させる丼勘定してたんじゃないの
肥後国人一揆と島原天草一揆も龍造寺の中途半端な介入が遠因になったと思うわけ
そんでこの一揆の芽を事前に摘み取る事が出来たのは
周辺で唯一強権を発動出来る隆信ぐらいしか居ないんじゃないかと
もし生き残るならこのあたり頑張って頂きたい
うまく行けば隆信と秀吉は親子関係だったのに残念。
北肥前、東松浦・壱岐8万石が没収されるのって正式には文禄の役が始まった直後だろ
しかも波多のワガママによるもので
出兵に必要なのは正味名護屋付近ぐらいで、波多が大人しかったらそのまま龍造寺領だろ
波多だけがそう思ってただけで体外的に東松浦も龍造寺領
そうなったのは鍋島の謀略みたい話になってるけど
だいたい松浦党がうじゃうじゃしていた上松浦を波多の下に一元化(義娘と孫を送り込んで)したのが隆信だし
豊臣政権が波多を龍造寺の下に位置付けてるなら領地没収の権利あるのか?
波多に直接指示出したり。
形式的には龍造寺が統制できなかったことも手落ちだから、豊臣としては
龍造寺を減封して龍造寺はその分波多を取り潰しって形?
幕藩体制ほど厳密なものじゃないだろうけど
龍造寺藩31万石
波多藩8万石
鍋島藩5万石
があって有事の時は一緒に龍造寺家として動けよ、と
鍋島藩が龍造寺藩も動かしていたから奇妙な関係に拍車がかかってるけど
結局波多分の足りない兵は鍋島が余計に軍役負担して補ってたしね
有馬5万石
大村2万5千石
宗4万5千石
これも龍造寺として動かせたら江上も死なずにすんだかもね
龍造寺のは急造水軍だったし
残り千2百石が家種の隠居分になってたね。
佐賀城⇔蓮池城の交換の時一緒に領地の入れ替えでもやったんだろうか
城下町なんて無いし家臣も全員地方領主な時代だから
領域的なものじゃなくてどの家臣が誰の幕下に居るかで考えないと
まあ自分には分からない
因みに家種の隠居分は2人の実子(佐野、勝山)が相続したらしい。
だから最大『級』
隆信の息子達で一番動いてたのは家種だから
軍の指揮権力は強いと思うんだけど・・・
なんか家種の立場が微妙で
薩摩・大隅・日向諸県・奄美・琉球
肥前・筑後・肥後玉名・壱岐・対馬
すごくバランスがとれてる
あれやこれや画策していた連中は飛ばされるか、中央派遣組の下に取り込まれたのがなんとも皮肉
それ以外の回廊地域との違い
したんだよな。大友の獅子身中の虫は龍造寺ばかり目立つけど。
大友の勢力は博多の大友五城周辺以外は筑前にも浸透してないと思うよ
1555年に隆信から三瀬を奪われた勝利が志摩の原田から援助してもらって
怡土郡長野に陣所を移し隆信が引いた隙に代官を討って三瀬を取り返してる
神代は志摩と怡土方面の豪族とは懇意だったみたい
神の代って。
「しろ」には「~に捧げる米をとる田」という意味もある。
神田、コウジロと同じように、神社に奉納する田の地名だろう。
神代の云われは神代氏が言うには正に『神様の代わり』なんだけど、
隈代や熊代と表記していたのを神代に変えたのは三瀬に拠点を構えた後の勝利だろうし、
夢買いの逸話を信じるならば決意表明的なものではある。
後個人的には、神代に名を変えたのは拠点が神埼郡の三瀬だったというのも大きいと思う。
神埼の由来が神幸(カムサキ)でゴッドブレス的な意味だから。験を担ぐ意味でも。
神の代わりに勝利する男
クマ代大和守勝利
肥前のクマ
龍造寺山城守隆信
隆信勢8千で勝利勢が7千8百とほぼ互角だったんだね。
山内兵は4000ぐらいなんだろうけど残りはどこから引っ張ってきたのか
少弐系の残党ならまず神代を頼るだろうし
肥前で一番強い奴は誰だ!? ってのを暫定的に決める為の戦いで領土の奪い合いじゃないんだよな
中世的な戦いと言うか、負けても領主がそのままみたいな戦いだよな。
そういうのを決めたら勝者はどんな利益を得たの?
負けた奴の手下の領主が、みんな勝った奴の手下になる
九州ではよくある光景
すぐに神代が戻って来るのをみると領主権=支配といえる程のものじゃ無かったんだろうけど
つまるところ勝者が得るのは信用
戦争論だけでないと意味が通らなくなる
挑戦状はよく出すし、負けたら一旦は大人しくなるし
片っ端から国人を無血降伏させてったからなんだが。
後詰め決戦なんて戦略的には下策だし
有馬は当主の蟄居や杵島郡の事実上の失陥があったり
敗者に血を流させるというのも当たり前に重要な事だね
永禄六年(1563)龍造寺側から見たら丹坂峠の戦い(隆信が有馬を撃破した場所)
有馬側から見たら百合野合戦(有馬が最初に陣を構えた場所?)
永禄四年の川上合戦もだけど隆信が事前調略で敵を誘導し撃破した、と戦史ではなってる
詳しく
あぁ、少なからず城側の手当が要るから確かに不利か。
普通に考えりゃ相当不利よ
城方の後詰めに連絡線を遮断されないようにしつつ決戦場を設定しなきゃならん
って時点で前後に意識を注がんとならんくなる
ヘタすりゃ寄せ手が飢えるしね
後詰の来援で城方の意気があがれば城から出撃される可能性も高くなるわけで
こういう物質的な面だけじゃなく精神的にも圧迫されると、動揺しやすいのは
大多数を占める兵卒やら雑兵ってことで単純な戦闘力の低下も否めない
こういう死地で兵に死力を尽くさせるのが名将なんだろうけど
北肥戦史で隆信が勝利に宣戦布告する行
永禄四年辛酉九月上旬、龍造寺隆信、使を山内へ遣し、神代勝利へ申されけるは、隆信、御辺に対し鬱憤片時も止む事なし。
所詮有無の一戦を遂げて、両家の安否を極むべし。
然れば今月十三日、山と里との境なれば、河上へ出合はれよ。
勝負を決し申すべしといひ送られけり。勝利、仔細に及ばずと返答あり。
其後、又勝利よりも、河浪駿河守を龍造寺へ差遣し、弥々当月十三日、河上に出合ひ勝劣の程を試み候べしといひ遣されけり。
斯くて其日になりしかば、勝利、熊川の城にて勢を揃へ、都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。
>都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。
手分(布陣)はどうしたんだろか
>>78
神代勢
河上與止日女社西の総門に勝利本陣を構え三瀬武家、同安家、古河真清、畑瀬盛政など二千余
大手宮原口へ嫡男長良を大将に叔父蕃元、福島利高、千布家利など三千余
南大門口へ二男種良を大将に松瀬宗楽、杠紀伊守、合瀬、芹田などの一千三百
河上川の東の都渡城へ三男周利を大将として八戸宗暘、西河、古湯、鹿路などの一千五百余
龍造寺勢
大手宮原口へ隆信の旗本勢三千五百余で第一陣は広橋一祐軒、第ニ陣は福地信重、三陣が隆信本隊、殿軍は弟長信
南大門口へは納富信景を大将とするニ千五百余
都渡城へ弟信周を大将として、従弟鑑兼、小川信友などのニ千余
結果は神代方に裏切りが出て隆信が大勝 勝利の二男種良、三男周利が戦死し
勝利自らは大村領の波佐美村まで落ち大村純忠の庇護をうけていたらしい
神代が熊の川城を中心に陣を敷いて
龍造寺が古湯城を中心に陣を敷いた
ぐらいしか分かんね
んで川上は隆信の爺さん兄弟や叔父さんが勝利にぶっ殺された所でもあるのよね
因縁を感じるよね
神代方の名字なんて脊振山地の地名ばかりで、あの山の中から兵7、8千
なんて出せないよなぁ。
守勢側だって事で無理やり動員しているとしても
その半分以下ぐらいが妥当な数字かな
少弐方の敗残兵を一時的に吸収して下につけているならもう一声増やせるかも
隆信四千、勝利三千ってところだろか
永禄十二年の時は隆信の旗本譜代だけで戦ったんだし
東肥前諸将の大半が降っている永禄三年時がそれより下って事はないな
大隈重信の家系もそれっぽいし
三瀬にも撤退出来ず波佐見(西)に落ち延びている事
そっからなら原田領→草野領の唐津街道で陸路からも行ける
この時は高祖城主の原田了栄入道を頼ったらしい
川上合戦の時は伊都から更に波佐見まで落ちていった…とするとしっくる
須古攻めなんかで失って勿体無かったね
味方の裏切りで退路を断たれた、ってのは?筑前に逃げられたなら筑前に
いればいいかなぁと。
> 筑前に逃げられたなら筑前にいればいいかなぁと。
前回と同じところに居たら龍造寺の追撃が来ないとも限らないでしょ
龍造寺に原田への介入機会をみすみす与えるようなもの
あと原田が波多と関係悪いってのも関係してるかも
有馬・大村・波多の親族連合が出来そうな時期だし
永禄3年だと龍造寺は三潴の堤に築城の手伝いを派遣してる
大友からの要請で有馬の東肥前への再進出も同時期
龍造寺の活発化と大友の締めつけが強化され始めた時期だし
弘治年間とは原田側の事情が違ったのかもね
与止日女神社は川上の西側だから
北
山山山山山
2河A
1 川
西 3川B 東
川
川4
川C
南
1勝利隊 A隆信隊
2長良隊 B信景隊
3種良隊×C信周隊
4周利隊×
龍造寺の本拠地は戦場の南
神代の本拠地は戦場の更に東
たぶんこんな感じ
その図なら普通に潰走して西へ逃げたって事になるな
筑前経由で逃げたって記述があるんだっけ?
波佐見に落ち延びた、とだけ
前任護衛組・成松+百武(龍造寺譜代)
後任護衛組・江里口+円城寺(千葉譜代)
信昌麾下?・木下(京出身?)
って分類かな
>>102
> 前任護衛組・成松+百武(龍造寺譜代)
この二人天正以降は大身の旗本クラスだからな
成松信勝300町
百武賢兼280町
項目はとりあえず信長の野望天道準拠で。強制はしないので独自項目でもいいです
総合力は成松>百武>>>その他の三人じゃないかね?
成松と百武はれっきとした重臣で軍功もあるし、
政務もそれなりにこなしてるけど、他の三人は旗本程度。
名字がそのまんまだし
江里口は西肥前攻略で特に活躍したらしい事、その間は信房配下だった事。
筑後に龍造寺の矛先が向かった後は信昌配下になったらしい事。
円城寺は納富・鍋島兄弟の指揮下で対大友の迎撃戦で武功をあげた事。松浦郡中の戦いで功があったらしい事。
木下は昌直の名前が信昌の偏諱にしか見えない事以外はよくわからない。
江里口・円城寺は鍋島の寄騎もやっていた千葉→龍造寺家臣で、木下はほぼ最初から鍋島家臣だったんだろう。
どちらかというと、この三人は直茂の覚え目出度い豪傑だったと。
惣軍奉行で城主・家老クラスの上位二名と、格は並みの侍大将三名。木下は足軽大将ぐらいだったかもしれないけど。
所詮は鍋島時代に選ばれた5人ということか
龍家家臣のなかでは智将で軍師的存在だったのかな
鎮西史だと勝屋は隆信の代弁者っぽい事よくしてる
また後藤に家信を送り込んだ時も勝屋の親族と思しき輩が就いていってる
龍造寺家の側近自体は石井氏や太田氏が居るけれども
勝屋は隆信の私設秘書な立ち位置だったんだろう
木下氏について一つ
水ヶ江城中館の南にあった木下伊予守覚順の邸宅を覚順の子、仙叔(昌直の兄弟?)が
改築して光円寺を建立したとのこと
木下昌直は隆信や直茂の幼なじみだったのかも?
ための創作?
実子がいるのに他国者を養子、ってのも変だし。
仙叔が京都で修行した坊さんだったという伝承がことの発端だろうね。
①昌直と仙叔は実兄弟
②昌直と仙叔は義兄弟
③昌直と仙叔は同一人物
大筋でこの三説が考えられるけど、昌直が養子だとすると①が消える。それでこの場合(昌直養子説)だと自分は③推し。
つまり木下覚順が京の僧仙叔を養子に迎えて仙叔が昌直と名乗る。
昌直はその後戦死して光円寺建立は鍋島生三が行った(別説で生三の建立説がある)。とすると辻褄は合う。
生存説を取れば昌直が出家して仙叔と名乗ったとも考えられるが
コレは長いのか短いのか
問題は年齢的なもんの方が大きいと思う
天文の初め頃の生まれだとすると行く前からかなりのいい歳で
戻ってくる時は棺桶に片足突っ込んでる年頃になる
特に龍造寺みたいな京の公家さんに伝手がない所だと
九州に真宗が浸透し初めたのがかなり遅かったってのがよく分かる
隆信自身は曹洞宗と関係が深かったみたいだけど
円月として入っていた鬼丸の宝琳院は天台宗
慶長年間に浄土真宗の寺を沢山佐賀へ入れたのは
龍造寺派と言っていい曹洞宗の勢いを削ぐ為だったのかもね
>慶長年間に浄土真宗の寺を沢山佐賀へ入れたのは
関ケ原の役に鍋島は西軍に加わり進退に窮した。このとき京都西本願寺の高僧に、
斡旋を依頼し、鍋島家は取り潰しの危機を脱することができた。
その恩に報いるために、鍋島は浄土真宗の普及に勤めたと云われている。
長年の外交努力が実を結んだ瞬間というか
こんなこともあろうかとってな真田さんばりの用意の良さというか
信勝は成松を名乗ってるけど龍造寺一門だよね。
父は宗家胤栄の弟胤明だが馬場頼周が仕掛けた罠にて杵島志久峠で戦死しており
訳あってか信勝は成松姓、信勝の兄信勢は西村姓となったらしい。
「大将の御前にて討ち死にを遂げ生前より兼ねての御恩を奉り報いるべし」と、金地に日の丸の扇をはためかせて
「やあやあ、我こそは去んぬる年、豊後の大友八郎を討ち取ったる成松遠江守信勝なるぞッ!」と
大声で名乗りを挙げ、長刀を手に嫡男信実ほか残った従者十六人と共に島津勢百人余りに挑み、
自ら七人をなぎ倒し八人目で壮烈な最後を遂げた。
全然知らんかった。ありがとう。
杵島志久峠での戦いって家兼が有馬晴純に大敗した時のこれかな
> 武雄鍋島家文書の中に、この時、少弐冬尚から後藤純明にあてて協力を要請した次のような書状が残っている。
> 「佐嘉の逆徒急度きっと取り詰め、退治を加うべく候。仍って其の表の事、一衆差し出され馳走に於いては、
>諸方の覚え、累年入魂の首尾、肝要の由、晴純に至り申し候。別して心を副えられ候わば、祝着たるべく候。
>なお老共申すべく候。恐々謹言 八月六日 冬尚(花押) 後藤伯耆守殿」
そこら辺で待ち伏せされて供回りもやられ放題な事態になっちゃったと
もう少し詳しく言うと志久峠(武雄市北方町)は
小城郡北西部梶峰城主多久氏(多久市多久町)
杵島郡北東部武雄城主後藤氏(武雄市武雄町)
の勢力圏の境目
小城郡東部の千葉領小城(小城市小城町)から真西にあって
佐嘉郡南部(佐賀市水ヶ江町)の龍造寺が肥前西部域へ出る時に通らないといけない峠
>>138
ちょっと自分で考えればわからない?「四天王はこの五人です」なんて
誰も言ってないでしょ。四天王の候補者に二通りの意見があるだけ。
「武田二十四将」もメンバーの選び方が何通りかあるけど、「30人以上
なのに二十四将って良いセンスしているよなw」なんて言う馬鹿いない
でしょ?
武田四天王は板垣甘利飯富小山田馬場内藤高坂山県で八人いるぞ
>>142
世代交代がはっきり表れてて面白いな。
しかも前世代は一族と国衆、次世代は低い身分からの取り立てという
出自の違いもある。
龍造寺四天王は後世視点だから面白みに欠ける。
第一に鍋島一族が除外されてること、第二に沖田畷での討ち死に者限
定っぽい点。
四天王は鍋島直茂・納富信景・広橋信了の三人が確定だな。
あと一枠は誰がふさわしいだろうか?
むしろ小河信安が広橋より先に入るだろ
あくまで豪傑四人衆で、自分で槍奮って戦う下級佐官から尉官ぐらいの階級だからね
>>147
城主や奉行って下級なの?
今山の時期の上級指揮官は方面の守備配置でわかる
東口大手方面:鍋島信房・鍋島信昌・小川信友
北方川上口方面:龍造寺家就・納富信景・広橋信了
対西肥前勢:龍造寺信周・龍造寺鑑兼
対南部水軍:龍造寺長信・龍造寺家親
大友の主力は東口から来る豊後勢だけど
村中城の構造的に北口からの攻撃に弱いから
川上方面を固めている部隊に最精鋭が配置されてる
信昌は直属三百騎だし
広橋一祐軒が戦死した第四次須古城戦で木下四郎兵衛(昌直)の名前があるね
木下四郎兵衛は朝鮮の役にも名前が載ってる
須古城包囲の攻撃配置
本陣:龍造寺隆信2000
北.一間掘口:先陣広橋信了・第二陣鍋島信昌2300
東.白川口・男島砦:龍造寺信周・松浦党員の一部2000
南.湯崎川津口:納富信景1800
南.小塚口:納富信理・副島式部少輔・木下昌直1000?
搦手:龍造寺長信1000?
北肥戦史の杵島郡白石の須古城(高城)についての記述。
然るに彼の平井が居城高岳と申すは僅の小城と雖も北の大手は岩石峨々と峙ち一騎打の細道なり。
西は百町牟田とて深泥限を知らず東は男島に稠しく砦を構へたり。
南は堀を二重に深くほり塀を高く塗りて所々に櫓を掻並べ其構へ事々し。
北は細道になっているから寄せ手を二段に分けて広橋・鍋島が交代々々で攻撃。
西側が搦め手か?大軍が展開出来ない深田地帯に長信。
東側には男島城という出城があり、そこに信周を配置。
南は堀と櫓で守られている所で部隊を複数の小部隊に分けて攻撃。
こんな所かね。
須古城はもともと白石家のものだったのが南北朝頃に千葉が奪取して白石本家が滅亡
分家の藤津郡嬉野氏が白石系の宗家になった
とされる
須古攻め一回目・永禄六年(1563)6月~8月
須古攻め二回目・永禄七年(1564)2月~3月
須古攻め三回目・天正二年(1574)2月
須古攻め四回目・天正二年(1574)10月~12月
一回目はいったん隆信が退いた後、須古平井と隣接する武雄後藤に須古を攻撃させたが失敗
二回目の長信の須古攻撃のあと平井と後藤は同盟を組んだ
これも回数に入れると都合5回になる
鳴かぬなら
泣くまで殴ろう
ホトトギス
肥前のクマ
将の補佐官、尉の上。衛府の四等官でも督・佐・尉・志で上から二番目。
主典(志・サカン)は判官(尉・ジョウ)の従だから『さかん』
通判官(佐・スケ)は長官(督・カミ)の従で『佐官』
四等官の主典は特に『左官(シャカン)』と言い表す事も多い。
佐・佑(サ・スケ)は『さ』で支えとか『すけ』で助とかの意味が出て『隣りでささえる・たすける人』という意味で使われるね。
>>164
>佐・佑(サ・スケ)は『さ』で支えとか『すけ』で助とかの意味が出て『隣りでささえる・たすける人』という意味で使われるね。
逆。
もともと漢字の左・右に「たすける」の意味があるから、日本語の「すけ」
の訓があてられた。
「サ」という読みは左の音。
さ(音)に対してのじょう(音)
すけ(訓)に対してのかみ(訓)
って事か
音の『さ』から派生して訓の『ささえ』になったと考える方が妥当だと思う。
別に妥当でもなんでもない。
やまとことばとしてどくりつして生まれた言葉かもしれないし。
あ、今気付いたけど元は(サカ)江だったのかも
藤津はもともと大村の本拠地だったんだけど
有馬・波多・大村等が龍造寺に大敗した事で
・有馬義貞は一時失脚、晴純死後に復帰(生前に許されてた復帰した説も)してキリシタンに改宗
・波多親は追放され大友の佐賀侵攻期ぐらいまで復帰出来ず
・大村純忠はキリスト教に改宗した後反乱起こされ追放→復帰も藤津を完全に失陥
という事で晴純の作っていた婚姻同盟勢力が事実上崩壊して
藤津郡は龍造寺が大勢を決めるまでは反大村氏一揆が多数派を占める地域になった
平戸松浦や後藤の大村領攻撃(キリスト教寄進地含む)が激化したのも同時期
永禄6年、大村純忠が横瀬浦で受洗後に大村領で反乱が起きたことについて
フロイス「ドン・ベルトラメウの館や町の家に暴徒が火を放ったので、彼は少数の家臣とともに逃れて町に近い城に入った」
「1ヶ月半領地を失うが、やがて一部地方をのぞき領地を回復した」
1563年11月14日
ヴァリニャーノ「ドン・ベルトラメウは改宗後2ヶ月を経ないで無一文となり国から追放された」
「数ヶ月後に突如姿を現わして城を一つ奪回した。徐々に領地を回復したが、3年後でなければ全旧領の主になることができなかった」
アルメイダ「反徒は大した困難なくドン・ベルトラメウの領地を奪い『彼をして現に籠居せる城』に逃れしめている」
1564年10月14日
どいつが嘘をついているのか
>藤津はもともと大村の本拠地だったんだけど
藤津大村氏は彼杵大村氏とは無関係だったってほんと?
龍造寺重臣の納富氏とか江上氏重臣の執行氏などはもともと藤津大村氏の家臣だったらしい。
藤津郡高津原の在尾に居た大村が『家』を通字にした一族で
彼杵郡大村の玖島に居を構えて居たのが『純』を通字にした大村一族
だったとすると辻褄は合うんだよね、ただ無関係とは言い切れない
当の大村藩は大村景家の子、藤津荘地頭の大村家信が元冦で活躍して
神埼郡内に二町分の領地を貰った辺りからを大村氏の始まりとしていから
納富氏はその時に大村氏の命令で藤津荘納富分から移った御家人だった、としてもこれまた納得の行く流れ
納富には執行分って地名もあるし執行氏と関係ないと断言も出来ない
ただ、肥前内に【富】が付く地名は他に幾つかあるし(吉野ヶ里から出た成富や諸富、微妙だが深江の安富なども)
納富というのが富を納める地、つまり納税所に(田倉や物成、室屋という地名と一緒で物の集積地)由来する苗字だとすると
神埼荘の納富地に居たから納富さん(近所の成富さんと同じパターン)だったんじゃないのかな
あと執行氏については櫛田宮の執行別当職由来(櫛田宮司本告氏と一緒に院親政期に下向)だったと取る方が自然
鹿島に納富分や執行分という地名が長く残っているから納富氏・執行氏はそこの出自だ(納富氏の略図だと確かそうなってた)
とするのは、少し乱暴かなと
十分あり得る話なんだけどね、近いし
ヤクザがまだ武士的な行動規範で動いてるだけだろ
しかし有馬氏に内通したため上滝弾正と百武志摩に討取られたらしいが
一般的な解釈をすると純忠より前の、藤津に戦力の拠点を持って居た頃の大村氏が藤津大村氏
純忠以後、有馬の下位同盟者で大村城を建て血筋は有馬系の大村氏が彼杵大村氏という事になる
それで大村弾正が何物か、という事だけれど
・もともと五町田に所領を持っていた大村一族
・貴明に付いて後藤領に入った藤津大村の親族
のどちらかしかないように思う
合戦場が藤津郡五町田だったらしいから
>・もともと五町田に所領を持っていた大村一族 だったとなるのかな
天正四年二月に隆信が藤津郡の横造城を攻めた時、有馬方から龍造寺へ大村越中守と
名乗る者が降伏してるがこの人物が大村弾正だろか
例がみつかんねぇや
>>187
弾正忠から播磨守は正六位相当→従五位上相当
弾正(忠?)から越中守は正六位相当→従五位下相当
まぁ自然な変化ではある。
大村某は有馬の家来だった頃は越中守だったのに龍造寺に投降したら弾正となったらしい
もしかしたら格下げって奴かいな
忠じゃなくて少弼(正五位下)で格上げという可能性もあるが、
格下げだとおもしろいな(笑)
勝利したのちに領地二百町貰って弾正忠鎮家から播磨守盛家と改名してるね。
同じ時期に大村弾正が越前守に改名したのかも、と
忌み名が残ってるなら藤津豪族系は諱に『景』がついてて判断がつけやすいんだけど
五町田籾岳城主は原直『景』だし
横造城と同時攻略した鷲巣の方は嬉野氏に与えられたという流れね
藤津郡の新体制はこんな感じかな
(日守)嬉野越後守直通 500町
(鳥帽子岩)嬉野大和守通純
(鷹ノ巣)嬉野興右衛門通治
(湯野田)嬉野淡路守通益 70町
(吉田)吉田左衛門太夫家宗 300町
(籾岳)原 豊後守直家 150町
(鳥付)永田備前守純晴 150町
(五町田)上瀧志摩守盛貞 110町
(久間)久間薩摩守盛種 50町
(常広)鍋島豊前守信房 500町
(森岳)犬塚播磨守盛家 200町
(松岡)徳島筑後守信盛 80町
畑方を勘定に入れてないなら
だいたい米が二万石弱取れるぐらいか
基本的に50町=500石が惣村一個=小字部落一個
>>198
「北肥戦誌」にちょっとだけ記録があった。
味方の井元茂七(杵島山口の武将)が有馬方城兵と組み合い堀に落ちたのを見かけた
成富十右衛門は堀に飛入り、其敵兵を討って茂七を助けた。
成富は初陣で今年十六歳だった。
この頃はまだ十右衛門と云われてなかったと思うが
家督継承の翌年、といっても半年ぐらいしか経ってないが
天文16年の目達原(米田原)合戦が大将としての野戦での初陣かね
このとき少弐方の二将、江上元種・宗本盛のうち本盛は胤信に討ちとられてる
それより前に姉川と犬塚の城をせめてるからそっちを初陣としてもいいんだろうけど
宗本盛って対馬の宗の親戚?
一族だね。入道本盛または筑後守秀恒
享禄3年少弐勢×大内勢との田手畷合戰には龍造寺等と共に戦い勝利してる
兄弟5人で2130町の領地とは凄いね。
無茶な行動をして武辺的な功績を上げやすいからか
清房や信生みたいに龍造寺家臣は嫡男以外が取り立てられて長男より出世する傾向があるな
蒲池鎮竝12000町
蒲池鑑広8600町
田尻鑑種1600町
この辺りを筆頭に直轄領として大領地を取り込み過ぎて再編が大変だったからなんじゃないのかね
次男以下は近習や旗本として働くのがどこの大名家でも共通した傾向。
そして、主君の手足となる近習や旗本の方が功績をあげやすいし、
主君の覚えもめでたくなるから、取り立てられやすい。
下剋上型の大名である龍造寺は門閥に大身が居ないため
家臣団が代々守るべき領地が一村一館しかなく傍流が徐々に巨大化していくのが特徴
清久┰清泰─清虎─道虎(生三)
┗清房┰信房─茂昌
┗信生─信茂(勝茂)
例えば新庄鍋島村は代々の嫡流である清泰系の所領ではあるが
清久の次男の次男の家系が最終的には佐賀藩主になっている
信房の子も嫡男の茂昌より次男の茂治の方が事跡が派手
鍋島清秦系の知行
この程度の知行では隆信直臣と云うより陪臣扱いだね。
鍋島清虎 清秦ノ長男 50町
鍋島信定 清秦ノニ男 50町
鍋島信久 清泰ノ三男 50町
鍋島信経 清虎ノ孫 100町
鍋島賢実 信定ノ子 50町
五十町歩持ちなら最低限の騎馬武者階級だったという事は分かる
清房(隆信の意を受けた清房か?)は清泰系の子孫には高伝寺の墓守をしてもらうつもりだったらしい
その後人手不足か状況の変化なのかは分からないけれど
僧籍に入っていた清泰の孫の道虎(三男)は還俗している
それで道虎は朝鮮役で戦死した姉川房安の苗と所領三百町を継承して姉川鍋島の祖になってる(姉川鍋島の所領は五百町)
それでこの道虎の姉川継承自体は隆信の時期から兆候があって、元亀四年の筑紫氏攻略の折りに
論功行賞で姉川氏を神埼郡姉川から三根郡米田に移封して空いた姉川城に道虎が入った
最低限馬と世話する下人を雇える、ということか。
これだと五反田持ちの半農徒士・足軽も含まれるから
単純に戦闘中の騎乗が許されている身分と言った方が早い
お持ち弓とか徒士郎党を率いる中世御家人を先にイメージした方が実像に近いと思う
んじゃないか?
武具を揃える足軽も中には居ただろうが基本的に足軽の兵装は大名からの支給品
ちなみにこういう兵装等を含む物品管理は長信の管轄
六大家老家、その石高・元亀天正以前のもともとの領地
横岳7500石・三根西郷 (神代)鍋島6263石・佐賀鍋島
深堀6000石・長崎深堀 倉町5075石・佐賀久富
姉川5051石・神埼姉川 太田4250石・佐賀諸富
着座家老
山代2250石 納富1500石 石井1250石
成富2040石 岡部 坂部
千葉3000石 岩村 中野
大木 江副 執行
有田1750石 深江 川尻1600石
福地? 土肥? 小河?
龍造寺鍋島連立時の家臣団上位陣も違いがあまり無いと思われるので
細かい所は敢えて無視した、自分が分かる範囲の佐賀鍋島家家老一覧
東肥前十九城主の構成員だった二家(横岳・姉川)、大村と敵対していた長崎半島の深堀
元から龍造寺家臣だった三家(鍋島・倉町・太田)を加えての六つの家老と
功臣や外様の元大身で構成された着座家老の二層に分かれて家老があるわけだけど
ここで疑問なのは神代鍋島はともかく着座衆を差し置いて
なぜ倉町と太田が大身家老に列席しているのか、という点
高房勝茂の両統時に上手く立ち回ったとも考えられるが
鍋島・倉町・太田は隆信政権より前、元来の龍造寺直臣の中でも規模の大きい一族だったんじゃないのか、とも考えられる
>なぜ倉町と太田が大身家老に列席しているのか、という点
倉町、太田はもともと鍋島とは親戚になるからね。
倉町は直茂の弟信俊が養子へ行った先だし、太田は勝茂の姉(瑞光院)が嫁いだ。
家譜とか編纂する段階だともう>>243の家老格家は全部鍋島から養子入れてるからかしらんけど
最終的に佐賀藩士になった家は時系列無視して早期から鍋島の血縁者だとしている所がいくつか有る
だから倉町信俊や小河信俊が信房や直茂の弟だった可能性も証拠も十分にあるが
しかし絶対とは言えない
直茂も千葉胤信が生まれなかったら千葉信安で通してたかもしれない
違和感あったが、後世の捏造の可能性もあるわけか?
家兼の孫娘婿、隆信からしたら又叔父かつ継父な鍋島清房が
養子縁組・婚姻外交を取り仕切るというのは自然な流れだと思うけどな
龍造寺家の子がいなかったわけじゃないだろ?隆信の弟とか。
時代がかなり新しいが「信用できない家系伝説」の一種ではないだろうか。
直茂は自分の二男で半助直房(忠茂のち鹿島藩主)を家俊の嗣子としてる。
だから江戸へ人質に行くまで小河半助と名乗ってたね。
家格で渋川や少弐にも対抗出来る千葉が一土豪の鍋島からすんなり猶子を受け入れるのも不思議な話だよな
>>251
直茂が千葉に養子へ出された時の千葉家は少弐からの養子が当主でその妻は家兼の孫で
本家を担ぐ千葉党の諸氏が辛うじて支えているような状態
大本は龍造寺の出した案だろうけど鍋島から養子を出すよう命じたのは少弐だし
千葉からしたら少弐の提案は当然受け入れざるをえない
西千葉(晴気千葉)と東千葉(祇園千葉)は元祖と本家の争いみたいなもので
どっちも向こうが庶家でこっちが本流って感覚だったろうと思われる
敢えて選ぶなら生き残った西千葉が本家
直茂が養子に出された時期の龍造寺‐千葉‐少弐の関係を端的に言うと、少弐色だった西千葉が龍造寺色に塗り替わった時期
もともと大内の支援で成立した東千葉に家兼の仲介で冬尚の弟が養子に入って
少弐がもともと立てた西千葉当主の養子に直茂が入った形
あくまで養子だからこの1541年時点では従属同盟程度
で、その後の馬場の謀略で一端この関係から龍造寺が締め出しを食らう
1541年に起きた両千葉の講話は東千葉家初代当主千葉興常の死亡時期(1533年・1540年両説)と重なるので
興常の重石が取れた事で講話の機運も高まっていたのだと思う
これで西千葉当主千葉胤連・彦法師に牛尾城
東千葉二代当主千葉喜胤・新助胤頼に晴気城が与えられ
祇園城は馬場頼周が管理する事で一度は決着した
こうした一つズレたような城の配分になったのは少弐家執政の龍造寺と側付の馬場や神代・江上等の調整の結果だろう
更に数少ない累代の親類郎党は族滅されかけているわけだから、当然使える手駒も少ない
使えてその上信頼のおける駒なら使い倒すまで使うんじゃないかな
>西千葉(晴気千葉)と東千葉(祇園千葉)は元祖と本家の争いみたいなもの
千葉家には家宝があったらしいけどどっちが所有してたんだろか
胤頼が祇園城から持ち出して最後は神代の手に
その後は内紛で萎んで少弐の取り込み工作と大内の反乱支援でカオスな状態に
鍋島の旗色が不鮮明になったのは龍造寺一族が各地で討たれた対有馬戦から家兼が撤退した後
村中・水ヶ江城に立てこもった時ぐらいでしょ
十九城主の中で少弐庶流は朝日、出雲、筑紫、馬場、横岳で最大派閥
次に規模が大きいのは高木系
既に龍造寺の家、廃亡とぞ見えたりける」
胤栄の後継者問題で龍造寺家中が鑑兼派と隆信派が真っ二つになった様子が伺える。
さらに胤栄の妻(以登)が実兄の鑑兼を希望したらしい。
>>269
という事は隆信は惣領の未亡人で敵対派閥の旗頭の実妹を(恐らくは)強引に娶って
『何となく佐嘉騒動し、既に龍造寺の家、廃亡とぞ見えたりける』事態を三年間は鎮静化させた事になるのか
それで大内の動揺をみて少弐保守党な鑑兼派が1551年に巻き返しにうって出て
冬尚復帰と隆信追放が入れ違いに起こったと
>>275
御夫婦の御中睦しからず、御家の浮沈此時に極り、御家人二つに分れ、
龍造寺の家滅亡忽ち遠きに候はず、近国の諸将佐嘉を攻めむとする由風聞あり。
小河武純(信安)は未亡人を訪れ「夫婦仲の悪さは龍家滅亡に繋がる」と説いている。
少弐は米田原合戦で筑後へ逃げていたが対馬の宗義調へ頼み勢福寺城を奪還した。
単純に若かったのか、妾腹だったのか。
村中本家から後継者と家就の名が浮上したが、最終的には家兼の遺言で決着したらしい。
1546/03 家兼没。 円月還俗し水ヶ江龍造寺家を相続
1548/03 胤栄没。 胤信、龍造寺宗家を相続
1550/07 胤信、大内義隆の偏諱を受け隆信と改名
1551/09 大内義隆、陶晴賢反乱にて没
1551/10 十九城将が村中城を包囲
隆信にしたら大内義隆が没したのは想定外だったろな
>十九城主の中で少弐庶流は朝日、出雲、筑紫、馬場、横岳で最大派閥
田手畷合戦
少弐方・・・出雲、馬場
大内方・・・朝日、筑紫、横岳
派閥内の勢力が東を向いてる家ばかりだから。
どちらかと云えば大友、少弐派なんだろな。
鑑兼の名乗りには、家兼が望んだ龍造寺の副将であれという願望が潜んではいないだろうか。
何の裏付けもないけどさ。
どっちかと言うと真田親子的な、両派に分かれて確実に家を残す作戦じゃね?
大内が突然大友の分家になって、しかも隆信が大友の中で生き残ったのは想定
外だったかも。
小田政光にすればこの時の情が後の命取りになったんだな。
家督争いも元を辿ればお家を残すための手段の一つだろうけどさ
小田に本家並みのバイタリティがあれば横岳ぐらいのポジションは確保出来たろうに
木原の戦い(1536年)で龍造寺が不利だったのを鍋島が田手畷同様に赤熊で扮装して勝利してる。
木原だと龍造寺の城近くまで小田勢が攻め込んでいた訳か
1536年は義隆が資元にトドメ刺しにきた時だよね
>>289
川副庄は龍造寺が少弐から貰ってたみたい。
のち剛忠が筑後から再帰した時は川副・与賀庄の郷士が加勢して水ヶ江城を奪還してる。
当時は龍造寺の知行地ってこんなところかな。
佐嘉郡与賀庄1000町・川副庄1000町・佐嘉郡尻田60町・千数30町・大宝40町・千住12町
諸富12町・下嘉世100町・有重12町・法成寺16町・小城郡大寺36町・別府120町・光武18町
そりゃ小田もキレて龍造寺を攻撃するわって話
1530年代の龍造寺の実権を握っていたのは家純で実働は周家だったんじゃないのかと思う
家門の養子で家純の実子である周家は梶峰城の多久宗時を天文十三年(1544年)に追放している。
上松浦大河野、杵島志久峠、藤津冬野原などで一族は大敗して
佐嘉城へ逃げ帰ったが肥前十九城将に囲まれてしまった。
肥前の熊の『熊』は純粋な動物のベアー=熊じゃなくて
熊襲のクマの意味合いの方が強いんじゃないのか
「熊襲」はともかく、熊襲からクマを抽出して言うことは一般的だったのか?
だからその複合語を元のようにばらして言うことが一般的だったのかって
言ってるんだよ。
あるいはクマという概念が残っていたのか(そのクマに肥前と何の関係があるのか)
>>323
クマの概念が残っていたのかは分からん
肥前に残るクマ地名についてなら多少分かる
佐賀県に残るクマ地名
早稲隈山(神埼)・日隈山(神埼)・鳥隈(神埼)・松隈(神埼)
中津隈(三根)
小隈(佐賀)・佐熊(佐賀)・熊川(佐賀)
熊寄ヶ里(小城)
久間、隈(藤津)
長崎県に残るクマ地名
自分調べでは無し
肥前でも佐賀県域にのみ多く見られるから
筑後から肥後北部までの中山間・平野部地域に点在しているクマ地名とは何か関係あるんだろうな
大和に反抗した球磨・大隅の熊襲と関係あるのかは知らん
で、その地に根を張っていて日足紋を使用している大村・菊池・龍造寺(高木)あたりは元同族の可能性が高い
大村も日足つかってたんだ。知らなかった。
天皇家の菊も同源だったりして
龍造寺隆信はどうなってたんだろう、80年以降から悪い方向に走ったけど
悪い方向じゃなければかなりよかったと思うけど
耳川の後はさっさと島津に寝返ってどさくさにまぎれて肥前や筑後を切り取り、
九州征伐でいち早く秀吉に通じて所領を安堵されて、北九州最大の有力大名に成り上がるってところか。