邪馬台国の女王・卑弥呼が、中国・魏の明帝に貢献の使者を派遣したのは、西暦239年(前年の西暦238年説あり)6月のことでした。「三国志」の名軍師・諸葛孔明が没した、4年後にあたります。
その年の12月、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を授けられました。
これは3世紀の末、晋王朝の史官・陳寿が著した、有名な「魏志」倭人伝――正しくは「魏志」の「東夷伝」の「倭人の条」(1987文字)に出てくる記述です。
さて、この女王・卑弥呼は、日本側の記録ではどのように述べられているのでしょうか。
■孝霊天皇の娘か
「日本書紀」の著者は、第15代の応神天皇の母・神功皇后と同一人物とみなしています。
が、皇后の本当の在世は4世紀の中頃であり、歴史的には約1世紀のずれが生じます。天照大神こそ、との説もありますが、これではあまりに時代が遠すぎます。
筆者は第7代孝霊天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命ではないか、と考えてきました。
「日本書紀」によれば、この姫は三輪(現・奈良県桜井市三輪)の大物主神の妻となり、八百万神を神浅茅原へ集めて、大物主神の意を伝えた、とあります。筆者にはこれこそが、日本最初の、統一の原景ではないか、と思えるのですが。
■開化天皇在位年と符合
同時に、倭迹迹日百襲姫命が生きた時代は、姫の甥(姫の異母兄・第8代孝元天皇の子)とされる開化天皇(第9代)が在位した60年間とも重なります。ほぼ邪馬台国の女王・卑弥呼の、統治年数と一致するように思えてなりません。
また、開化までの、9代の天皇の御陵や宮址の伝承地は、ことごとくが葛城山麓に集まっていました。開化と次代の崇神天皇(第10代)の間には、地域的にも、呼称においても、大きな断層がありました。
崇神天皇は一名を「初国知らしし御真木天皇」(「古事記」)=「御肇国天皇」(「日本書紀」)と伝えられています。はじめて国を作った天皇の意であり、ちなみに初代の神武天皇も「神倭伊波礼毘古天皇」=「始馭天下之天皇」(「日本書紀」)と記されていました。
さらには、卑弥呼かもしれない姫の墓は、奈良県桜井市に今も、「箸墓」として伝承されています。筆者はこの墓こそ、卑弥呼のものだ、と推論してきました。
彼女が現れるまでは、男の王が立って治めていたそうですが、国々は争い、乱れており、それが卑弥呼の“鬼道”(祖霊を信ずる道教的色彩の強いシャーマニズム)によって、邪馬台国(倭国)は、ようやく統一された、というのです。
■卑弥呼が「親魏倭王」になれたワケ
卑弥呼は15歳前後で女王になり、30代で後漢と通じ、老年の239年に魏との国交を開いて4回にわたって使者を送り、10年後に79歳で死亡したといわれている。
最初の使者派遣の際、魏の皇帝は卑弥呼に膨大な贈り物を与えた上に「親魏倭王」の称号とその地位を表す「金印紫綬」を授けた。「親魏」という破格の高位の称号は他の諸国の王の上に置かれたことを意味する。これを許されたのは卑弥呼と「大月氏国(だいげっしこく)」と呼ばれたインドの王の2人だけ。卑弥呼は実力以上の評価を受けたことになる。
その理由は当時、魏が呉、蜀の2国と激しく戦い、競い合う三国鼎立(ていりつ)の時代だったことにある。魏は呉と蜀を牽制するために邪馬台国、大月氏国との同盟関係をアピールする必要があった。そうでなければ、小国の邪馬台国を実力以上に優遇する必要はなかったのだ。
>>4
常識的に考えると自国の国名に「邪」なんてつける可能性は低いので
邪馬台国=ヤマト国の当て字の可能性が高い。
同じ様に自国のトップに「卑」なんて字を使うほど狂ってたとは考えにくいので
卑弥呼=ヒミコ=日御子or火巫女を忌諱したと考えるのが穏当。
>>133
蘇我入鹿
蘇我馬子
蘇我蝦夷
これも絶対に後付だろ
イヤガラセ感が満載
その辺はそうらしいと言われてる
実際他の名前があったとかどうとか
ふつうに考えてヤマトじゃないのか
台与をトヨと読めば、自ずと邪馬台はヤマトと読める
じゃあイヨと読んだらヤマイ国になるの
その場合はヤマト地方の「イ」国になる。
イ=委=倭
倭国全体を指す言葉だよ
ところが魏志によると邪馬台国は30余りの国を治める都ということになっている。
これが30の国家からなる連合という意味なのか、30地域を治めるという意味なのかさえ分からない。
なにしろ邪馬台国って単語は魏志に1回しか出てこないしな。
邪馬壹國(ヤマイコク)ね
北部九州一帯の地域が邪馬壹國ですね
邪馬壹國と投馬國が女王の勢力圏
女王国とは伊都国と奴国のこと。
>>142
魏の使者は「倭」国の国家体制を間違って理解し誤用している。
中国人は倭人の住まう地域をいっしょくたにして「倭国」としていた。
一方、接見した倭人たちは自分たちをの国を「やまと」国としていた。
中国人は「倭国」が倭人の言うところの「やまと国」とを同義語と事実誤認して解釈した、、、
そして倭人伝に書いてしまった。
邪馬台国とは畿内を中心とした九州にも勢力が及ぶ連合国だったのだろう。
が、もちろんそれが倭国の全てと言うワケではない。
邪馬台国は最大国家であり連合国の中心的存在(都)だったんだろう。
事実破格の贈り物を魏からもらってるからな
それでは魏志倭人伝の引用をみてね
汝の在る所は遠きを踰(こ)える。すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。
今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。
汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。
今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。
銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。
今、絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。
又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。
還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜うなり。
解説はあとで
>>19
中華の感覚では贈り物というより臣下への褒美でしょ
よく朝貢してきたな。褒美をやろう みたいな
>>21
支配下における面積と、そこのリーダーの恭順
がメンツでしたからな
地元の人が見たこともない豪奢な物を中国から貰ってきたとなれば
中国の凄さが広まると同時にそれを貰ったリーダーへの周りの見る目も変わるからな
>>31
そのとおりだと思う
なので献上品よりも下賜品のほうが豪華になる
嫌なやり方だが圧倒的大国が辺境を支配するには賢いとは思う
238年に皇帝の曹叡が崩御して
239年に息子の曹芳が皇帝になる
この時に補佐役も変わって曹爽と司馬懿が国を仕切ることになった
皇帝と補佐役に権威付けが欲しかったタイミングで現れた
倭国の使者の難升米と牛利を魏は大いに歓迎する
>~以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。
魏は通常の返礼品を用意したうえで
>又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、
>五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、
さらに特別に倭国の使者が欲したものを与えた
卑弥呼に金印紫綬を与えるけど
使者の難升米に率善中老将、牛利は率善校尉の位を与えて
銀印青綬も与える
この破格の返礼品を持ち帰ったことで
卑弥呼は日本のほかの国(出雲、東海、北陸)よりも秀でた存在になり
のちの初期大和政権の礎となる
中国産の朱が使われているのは北部九州の古墳で関西の古墳には使われていないよ。
後の高野山で辰砂採掘の関係の事もあるので
そこら辺から繋りが出てきたら面白いですね
邪馬台国があると魏は考えた
魏は呉を北と東から同時侵攻できると考えたかもしれない
239年 曹爽と司馬懿が皇帝の補佐役となって国政を仕切る
244年 曹爽が蜀を攻めるけど大失敗して帰ってくる(興勢の役)
247年 曹爽が皇帝の権力を奪うことを画策
司馬懿は病気のフリをして動けないと思わせる
249年 司馬懿がクーデターをおこして曹爽の粛清に成功(高平陵の変)
新たに国政を仕切ることになった曹爽が
呉や蜀を攻める気満々だったころだと思われ239年
大きな意味では呉と蜀に対する牽制になるだろうけど、
直接的には曹丕が自分のことを烏丸を討伐して服従させた曹操に比肩する存在として邪馬台国を強大に描かせて、さらに服従してきたとする政治ショー。
魏国内で曹丕のカリスマ性を高めることが目的だったのではないかな。
229年にクシャーナ朝が朝貢して金印をもらった
その10年後倭国の使者がきて遠くからきたことをねぎらい
魏は親魏倭王の金印を与えた
理由はなんでもいいからとにかく魏はもてなしたかったんじゃないか
新たに皇帝や補佐役になったばかりで権威を内外に示したかった魏は
遠くから来て金印をもらったクシャーナ朝の前例を利用した
ヒミコの死後王位争いが起き13歳のトヨの即位により収まる
別に子供を王にするのは珍しくないが
それで実際に争いが収まるというのが普通ではない
なんなの?
ロリコンなの?
当時の15は立派な大人
女王の国って、対外戦争ではかなり弱い国だったんだろうな
>>248
逆じゃないかな
物理的軍事力は充分じゃないと、神権政治は機能しなくね?
もし仮に、東征があったとしたら、
西都原の妻国から行った可能性が一番高いだろう。
西都原は九州連合の一つで
その分家が東征して大和連合に担がれたんだと思う
次第に九州連合は縮小、大和が覇権を握ったのかお
そこで日本列島を支配する為に東征した記紀に書かれてるが
他にも適度な候補地にもなりうるような地理的条件の
広島、岡山、姫路、大阪、三重、名古屋などをスルーして
神武東征大和王権はナゼ?
周囲を山に囲まれた南奈良平野を首都に定めたのか解明する為
奈良県橿原市周辺に現存する古代遺跡群の厳密な再調査が必要だな
日本列島を支配しようとしてたんじゃなく
畿内の豪族連合に担がれ
出雲、吉備、尾張ももやむなしと言ったとこかと
じゃ何故?
神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は日本列島を収める為
九州に都を置いたままでは日本列島はまかなえないので
日向から東征に旅だったと古事記や日本書紀には正確に記されてるんだ?
>>400
古代日本には漢委奴国王一族と親魏倭王一族がいたんだ
漢委奴国王の一族は代々筑紫城で倭国を統治していたけれども
あるとき大きな乱がおこって敗北し親戚を頼って東の山奥まで逃げのびた
統治者がいなくなって空白地帯となった倭国で次の統治者になったのが
親魏倭王の一族だった
ところが親魏倭王の一族はあまりにも強大な初代女王が亡くなったあと
後継ぎがいなくてその勢力が瓦解してしまった
そこでまたぞろ出てきたのが東の山奥に逃げ延びていた漢委奴国王一族だった
「俺が真の王様だぞ!」だが誰も負け犬なんか相手にしてくれない
そこで出した苦肉の策が「女王の親戚の女の子」というどこの誰ともわからない
13歳の女児を御輿に担ぐ傀儡政権であった
でも歴史書に負け犬とは書けないので「東征」とカッコつけて書いただけ
ある時から突然関東から九州まで納める統一政権が奈良に登場する不思議
しかもその後分裂も抗争もなしに統一政権として存在し続ける
圧倒的な武力だけではなく圧倒的な権威を持っている何かが登場したんだろうなぁとしか
突然というよりは
空白の四世紀つまり一切の資料が残ってない時代があるので
突然に見えるだけではあるんだろうけどね
>>395
突然ではないでしょ関東から九州まで勢力範囲においた訳じゃない
それに信長~秀吉でも20年でその範囲は手中に収めてる
九州王権の分家の王を吉備、尾張、大和諸豪族が担ぎ上げ
出雲を追いやった
この出雲も後に大和王権に加わることになるが
そして大和王権がヤマトタケル、四道将軍らが
勢力を伸ばした
ぶっちゃけ「邪馬台国」が存在していたとしても
その規模が大きければ大きいほど、その後の開発でぶっ壊れている&ほとんど発掘出来ない、で「ハッキリ断定出来ない」となり
その規模が小さければ小さいほど、全体が状態よく保存されてる可能性は高い反面、「邪馬台国にしては小さすぎる」でアウトとなり
どっちみち、決着はつかなさそう。
>>429
規模の大小は関係ないんじゃないか?
魏を知っていた情報網と朝貢出来る財力に優れていた一連合国家と考えるべき
「九州説」と「畿内説」って言っても
そっから更に分けれるからややこしいんだよな
邪馬台国は畿内にできて、そのまま大和朝廷になった←これが一般的な畿内説だろう
邪馬台国は九州に、畿内に大和朝廷がそれぞれできて、大和朝廷が九州を征服←これが5ちゃんの多数派の九州説
邪馬台国は九州にできて、卑弥呼の時代の後に畿内に遷都して大和朝廷になった←これはどうも「九州説」に分類されるっぽい
邪馬台国は九州にできて、卑弥呼の時代の前に畿内に遷都したので、卑弥呼は畿内にいた←これはどうも「畿内説」に分類されるっぽい
位置を素直に読んだら台湾か沖縄にある国だよ
なるほど海路が曲線だから距離を稼げたってことか
場所くらい分かりそうなものを
事実ではなく史実からより合理的であろう推測に基づいて定義する
実に浪漫のあるいや浪漫そのものの学問だよね
だからこそ区切りをつけなければ永遠に論議できる学問なので面白い