王猛と慕容恪はどちらが優秀だろうか。どちらも死ぬには早過ぎた。後10年長生きしていれば歴史も多少は変わったかも知れないし。王猛と慕容恪の直接対決も実現したかも知れないしね。
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>>271
両名とも、実力・実績ともに文句なしの傑物だからなあ。直接決戦があった場合は、マジで決着が読めない名勝負になりそう。
まあ、どんな苦境に陥っても精鋭数千騎で戦況を簡単に引っ繰り返してしまう慕容恪の方がロマン度で一枚上手か?(こればかりは、本当に卑怯だと思う。戦略を解し、戦術に通じ、用兵に長けた上で博打が打てるような人間だからだ。)
王猛の場合は、情報戦から戦場まで一挙に引き受けるオールラウンダー、ある意味反則級なんだが、慕容恪相手にはすごく物足りない、分が悪い。戦勢を支配することはできるが、戦勝の決を得るには決定力に欠ける。
まあ、この両名ともにNo2の座で光る人材だとは思うけど、こうなってくるとトップの采配如何のような気もしてくるな、そういう意味では苻堅率いる前秦が有利か、つーか前燕は慕容恪一人で屋台骨支えている状況だから、総合力では圧倒的に不利なんだよなあ。
限定的な局面では慕容恪、総合的には王猛が優勢となるンじゃないかな?
王猛って石虎とか冉閔の時代は何してたんだろう?
>>275
猛勉強の傍ら、畚(もっこ)を作り売り歩いて食い繋いでいた。
(典型的な上昇志向旺盛な寒門漢人)
当時、後趙の帝都に赴いても誰からもまともに相手をされなかった。
(まあ、何のコネも無い若造を引き立てるほうがどうかしているとは思うが。)
後趙の侍中まで登りつめた人物鑑定の名家であった徐統という人からは、その才能を見込まれて登用されそうになったが、固辞して華陰山まで逃亡、隠遁生活に突入する次第となる。
自分が仕えるに足る人物を捜し求めて隠遁していたようだが、桓温に失望してから苻堅に仕えるまでの過程が納得いかないんだよな。桓温も一世の英傑であり、苻堅のような甘ちゃんなんかより、ずっと覇者・天下人って感じなんだがなあ。本人にしか納得いかない、譲れない部分があったんだろうな。
>>280
桓温≒曹操
苻堅≒劉備
ってことなら分かる
本当に才能があり、自分に自信がある人物なら、全てを委ねてくれる主君を選ぶ
曹操は息子が簒奪失敗死していないし
劉備も大敗後部下に独立されまくりで縊り殺されていない
ので>>281は俺にはよくわからない
張昭の強化版
王導には君主と喧嘩してたり邪険に扱われているイメージが無いので違うのでは。
呉でいえば一番近いのは陸凱では。
>>296
司馬叡は、調子付いて来たら躊躇無く王氏の抑圧に走っているぞ。王敦の乱が勃発した原因のひとつ。
まあ、王導は何を考えているか分からない人間の典型例だよな。凶悪調整型政治家って類型では他の追随を許さないくらいだから、○○タイプという表現には違和感がある。(むしろほかの人間が王導タイプと呼ばれるべきかと)
周顗を見殺しにしたことじゃないか?
王敦「うぉぉぉ!やってられるか!!」→反乱
劉隗、ちょう協「元帝、王一族ヌッころしまひょー!王導もやっちゃいまひょー!!」
元帝「・・・」
その頃王導は・・・
王導「一族のみんな、今日も法務府に散歩だ!」
一族「今日もかよ、ってかヤラレルんじゃね」
王導「つべこべ言うな。あっ!周顗」
王導「周顗、俺殺されて当然だけど、残ったこいつらマジ頼む」
周顗「ふ~ん」 スタスタスタ
朝廷では
元帝;王導の処分は・・・「おお!周顗どうした?」
周顗「王導の忠誠心マジスゲー!ちょーリスペクトっす!DQN王敦と一族ってありえねー」
元帝「マジwww」
周顗「マジwww」
元帝「許す」
一方王導
王導「一族までやられっかなー。あっ!周顗」
王導「周顗!周顗!周顗!」
周顗「手下ども!今年は賊ちょー殺しまくって、ちょー出世しよーっと」
王導「周顗・・・」
周顗帰宅後・・・
周顗「元帝にメールしよーっと、元帝え、王導はぜっっっったい無実だかんね。殺しちゃやーよはぁと」
そのころ
王導「周顗・・・・・・・許さん!」
その後、周顗は王敦に捕らわれた。王敦は周顗殺したくて王導に聞いた。
王敦「王導、周顗って三公なるかな?」
王導「・・・」
王敦「王導、周顗って宰相なるかな?」
王導「・・・」
王敦「王導、周顗殺せってこと」
王導「・・・」
王敦「じゃー殺す」
こうやって周顗は殺された。
その後、王導はメールボックス整理係についた。
王導「元帝、古いメール整理しろよ・・・」「あっ死んだ周顗のメールだ!ざまぁみろ!あいつどんな悪口を書いてたんだ?」
---元帝え、王導はぜっっっったい無実だかんね。殺しちゃやーよはぁと---
周顗カワイソス
王敦が相当の悪人じゃねーか
符堅は「神の如く」っていうか「自分が神だと錯覚した」タイプで、割とありがちな独裁者だと思うぞ
独裁の方面が分かり易く暴力とか悪逆とかでなかっただけで
自分に酔ってて、本人は酔ってることに気づいてない符堅
符堅が酔ってる事に警鐘を鳴らしながら、符堅と酔うのが楽しかった王猛
それを外から見ていた慕容垂、酔いから覚めざるを得なかった姚萇
独裁も糞も、皇帝体制自体が専制政治ですがな
漢人知識人層の幅広い支持を受けていた、という意味で使っていたなら謝る
あと厳密な皇帝独裁体制は明からだろ。それ以前の皇帝なんて2日に1回朝廷に顔出せばいい方
>>335
俺が思っていた「独裁」の意味が違っていたようなので、やっぱり謝る
イミフな横槍して、ごめん
しかし、前秦崩壊後のgdgdっぷりが酷い
前秦崩壊~北魏の華北制圧までが、魏晋南北朝でもっともカオスな時代だと思う
北周北斉陳の頃の方が酷いと思う
これでは国を保つだけでも至難の業
実質的な支配地域が全然違うんだが…
無法地帯だった呉と、ある程度整備された陳を一緒にするなよ
さらには北斉を圧倒したんだぜ……
この瞬間風速的な強さが何処から来るのか不思議で仕方がない
皇帝の直轄軍の強さ、じゃねえかな>陳
東晋~梁に置ける貴族・豪族っていう政治の二重構造と新興豪族、新興商人である恩倖の皇帝への接近、これらが解消されて一本化された結果、軍人皇帝陳覇先の旗下で自在に動ける国家が成立した。
南朝と北朝では一世紀以上組織構造が離れていると言われてるね
軍人貴族のバランスの上に立っている北朝の体制に対して、唐の節度使が登場するようなもの
陳覇先と文帝の時代は、北斉文帝が政治に興味をなくしていた時期で、宣帝が北斉を圧倒した時期は、蘭陵王と斛律光が処刑された隙をついているのな
どちらにしろ、陳覇先と文帝の時代は王僧弁派の軍閥・北周・北斉と敵に囲まれてよく生き残ったよ
王導の功績は、早い時期に司馬睿に東南への出鎮を薦めて、後の東晋建国の基礎を築いたこと。その善良な人柄ゆえに、名士連中の顔役になったこと。不安定な東晋政権の権力中枢にありながら、忠義を尽くし続けたこと。
だけど、本人の列伝以外のところでは問題点が多々描かれている。張昭の強化版なんかじゃないよ。
ユ亮とか司馬道之とか司馬元顕とか例外はあるけど
>>356
桓温さんを忘れてもらっては困ります。
謝安VS桓温はあれで一冊小説書けるくらい濃い政治バトルだよなあ。
謝安は博打はそこまで強くなさそうな描写が多いが、実際は桓温、苻堅相手に勝利を収めている強心臓の持ち主、本人は武力をほとんど持ち合わせていないので、イメージ的には嘘喰いの獏さんみたいな感じ。
>>384
簒奪に先立って陳覇先が封じられた国がたまたま陳国の領土だったんだろうけど、たしかにちょっと珍しいな
類例があるのかどうか自分は分からないが、同じ国名で封じるのは避けられそうだけど、あの位置だったら他に、宋や蔡、マイナー所で徐がある訳だし
この時代唯一の江南出身者の王朝なんだっけ
劉裕は曽祖父の代から江南に移ってるから南方人としても良いと思うけどなあ、蕭道成は、江南で生まれたっぽいけど、一族はもともと斉の人だったとは……南斉ってそれも踏まえた名称だったのかな
琅邪王氏もそうだっけ?
周の政治を理想としながら五胡の慣習を復活させた宇文泰
ここらへんも面白いよな
韋孝寛、尉遅迥の関係とか斛律光
ある意味一番有名な高長恭とかいるし
二策目;陳と結んで北斉を挟撃する
三策目;国力を蓄え天命を待つ
この三つ
結局三つ目が採用された
やっぱそうなの?
王浚と王弥は琅邪王氏じゃない。
>>406
王浚は太原王氏の王沈の庶子だな、結構強引に家督相続している
王彌は倭国に使節を派遣した玄菟太守王頎の子孫
王浚は賈皇后派で成都王派とは犬猿の仲、それなりに勢族と言ってもいいんじゃないかな?
王彌は、代々太守を輩出している家柄だけど、太原・琅邪の両王氏には到底敵わないな
琅邪王氏と太原王氏は王氏のTOP2だからな
この時代のちょっと後王猛が琅邪王氏だな
>>408
王猛は北海王氏、王猛一代での出来星貴族だよ
もっこ売り歩いて苦学する琅邪王氏は見たくないなあ
国名* 始祖** 開始 --- 滅亡 民族
前仇池 楊茂捜* 296年 - 371年 氐
前涼* 張軌** 301年 - 376年 漢族
前趙* 劉淵** 304年 - 329年 匈奴
成漢* 李特** 304年 - 347年 巴賨
代** 拓跋猗盧 315年 - 376年 鮮卑(拓跋部)
後趙* 石勒** 319年 - 351年 羯
前燕* 慕容皝* 337年 - 370年 鮮卑(慕容部)
冉魏* 冉閔** 350年 - 352年 漢族
宇文部 葛烏菟* ???年 - 344年 鮮卑(宇文部)
段部* 段日陸眷 ???年 - 357年 鮮卑(段部)
前秦* 苻健** 351年 - 394年 氐 --------------------
西燕* 慕容泓* 384年 - 394年 鮮卑(慕容部)
後燕* 慕容垂* 384年 - 409年 鮮卑(慕容部)
後秦* 姚萇** 384年 - 417年 羌
西秦* 乞伏国仁 385年 - 431年 鮮卑(乞伏部)
後仇池 楊定** 385年 - 442年 氐
後涼* 呂光** 389年 - 403年 氐
翟魏* 翟遼** 388年 - 392年 丁零
南涼* 禿髪烏孤 397年 - 414年 鮮卑(禿髪部)
北涼* 沮渠蒙遜 397年 - 439年 盧水胡
南燕* 慕容徳* 400年 - 410年 鮮卑(慕容部)
西涼* 李暠** 400年 - 421年 漢族
夏** 赫連勃勃 407年 - 431年 匈奴
北燕* 馮跋** 409年 - 436年 漢族(高雲なら407年-高句麗)
後蜀* 譙縦** 405年 - 413年 漢族
北魏* 拓跋珪* 386年 - 534年 鮮卑(拓跋部)
漢族は江南政権の手前、皇帝を名乗ることはない
但し、冉魏だけは皇帝を名乗っている
冉閔の政治音痴ぶりがわかる
北燕は高句麗の高雲を隠れ蓑にしているのでカッコ書きした
いや、前涼は張祚の代だけ皇帝を名乗ったはず。
つか上の表、翟魏みたいな泡沫政権をまともに数えていいのか?
三崎氏くらいだろ、「翟魏をきちんと数えろ!」って主張してるの。
有力者登場
↓
皇帝が有力者に禅譲しその後一族もろとも殺される
↓
新王朝誕生し何代か続く
これの繰り返しだもんな……
>>435
そういう先入観がこの時代を敬遠する人を増やしている原因じゃなかろうか
前涼:西晋の地方官、西晋混乱のどさくさに紛れて甘粛に割拠
前趙:匈奴屠各種、成都王による軍事支援要請をこれ幸いに中原進出、西晋を放伐
成漢:もとは強制移住させられたチベット系少数民族?巴蜀における独立闘争を勝ち抜いて建国
後趙:もとは前趙の有力な将軍、その前は家内奴隷、前趙を放伐→華北の覇権国家樹立
冉魏:もとは後趙の有力な将軍であったが、自分以外の実力者をすべて敵に回したうえで後趙を放伐
前燕:冉魏を放伐
前秦:もとは後趙の有力な諸侯、後趙崩壊のどさくさに紛れて関中に割拠→華北の覇権国家樹立
後秦:もとは前秦の有力な将軍、禅譲を苻堅に強要したが断られたので放伐
後燕:前秦崩壊のどさくさに紛れて関東に割拠
後涼:もとは前秦の有力な将軍、前秦崩壊のどさくさに紛れて甘粛に割拠
北魏:鮮卑拓跋部、並み居る群雄を駆逐して華北統一
夏:もとは後秦所属の亡命諸侯、後秦を駆逐して関中に割拠
これ以外の弱小勢力は割愛
南朝のイメージだな、たぶん
五胡の方は
名君逝去→後継者殺され、傍系が即位。
そんなんばっかりのイメージだな。
この時代が敬遠されるのは、やっぱり国が多すぎて煩雑だというのが一番な気がする。
>>437
どいつもこいつも皇帝僭称しやがるからな
泡沫勢力風情が皇帝を名乗る風潮はどうかと思う
ぶっちゃけ、帝位を称するに足る人物って石勒、石虎、苻堅ぐらいじゃねーかな?
三人とも皇帝在位期間が短いか皆無なのが気になるが
前燕の慕容カイ→慕容コウ→慕容儁→慕容イはこの時代にあっては貴重な良君リレーなんだけどな
慕容イも言うほど暗君ではないと思うのよ。恪叔父さん信用する度量は素晴らしいし、後釜の評の吝嗇贅沢は彼一人じゃなくて前燕貴族の問題だし
評その人も軍人としては戦果だしてる。前秦との戦いで慕容イは悪癖だした評を叱りとばしているし
相手が王猛じゃなければ前燕はまだ続いたろうに
しかし儁、恪、垂、徳って慕容コウの種スゲーな、改めて
>>439
こういう時、いつもハブられる慕容納……
慕容儁が一番安定している君主だな
自分と弟たちの待遇・能力面における差について苦悩しつつも
良識の一線で踏みとどまっている感じが凄く好印象
慕容垂はもう少し儁の悩みに気づいてやるべき
「蛮族ですら天子を名乗ってるんだから俺が名乗っちゃ悪いかボケ!」
「悪いわボケ!天意が中原だけにあると思ってんのか!」
「天意なんざ関係ねぇんだよ!男と生まれたからには悪名だろうと歴史に名を残すんだ!」
三行で分かる五胡十六国時代
代々内地に住んでいたせいでスッカリ漢民族の思想に染まった異民族の方々
もはや王朝への忠誠心などなく自己表現の為に軍拡や清談に耽る貴族
南朝の方が正統っていう考えは根強かったからね。劉宋以降は薄れるけど、南朝の方が洗練された文化経済を持ってたのは揺るぎないし
苻堅、慕容垂、姚萇の三人の関係って幾らでも妄想できてドラマティック