46 2007 風林火山 内野聖陽 (山本勘助) 18.7%
45 2006 功名が辻 仲間由紀恵 (千代)上川隆也(山内一豊) 20.9%
44 2005 義経 滝沢秀明(源義経) 19.7%
43 2004 新選組! 香取慎吾(近藤勇) 17.4%
42 2003 武蔵 MUSASHI 市川新之助(宮本武蔵) 16.7%
41 2002 「利家とまつ」 唐沢寿明(前田利家)松嶋菜々子(妻) 22.1%
40 2001 北条時宗 和泉元彌(北条時宗) 18.5%
39 2000 葵徳川三代 津川雅彦(徳川家康) 18.5%
38 1999 元禄繚乱 中村勘九郎(大石内蔵助) 20.2%
37 1998 徳川慶喜 本木雅弘(徳川慶喜) 21.1%
(´~ω~)おつかれ様
ニュース
あてにはならんな
霧がかくしてくれるからダイジョブだってとかいうカンスケは耄碌したんではないでしょうか
敵は強敵だとわかってなかったのかな
>>242
だから、それが事実ならですよ。事実でないでしょう。
「いつもより、たくさん煙が挙がっている」という記述自体がおかしい。「いつもより、長い時間、煙が挙がっている」なら理解できる。
飯炊きのキャパシティが100あったのに、50しか使っていなかったの?釜の数や大きさを考えれば、そんな余裕の数を持っていたとは思えませんね。
>>243
何とか甲陽軍鑑を擁護してみると
あれだけの軍勢が一度に食事をする日は無かったと
つまり家康が褒めた甲州武士らしく
夜営の見張り、その自覚を各々しっかり持っていた
だから普段は食事の時間を隊ごとにずらすなどして
飯炊きは一日の内、分散されて行われていた
そうなると半分の窯で用足りていたが
全軍を挙げて行動するとなると一度に飯を炊かなければならなかった
そこを見抜かれたと香坂弾正は思って書き残したの
かな?
飯炊き以外の要素は、ありえないのかねえ。
斥候も出していたろうし、土豪・縁者からの通報もあったかもしれないし、そこを最初から飯炊きに持っていく、その事について、何の疑問も持たないのだろうか?
甲陽軍鑑は武田からの視点であるから、
上杉が何をもって事前に啄木鳥隊を悟ったのか、
憶測でものを書いている。
だからきっと「なんでばれたんだろう」と、
うんうん頭を悩ませつつ考えて出した結果が、
炊煙だったわけです。
誰が作戦をリークしたか分からないから
飯炊きを理由にしたのかもな。
城の上から防戦する方が強いから。
籠城戦で、圧倒的に兵力が劣る城側がしばしば勝ち残るのと同じこと。
啄木鳥が返り討ちにあったら、その時点で武田の敗北が決定する。
>>257
実際の兵力の配分は分からないけれども、上杉軍が8千なら、それと同じぐらいは差し向けた方がいいと思ったかもしれない。夜襲が完全成功を収めるためには、上杉を千曲川の西に追いやり、更に打撃を加え続けなければならないから。
待ち伏せのほうだけれども、犀川の渡河点が市村の渡し、丹波島の渡しの2つだけなら、対岸で待ち伏せて盾を並べ、その隙間から矢を一斉に放てば相当の効果を挙げる。馬で移動して矢を放っても、川の流れに足を取られている敵は、突貫攻撃ができないので、相当に犠牲を払うことになる。だから、野原で待ち伏せれば苦戦を強いられるが、犀川の北岸に渡り、浮き橋かもっと恒久的な橋(あったなら)を落としてしまえば、自軍に優勢な相手を敵としても戦える見込みがある。
更に言うと、川中島周辺は、南の口が狭いが、北に向けて広がっている。
夜襲が成功し、武田別働隊が上杉軍を追撃するとして、狭いところから広い場所に陣形を広げていく形にならざるをえない。それに比べて、待ち伏せ側は、犀川の北に渡ってしまえば防衛すべき場所は限られてくる。
(渡ってしまうまえに上杉軍が襲来したので、犀川と善光寺の間に自軍を割り込ませるという武田の目算は外れたのだろうと想像する。)
100mの山でも全力で登ったらバテるからな
山を本陣にしたのは良かった
実際は500mの山でいくら急襲しようとしても
見張りがいるんだから絶対バレるし
武田の考えは甘すぎた
啄木鳥戦法ってのは、あくまで相手方が妻女山に全軍で攻めてきたって、「勘違い」してくれないと成立しない。上杉としては、全軍で来たのなら、一旦渡河して八幡パラで陣形を整える(整えられる)という行動になるんじゃないか。しかも霧が完全に視界を奪っているときの退避行動。と好意的に解釈してみる。
宇佐美の進言通り軍を引いても良かった気がする。
太平洋戦争の特攻隊と違って、
別働隊が来れば戦況を逆転できるのがわかってたから、
それまで時間を稼ぐ目的はあったところが違うかな。
あと、この作戦がバレバレだったことにより
勘助が軍師として限界だったのは見えていたから、
捨てる命としては比較的適切なものだった。
義信をちゃんと本陣に突き返したりもしてたし。
信玄を守る為に突撃せざるを得ない状況だったのでは?
それを状況描写で伝えられれば良いんだけど、
実際は、みんな奮戦してるなか妄想始めて、
気付いたら単騎になってたわけだしなw
実にアラの見える最後だった。
全体としては良かったが、あまりにアラが。
側近も兵隊もおらず、大将らだけ、
だだっ広い野原で勘助の首と胴を向かえ、
エイエイオー。エキストラを何十人か雇ったのなら、
そのまま残しておけばよかったのに。
カンスケ~、カンスケ~、と叫んで
屍骸がころがる戦場をさまようジャニタレ
テレ朝フウリンもひどいと思ったが、
なんで素人目にもヒドイと思える
いいかげんな場面を作るのだろうか。
>>294
昨日初めて見たんですか?
残念な出来でしたね
川中島は今だ納得できる映像化はされてませんね
摺上原や鎌倉炎上、姉川合戦、関ヶ原などは大河でも頑張ってると思いますが
川中島だけは大河でも、映画でもイマイチな物ばかりです
>>296
いや、風林火山はずっと見てました。
大河を欠かさず見たのは初めてです。
来年は一回も見ないと思う。
でも、上田原の合戦といい、砥石崩れといい、とてつもなくしょぼい。
エキストラの問題はありますが、それ以前じゃないだろうか。
もっと近景を工夫すれば、あのエキストラの数でも、
それなりに迫力は出せたと思います。
信玄の前で、戦っている兵と、まだ戦っていない予備の兵と、
多少とも両方がいないとおかしいでしょう。
目の前でですよ。
そこからガクト謙信が飛び出てくる形にすれば、
もっと迫力が出たはず。
信玄の何十メートルか先で、
だだっぴろい野原でマバラに兵が戦っているなんて、
いくらなんでもおかしいでしょう。
合戦シーンがショボいのはNHKのデフォルト
こればかりは
本物の軍隊を投入する中国の歴史ドラマには負けるw
つーか騎馬武者がどいつもこいつも馬上で刀を振ってるのは
いい加減にやめろバカとゆいたいです
>>298
エキストラ、環境など差がありすぎますからね
>騎馬武者がどいつもこいつも馬上で刀を振ってるのは
そう、撮影上の問題もあるからかまわないけど
どういつもこいつも、は勘弁だよね
つかここが使い所だろうよぉ~
トンボやら火花やらに使うより効果的だと思うな。
そもそも馬上から刀を振り下ろして足軽雑兵に届くのか?
考証以前にドラマの絵作りとしてもおかしいだろ
どうしても引き画になるのではないかと思ったが
その問題は、本人だけ写していれば済むか
馬上で刀を振り回すのとどちらが強いか?
2方向から槍でつつけば簡単に武将など討ち取れると思うが。
そこにいくまでに守りの足軽がいるとは思うんだがね。
>>304
馬上で刀ふるうなんて、弓と槍が尽きた状態に限られるんですよね。
攻める側にしてみれば、馬上の武者を倒す必要はない。槍で馬を突けばいい。
馬上で長槍を振るうのは西洋の騎士でもあるから、
実際にあったと思うけれども
基本的には馬上武者の役割は射手のはず。
あとは、敵の背後に回りこみ、馬を捨てて歩兵となって戦うことですね。
日本の刀は刀身が60センチが基本です。定規2本ぶんでしかない。
しかも片手はふさがり、右利きなら右側しか斬れない。
そんなバカな戦いはないわけです。
でも、槍は長いです。小田原城で槍を見たが、2メートルは確実に超えていて、
太くて長い。また、日本の弓はボウガンと違い、相当に遠くまで飛びます。
武田騎馬軍団というが、馬だけの部隊は限られていたはずですね。
必ず、周りに足軽が数人いる中世初期の形に近かっただろうと想像されます。
>>307
昔テレビ番組で
「戦国時代の刀を再現してみよう」というコーナーが有った
当時の製法を残された史料に基いて、忠実に作った所
普段見慣れている日本刀と違ってバカでかい刀が出来上がった(野太刀?)
確か女性レポーターの身長より大きかったような
一緒に居た専門家は「馬上で振り回すから長くないといけないんです」
なんて解説していた
あと他の板でセンゴクとかいう漫画が話題になった時
馬上で槍を使い出したら周囲の侍が驚いたという描写があるらしい
どっちが正しのかは分からないけど
常識で考えてくださいよ。馬上で大太刀を振り回したら、
馬が怪我をする確率が高くなるでしょ?槍ならともかく。
>>314
馬上用の刀なりの扱い方が有るんじゃない?
上から振り下ろして雑兵の頭を割るには最適だったかもしれん
槍だって下手な使い方をしたら柄が馬の頭に当たるだろうし
これも記憶に残ってる曖昧な情報なんだが
戦国時代に使われた野太刀は江戸時代になると
「こんな物は使えない」と判断されて小太刀に削られてしまった
だから現代には戦国時代で実際使用された太刀が殆ど残ってない(?)
だから、上で言ったでしょう。
片手で、片側しか戦えない道具を使うのですか?
相手は馬のすぐ傍まで来てしまいますよ。
相手にすれば、馬の尻に斬りかかれば馬上の武者はすぐ落ちてしまう。
西洋の騎士はデフォルメされているぐらい長い槍を使いますが、
ああいうことなら分からないでもない。
>>318
当時は馬上の周辺には家来が居て、
横合いの攻撃カら主人を守っていたのでは?
当時の史料にはよく「何騎」という表記が有るけど
それは一騎が十名前後の足軽を率いていたんだよね
その主人が下馬して槍で戦うにしても、
横腹を突かれない様に下人達が守っていた
なんて図が学研の本に載ってたな
しかし、実際の武者は、相当な力持ちと考えれば、
ばかでかいサイズの太刀を振り回しても不思議はないんです。
でも、そんなバカでかい太刀を馬上で振り回して、実際に合戦ができるのか?
馬を斬ってしまうのがオチでしょ。
いわゆる日本刀が戦場で活躍したのって、いつだろう?
平安も鎌倉の、騎射の後の馬上打ち物を行うときは主力兵器が長めの刀~
野太刀やら薙刀やら長刀だっと思う
長めの得物で、突き倒し、ぶん殴り、その後でトドメをさすのに使ったんだろうね
室町・戦国は歩兵の台頭によって悠長な一騎打ちもないだろうから
だいぶ話が違ってくるだろうけど
まあ、今回のビジュアルは、どこにいる敵に斬りつけているんだ?
という意味で萎えた
いけね、
>>321には、槍も抜けてる、とにかく長物というほどの意味
以下独り言
日本刀、それも剣術は平和な時代の武器だろうね。
戦場の修羅場では補助的・護身的道具。
(近代軍隊の拳銃の如く)
脚光を浴びたのは幕末かな?
倭寇が日本刀を持って中国人相手に大暴れしてるぞw
中国人の剣では日本刀より短いためリーチが足りずにアボン、
槍では日本刀の方が小回りが利くので懐に飛び込まれてアボン。
だそうだ。
騎馬隊の役割は側面からの突撃。
敵の横っ腹駆け抜けて混乱させたところに足軽突入なんですお
あと馬は高価なので生きたまま捕らえて戦利品
でも考えてみたら戦国期の日本で馬上槍って特に発達してないよな。
騎兵の機動力を生かすには、槍を正面に構えての突撃が有効だと思うんだが。
普通の日本槍を馬上で振り回したら、うっかり柄の後ろの部分で馬の尻打っちゃわない?
それこそ野太刀振り回す方が扱いやすい気がしてきた。
う~ん。
西欧中世の戦いの記述を参照していて、こういう文章を見つけた。
Cavalry could be arranged in several ways, depending on the situation.
While a clump of horsemen was no doubt effective, cavalry in tight formations
wielding lances became devastating forces.
これは、horse archers (馬上の弓兵)が郎党数人を連れて戦っている中世初期の状況ではなく、兵種ごとに分化した後期のことだ。
要約すると、騎馬隊の使い方は時と場所によるが、槍を持った騎馬隊が鋒矢の陣形(三角)を取って密集突撃することが、非常な打撃力となった、ということだ。
これは、確かに合理的に思える。歩兵の槍ふすまといっても正面にしか使えない、横や背中は弱い。機動力のある馬で回り込んで、長槍を抱えて一斉突撃すれば、敵の弱点を突ける。
やはり、長槍が主要な武器で、刀は二次的な使い方だったと推測する。
鋒矢の陣形とは、別の記述にあったので、上掲の英文には出ていないが、
別の英文にはある。
それぞれの想像でいいんだよ。
そもそも「上杉軍も武田軍とほぼ同じ三千の死者を出した」というのは、
上杉側の史料とかの根拠のある話なのかが知りたいわな。
死者数の割に上杉側には重臣級の戦死者出てないんでしょ?
そもそも敵の死者数把握なんていい加減なもんで、
実際には武田が判断した上杉の死者数=上杉軍が実際に数えてみた死傷者の総数
で、うち実際の死者数は五分の一くらいでないかと思うんだよね。
武田の死者数は誇張の気があるにせよ(そもそも三千というのは
漢文では「沢山」という程度の意味)弟が死んだんだから、
それなりの数でいたんだろうという感じで納得はしてるが・・・。
武田側は弟とその賦役が討ち取られ、総大将が怪我をし
上杉側は小物しか死んでいない以上考えられるのは
・武田は大将格を守る雑兵も殺され壊滅状態に陥っていた
・武田側は陣形を崩し大混乱状態だったが
上杉側は最後まで隊形を崩すことは無かった。
のどっちかだろうな。
>>338
うん
謙信はこの後すぐに関東方面へ出兵してる
信繁、諸角以外に川中島で討ち取られた初鹿野忠次って武将な
今まで山本管助のような使者か足軽大将だと思ってた
でも小田原包囲の時に氏康への援軍として、甲斐から一人派遣された大将だったんだな
武田は他に
「油川彦三郎、安間弘家、三枝守直らのような上級武将も討死に」
したそうだし
今回の大河では武田側がやる気満々みたいな描かれ方だったけど、
実際大激突になったのは不測の事態だったんだろうな。
12000は奇襲部隊ではなくて妻女山への押さえであって、真の目的は8000の本隊での善光寺急襲(少なくともその姿勢)。それを炊煙バレか間諜バレかは別として上杉方の知るところとなり、秘かに回りこまれたから武田方は待ち伏せ喰らって大被害になった、ってことかな。
第五次も大規模戦闘なしってことは終始一貫武田としては戦う気なし、
(必要無し)ってことでしょ。特に五次は弔い合戦の趣でもおかしくないのに。
かなーり強かったのが信玄没後にドンドン求心力が低下して
勝頼はいろいろ頑張ってイイトコ見せたりしてたんだけど
やっぱりだめぽだった、という話もNHKでやってたな。
>>360
それでも武田一族なんだけどね
勝頼を裏切った穴山信君なんて信玄の姉が母だし
板垣、甘利、飯富、穴山、勝沼、初鹿野など、力を持った領主は殆ど武田一族
しかも信玄~勝頼の頃に武田の中心だった
高坂、馬場、内藤、秋山あたりは信玄によって引き立てられた連中だし
例えば越後のように
揚北本庄(秩父平氏)新発田(佐々木源氏)中条(三浦和田)
柿崎、宇佐美(大見氏) 越後毛利氏(大江氏)
上条、山本寺、八条上杉(上杉一族)と 大熊(その家臣)
古志長尾、上田長尾、三条長尾(長尾一族)
これほど別々の家が乱立してる訳じゃない
武田にとって痛かったのは典厩の子、信豊がヘタレ
信玄の弟、信廉がヘタレ
だけでなく血縁が近い穴山が裏切るなど、一族内部から崩壊していった
織田信長の領国に比べると、
GNPが格段に低い(信長の6分の1)とかも
NHKでやっていましたね。
中央統制型というより企業コンソーシャムみたいな性格があったとも。
具体的に自ら資料を調べているのではないですが、
なんとなく、武田家の崩壊過程を見ていると、
NHKの解説の通り受け取ってよい感じがします。
尾張と美濃を治めた時点で石高は全国No.1じゃなかったっけ
確かに、当時は新潟県(越後)は現在のような米どころではなかったしね
気候が温暖で平野と低い丘陵が広がっている愛知県(尾張)は、
石高多そうだ今も中京工業地帯で日本の中でもGDP高いし
信長は運がいい
みんな凄く熱く語ってる。驚いているよ、物知りで。