武田軍はどうして炊飯の煙を立てたのでしょうか?・・・
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あの煙を見た宇佐美が
「これは武田の罠だ、武田はまだ動かぬ」
と深読みすることを期待した勘助の策。
今回の対峙では決戦に持ち込むことが悲願だったから、その意味では成功。
戦果は微妙なとこだけど。
「おれたちはこんなに食ってるぞ」という示威行動だったとか?
似た例として、
金ヶ崎城に雪隠詰めにされ、兵糧攻めにされた新田軍に対し、足利軍がやった嫌がらせ。
考えられなくもないが、善光寺の後詰めを残している上杉に対して
武田がそこまで精神的なゆとりがあるとは思えないがな。
それから、アウェイといえホームの春日山からは越後勢の方が断然近い。
約1日で移動してるんだよ。
>123
>それから、アウェイといえホームの春日山からは越後勢の方が断然近い。
>約1日で移動してるんだよ。
う~ん。腹ペコ上杉への「俺らはたらふく食ってるぞ」説は取りやめましょう。上杉は、大兵に囲まれた城みたいに、それほど雪隠詰めにはなってないでしょうからね。
でも、そうすると、このまま和睦したところで、春が来れば、海津城から春日山まで1日で移動できるところまで信玄が上杉に肉薄したってことですよね?上杉に危機感は大きいですね。海津城はできたばかりで、まだ北信濃全部を掌握していないでしょうが、時が立てば武田の傘下に入るでしょう。
長野市が県庁所在地として発達した理由は、やはり街道の要衝ということでしょうか。そうすると、信玄は海津城の築城で更に別のところの蚕食も図るかもしれませんね。
謙信がそう考えたら、合戦は避けられなかった理由は、より上杉の側にあったと考えるのが筋ではないでしょうか。
今、地図を見ましたが、善光寺から越前に抜ける道は険しそうです。
そうすると、海津城が目の前に現れた上杉にしてみれば、
1.北信濃を信玄に平定される恐れ
2.春日山を直接突かれる恐れ
があったということですね。やはり上杉の危機感は大きいですよ。
上の方で、
上杉は示威行動で済ませようとしたというコメントがあり
ますが、158に挙げた理由で、それはないと断言させていただきます。
座視すれば、地侍らは上杉に戦意なしとみて武田になびくでしょうから、上杉は青田狩りをしてでも刈り入れ後の兵を動員して武田と戦う必要があったと思うべきですね。
それと、郷土防衛戦争になった場合、どちらに戦意が高いかということも重要ですね。上杉にしてみれば、武田との間に長期の和睦など有り得ないから、郷土防衛戦争に近い要素が多分にあったはず。
それに対して、信玄の側は戦国特有の国切り取りの一環でしかないはず。その場合、戦力を温存したい地侍らは、適当なところで合戦をやめるから、自軍の本陣を直接危険に晒す場合もあるかと思いますよ。
>>159
武田に海津があれば上杉にも飯山城があるし、海津があるからって北信濃全域が時間が経てば武田のもの(>>157)ってのはこの時点では早計と思います。
飯山が上杉にあればこその一日移動な訳で、逆に武田が春日山に一日で迫れる訳では無いでしょう、危機感が無いか有るかで言えば有るかもしれないけど、それで即決戦思考になる程の危機感なら第四回以降だって激戦になると思いますが。
地侍が離れるといってもそもそも謙信の北信濃出陣の名目では既に追われて頼ってきた者の失地奪回な訳で、彼等が今更どっちにつくも何も無いと思いますが。
そしてそうした事情がある以上彼等の不満を抑える為に何もしない訳にもいかないし示威行動としての出兵の可能性はあると思いますよ。
>>173
飯山城は信越国境にあり、越後にとっては玄関のような存在だろ
割ヶ嶽を破却された直後だから謙信にとっては飯山しか残されてない
春日山と目と鼻の先にある飯山城の争奪は危険極まりない
第一回~第三回までの流れと内容を知っていれば
とても示威行動なんて余裕は謙信に無い事くらい分かるよね
謙信にとって致命的なのは後詰が出来ない時期が有るという事
これを鑑みれば野戦に持ち込んで起死回生を狙う戦略は当然だし
それしか残されてない
>>173 >>179
飯山城(高梨氏)は玄関なんてもんじゃないよ。
越後府中まで40kmしかない、最後の要。
それも平坦な道が多い。
大軍を動かすには便利なのだが、非常に危ない道でもある。
謙信は危機感を感じて
飯山城から10km強の越後国内に田切城てのを作ってます。
>>173
まあ、でも国境まで来てるし、その後が示威行動だったのは戦えば両軍アウトだったからかもしれないし(戦力ダウンしてますからね)、川中島で和睦はないでしょ。北信濃の反武田派は越後に遁走しているわけで。
あくまで上杉にこだわるか三河・美濃北部かあるいは上州を攻めるか?
その場合、信長が死んでいますよね。すると美濃北部ということに
なるのではないですか。中仙道を押さえている信玄にとってみれば、
斉藤道三亡き後の北美濃は、さしたる敵将はいないから草刈場だった
はず。信長が北美濃平定に苦労したのは動員兵力がまだ足りなかった
からで、信玄ほど動員兵力があれば、信長がした苦労は必要なかった
と思います。
川中島前後を見てると上野を攻めてるから、当面は上野だろう。
信濃と上野の二方面から越後を狙う戦略だったかも知れない。
あと飛騨も狙った可能性がある。
>>162
短期的に上野はあるかもしれませんね。
でも、信玄の生涯の目的は、あくまで京に武田菱の旗を立てることでしたから、上野は一地方戦の意義しかないですね。北条とはまだ同盟関係にあるから、あまりやりすぎると北条との関係も悪くなりかねない。厩橋奪取の目的はあくまで上杉打倒のためだったはず。
川中島を戦って、戦力の20%程度も失ったのに勝敗がつかなかったことは両軍とも痛手ですね。その後の天下取りの大戦さに参加する機会が失われたというか、相当遅れたわけですからね。やはり、桶狭間と川中島で得をしたのは織田と徳川ということでしょうね。北条の目は関東にしかなく、天下取りの野心はなさそうですから。
>>166
その話はねー
むかしむかしなにげなしに
諏訪か伊那の人に
「いわゆる上洛戦といわれるものは
領地拡張や保全だったという説がありますね
武田の兵農未分離やら兵站から言っても」
と言ってしまったのよ
そしたら温厚な人がむきになって
そんな兵糧や経済がどうのこうのよりも軍隊の強さでしょ!etc
と喰ってかかられた
それ以来あまりその話はしない
そのときは信州だから漠然とむしろアンチかも、という気もあったんだけどね
俺もそう思うなぁ、信玄は領土増えりゃどうでもよくて
最晩年にちょろっと思った程度で上洛にそんなに拘ってた様には思えない。
対抗上上洛して将軍抱え込むなりしたかったかもしれないが
越後とやりあってる頃は領土広げたいだけで
上洛とか天下とか考えてなかったと思う。
それなりの兵を置けば上杉も南下できないので、上洛する気になっただろう。
本当、山本勘助のせいで最悪の川中島になったわけだ。
遠江今川との挟み撃ちで。
そして、三河を今川と分割し、尾張の織田を今川・斎藤との連合軍で粉砕。
返す刀で美濃を切り取り、浅井・朝倉と同盟し、六角を滅ぼし上洛。
足利義輝を奉じ、管領となり畿内平定。
正三位大納言叙任を奏請。
そして、実質的に天下を掌握する。
中国の毛利と同盟し、若狭武田を乗っ取り、上洛命令に応じない大名を朝敵として追討。
まあ、これは今川義元が健在だったらというIF話ですからね。
川中島からは少し下った時点で考えてくださいよ。
信玄も越後か今川を併呑しないと天下への可能性なんてないわけで。
ただ中仙道を下って北美濃を取れば、岐阜(関が原を越えれば京までさえぎるものはない)を掌握できたろうから、魅力だったはず。
信長も美濃を取るまで天下なんて考えていたかどうか。岐阜城を取ってからでしょ、天下布武の印を使うのは。
>>172
>>(関が原を越えれば京までさえぎるものはない)
信長の場合は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の水運による補給路確保や浅井との同盟、同盟破綻後も美濃や近江の連中(武田で言えば真田や相木のような人達)を上手く使っていたからそういう状況だったわけで…。
中仙道も江戸幕府になってから整備されたルートだから当時は大兵力の移動にはあまり使えないルートだったんじゃないかな?
(武田も木曽から美濃方面ではなく伊那から東三河方面に進出、関が原の秀忠遅参も真田の抵抗というより街道未整備等による大兵力の移動・補給等が困難だったってのが原因のようだし)
そういうこと考えると美濃から近江を経て京へって志向があっても上杉の関東進出の二の舞になりそうな気がする。
>>174
中仙道の件、う~ん。そうかもしれないですね。
甲斐と府中(武蔵国府)の間は南北朝時代までに整備されていたけれども、甲斐と北美濃の間は、わからないですね。
甲斐からは一回、塩尻峠に出て伊那、飯田、中津川、恵那、美濃加茂(黒川)に出てくる線はあるけれども、確かに、戦国時代までに大軍が移動したという話は聞きません。
平安時代に全国の国分寺を結ぶための道路整備はあったようですが、それでも、大軍が
移動したという実績がないから、かなりしんどかったのでしょうね。
そうすると、武田としては越後か駿河・遠江に出ざるをえないのですね。
はっきりしているのは、飯山城が絶えず武田の脅威に晒される状態になれば、関東への出兵なんて全くできない、ということですね。その後のにらみ合いは越後だけを守るつもりだったかもしれませんよ。
関東への出兵はことごとく意味のないものになっていますから、管領としての行動はあきらめて越後一国を守るつもりなら、飯山死守、北信濃放棄という方針もありうる。そうなればその後、戦いをしないという選択もありえる。
>>182
それには同意ですが、だからこそ自分には第4回目は示威行動に思えるんですよ、謙信としては北信濃より実際は関東に力注ぎたく武田と決戦なんぞしたくなかったように思います。威嚇程度にしておいて牽制計りたかったんじゃないかと。
とにかく上杉軍の決戦当日の機動が本当に伝説どおり
武田が啄木鳥の戦法をとり、謙信がそれを完璧に読みきったと解釈するのであれば兎も角、そうでないのであれば、私には撤退コースにしかみえません、霧を利用しての撤退ではないとすれば、あの上杉の進軍はなにが目的だったのだろうか?
まぁ逆転するから
妻女山という”山”は東京で言うと高尾山のような高い山じゃなくて
せいぜい丘のような登りやすい山なんだろうな。
妻女山は今も昔も小さい割りに急勾配な山です。
今でも人が移動するに適した道的なものは無く、急勾配で木々が乱立する山を進むには縦1列が限界。
そこに夜、武装して体重負荷な1万2千人が移動となれば、急勾配故の滑落等の危険があり、頂上に到達するまでに時間がかかり過ぎてしまう。下山も条件は同じ。
啄木鳥奇襲部隊に気付かれずに越軍が夜に移動するには松明無しの下山となり、その夜だけで登山側、下山側で相当数の滑落負傷者が発生します。
まして当時のポニー系軍馬を率いての移動なんて不可に等しい。
これから奇襲を、これから下山し濃霧の中進軍を、の双方が合戦前に消耗しまくり。
啄木鳥戦法があったのなら、それは妻女山ではなかったのでは…
越軍の大軍が布陣するにも適していない。
妻女山の麓に陣を張ったという説も有るとか
犀川の付近に居れば飲み水には困らないし
ただ川や丘などの地形は変動が激しい
戦国時代と江戸時代、そして現代までに、かなり変化している場合がある
川中島周辺もそうだとしたら、
まず地形の再現をしない事には始まらないのかもしれない
>妻女山は今も昔も小さい割りに急勾配な山です。
いくら時代が異なっても、1万人が籠もるとなれば、山にある程度の規模があって、曲輪、武者だまり、食料備蓄庫、井戸・水溜めなどの設備を備えた半恒久的な城とするための普請作業が必要です。
だけど、戦闘部隊だけ連れて来て10日間のにらみ合いでは、どれだけのことができたかは甚だ疑問です。山麓に野陣を敷き、妻女山には見張り小屋を建て、山麓の高いところに本陣を急こしらえした程度のことだったのではないでしょうか。
夏にキツツキ号っていう周遊バスで上まで上がったよ
勾配が急で山頂以外で夜営するなら無理っぽかったな