毛利 柴田 伊達 九州

【肥前の熊】龍造寺隆信と家臣の生き様を徹底的に語る【ガチ議論】

4: 名無し 2011/02/04(金) 23:54:52

沖田畷隆信生存ルート

鍋島・松浦・大村が島原から南下し天草占領
家晴・隈部・阿蘇も南下して隈本・宇土占領
隆信本隊が肥後入りした後に氷川付近で島津本隊と決戦

という電波を受信した

 

6: 名無し 2011/02/05(土) 01:24:39
で秀吉にぬっ殺されると

 

7: 名無し 2011/02/05(土) 07:04:26
大名国人の後詰めや援軍要請を無視し続けた隆信なら
島津みたいに夢見がちな戦略はとらず秀吉を受け入れそうな感じはする

 

8: 名無し 2011/02/05(土) 12:25:46

秀吉と戦ってもやっぱり全滅前に降伏して、結局佐賀藩の範囲くらいに
なるんじゃない?
筑前筑後以東、肥後は取り上げて、唐入りに重要な肥前北岸も没収。
肥前西部は残してくれるかどうか。

普通に従っても筑前・豊前・肥前北部は取り上げられるだろうけど、
十分な代替地もらえるかなぁ。
長宗我部だって国替え案がキツいから戦ったわけだし、龍造寺も強いまま
ならヘコまされるのでは。

 

10: 名無し 2011/02/05(土) 15:59:08

>>8
織田政権から引き継いだ外交ムードがある長宗我部とは違って
領土問題で隆信に文句言ってくる奴が居るかどうかかが最初の課題

それで沖田畷の勝ち方は結構重要
有馬・肥後衆・島津を全員取り逃がした場合、島津と泥沼継戦で後々まで尾をひくだろうし
主要人物を残らず討ち取ったら維持出来るかはともかく、八代まで文句無しに進出出来る可能性も高くなる

 

11: 名無し 2011/02/05(土) 16:32:08
>領土問題で隆信に文句言ってくる奴
長宗我部の場合は毛利が伊予欲しがったのが原因なんだよな。
龍造寺が大版図を維持したら、文句言うヤツがいるいないに関わらず、
筑前と肥前北部(とたぶん筑後も)が秀吉自身の唐入り構想に必要だから
没収確実。

 

12: 名無し 2011/02/05(土) 18:39:38
豊前・筑前・肥前は海運の問題からして入り用だろうけど
肥後・筑後は閉塞した内海にしか(肥後は天草を考えなければ)接しておらず
どちらかというと褒賞用・戦力抽出の土地で海外戦略上の優勢順位は低い
策源地にしたいなら唐入り用の木材集積地になった豊後日田みたく直轄領に組み込む筈

 

14: 名無し 2011/02/05(土) 22:56:19
>>12
閉塞した内海は言い過ぎだよw シナの船来て貿易してたんだしw

 

16: 名無し 2011/02/06(日) 00:33:36
>>12が海外遠征に意味がある土地だって言ってるように見えた?
それは読み間違いだ。

 

13: 名無し 2011/02/05(土) 21:07:45

肥後は佐々に遣ったくらいだもんな。

でも筑後はどうだろ?没収されたのは史実だし。

 

15: 名無し 2011/02/05(土) 23:48:12
問題は海外遠征には取っても意味のない土地だという事だろ
意味が出て来るのは国内の政治状況的に何かある場合

 

17: 名無し 2011/02/06(日) 01:01:53
その肥後は小西と加藤が先鋒になったが、本来佐々が先鋒になる予定だったの
だろうか。
佐々が小西役で肥前にどこか足して加藤役かな

 

18: 名無し 2011/02/06(日) 04:06:36

実際出した兵数から見るに、誰が将帥でも肥前肥後は3万人ぐらい出させる丼勘定してたんじゃないの

肥後国人一揆と島原天草一揆も龍造寺の中途半端な介入が遠因になったと思うわけ
そんでこの一揆の芽を事前に摘み取る事が出来たのは
周辺で唯一強権を発動出来る隆信ぐらいしか居ないんじゃないかと
もし生き残るならこのあたり頑張って頂きたい

 

19: 名無し 2011/02/06(日) 12:54:39
一揆の危険を盾に秀吉を強請るのか。かっこいいwww

 

20: 名無し 2011/02/06(日) 13:11:55
秀吉がお気に入りだった安って隆信の義娘だろ。
うまく行けば隆信と秀吉は親子関係だったのに残念。

 

22: 名無し 2011/02/06(日) 14:32:15

北肥前、東松浦・壱岐8万石が没収されるのって正式には文禄の役が始まった直後だろ
しかも波多のワガママによるもので

出兵に必要なのは正味名護屋付近ぐらいで、波多が大人しかったらそのまま龍造寺領だろ

 

23: 名無し 2011/02/06(日) 15:03:03
波多は独立大名じゃなかったっけ?

 

24: 名無し 2011/02/06(日) 15:10:22

波多だけがそう思ってただけで体外的に東松浦も龍造寺領
そうなったのは鍋島の謀略みたい話になってるけど

だいたい松浦党がうじゃうじゃしていた上松浦を波多の下に一元化(義娘と孫を送り込んで)したのが隆信だし

 

25: 名無し 2011/02/06(日) 16:58:37

豊臣政権が波多を龍造寺の下に位置付けてるなら領地没収の権利あるのか?
波多に直接指示出したり。

形式的には龍造寺が統制できなかったことも手落ちだから、豊臣としては
龍造寺を減封して龍造寺はその分波多を取り潰しって形?

 

26: 名無し 2011/02/06(日) 17:34:07
独立支藩と似たようなもんだろ
幕藩体制ほど厳密なものじゃないだろうけど

 

27: 名無し 2011/02/06(日) 17:43:23

龍造寺藩31万石
波多藩8万石
鍋島藩5万石
があって有事の時は一緒に龍造寺家として動けよ、と
鍋島藩が龍造寺藩も動かしていたから奇妙な関係に拍車がかかってるけど

結局波多分の足りない兵は鍋島が余計に軍役負担して補ってたしね

 

28: 名無し 2011/02/06(日) 17:46:50
鍋島の余計な軍役負担は龍造寺一門の分かと思ってた

 

29: 名無し 2011/02/06(日) 17:56:49
波多の騒動のすぐ後に江上家種が釜山で戦死したのもデカいんじゃない? >鍋島の余計な軍役負担

 

30: 名無し 2011/02/06(日) 18:29:16
平戸松浦5万石
有馬5万石
大村2万5千石
宗4万5千石
これも龍造寺として動かせたら江上も死なずにすんだかもね
龍造寺のは急造水軍だったし

 

32: 名無し 2011/02/06(日) 20:40:04
江上家種の領地って秀吉が知行割りした時、養子の伊勢松(勝茂)が9千石を相続して
残り千2百石が家種の隠居分になってたね。

 

33: 名無し 2011/02/06(日) 20:59:26
江上の領地って普通に考えると鍋島の神埼郡ともろに被るんだよな
佐賀城⇔蓮池城の交換の時一緒に領地の入れ替えでもやったんだろうか

 

34: 名無し 2011/02/06(日) 21:28:35

城下町なんて無いし家臣も全員地方領主な時代だから
領域的なものじゃなくてどの家臣が誰の幕下に居るかで考えないと

まあ自分には分からない

 

35: 名無し 2011/02/06(日) 21:28:55
三根郡と藤津郡の一部だったと読んだことあるけど定かではない。
因みに家種の隠居分は2人の実子(佐野、勝山)が相続したらしい。

 

36: 名無し 2011/02/06(日) 22:01:26
三根と藤津だと横岳と鍋島信房の領地なんかもあるね

 

37: 名無し 2011/02/06(日) 22:30:18
文禄初頭の政家配下なら家種と家信が最大級の領主だろうけど軍役負担分がどの位だったのかがね

 

38: 名無し 2011/02/06(日) 22:32:32
あ、文禄だともう政家は隠居してるから高房配下になるのか

 

39: 名無し 2011/02/06(日) 22:45:52
最大は家晴の諫早じゃないのか?

 

40: 名無し 2011/02/06(日) 22:59:38

だから最大『級』

隆信の息子達で一番動いてたのは家種だから
軍の指揮権力は強いと思うんだけど・・・
なんか家種の立場が微妙で

 

41: 名無し 2011/02/06(日) 23:55:34

薩摩・大隅・日向諸県・奄美・琉球
肥前・筑後・肥後玉名・壱岐・対馬

すごくバランスがとれてる

 

42: 名無し 2011/02/07(月) 07:20:13
龍造寺となあなあ関係だった松浦・大村・宗が独立を保ってて
あれやこれや画策していた連中は飛ばされるか、中央派遣組の下に取り込まれたのがなんとも皮肉

 

43: 名無し 2011/02/07(月) 16:30:52
肥大化した龍造寺と和を結べば安全が保障される末端地域と
それ以外の回廊地域との違い

 

44: 名無し 2011/02/07(月) 17:50:02
山内神代領は富士・三瀬・背振

 

45: 名無し 2011/02/07(月) 17:57:20
神代の領土拡大(筑前方面)も、普通に考えれば大友傘下の小領主を食い荒ら
したんだよな。大友の獅子身中の虫は龍造寺ばかり目立つけど。

 

46: 名無し 2011/02/07(月) 18:08:06
元々が少弐領だったとこを大友がハイエナしに来てるんだから仕方ない

 

47: 名無し 2011/02/07(月) 18:55:47
1550~60年頃だとまだ少弐VS大内の色が強く残っていて
大友の勢力は博多の大友五城周辺以外は筑前にも浸透してないと思うよ

 

48: 名無し 2011/02/07(月) 20:21:27

1555年に隆信から三瀬を奪われた勝利が志摩の原田から援助してもらって
怡土郡長野に陣所を移し隆信が引いた隙に代官を討って三瀬を取り返してる

神代は志摩と怡土方面の豪族とは懇意だったみたい

 

49: 名無し 2011/02/07(月) 20:54:09
神代って山賊の大親分というか、中世の悪党みたいな勢力だったんだと思う。少なくとも勝利の代までは。

 

50: 名無し 2011/02/08(火) 00:52:05
早い話が神代党は少弐に雇われていた傭兵集団だと

 

51: 名無し 2011/02/08(火) 01:14:04
神代って名乗るのに覚悟要らんか?
神の代って。

 

54: 名無し 2011/02/08(火) 14:06:39
>>51
「しろ」には「~に捧げる米をとる田」という意味もある。
神田、コウジロと同じように、神社に奉納する田の地名だろう。

 

52: 名無し 2011/02/08(火) 05:22:27

神代の云われは神代氏が言うには正に『神様の代わり』なんだけど、
隈代や熊代と表記していたのを神代に変えたのは三瀬に拠点を構えた後の勝利だろうし、
夢買いの逸話を信じるならば決意表明的なものではある。

後個人的には、神代に名を変えたのは拠点が神埼郡の三瀬だったというのも大きいと思う。
神埼の由来が神幸(カムサキ)でゴッドブレス的な意味だから。験を担ぐ意味でも。

 

53: 名無し 2011/02/08(火) 09:54:35

神の代わりに勝利する男
クマ代大和守勝利

肥前のクマ
龍造寺山城守隆信

 

57: 名無し 2011/02/08(火) 19:13:56
隆信と勝利の最大の総力戦は永禄4年の川上合戦だと思うけど、この時の軍勢を見ると
隆信勢8千で勝利勢が7千8百とほぼ互角だったんだね。

 

58: 名無し 2011/02/08(火) 20:48:23
神代がそれだけ人数をもって来れるのが驚き
山内兵は4000ぐらいなんだろうけど残りはどこから引っ張ってきたのか

 

59: 名無し 2011/02/08(火) 21:48:06
綾部や馬場の一部が神代に加勢していたと考えられなくもない
少弐系の残党ならまず神代を頼るだろうし

 

60: 名無し 2011/02/08(火) 22:40:00
龍造寺対神代も龍造寺対有馬連合も
肥前で一番強い奴は誰だ!? ってのを暫定的に決める為の戦いで領土の奪い合いじゃないんだよな

 

63: 名無し 2011/02/08(火) 23:27:22
>>60
中世的な戦いと言うか、負けても領主がそのままみたいな戦いだよな。
そういうのを決めたら勝者はどんな利益を得たの?

 

67: 名無し 2011/02/08(火) 23:49:18
>>63
負けた奴の手下の領主が、みんな勝った奴の手下になる
九州ではよくある光景

 

61: 名無し 2011/02/08(火) 23:05:39
龍造寺対神代は一旦神代が波佐見まで逃げているのをみても、領主権の奪い合いではあるだろ
すぐに神代が戻って来るのをみると領主権=支配といえる程のものじゃ無かったんだろうけど

 

62: 名無し 2011/02/08(火) 23:27:02
波佐見まで逃げたのに僅か3ヶ月で山内へ舞い戻るとは只者じゃない

 

64: 名無し 2011/02/08(火) 23:35:38
絶対戦争論でいう所の拡大された決闘だな
つまるところ勝者が得るのは信用

 

65: 名無し 2011/02/08(火) 23:40:35
絶対はいらない
戦争論だけでないと意味が通らなくなる

 

66: 名無し 2011/02/08(火) 23:48:51
龍造寺の戦闘はかなり決闘な印象が強いね
挑戦状はよく出すし、負けたら一旦は大人しくなるし

 

68: 名無し 2011/02/08(火) 23:58:16
勝者の総取りと、そう単純に済まないのが難しいとこ

 

69: 名無し 2011/02/09(水) 00:39:21
龍造寺と島津と秋月の急膨張は、大敗した敵国に攻め込んで、
片っ端から国人を無血降伏させてったからなんだが。

 

70: 名無し 2011/02/09(水) 00:40:08
決戦志向でも挑戦状送りつけて戦域を指定するのは理に適ってる
後詰め決戦なんて戦略的には下策だし

 

71: 名無し 2011/02/09(水) 01:00:15
63年の龍造寺と有馬連合の合戦後
有馬は当主の蟄居や杵島郡の事実上の失陥があったり
敗者に血を流させるというのも当たり前に重要な事だね

 

72: 名無し 2011/02/09(水) 06:33:52

永禄六年(1563)龍造寺側から見たら丹坂峠の戦い(隆信が有馬を撃破した場所)
有馬側から見たら百合野合戦(有馬が最初に陣を構えた場所?)

永禄四年の川上合戦もだけど隆信が事前調略で敵を誘導し撃破した、と戦史ではなってる

 

73: 名無し 2011/02/09(水) 13:03:05
>後詰め決戦なんて戦略的には下策だし
詳しく

 

74: 名無し 2011/02/09(水) 15:15:54
攻撃側が後詰決戦したら援軍に挟まれて基本不利だろ

 

75: 名無し 2011/02/09(水) 15:22:05
挟まれる前に移動して後詰め軍を出迎えるもんじゃないのか?
あぁ、少なからず城側の手当が要るから確かに不利か。

 

77: 名無し 2011/02/09(水) 19:34:15
>>75
普通に考えりゃ相当不利よ
城方の後詰めに連絡線を遮断されないようにしつつ決戦場を設定しなきゃならん
って時点で前後に意識を注がんとならんくなる
ヘタすりゃ寄せ手が飢えるしね
後詰の来援で城方の意気があがれば城から出撃される可能性も高くなるわけで
こういう物質的な面だけじゃなく精神的にも圧迫されると、動揺しやすいのは
大多数を占める兵卒やら雑兵ってことで単純な戦闘力の低下も否めない
こういう死地で兵に死力を尽くさせるのが名将なんだろうけど

 

76: 名無し 2011/02/09(水) 16:22:31

北肥戦史で隆信が勝利に宣戦布告する行

永禄四年辛酉九月上旬、龍造寺隆信、使を山内へ遣し、神代勝利へ申されけるは、隆信、御辺に対し鬱憤片時も止む事なし。
所詮有無の一戦を遂げて、両家の安否を極むべし。
然れば今月十三日、山と里との境なれば、河上へ出合はれよ。
勝負を決し申すべしといひ送られけり。勝利、仔細に及ばずと返答あり。
其後、又勝利よりも、河浪駿河守を龍造寺へ差遣し、弥々当月十三日、河上に出合ひ勝劣の程を試み候べしといひ遣されけり。
斯くて其日になりしかば、勝利、熊川の城にて勢を揃へ、都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。

 

78: 名無し 2011/02/09(水) 21:07:26

>都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。

手分(布陣)はどうしたんだろか

 

82: 名無し 2011/02/10(木) 18:38:48

>>78
神代勢
河上與止日女社西の総門に勝利本陣を構え三瀬武家、同安家、古河真清、畑瀬盛政など二千余
大手宮原口へ嫡男長良を大将に叔父蕃元、福島利高、千布家利など三千余
南大門口へ二男種良を大将に松瀬宗楽、杠紀伊守、合瀬、芹田などの一千三百
河上川の東の都渡城へ三男周利を大将として八戸宗暘、西河、古湯、鹿路などの一千五百余

龍造寺勢
大手宮原口へ隆信の旗本勢三千五百余で第一陣は広橋一祐軒、第ニ陣は福地信重、三陣が隆信本隊、殿軍は弟長信
南大門口へは納富信景を大将とするニ千五百余
都渡城へ弟信周を大将として、従弟鑑兼、小川信友などのニ千余

結果は神代方に裏切りが出て隆信が大勝 勝利の二男種良、三男周利が戦死し
勝利自らは大村領の波佐美村まで落ち大村純忠の庇護をうけていたらしい

 

79: 名無し 2011/02/09(水) 21:53:33

神代が熊の川城を中心に陣を敷いて
龍造寺が古湯城を中心に陣を敷いた

ぐらいしか分かんね
んで川上は隆信の爺さん兄弟や叔父さんが勝利にぶっ殺された所でもあるのよね
因縁を感じるよね

 

80: 名無し 2011/02/09(水) 22:24:02
そりゃ三瀬峠と川上はセットで交通の要衝だから

 

81: 名無し 2011/02/10(木) 15:11:13
守る側が交通の岐点を塞ぐのも当たり前の話。

 

83: 名無し 2011/02/10(木) 18:53:54
やっぱり数字は誇大なんだろうなぁとしみじみ思う。
神代方の名字なんて脊振山地の地名ばかりで、あの山の中から兵7、8千
なんて出せないよなぁ。

 

84: 名無し 2011/02/10(木) 19:34:12

守勢側だって事で無理やり動員しているとしても
その半分以下ぐらいが妥当な数字かな

少弐方の敗残兵を一時的に吸収して下につけているならもう一声増やせるかも

 

85: 名無し 2011/02/10(木) 19:47:24
隆信方の八千もないな。数年後の村中城篭城の時だって五千が精一杯だったから
隆信四千、勝利三千ってところだろか

 

87: 名無し 2011/02/10(木) 20:02:38
>>85
永禄十二年の時は隆信の旗本譜代だけで戦ったんだし
東肥前諸将の大半が降っている永禄三年時がそれより下って事はないな

 

86: 名無し 2011/02/10(木) 19:47:46
戦争すっぞ!ってお触れ出したら筑後あたりからも人が集まってたみたいだしな
大隈重信の家系もそれっぽいし

 

88: 名無し 2011/02/10(木) 21:04:33
ちょっと気になるのは三瀬側を背(東)に布陣している筈の神代勢が
三瀬にも撤退出来ず波佐見(西)に落ち延びている事

 

89: 名無し 2011/02/10(木) 21:39:33
龍造寺の追撃が厳しくて北の峠超えて筑前に入ったんじゃないの
そっからなら原田領→草野領の唐津街道で陸路からも行ける

 

90: 名無し 2011/02/10(木) 21:44:02
谷田合戦(弘治元年)では三瀬城まで追撃されたから反対の方へ落ちたんじゃないかな
この時は高祖城主の原田了栄入道を頼ったらしい

 

91: 名無し 2011/02/10(木) 22:01:37
なるほど、川上合戦の時も谷田合戦時と同じような落ち延び方して伊都に来た
川上合戦の時は伊都から更に波佐見まで落ちていった…とするとしっくる

 

92: 名無し 2011/02/10(木) 23:24:08
広橋一祐軒(信了)は川上合戦でも武功一番、佐嘉城防衛でも一翼を任せられてる叩き上げの主力部将なのに
須古攻めなんかで失って勿体無かったね

 

93: 名無し 2011/02/11(金) 15:27:46
>>88
味方の裏切りで退路を断たれた、ってのは?筑前に逃げられたなら筑前に
いればいいかなぁと。

 

94: 名無し 2011/02/11(金) 19:19:06

> 筑前に逃げられたなら筑前にいればいいかなぁと。
前回と同じところに居たら龍造寺の追撃が来ないとも限らないでしょ
龍造寺に原田への介入機会をみすみす与えるようなもの

あと原田が波多と関係悪いってのも関係してるかも
有馬・大村・波多の親族連合が出来そうな時期だし

 

95: 名無し 2011/02/11(金) 20:10:45

永禄3年だと龍造寺は三潴の堤に築城の手伝いを派遣してる
大友からの要請で有馬の東肥前への再進出も同時期

龍造寺の活発化と大友の締めつけが強化され始めた時期だし
弘治年間とは原田側の事情が違ったのかもね

 

96: 名無し 2011/02/11(金) 22:06:33
久留米にも進出してるね。直茂(信昌)はこの頃から筑後方の担当だったみたい。

 

97: 名無し 2011/02/12(土) 00:46:42

与止日女神社は川上の西側だから


山山山山山
2河A
1 川
西 3川B 東

川4
川C

1勝利隊 A隆信隊
2長良隊 B信景隊
3種良隊×C信周隊
4周利隊×
龍造寺の本拠地は戦場の南
神代の本拠地は戦場の更に東

たぶんこんな感じ

 

99: 名無し 2011/02/12(土) 01:03:18
>>97
その図なら普通に潰走して西へ逃げたって事になるな

 

98: 名無し 2011/02/12(土) 00:49:52
> 筑前に逃げられたなら筑前にいればいいかなぁと。
前回と同じところに居たら龍造寺の追撃が来ないとも限らないでしょ
龍造寺に原田への介入機会をみすみす与えるようなもの
 
あと原田が波多と関係悪いってのも関係してるかも
有馬・大村・波多の親族連合が出来そうな時期だし

 

100: 名無し 2011/02/12(土) 14:59:26
>>98
筑前経由で逃げたって記述があるんだっけ?

 

101: 名無し 2011/02/12(土) 17:39:32
特にない
波佐見に落ち延びた、とだけ

 

102: 名無し 2011/02/13(日) 05:14:54
龍造寺四天王は
前任護衛組・成松+百武(龍造寺譜代)
後任護衛組・江里口+円城寺(千葉譜代)
信昌麾下?・木下(京出身?)
って分類かな

 

105: 名無し 2011/02/13(日) 18:46:26

>>102

> 前任護衛組・成松+百武(龍造寺譜代)
この二人天正以降は大身の旗本クラスだからな
成松信勝300町
百武賢兼280町

 

106: 名無し 2011/02/13(日) 19:09:31
このスレの人々、四天王の能力値を数値化するとどうなる?
項目はとりあえず信長の野望天道準拠で。強制はしないので独自項目でもいいです

 

107: 名無し 2011/02/13(日) 19:21:32
>>106
総合力は成松>百武>>>その他の三人じゃないかね?
成松と百武はれっきとした重臣で軍功もあるし、
政務もそれなりにこなしてるけど、他の三人は旗本程度。

 

108: 名無し 2011/02/13(日) 21:33:12
百武は武勇100だよな
名字がそのまんまだし

 

109: 名無し 2011/02/13(日) 21:57:25
賢兼の父兼定は隆信の父周家と共に討死してるし、隆信も可愛がったと思うよ。

 

110: 名無し 2011/02/14(月) 01:23:15

江里口は西肥前攻略で特に活躍したらしい事、その間は信房配下だった事。
筑後に龍造寺の矛先が向かった後は信昌配下になったらしい事。
円城寺は納富・鍋島兄弟の指揮下で対大友の迎撃戦で武功をあげた事。松浦郡中の戦いで功があったらしい事。
木下は昌直の名前が信昌の偏諱にしか見えない事以外はよくわからない。

江里口・円城寺は鍋島の寄騎もやっていた千葉→龍造寺家臣で、木下はほぼ最初から鍋島家臣だったんだろう。
どちらかというと、この三人は直茂の覚え目出度い豪傑だったと。

 

111: 名無し 2011/02/14(月) 01:42:42
全員共通しているのは軍奉行をしていた事かな。
惣軍奉行で城主・家老クラスの上位二名と、格は並みの侍大将三名。木下は足軽大将ぐらいだったかもしれないけど。

 

112: 名無し 2011/02/14(月) 15:07:31
龍造寺五天王なのに鍋島の唾つきすぎだろ……
所詮は鍋島時代に選ばれた5人ということか

 

113: 名無し 2011/02/14(月) 19:24:19
力自慢縛りをしないで成松百武クラスからの人選となると勝屋勝一軒あたりが入るだろうけど

 

114: 名無し 2011/02/14(月) 20:09:55
勝屋は周防出身らしいがどういう経緯で肥前に来たんだろうか

 

115: 名無し 2011/02/14(月) 22:02:59
旧大内の家臣だったらしい
龍家家臣のなかでは智将で軍師的存在だったのかな

 

116: 名無し 2011/02/14(月) 23:05:42
名前的にも軍師っぽいわな

 

117: 名無し 2011/02/14(月) 23:52:11

鎮西史だと勝屋は隆信の代弁者っぽい事よくしてる
また後藤に家信を送り込んだ時も勝屋の親族と思しき輩が就いていってる

龍造寺家の側近自体は石井氏や太田氏が居るけれども
勝屋は隆信の私設秘書な立ち位置だったんだろう

 

118: 名無し 2011/02/15(火) 02:20:42

木下氏について一つ
水ヶ江城中館の南にあった木下伊予守覚順の邸宅を覚順の子、仙叔(昌直の兄弟?)が
改築して光円寺を建立したとのこと

木下昌直は隆信や直茂の幼なじみだったのかも?

 

119: 名無し 2011/02/15(火) 09:52:41
昌直が覚順の養子、ってのは覚順の存在と昌直京都出身説をおりあいつける
ための創作?
実子がいるのに他国者を養子、ってのも変だし。

 

120: 名無し 2011/02/15(火) 11:59:21

仙叔が京都で修行した坊さんだったという伝承がことの発端だろうね。

①昌直と仙叔は実兄弟
②昌直と仙叔は義兄弟
③昌直と仙叔は同一人物

大筋でこの三説が考えられるけど、昌直が養子だとすると①が消える。それでこの場合(昌直養子説)だと自分は③推し。
つまり木下覚順が京の僧仙叔を養子に迎えて仙叔が昌直と名乗る。
昌直はその後戦死して光円寺建立は鍋島生三が行った(別説で生三の建立説がある)。とすると辻褄は合う。

 

121: 名無し 2011/02/15(火) 23:34:59
叔って号に付いてるならたぶん次男なんだろうが

 

122: 名無し 2011/02/15(火) 23:46:15
昌直は沖田畷で戦死したと云われているが、生きていたとの説もあるな
生存説を取れば昌直が出家して仙叔と名乗ったとも考えられるが

 

123: 名無し 2011/02/16(水) 20:54:39
生きていた場合、剃髪して京都へ修行しに行って帰って来るまで最長でも13~14年ぐらいなんだよな
コレは長いのか短いのか

 

124: 名無し 2011/02/17(木) 03:08:57
10年以上は長いだろう十分
問題は年齢的なもんの方が大きいと思う
天文の初め頃の生まれだとすると行く前からかなりのいい歳で
戻ってくる時は棺桶に片足突っ込んでる年頃になる

 

125: 名無し 2011/02/17(木) 11:20:28
坊さんコミュニティーって重要だからな
特に龍造寺みたいな京の公家さんに伝手がない所だと

 

126: 名無し 2011/02/18(金) 06:29:20
その光円寺って真宗系なのな
九州に真宗が浸透し初めたのがかなり遅かったってのがよく分かる

 

127: 名無し 2011/02/18(金) 16:48:32

隆信自身は曹洞宗と関係が深かったみたいだけど
円月として入っていた鬼丸の宝琳院は天台宗

慶長年間に浄土真宗の寺を沢山佐賀へ入れたのは
龍造寺派と言っていい曹洞宗の勢いを削ぐ為だったのかもね

 

129: 名無し 2011/02/18(金) 19:39:36

>慶長年間に浄土真宗の寺を沢山佐賀へ入れたのは

関ケ原の役に鍋島は西軍に加わり進退に窮した。このとき京都西本願寺の高僧に、
斡旋を依頼し、鍋島家は取り潰しの危機を脱することができた。
その恩に報いるために、鍋島は浄土真宗の普及に勤めたと云われている。

 

130: 名無し 2011/02/18(金) 20:19:51
その西本願寺と鍋島の間を取り持ったのが木下仙叔だったとなると面白いな
長年の外交努力が実を結んだ瞬間というか
こんなこともあろうかとってな真田さんばりの用意の良さというか

 

128: 名無し 2011/02/18(金) 18:33:00

信勝は成松を名乗ってるけど龍造寺一門だよね。
父は宗家胤栄の弟胤明だが馬場頼周が仕掛けた罠にて杵島志久峠で戦死しており
訳あってか信勝は成松姓、信勝の兄信勢は西村姓となったらしい。

「大将の御前にて討ち死にを遂げ生前より兼ねての御恩を奉り報いるべし」と、金地に日の丸の扇をはためかせて
「やあやあ、我こそは去んぬる年、豊後の大友八郎を討ち取ったる成松遠江守信勝なるぞッ!」と
大声で名乗りを挙げ、長刀を手に嫡男信実ほか残った従者十六人と共に島津勢百人余りに挑み、
自ら七人をなぎ倒し八人目で壮烈な最後を遂げた。

 

132: 名無し 2011/02/18(金) 23:31:40
>>128
全然知らんかった。ありがとう。

 

133: 名無し 2011/02/19(土) 01:23:19

杵島志久峠での戦いって家兼が有馬晴純に大敗した時のこれかな

> 武雄鍋島家文書の中に、この時、少弐冬尚から後藤純明にあてて協力を要請した次のような書状が残っている。
> 「佐嘉の逆徒急度きっと取り詰め、退治を加うべく候。仍って其の表の事、一衆差し出され馳走に於いては、
>諸方の覚え、累年入魂の首尾、肝要の由、晴純に至り申し候。別して心を副えられ候わば、祝着たるべく候。
>なお老共申すべく候。恐々謹言  八月六日 冬尚(花押)   後藤伯耆守殿」

 

134: 名無し 2011/02/19(土) 01:59:25
周家が梶峰城落とした後は志久峠が龍造寺と後藤の勢力境界になってたみたいね
そこら辺で待ち伏せされて供回りもやられ放題な事態になっちゃったと

 

135: 名無し 2011/02/19(土) 12:49:51

もう少し詳しく言うと志久峠(武雄市北方町)は
小城郡北西部梶峰城主多久氏(多久市多久町)
杵島郡北東部武雄城主後藤氏(武雄市武雄町)
の勢力圏の境目

小城郡東部の千葉領小城(小城市小城町)から真西にあって
佐嘉郡南部(佐賀市水ヶ江町)の龍造寺が肥前西部域へ出る時に通らないといけない峠

 

136: 名無し 2011/02/19(土) 15:43:26
みんなくわしいなw

 

137: 名無し 2011/02/19(土) 16:47:10
この知識をwikipediaに注いでほしいわい

 

138: 名無し 2011/02/19(土) 18:16:08
それにしても五人なのに四天王って良いセンスしているよなw

 

141: 名無し 2011/02/20(日) 09:36:21.97

>>138
ちょっと自分で考えればわからない?「四天王はこの五人です」なんて
誰も言ってないでしょ。四天王の候補者に二通りの意見があるだけ。

「武田二十四将」もメンバーの選び方が何通りかあるけど、「30人以上
なのに二十四将って良いセンスしているよなw」なんて言う馬鹿いない
でしょ?

 

142: 名無し 2011/02/20(日) 19:31:24.13
五人なんてまだまだ少ないな
武田四天王は板垣甘利飯富小山田馬場内藤高坂山県で八人いるぞ

 

145: 名無し 2011/02/21(月) 21:52:32.07

>>142
世代交代がはっきり表れてて面白いな。
しかも前世代は一族と国衆、次世代は低い身分からの取り立てという
出自の違いもある。

龍造寺四天王は後世視点だから面白みに欠ける。
第一に鍋島一族が除外されてること、第二に沖田畷での討ち死に者限
定っぽい点。

 

146: 名無し 2011/02/21(月) 23:37:00.71
他の家と同じ基準で選んだら、
四天王は鍋島直茂・納富信景・広橋信了の三人が確定だな。
あと一枠は誰がふさわしいだろうか?

 

148: 名無し 2011/02/22(火) 00:02:21.44
>>146
むしろ小河信安が広橋より先に入るだろ

 

147: 名無し 2011/02/21(月) 23:42:27.81
龍造寺四天王は功臣を上から数えましたって人選じゃなくて
あくまで豪傑四人衆で、自分で槍奮って戦う下級佐官から尉官ぐらいの階級だからね

 

161: 名無し 2011/02/23(水) 08:29:35.17

>>147
城主や奉行って下級なの?

※少しここから飛びますが、162以降、階級についての議論があります。

 

149: 名無し 2011/02/22(火) 01:00:35.74

今山の時期の上級指揮官は方面の守備配置でわかる

東口大手方面:鍋島信房・鍋島信昌・小川信友
北方川上口方面:龍造寺家就・納富信景・広橋信了
対西肥前勢:龍造寺信周・龍造寺鑑兼
対南部水軍:龍造寺長信・龍造寺家親

大友の主力は東口から来る豊後勢だけど
村中城の構造的に北口からの攻撃に弱いから
川上方面を固めている部隊に最精鋭が配置されてる

 

150: 名無し 2011/02/22(火) 01:08:37.95
上級と言ってもこの時は一部隊平均500人ぐらいの小勢なのを留意

 

151: 名無し 2011/02/22(火) 11:16:56.13
隆信が直衛千騎率いて全方位に出陣してたから部将一人の麾下は300~400人ぐらいだろうね
信昌は直属三百騎だし

 

152: 名無し 2011/02/22(火) 14:46:39.13
四天王の仏教的な意味あいを考えれば龍造寺の人選の方が他のより適当な気はする

 

153: 名無し 2011/02/22(火) 16:31:46.47

広橋一祐軒が戦死した第四次須古城戦で木下四郎兵衛(昌直)の名前があるね
木下四郎兵衛は朝鮮の役にも名前が載ってる

須古城包囲の攻撃配置
本陣:龍造寺隆信2000
北.一間掘口:先陣広橋信了・第二陣鍋島信昌2300
東.白川口・男島砦:龍造寺信周・松浦党員の一部2000
南.湯崎川津口:納富信景1800
南.小塚口:納富信理・副島式部少輔・木下昌直1000?
搦手:龍造寺長信1000?

 

154: 名無し 2011/02/22(火) 19:28:06.41

北肥戦史の杵島郡白石の須古城(高城)についての記述。

然るに彼の平井が居城高岳と申すは僅の小城と雖も北の大手は岩石峨々と峙ち一騎打の細道なり。
西は百町牟田とて深泥限を知らず東は男島に稠しく砦を構へたり。
南は堀を二重に深くほり塀を高く塗りて所々に櫓を掻並べ其構へ事々し。

北は細道になっているから寄せ手を二段に分けて広橋・鍋島が交代々々で攻撃。
西側が搦め手か?大軍が展開出来ない深田地帯に長信。
東側には男島城という出城があり、そこに信周を配置。
南は堀と櫓で守られている所で部隊を複数の小部隊に分けて攻撃。
こんな所かね。

 

155: 名無し 2011/02/22(火) 19:38:13.46
須古平井はもともと千葉家臣だったのが有馬側へついた後に独立した家

 

159: 名無し 2011/02/22(火) 23:43:25.13
>>155
須古城はもともと白石家のものだったのが南北朝頃に千葉が奪取して白石本家が滅亡
分家の藤津郡嬉野氏が白石系の宗家になった
とされる

 

156: 名無し 2011/02/22(火) 20:12:58.49

須古攻め一回目・永禄六年(1563)6月~8月
須古攻め二回目・永禄七年(1564)2月~3月
須古攻め三回目・天正二年(1574)2月
須古攻め四回目・天正二年(1574)10月~12月

一回目はいったん隆信が退いた後、須古平井と隣接する武雄後藤に須古を攻撃させたが失敗
二回目の長信の須古攻撃のあと平井と後藤は同盟を組んだ
これも回数に入れると都合5回になる

 

157: 名無し 2011/02/22(火) 20:29:24.00

鳴かぬなら
泣くまで殴ろう
ホトトギス

肥前のクマ

 

158: 名無し 2011/02/22(火) 21:19:42.12
いい感じ

 

162: 名無し 2011/02/23(水) 09:05:24.70
佐官の中で下級でも全体で見たら佐官は十分に高級官。
将の補佐官、尉の上。衛府の四等官でも督・佐・尉・志で上から二番目。

 

163: 名無し 2011/02/23(水) 09:30:09.95
志も「さかん」なんだよな。変な感じ。

 

164: 名無し 2011/02/23(水) 10:05:22.05

主典(志・サカン)は判官(尉・ジョウ)の従だから『さかん』
通判官(佐・スケ)は長官(督・カミ)の従で『佐官』
四等官の主典は特に『左官(シャカン)』と言い表す事も多い。

佐・佑(サ・スケ)は『さ』で支えとか『すけ』で助とかの意味が出て『隣りでささえる・たすける人』という意味で使われるね。

 

167: 名無し 2011/02/23(水) 11:59:47.85

>>164
>佐・佑(サ・スケ)は『さ』で支えとか『すけ』で助とかの意味が出て『隣りでささえる・たすける人』という意味で使われるね。
逆。

もともと漢字の左・右に「たすける」の意味があるから、日本語の「すけ」
の訓があてられた。
「サ」という読みは左の音。

 

168: 名無し 2011/02/23(水) 12:47:31.72

さ(音)に対してのじょう(音)
すけ(訓)に対してのかみ(訓)

って事か

 

173: 名無し 2011/02/23(水) 22:42:51.77
支えるは訓字だろう。
音の『さ』から派生して訓の『ささえ』になったと考える方が妥当だと思う。

 

183: 名無し 2011/02/24(木) 16:35:40.88
>>173
別に妥当でもなんでもない。
やまとことばとしてどくりつして生まれた言葉かもしれないし。

 

174: 名無し 2011/02/23(水) 23:07:57.27
佐嘉のさは栄(サカエ)のさだけどな
あ、今気付いたけど元は(サカ)江だったのかも

 

170: 名無し 2011/02/23(水) 21:33:59.65

藤津はもともと大村の本拠地だったんだけど
有馬・波多・大村等が龍造寺に大敗した事で

・有馬義貞は一時失脚、晴純死後に復帰(生前に許されてた復帰した説も)してキリシタンに改宗
・波多親は追放され大友の佐賀侵攻期ぐらいまで復帰出来ず
・大村純忠はキリスト教に改宗した後反乱起こされ追放→復帰も藤津を完全に失陥

という事で晴純の作っていた婚姻同盟勢力が事実上崩壊して
藤津郡は龍造寺が大勢を決めるまでは反大村氏一揆が多数派を占める地域になった
平戸松浦や後藤の大村領攻撃(キリスト教寄進地含む)が激化したのも同時期

 

175: 名無し 2011/02/24(木) 00:10:18.85

永禄6年、大村純忠が横瀬浦で受洗後に大村領で反乱が起きたことについて

フロイス「ドン・ベルトラメウの館や町の家に暴徒が火を放ったので、彼は少数の家臣とともに逃れて町に近い城に入った」
「1ヶ月半領地を失うが、やがて一部地方をのぞき領地を回復した」
1563年11月14日

ヴァリニャーノ「ドン・ベルトラメウは改宗後2ヶ月を経ないで無一文となり国から追放された」
「数ヶ月後に突如姿を現わして城を一つ奪回した。徐々に領地を回復したが、3年後でなければ全旧領の主になることができなかった」

アルメイダ「反徒は大した困難なくドン・ベルトラメウの領地を奪い『彼をして現に籠居せる城』に逃れしめている」
1564年10月14日

どいつが嘘をついているのか

 

176: 名無し 2011/02/24(木) 06:23:46.67

>藤津はもともと大村の本拠地だったんだけど

藤津大村氏は彼杵大村氏とは無関係だったってほんと?
龍造寺重臣の納富氏とか江上氏重臣の執行氏などはもともと藤津大村氏の家臣だったらしい。

 

177: 名無し 2011/02/24(木) 08:50:06.75

藤津郡高津原の在尾に居た大村が『家』を通字にした一族で
彼杵郡大村の玖島に居を構えて居たのが『純』を通字にした大村一族
だったとすると辻褄は合うんだよね、ただ無関係とは言い切れない

当の大村藩は大村景家の子、藤津荘地頭の大村家信が元冦で活躍して
神埼郡内に二町分の領地を貰った辺りからを大村氏の始まりとしていから

納富氏はその時に大村氏の命令で藤津荘納富分から移った御家人だった、としてもこれまた納得の行く流れ
納富には執行分って地名もあるし執行氏と関係ないと断言も出来ない

 

179: 名無し 2011/02/24(木) 09:16:03.16

ただ、肥前内に【富】が付く地名は他に幾つかあるし(吉野ヶ里から出た成富や諸富、微妙だが深江の安富なども)
納富というのが富を納める地、つまり納税所に(田倉や物成、室屋という地名と一緒で物の集積地)由来する苗字だとすると
神埼荘の納富地に居たから納富さん(近所の成富さんと同じパターン)だったんじゃないのかな

あと執行氏については櫛田宮の執行別当職由来(櫛田宮司本告氏と一緒に院親政期に下向)だったと取る方が自然

鹿島に納富分や執行分という地名が長く残っているから納富氏・執行氏はそこの出自だ(納富氏の略図だと確かそうなってた)
とするのは、少し乱暴かなと
十分あり得る話なんだけどね、近いし

 

182: 名無し 2011/02/24(木) 11:40:04.14
その逸話ってヤクザのカチコミ以外の何物でもないよなw

 

183: 名無し 2011/02/24(木) 16:35:40.88
>>182
ヤクザがまだ武士的な行動規範で動いてるだけだろ

 

181: 名無し 2011/02/24(木) 11:03:40.03
隆信の家臣に「四人の槍柱、両弾ニ島」と云われた豪傑のなかに大村弾正の名があるけど藤津大村氏の末裔だろか
しかし有馬氏に内通したため上滝弾正と百武志摩に討取られたらしいが

 

184: 名無し 2011/02/25(金) 03:03:49.37

一般的な解釈をすると純忠より前の、藤津に戦力の拠点を持って居た頃の大村氏が藤津大村氏
純忠以後、有馬の下位同盟者で大村城を建て血筋は有馬系の大村氏が彼杵大村氏という事になる

それで大村弾正が何物か、という事だけれど
・もともと五町田に所領を持っていた大村一族
・貴明に付いて後藤領に入った藤津大村の親族
のどちらかしかないように思う

 

185: 名無し 2011/02/25(金) 19:18:02.13

合戦場が藤津郡五町田だったらしいから
>・もともと五町田に所領を持っていた大村一族 だったとなるのかな

天正四年二月に隆信が藤津郡の横造城を攻めた時、有馬方から龍造寺へ大村越中守と
名乗る者が降伏してるがこの人物が大村弾正だろか

 

186: 名無し 2011/02/26(土) 16:02:50.97
官途名乗りが違うなら別人なんじゃないの

 

187: 名無し 2011/02/26(土) 22:27:09.45
普通はそうだけど、立場が変わった時に合わせて変えた例があった気がする。
例がみつかんねぇや

 

193: 名無し 2011/02/27(日) 14:06:46.42

>>187
弾正忠から播磨守は正六位相当→従五位上相当
弾正(忠?)から越中守は正六位相当→従五位下相当

まぁ自然な変化ではある。

 

194: 名無し 2011/02/27(日) 18:40:21.38
>>193
大村某は有馬の家来だった頃は越中守だったのに龍造寺に投降したら弾正となったらしい
もしかしたら格下げって奴かいな

 

195: 名無し 2011/02/27(日) 22:02:33.64
>>194
忠じゃなくて少弼(正五位下)で格上げという可能性もあるが、
格下げだとおもしろいな(笑)

 

188: 名無し 2011/02/26(土) 23:16:01.79
藤津横造城合戦に今山後筑後へ逃亡してた元蒲田江城主の犬塚鎮家が先陣に加わってるが
勝利したのちに領地二百町貰って弾正忠鎮家から播磨守盛家と改名してるね。

 

189: 名無し 2011/02/27(日) 01:56:03.16

同じ時期に大村弾正が越前守に改名したのかも、と

忌み名が残ってるなら藤津豪族系は諱に『景』がついてて判断がつけやすいんだけど
五町田籾岳城主は原直『景』だし

 

191: 名無し 2011/02/27(日) 02:09:39.43
横造城は隆信によって破壊され新しく藤津郡に入った信房が常広城を建設
横造城と同時攻略した鷲巣の方は嬉野氏に与えられたという流れね

 

192: 名無し 2011/02/27(日) 05:16:26.63

藤津郡の新体制はこんな感じかな

(日守)嬉野越後守直通 500町
(鳥帽子岩)嬉野大和守通純
(鷹ノ巣)嬉野興右衛門通治
(湯野田)嬉野淡路守通益 70町
(吉田)吉田左衛門太夫家宗 300町
(籾岳)原 豊後守直家 150町
(鳥付)永田備前守純晴 150町
(五町田)上瀧志摩守盛貞 110町
(久間)久間薩摩守盛種 50町

(常広)鍋島豊前守信房 500町
(森岳)犬塚播磨守盛家 200町
(松岡)徳島筑後守信盛 80町

 

196: 名無し 2011/02/28(月) 00:19:23.20
>>192
畑方を勘定に入れてないなら
だいたい米が二万石弱取れるぐらいか

 

197: 名無し 2011/02/28(月) 03:07:09.14
50町の領主なら大体は惣村単体の顔役・主
基本的に50町=500石が惣村一個=小字部落一個

 

198: 名無し 2011/02/28(月) 12:37:26.62
藤津攻略は成富兵庫の初陣だったりもする

 

202: 名無し 2011/02/28(月) 23:08:26.44

>>198
「北肥戦誌」にちょっとだけ記録があった。

味方の井元茂七(杵島山口の武将)が有馬方城兵と組み合い堀に落ちたのを見かけた
成富十右衛門は堀に飛入り、其敵兵を討って茂七を助けた。
成富は初陣で今年十六歳だった。

この頃はまだ十右衛門と云われてなかったと思うが

 

199: 名無し 2011/02/28(月) 14:08:07.94
隆信(胤信)の初陣はいつ?

 

201: 名無し 2011/02/28(月) 21:01:04.12

家督継承の翌年、といっても半年ぐらいしか経ってないが
天文16年の目達原(米田原)合戦が大将としての野戦での初陣かね
このとき少弐方の二将、江上元種・宗本盛のうち本盛は胤信に討ちとられてる

それより前に姉川と犬塚の城をせめてるからそっちを初陣としてもいいんだろうけど

 

206: 名無し 2011/03/02(水) 13:11:24.61
>>201
宗本盛って対馬の宗の親戚?

 

214: 名無し 2011/03/02(水) 19:48:55.27
>>206
一族だね。入道本盛または筑後守秀恒
享禄3年少弐勢×大内勢との田手畷合戰には龍造寺等と共に戦い勝利してる

 

226: 名無し 2011/03/06(日) 06:01:23.18
鍋島信生530町、鍋島信房500町、小川信俊500町、倉町信俊300町、龍造寺康房300町
兄弟5人で2130町の領地とは凄いね。

 

229: 名無し 2011/03/07(月) 01:11:06.04
>>226
無茶な行動をして武辺的な功績を上げやすいからか
清房や信生みたいに龍造寺家臣は嫡男以外が取り立てられて長男より出世する傾向があるな

 

228: 名無し 2011/03/06(日) 22:12:16.97
直茂が筑後を離れられなかったのって
蒲池鎮竝12000町
蒲池鑑広8600町
田尻鑑種1600町
この辺りを筆頭に直轄領として大領地を取り込み過ぎて再編が大変だったからなんじゃないのかね

 

230: 名無し 2011/03/07(月) 03:07:33.36
嫡男は代々の所領と家系を守ることに力を尽くして、
次男以下は近習や旗本として働くのがどこの大名家でも共通した傾向。
そして、主君の手足となる近習や旗本の方が功績をあげやすいし、
主君の覚えもめでたくなるから、取り立てられやすい。

 

231: 名無し 2011/03/07(月) 14:13:27.70

下剋上型の大名である龍造寺は門閥に大身が居ないため
家臣団が代々守るべき領地が一村一館しかなく傍流が徐々に巨大化していくのが特徴

清久┰清泰─清虎─道虎(生三)
┗清房┰信房─茂昌
┗信生─信茂(勝茂)
例えば新庄鍋島村は代々の嫡流である清泰系の所領ではあるが
清久の次男の次男の家系が最終的には佐賀藩主になっている
信房の子も嫡男の茂昌より次男の茂治の方が事跡が派手

 

234: 名無し 2011/03/09(水) 04:58:45.07
>>231
鍋島清秦系の知行
この程度の知行では隆信直臣と云うより陪臣扱いだね。
鍋島清虎 清秦ノ長男 50町
鍋島信定 清秦ノニ男 50町
鍋島信久 清泰ノ三男 50町
鍋島信経 清虎ノ孫 100町
鍋島賢実 信定ノ子 50町

 

235: 名無し 2011/03/09(水) 18:35:00.93
知行の多寡と扱いは別問題だろう。何をいいたいか真意はわからんが……

 

236: 名無し 2011/03/10(木) 10:51:42.65

五十町歩持ちなら最低限の騎馬武者階級だったという事は分かる
清房(隆信の意を受けた清房か?)は清泰系の子孫には高伝寺の墓守をしてもらうつもりだったらしい

その後人手不足か状況の変化なのかは分からないけれど
僧籍に入っていた清泰の孫の道虎(三男)は還俗している

それで道虎は朝鮮役で戦死した姉川房安の苗と所領三百町を継承して姉川鍋島の祖になってる(姉川鍋島の所領は五百町)

それでこの道虎の姉川継承自体は隆信の時期から兆候があって、元亀四年の筑紫氏攻略の折りに
論功行賞で姉川氏を神埼郡姉川から三根郡米田に移封して空いた姉川城に道虎が入った

 

237: 名無し 2011/03/10(木) 12:46:58.45
>最低限の騎馬武者階級
最低限馬と世話する下人を雇える、ということか。

 

238: 名無し 2011/03/10(木) 13:26:14.13
〉最低限馬と世話する下人を雇える
これだと五反田持ちの半農徒士・足軽も含まれるから
単純に戦闘中の騎乗が許されている身分と言った方が早い
お持ち弓とか徒士郎党を率いる中世御家人を先にイメージした方が実像に近いと思う

 

239: 名無し 2011/03/10(木) 13:32:56.98
5反って要するに5人分だろ?そんな家が馬飼って武具も揃えたら破産する
んじゃないか?

 

240: 名無し 2011/03/10(木) 14:10:28.79
武具と言っても実際佐賀藩には槍一本持って戦場に馳せ参じなきゃいけない手明鑓身分(最低一人扶持)が残ったし
武具を揃える足軽も中には居ただろうが基本的に足軽の兵装は大名からの支給品
ちなみにこういう兵装等を含む物品管理は長信の管轄

 

243: 名無し 2011/03/14(月) 23:27:29.51

六大家老家、その石高・元亀天正以前のもともとの領地
横岳7500石・三根西郷 (神代)鍋島6263石・佐賀鍋島
深堀6000石・長崎深堀 倉町5075石・佐賀久富
姉川5051石・神埼姉川 太田4250石・佐賀諸富

着座家老
山代2250石 納富1500石 石井1250石
成富2040石 岡部 坂部
千葉3000石 岩村 中野
大木 江副 執行
有田1750石 深江 川尻1600石
福地? 土肥? 小河?

 

244: 名無し 2011/03/15(火) 00:09:14.84

龍造寺鍋島連立時の家臣団上位陣も違いがあまり無いと思われるので
細かい所は敢えて無視した、自分が分かる範囲の佐賀鍋島家家老一覧

東肥前十九城主の構成員だった二家(横岳・姉川)、大村と敵対していた長崎半島の深堀
元から龍造寺家臣だった三家(鍋島・倉町・太田)を加えての六つの家老と
功臣や外様の元大身で構成された着座家老の二層に分かれて家老があるわけだけど
ここで疑問なのは神代鍋島はともかく着座衆を差し置いて
なぜ倉町と太田が大身家老に列席しているのか、という点

高房勝茂の両統時に上手く立ち回ったとも考えられるが
鍋島・倉町・太田は隆信政権より前、元来の龍造寺直臣の中でも規模の大きい一族だったんじゃないのか、とも考えられる

 

245: 名無し 2011/03/16(水) 01:00:02.89

>なぜ倉町と太田が大身家老に列席しているのか、という点

倉町、太田はもともと鍋島とは親戚になるからね。
倉町は直茂の弟信俊が養子へ行った先だし、太田は勝茂の姉(瑞光院)が嫁いだ。

 

246: 名無し 2011/03/16(水) 10:54:32.82
倉町信俊が直茂の弟ってのは確実なの?

 

247: 名無し 2011/03/16(水) 13:30:39.06

家譜とか編纂する段階だともう>>243の家老格家は全部鍋島から養子入れてるからかしらんけど
最終的に佐賀藩士になった家は時系列無視して早期から鍋島の血縁者だとしている所がいくつか有る

だから倉町信俊や小河信俊が信房や直茂の弟だった可能性も証拠も十分にあるが
しかし絶対とは言えない

 

248: 名無し 2011/03/16(水) 16:32:39.31
清房の子は色んな所に行ってるしな
直茂も千葉胤信が生まれなかったら千葉信安で通してたかもしれない

 

249: 名無し 2011/03/16(水) 16:40:48.72
龍造寺時代から鍋島が竜造寺の姻戚外交を代行しすぎなんじゃないかと
違和感あったが、後世の捏造の可能性もあるわけか?

 

252: 名無し 2011/03/16(水) 20:29:52.73
>>249
家兼の孫娘婿、隆信からしたら又叔父かつ継父な鍋島清房が
養子縁組・婚姻外交を取り仕切るというのは自然な流れだと思うけどな

 

258: 名無し 2011/03/17(木) 15:25:52.75
>>252
龍造寺家の子がいなかったわけじゃないだろ?隆信の弟とか。
時代がかなり新しいが「信用できない家系伝説」の一種ではないだろうか。

 

250: 名無し 2011/03/16(水) 17:05:16.43
小河信俊の家系は嫡男家俊が文禄の役で戦死した為、
直茂は自分の二男で半助直房(忠茂のち鹿島藩主)を家俊の嗣子としてる。
だから江戸へ人質に行くまで小河半助と名乗ってたね。

 

251: 名無し 2011/03/16(水) 17:17:00.84
最後に一応は勝ち組になった直茂だから後世への面子は保ててるけど
家格で渋川や少弐にも対抗出来る千葉が一土豪の鍋島からすんなり猶子を受け入れるのも不思議な話だよな

 

253: 名無し 2011/03/16(水) 21:18:26.31

>>251
直茂が千葉に養子へ出された時の千葉家は少弐からの養子が当主でその妻は家兼の孫で
本家を担ぐ千葉党の諸氏が辛うじて支えているような状態

大本は龍造寺の出した案だろうけど鍋島から養子を出すよう命じたのは少弐だし
千葉からしたら少弐の提案は当然受け入れざるをえない

 

254: 名無し 2011/03/16(水) 23:29:34.56
千葉氏は龍造寺・鍋島連合に呑み込まれていたということかね。

 

255: 名無し 2011/03/16(水) 23:55:17.48
呑み込まれたのは庶家で本家は神代勝利に託して滅亡じゃないの

 

256: 名無し 2011/03/17(木) 01:43:58.83

西千葉(晴気千葉)と東千葉(祇園千葉)は元祖と本家の争いみたいなもので
どっちも向こうが庶家でこっちが本流って感覚だったろうと思われる
敢えて選ぶなら生き残った西千葉が本家

直茂が養子に出された時期の龍造寺‐千葉‐少弐の関係を端的に言うと、少弐色だった西千葉が龍造寺色に塗り替わった時期
もともと大内の支援で成立した東千葉に家兼の仲介で冬尚の弟が養子に入って
少弐がもともと立てた西千葉当主の養子に直茂が入った形
あくまで養子だからこの1541年時点では従属同盟程度

で、その後の馬場の謀略で一端この関係から龍造寺が締め出しを食らう

 

257: 名無し 2011/03/17(木) 11:52:57.42

1541年に起きた両千葉の講話は東千葉家初代当主千葉興常の死亡時期(1533年・1540年両説)と重なるので
興常の重石が取れた事で講話の機運も高まっていたのだと思う

これで西千葉当主千葉胤連・彦法師に牛尾城
東千葉二代当主千葉喜胤・新助胤頼に晴気城が与えられ
祇園城は馬場頼周が管理する事で一度は決着した

こうした一つズレたような城の配分になったのは少弐家執政の龍造寺と側付の馬場や神代・江上等の調整の結果だろう

 

259: 名無し 2011/03/17(木) 21:19:58.01
少弐家中で専横するだけの権力があったとしても、水ヶ江龍造寺は家兼の代で作った一千町の国人領主に過ぎない
更に数少ない累代の親類郎党は族滅されかけているわけだから、当然使える手駒も少ない
使えてその上信頼のおける駒なら使い倒すまで使うんじゃないかな

 

260: 名無し 2011/03/17(木) 21:22:51.57

>西千葉(晴気千葉)と東千葉(祇園千葉)は元祖と本家の争いみたいなもの

千葉家には家宝があったらしいけどどっちが所有してたんだろか

 

261: 名無し 2011/03/17(木) 21:44:57.69
家系図と妙見像妙見太刀を持ってたのは東千葉
胤頼が祇園城から持ち出して最後は神代の手に

 

263: 名無し 2011/03/18(金) 22:00:28.08
千葉氏に大混乱をもたらした大内、少弐、龍造寺が揃って消滅とは・・・・

 

264: 名無し 2011/03/19(土) 14:36:42.01
乱世だし、消滅するのは珍しいことじゃない。

 

265: 名無し 2011/03/19(土) 15:04:46.99
千葉は少弐を撃退して今川を取り込んだあたりまでは調子よかったんだけどな
その後は内紛で萎んで少弐の取り込み工作と大内の反乱支援でカオスな状態に

 

266: 名無し 2011/03/19(土) 23:54:03.80
胤栄の後継者選びで鑑兼派だった鍋島清房はなぜ隆信派へ寝返ったのだろか

 

267: 名無し 2011/03/20(日) 02:06:00.59
鑑兼擁立派=東肥前十九城主では?
鍋島の旗色が不鮮明になったのは龍造寺一族が各地で討たれた対有馬戦から家兼が撤退した後
村中・水ヶ江城に立てこもった時ぐらいでしょ

 

268: 名無し 2011/03/20(日) 12:20:39.46
朝日 姉川 綾部 出雲 犬塚×3 江上 小田 神代 宗 高木×2 筑紫 馬場 藤崎 本告 横岳 八戸
十九城主の中で少弐庶流は朝日、出雲、筑紫、馬場、横岳で最大派閥
次に規模が大きいのは高木系

 

269: 名無し 2011/03/20(日) 20:39:19.61
「龍造寺の一族家人等、悉く當家の浮沈を危んで雙方に別れ、何となく佐嘉騒動し、
既に龍造寺の家、廃亡とぞ見えたりける」
胤栄の後継者問題で龍造寺家中が鑑兼派と隆信派が真っ二つになった様子が伺える。
さらに胤栄の妻(以登)が実兄の鑑兼を希望したらしい。

 

275: 名無し 2011/03/22(火) 19:37:00.90

>>269
という事は隆信は惣領の未亡人で敵対派閥の旗頭の実妹を(恐らくは)強引に娶って
『何となく佐嘉騒動し、既に龍造寺の家、廃亡とぞ見えたりける』事態を三年間は鎮静化させた事になるのか

それで大内の動揺をみて少弐保守党な鑑兼派が1551年に巻き返しにうって出て
冬尚復帰と隆信追放が入れ違いに起こったと

 

277: 名無し 2011/03/23(水) 06:02:16.42

>>275
御夫婦の御中睦しからず、御家の浮沈此時に極り、御家人二つに分れ、
龍造寺の家滅亡忽ち遠きに候はず、近国の諸将佐嘉を攻めむとする由風聞あり。

小河武純(信安)は未亡人を訪れ「夫婦仲の悪さは龍家滅亡に繋がる」と説いている。

 

270: 名無し 2011/03/21(月) 10:36:33.38
龍造寺の内紛に付け込んだのが少弐冬尚って訳か
少弐は米田原合戦で筑後へ逃げていたが対馬の宗義調へ頼み勢福寺城を奪還した。

 

271: 名無し 2011/03/21(月) 17:47:27.33
胤栄の弟か子か分からないけど、家就が村中家の継承候補に挙がらなかったのは何故なんだろうな。
単純に若かったのか、妾腹だったのか。

 

272: 名無し 2011/03/21(月) 20:57:39.73
新次郎(家就)は家兼亡きあと水ヶ江家の後継者選考の時、圓月(隆信)と二人候補に挙がってる。
村中本家から後継者と家就の名が浮上したが、最終的には家兼の遺言で決着したらしい。

 

273: 名無し 2011/03/21(月) 21:48:24.85

1546/03 家兼没。 円月還俗し水ヶ江龍造寺家を相続
1548/03 胤栄没。 胤信、龍造寺宗家を相続
1550/07 胤信、大内義隆の偏諱を受け隆信と改名
1551/09 大内義隆、陶晴賢反乱にて没
1551/10 十九城将が村中城を包囲

隆信にしたら大内義隆が没したのは想定外だったろな

 

274: 名無し 2011/03/22(火) 11:46:46.93

>十九城主の中で少弐庶流は朝日、出雲、筑紫、馬場、横岳で最大派閥

田手畷合戦
少弐方・・・出雲、馬場
大内方・・・朝日、筑紫、横岳

 

276: 名無し 2011/03/22(火) 20:40:23.38
隆信が復帰できず鑑兼派がそのままだったら冬尚を先頭に大宰府再奪還へ動いていたと思う。
派閥内の勢力が東を向いてる家ばかりだから。

 

278: 名無し 2011/03/23(水) 23:07:06.18
鑑兼は大友義鑑(宗麟の父)が鳥帽子親だよね。
どちらかと云えば大友、少弐派なんだろな。

 

279: 名無し 2011/03/23(水) 23:20:37.88

鑑兼の名乗りには、家兼が望んだ龍造寺の副将であれという願望が潜んではいないだろうか。

何の裏付けもないけどさ。

 

282: 名無し 2011/03/24(木) 13:45:41.77
>>279
どっちかと言うと真田親子的な、両派に分かれて確実に家を残す作戦じゃね?
大内が突然大友の分家になって、しかも隆信が大友の中で生き残ったのは想定
外だったかも。

 

283: 名無し 2011/03/24(木) 23:17:01.47
十九城将が村中城を包囲し、小田の家臣深町理忠が単身で城開け渡しの交渉をしてるが、
小田政光にすればこの時の情が後の命取りになったんだな。

 

284: 名無し 2011/03/26(土) 22:32:21.69
この一連の騒動は周辺の豪族連中の利益誘導も絡んだ唯の家督争いだろ
家督争いも元を辿ればお家を残すための手段の一つだろうけどさ

 

286: 名無し 2011/03/30(水) 10:16:06.49
政光は状況的に仕方ないけど、息子らは隆信に反旗を翻しといて簡単に負けすぎ
小田に本家並みのバイタリティがあれば横岳ぐらいのポジションは確保出来たろうに

 

287: 名無し 2011/04/01(金) 22:57:08.64
龍造寺の領地が2500町だった頃に小田は佐嘉、神埼、三潴に6000町だったらしい。
木原の戦い(1536年)で龍造寺が不利だったのを鍋島が田手畷同様に赤熊で扮装して勝利してる。

 

288: 名無し 2011/04/02(土) 09:52:33.08
村中・水ヶ江城と小曲城は直線で5km余りおまけに平地
木原だと龍造寺の城近くまで小田勢が攻め込んでいた訳か

 

289: 名無し 2011/04/06(水) 15:02:59.74
当時は北川副が龍造寺領で川副が小田領だったのかな
1536年は義隆が資元にトドメ刺しにきた時だよね

 

296: 名無し 2011/04/12(火) 00:22:36.82

>>289
川副庄は龍造寺が少弐から貰ってたみたい。
のち剛忠が筑後から再帰した時は川副・与賀庄の郷士が加勢して水ヶ江城を奪還してる。

当時は龍造寺の知行地ってこんなところかな。
佐嘉郡与賀庄1000町・川副庄1000町・佐嘉郡尻田60町・千数30町・大宝40町・千住12町
諸富12町・下嘉世100町・有重12町・法成寺16町・小城郡大寺36町・別府120町・光武18町

 

290: 名無し 2011/04/08(金) 16:27:55.58
大内義隆は意外と優秀でえげつない

 

291: 名無し 2011/04/08(金) 16:44:32.15
陶興房が優秀でえげつなかったんでねぇの

 

292: 名無し 2011/04/08(金) 18:00:51.38
杉興連と陶興房を負かした家兼が土壇場で自領に引きこもったんだから
そりゃ小田もキレて龍造寺を攻撃するわって話

 

293: 名無し 2011/04/08(金) 23:19:46.53
家兼の名前を出すにしても80過ぎのご隠居に権限を持たせたままって事は無いだろうし
1530年代の龍造寺の実権を握っていたのは家純で実働は周家だったんじゃないのかと思う

 

294: 名無し 2011/04/10(日) 17:15:54.48
でも当主は家純の養子になった弟の家門。
家門の養子で家純の実子である周家は梶峰城の多久宗時を天文十三年(1544年)に追放している。

 

295: 名無し 2011/04/11(月) 00:23:46.31
天文十三年と云えば馬場頼周の罠にはまって出陣した時だね。
上松浦大河野、杵島志久峠、藤津冬野原などで一族は大敗して
佐嘉城へ逃げ帰ったが肥前十九城将に囲まれてしまった。

 

315: 名無し 2011/04/23(土) 15:11:41.71
前々から思ってたんだけど
肥前の熊の『熊』は純粋な動物のベアー=熊じゃなくて
熊襲のクマの意味合いの方が強いんじゃないのか

 

318: 名無し 2011/04/25(月) 03:20:37.87
同時代人に肥前の熊と呼ばれてたわけじゃないでしょ

 

320: 名無し 2011/04/26(火) 20:04:26.74
>>315
「熊襲」はともかく、熊襲からクマを抽出して言うことは一般的だったのか?

 

321: 名無し 2011/04/26(火) 21:13:38.46
熊襲が元来クマとソの複合語だろ

 

323: 名無し 2011/04/26(火) 23:58:34.09
>>321
だからその複合語を元のようにばらして言うことが一般的だったのかって
言ってるんだよ。
あるいはクマという概念が残っていたのか(そのクマに肥前と何の関係があるのか)

 

326: 名無し 2011/04/27(水) 01:45:56.72

>>323
クマの概念が残っていたのかは分からん
肥前に残るクマ地名についてなら多少分かる

佐賀県に残るクマ地名
早稲隈山(神埼)・日隈山(神埼)・鳥隈(神埼)・松隈(神埼)
中津隈(三根)
小隈(佐賀)・佐熊(佐賀)・熊川(佐賀)
熊寄ヶ里(小城)
久間、隈(藤津)

長崎県に残るクマ地名
自分調べでは無し

肥前でも佐賀県域にのみ多く見られるから
筑後から肥後北部までの中山間・平野部地域に点在しているクマ地名とは何か関係あるんだろうな

大和に反抗した球磨・大隅の熊襲と関係あるのかは知らん

 

338: 名無し 2011/04/28(木) 13:46:50.47
隈・熊の地名分布と日足紋の武家の分布はかなり一致する
で、その地に根を張っていて日足紋を使用している大村・菊池・龍造寺(高木)あたりは元同族の可能性が高い

 

339: 名無し 2011/04/28(木) 14:22:12.31
>>338
大村も日足つかってたんだ。知らなかった。
天皇家の菊も同源だったりして

 

358: 名無し 2011/05/25(水) 16:16:45.09
生まれる時代がもう20年遅ければ
龍造寺隆信はどうなってたんだろう、80年以降から悪い方向に走ったけど
悪い方向じゃなければかなりよかったと思うけど

 

359: 名無し 2011/05/25(水) 22:06:37.21
20年生まれるのが遅かったら、大友配下の肥前衆の有力者だっただろうな。
耳川の後はさっさと島津に寝返ってどさくさにまぎれて肥前や筑後を切り取り、
九州征伐でいち早く秀吉に通じて所領を安堵されて、北九州最大の有力大名に成り上がるってところか。

 

-毛利 柴田 伊達 九州

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