仮に荊州を任された者が劉備に叛旗を翻して自立独立した場合、
三大勢力に囲まれた中で、巧みに勢力を維持なんてできるだろうか?
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>>60
その時代では無理。無理だから劉備に叛するなら曹操か孫権に流れる。
それは魏でも呉でも同じ。
超辺境な交州の士燮や遼東の公孫一族ですら半独立の服従がやっと。
仮に劉備から任されたのが関羽以外で、もう劉備ヤダってなったらどちらかの支配下になるよ。
劉備からみたら失うことも嫌だけど(失うだけなら劉備は0になるけど魏や呉が+にはならない)敵対勢力の利にもなるから絶対に信用できる人が必要だったわけ。
俺は最近、荊州の喪失は劉備に親族・血族が居ないことが遠因なような気がしてきた。唯一のそれにあたるのは養子でしかも将来実子の敵になりうる劉封だけ。曹・夏一族は出来すぎだとしても、せめて孫一族程度の血縁がいたら劉備の負担はグンと減って、持ち得る選択肢も増えたのではなかろうか。
やっぱり幽州の出自で益州が勢力というのは、背景は似たような(土着豪族、財無し名無し)孫一族が揚州に根付いて発展したのと比べて物凄いハンデなような気がする。
孫権は頻繁に情勢に合わせて拠点を変えてるし要所を一族の者に任せたり一軍を率いさせたり・・・つまり重要方面を完全に任せられる人物が居た・・・のに、
劉備は領土を得たばかりで尚且つ自分がフレキシブルに動けないというのはね・・・
荊州全体の戸籍数は益州の三倍。地理的には益州領有するよりも人材面経済面で勝るな。さらに南を支配できれば交易も見込める。そして漢中を通らず蜀を滅亡させることすらできる。
だが襄陽は非常に後の時代の戦いを見ると北方面から守りにくい。地形的な守備力という点では最弱だろう。全方面に面しているし。荊州という土地は独立する土地じゃなく南朝政権に吸収される運命の土地なんだよ。益州は土地の閉鎖性で独立が可能だが内部の人の上にのっかる形に常になるな。荊州は経済面と人材面では将来も充実してる地域だが独立は無理じゃないの
そして関羽の代わりは劉備本人とその幕僚がするべきだったのかもしれないな。漢中が安定してなくて益州も不安だろうが守るだけなら荊州よりは易しい。
ただ関羽は益州の複雑な利害関係を政治統治する能力は0だし李厳やなんかに任せて益州人にパワーがシフトするのも困る。諸葛亮と張飛魏延馬超あたりかな。
>>61
どっちにしろ魏呉の主力軍と渡り合える将帥は劉備しかいませんしね。東西南北の軍事の要衝である荊州であればこそ、やはり劉備みずからが駐屯するべきだったでしょうね。
余談ながら、何年か失念しましたが劉備が益州入りした直後呉軍が南荊州に侵攻した事件がありましたが、その時には劉備みずからが蜀から荊州に下り呉軍と対峙してます。
で、諸葛兄弟の会談により湘水を境とする合意がなされますが、これも実は孫権が劉備軍…の圧力を勘案した妥協だったのかも知れませんね。ヤル気なら交渉には応じず江陵まで一気に攻めたでしょうし。
足がかりとして蜀に拠ってるんだろ。
だったら無理でも出て行かないとダメなんじゃないか?
益州と荊州の境は、大巴山脈や巫山山脈の非常に険しい地勢。
長江沿いに移動するしかないけど、
あの時代によく軍隊の行き来ができたものだと思うよ。
蜀の領土として維持し続けたとしても、
荊州は常に半ば独立した格好の不安定勢力になり続けたと思う。
南朝の西府軍のような存在になったかもね。
孫権との縁談が成功してれば可能性はあったかもしれないけど
結局、蜀と荊州とどちらを重視するかによる。蜀重視なら関羽は荊州残留だし、関羽以外に任せられる人材はいない。荊州重視なら劉備自ら荊州に戻るべきだし、そうなると蜀地内の安定は孔明の双肩にかかる。
まっ結局はまとめる人材が何人かいればよかったのだよ
後、関羽とその他を円滑にまとめる誰かがな
張さんは育ったろ。呂布時に比べたら。
少なくとも、荊州脱出時点での仁王立ちとかなかったら
劉さんが死んでるか、少なくとも、軍事基盤を失ってる。
>>83
張飛は育ったというか、将器が開花したというべきかな?
それまで小部隊を指揮する程度の役目しかなく、国士の器でありながらも将器を発揮できなかっただけでは?
関羽も同様で、荊州を任されてようやく中原に威を轟かす活躍が出来たんだと思う。逆に言えば二人が劉備ではなく曹操を主君としていれば早くからもっと活躍できていたかも知れない。
庶民のまま終わったかも知れないけどw
関羽ってもし曹操に仕えていたら、どこまで出世したのかなあ?
かなり出世したと思うよ
曹操が気に入ってるのだから
趙雲じゃ話にもならない。
広大な荊州を統治して、人民の信望を集め地方豪族を統括するには主君劉備に並ぶ名声と器量が必要。無名に等しく、一部隊長程度の将器の趙雲では無理すぎる。
なかなか武勇に優れていたそうだし優秀なお付きが居れば、一方面だけでなく荊州全体を守れるくらいになってたんじゃないかな
むしろ養子ではなく臣下であれば有力な候補だったろうね。
将器としては魏延にも匹敵しただろうし、猜疑の目で見られない臣下であれば
抜擢もありえたかも。
なまじ養子であったために無用な疑いも受けたみたいだし権力も与えられなかったように感じられる。
臣下だったら余計無理だと思うが、劉封はまだ若くて武名も足りない。親族扱いだからこそ一方面を任せられた訳で、一臣下の身分で荊州を任せられる訳が無い。 また器の面でも孟達との一件を見るに荊州を任せるに足る器とは言い難いし。
元々荊州自体が不安定過ぎる、人材・兵士共に益州へと流出してる上に大勢力に囲まれた地域で、さらに劉備との義侠的な繋がりと個人の武名しかバックボーンの無い関羽しか、荊州を任せられるに足る名声が無いところが、劉備側の人材層の薄さを物語ってる。あと劉備の人材配置は軋轢を無視してる傾向があるから、そこも憂慮すべき点だと思う。
劉封はかなりの大器だったと思います。
若くして劉備に見出だされただけでも非凡であっただろうし、後に孔明らに警戒されたように剛勇で気宇壮大であったろうと思います。これは魏延に似てると思いませんか?
魏延が漢中の督に抜擢されたのと同様に劉封も抜擢された可能性はあるかと思います。
ただその足枷が「養子」という微妙な肩書。実子でもなく、半端に影響力のある立場だけに強大な兵権は与えにくかったのではないでしょうか?
>>98
そりゃ違うと思うね。
劉封の悲劇は、劉備が劉封に対して立場を配慮した人事をしなかった事であり、もっと遡れば養子にとられたこと自体が悲劇の始まり。孟達が指摘するとおり劉封の立場は微妙であり、劉禅からすれば脅威になりかねない存在諸葛亮の提言は実に理に適っており、政権の安定性を考えるならば仕方の無い処置。また劉封自身にも上庸においての罪もある。
魏延は諸葛亮の下でも栄達を続けており、諸葛亮に暴言を吐いても同僚と問題を起こしても我慢強く使ってもらってる辺り諸葛亮の指揮下に居た事は決して悲劇ではない。魏延の悲劇は自分が全軍を担う将軍の器と勘違いしちゃった事だろう。諸葛亮の撤退命令を無視して楊儀と政争を起こした事も魏延自身の判断に基づいた行動だし誰かのせいと責任転嫁できる類のものじゃない。
うーん・・・
まずね、漢中王宣言後の人事では劉封は副軍将軍、所謂「雑号将軍」ね。劉備の代表的な将軍は同じ時期に
関羽:前将軍(仮節鉞・督荊州)
黄忠:後将軍
馬超:左将軍(仮節)
張飛:右将軍(仮節)
魏延:鎮遠将軍(督漢中・太守)
趙雲:翊軍将軍(漢中前)虎威将軍(漢中後?)
この時の劉封は恐らく30才前(益州侵攻時に20+)だから、スピード出世ではあるけど、上記には遠く及ばない。仮節ってのは軍事裁判権というか、軍規に背いた者を裁く権限のこと。名目上は黄忠が2位だけど、仮節がないことから名義的なものだと判る。逆にいうと将軍トップ3は関羽馬超張飛。
(記憶が正確でないので鵜呑みしないで→)特に関羽は「鉞」といって軍にとどまらず、劉備が任命した官位を持ってる人も裁く権限が与えられていた。
こういう権限が与えられるのは、功があり信用され内外に名がある将軍だけ。30弱で劉備の「身内」だけど微妙な立場の劉封にはとてもじゃないけど、与えられる役割ではない。確かに養子という点で出世スピードは速いけどね・・・孟達が劉封の微妙な立場をよく理解してる文章があったので良く読むといいかも。
「猛勇」であるという記述は確かにあるけど、それだけで蜀の命運を握る荊州を任せるわけにはいかないのが当時の現実だと思うよ。
武勇に優れ~、張良陳平の風があり~、知略に優れ~て評は一種のきまり文句みたいなもんで正史には頻繁に使われる常套句。剛勇的に書かれてる=名将なんて評価してたらどうなんだよw
劉封は普通に将軍としては使えるが一線級に及ばない並鄭度の戦術レベル将軍ってとこだろう。
結局孤立した荊州てのはそれだけ難しいんだよ。三国時代のおかげで発達した襄陽含む荊州が肥沃だから割拠しようぜ!という意見が出てもあえてほかの地を拠点にする英雄もいるくらいな。
蜀には、遣れる人間が親分と舎弟関羽しか居らず恐らく高能力将軍であろう魏延はまだ若干実績が足らず性格的に関羽と同じ問題を起こす可能性もある。張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気がなく、諸葛亮もこの地点でまだ官位も高くなく趙雲なんて全く不向き。劉封は単独でやる器では到底ない。馬超は軍閥帰参という意味で評価されてるが実際微妙な存在なので使えない。よって使えるのは関羽と劉備しかいない。
劉備は歴戦の男だが符堅らと似た英雄。優れた大器だが統一者に一歩及ばず肝心な所で失敗をし下手すりゃ戦死、捕虜というな。劉備が守っても失墜戦死でも十分ありえる。 そういう微妙な政権だけに人材も少ない。
ここは関羽がやはり守り、孫権に譲歩して割譲これが当面妥当じゃねーか。
>>103
張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気がなく
↑これについて詳しくお願いします
どういうヘマをして劉備からしかられたのか、教えてください。
漢中前哨戦で張コウを破った記述しか知りません・・・・
張は張コウを退けたがその後217年上の失敗をしたため本来彼の仕事を魏延が
遣ることになった。
趙雲はねえだろ、いくらなんでも。
趙雲って劉備が皇帝になるまでずっと下っ端の将軍、劉表の配下として実績があった黄忠は元より、兵卒ぐらいから成り上がった魏延よりはるか下だから。
>>113
策謀に長けたホウ統と組ませるなら張飛だろうな。
趙雲だとホウ統にいいように使われるのがオチで、劉備側としてはホウ統の離反独立を警戒せにゃならん。(ホウ統にその意思があるないにかかわらず)
そうなると張飛あたりと組ませて牽制する必要がある。関羽だとホウ統と喧嘩になる可能性もあるし。
まあ「生きてたら」の話だけどね。
張飛と縻方なら納得するだろうよ。
荊州が維持できるかどうかは解らないがね。
かるくショック
記述が少なすぎて、凄いのか凄くないのかすら解らん
俺が皆の意見を読んだ限りではやっぱ関羽がベストっぽいな。
荊州維持については人事でどうにかできる問題ではない感じだね。
>>125
ベストというか、現状ではそれより優れた選択肢がなかったというか。
荊州維持に関しては、あの時点で北上した時点で間違いだからな。
俺は魏延に任せたいな。
張飛を押さえて要地漢中の太守を任されたことから、劉備からの信頼+本人の実力がわかるし。
本人も荊州出身だからやりやすいでしょ。
だから魏延と荊州派の人々で旧劉表軍みたいな感じで。
てか元々、関羽が関平とカップリングで攻めなきゃ良かったとも思う。
関羽以外荊州を守る適任者がいなかった。廉頗や趙奢のような守備撃退のプロ、三国時代の張遼や徐晃のような連中でもあの状況と国力で守備と攻勢を両面で行うのは至難。
彼らに及ばない関羽にどうしてできただろう。
君主が首都にいるのは平穏な時くらいで、長期統一政権の皇帝ならまだしも非統一政権なんか緊急時には自ら前線へ出張る 親征は普通にやるしやらざる得ない。危険だが士気上げには強力に有効。だが負けて捕虜になったりその後殺された皇帝もいる。
劉備がケイ州に駐屯しても彼の頭に攻勢の2文字がある以上敗北が約束ずみ。 呉は揚州という過疎地帯をしょってる以上絶対にケイ州は奪回する必要があるしその大義名分もある。
結論として関羽しかいないが仮に劉備が守っても同じ結果となる。ケイ州を攻勢を掛けつつ守るというのは蜀の国力では所詮不可能であった。