暇だったら見ていってクレメンス
魯粛は字を子敬といい、臨淮東城の人である。
生まれてすぐに父を失い、祖母と共に暮らした。
家は財産で富み、性格は施しを好んだ。
この時天下は乱れていたが、魯粛は家のことを治めずして、大いに財貨を散財し、田地を売って貧困のものに施して士と結ぶことに務め、甚だ郷邑の歓心を得た。
周瑜が居巣長になり数百人を率いて故意に通過して魯粛の機嫌を伺い、併せて資源兵糧を求めた。
瑜、益知其奇也、遂相親結、定僑札之分。
魯粛の家には二つの米蔵があり、各々三千斛の米があった。魯粛は一つの米蔵を指し周瑜に与えた。周瑜は益々その優れていることを知り、遂に親交を結び、公孫僑と季札のような交わりをした。
実は義侠心の塊で超武闘派の魯粛さん
演義やとパシリのイメージあるけど正史では周瑜に匹敵する大戦略家やからな
一斛=180?
三千斛=540?
※公孫僑と季札は共に春秋時代の政治家で互いに親交があった
袁術はその名声を聞き魯粛を東城長に就けた。魯粛は袁術に秩序がなく、共に事を企てるのに不足しており、老人を携え侠を軽んじる少年百余人と南の居巣に到り周瑜に付いた。
乃攜老弱將輕?少年百餘人
「老弱」は老人や子供、「輕?」の輕は年輕(若い)の意味やから
任侠少年(チンピラ)やね
そうなんか
補足サンガツ
周瑜の東に渡るのに共に同行し、曲阿に家を留めた。
曾祖母が亡くなり、帰って東城に葬った。
劉子揚(劉曄)は魯粛と友人であり、魯粛に手紙を送って言った
手紙の内容は鄭宝が人を集めているので気を付けよ、
東城に留まって何事もしないようにせよとのこと
魯粛はその計を然りと答えた。
魯粛は葬儀を終えて曲阿に帰り、北に行こうとした。
周瑜と会ったが、その時魯粛の母は移動して呉に到着していた。
魯粛はつぶさに現状を周瑜に語った。
諸葛亮にはいいように扱われ
周瑜にすら駄目出しされまくっとったもんなぁ
個人的には周瑜に
「お前は外交の才能0や」とか言われてたのが本当に可哀想やった
初めて横山三国志読んでた時は
なら呉の別のやつを使者に使えよって思ってたわ
草
確かにそうやな
その時、孫策は既に死んでおり、孫権はなお呉に住んでいた。
周瑜は魯粛に言った「昔馬援が光武帝に答えて言うに『今の世はただ君主が臣下を選ぶのではなく、臣下もまた君主を選ぶのです』今主人(孫権)は賢者に親しみ士を貴び、奇才を受け入れ異才を集めている。
※馬援は光武帝に仕えた漢の功臣
趙奢を祖先に持ち、その子孫こそが蜀の馬超である
や漢神
推?事勢、當其?數。終搆帝基、以協天符、是烈士攀龍附鳳馳?之秋。
私が聞くに昔の哲人の秘密の論に天運を受け継ぎ劉氏に代わるものが必ず東南において興るという。私が事の趨勢を推論するにそのことは運命である。しまいには帝王となり天命に適い、烈士は龍にすがり鳳凰に従うように馳せ参じる時である。
私もこの域に達した。足下(魯粛のこと)よ、子揚(劉曄)の言葉で意に介さぬように」魯粛はその言葉に従った。
まだまだやな
劉表すら死んどらん
周瑜がこのように薦めるのは、魯粛の才が時期の助けを得られ、広くこのような才を求め、これをもって功を成すべきであるからだ。去らすべきではないからだ。
これw
孫権はすぐに魯粛を引見し、共に語って甚だ喜んだ。賓客の皆が退出して魯粛もまた辞して出た。孫権はただ一人魯粛を引き留めて返させベッドで共に酒を飲んだ。
こういうやつやったんか
時間なくて詳しく調べないままにしててスマン
正史読むのは楽しい
敵対勢力に使えとるのに連絡取り合ったりしとるし
この時代、意外とそのあたり緩いよな
諸葛亮も魏の高官と書簡のやり取りしたりしてるしな
孔明「徐庶とかそっちで元気にしてるかなあ?…」
司馬懿「ええ?…(困惑)」
考えてみれば、徐庶に直接手紙送れば良かったんやないか?
「今漢室傾危、四方雲擾。孤承父兄餘業、
思有桓文之功。君既惠顧、何以佐之」
こうして密かに議論して言った「今漢室は危機にあり、四方は雲の如く入り乱れている。私は父兄の事業を承り桓公、文公のような功を有したいと思っている。君に目をかけたが、どのように補佐してくれるのだろうか」
桓公は斉の君主で名宰相管仲を採用し覇を唱え、
文公は晋を下し覇権を握った
「斉桓晋文」は二人を称した言葉で
覇者としての引き合いに出されることが多い
魯粛は答えて言った「昔、高帝(劉邦)の勢力が弱かったとき義帝を尊敬し従事しようとしましたがそれが出来ず、義帝は項羽に殺されました。
義帝は項羽の主君であったが
自分こそが天下の主たらんとする項羽に殺された
項羽は覇王を名乗り天下を治めようとしたが暴政で身を亡ぼした
孫権が最も信頼したのは周瑜でも張昭でもなく、この魯粛
ワイは呂蒙やと思う
死ぬ間際の呂蒙に対する気遣いは異常なまでやったわ
魯粛が生きてる間は魯粛で、そのあとは呂蒙かもしれんな
ここはどっちがどうともワイには判断できんわ
魯粛も呂蒙も両方孫権の重臣やから比べられんわな
呂壱「ワイやぞ」
確かにお前は重用されたけど
そのせいで周りがどれくらい損害被ったと思っとるんや
今曹操は昔の項羽のようであります。
将軍は何故桓公文公のようになれましょうか?
爲將軍計、惟有鼎足江東、以觀天下之釁。
魯粛が密かに計るに、漢室の復興は出来ず、曹操もまた除くことが出来ないでしょう。将軍が計るべきは、ただ江東を鼎の足のごとく地盤として天下の隙を見ることでしょう。
この時期に漢を見限ってるのが、このころの知識人としては凄い
このように規範すれば、自らを嫌悪することはありません。北方の何者も誠に任務が多いのです。その任務の多さに付け込んで黄祖を除き進軍して劉表を討伐し、長江をすべて手に入れこの地に拠り、しかる後帝王を号して天下を計れば、高帝の業となりましょう」
周瑜や甘寧もやけど、この時点で既に天下分割の戦略が出てるんよな
多分やけど、益・荊・揚の南中国は既に中原とは違う帰属意識が出てきてて、
南北朝の萌芽なんじゃないかと思う
周瑜、甘寧、魯粛をもって南北朝の始まりとするのは面白い考えやな
この3人がと言うより、南中国の知識人やな
中原を捨てて移民してるやつらが多いから、
漢に対する帰属意識が低くなってるんやと思う
確かにそうやな
このころの漢民族のあり方としては異例やけど移民やと考えるとそうなんやろなぁ
孫権は言った「今、私はただ一方に力を尽くし、漢を補佐することだけを願っている。この言は私が及ぶところではない」
張昭は魯粛に謙虚さが不足しているとすこぶる毀損し、魯粛は年若く粗忽で用いるべきでないとした。
おまゆう
嫌うことなしで悩むことは無いみたいなニュアンスなんかな?
「者」は人以外にも意味あるから難しいわ
多分「なぜかというと」のが合ってる
これ、完全に若者の考えを理解できん年寄よなw
張昭は孝廉に選ばれとるし礼節を重んじる人物やから
そもそも魯粛とは合わなさそう
張昭の魯粛への批判は士大夫としての空気の読めなさへの批判やな
現代で言うたら世界情勢が傾いてるのは皆分かっててそれをどうしようか
頭付き合わせてるトコに、もうどうにもならんから
ぶっ壊れた後の事考えようやと直言するようなもん
というより価値観の違いやと思うで
最近の若いもんは礼儀がなっとらん!
的な
孫権は意に介さず、益々重用し、魯粛の母は衣服や幃帳(垂れ幕)、
住居や雑貨を賜った。富は昔に匹敵した。
エラい地味そうやが
次で劉表死ぬで
でも正史の赤壁は大抵数行で終わるから
そんな期待できるもんでもあらへんけどな
劉表が死んだ。魯粛は進言して説いた「そもそも荊州と楚は隣接した国で、水流は北に順じ、外は長江と漢川を帯び、内は山と丘を険阻とし、金城の堅さがあり、肥沃な土地は万里あり、士と民は豊富におります。もし、この地に拠れば、帝王の資本となります。
今劉表が新たに亡くなり、その二子は元より親睦せず、軍中の諸将は各々が分かれております。加えて劉備は天下の梟雄で曹操に隙があると劉表に身を寄せました。
劉表は劉備の才能を憎み、用いませんでした。もし劉備と彼ら(劉表の二子)が心を同じくして協力すれば慰撫して同盟を結ぶのがよいでしょう。もし心を違えていれば、別に計って大事を成すのがよろしいでしょう。
魯粛がお願い申し上げます、命を奉じて劉表の二子の弔問をして、併せて軍中の重要人物を慰問し、劉備に説いて劉表の兵を慰撫させ、心を同じくし、意を一つにし、共に曹操を治めさせましょう。劉備は必ず喜んで命に従います。
そのように調和できれば天下は平定出来ましょう。今速やかに行かなければ、恐らく曹操に先を越されましょう」孫権はすぐに魯粛を行かせた。
重大事件やから嫌でも耳に入ってくるやろ
夏口に到着し、曹操が既に荊州に向かっていると聞き、朝夜兼行した。南郡に到った時には、劉表の子劉琮が既に曹操に降伏し、劉備は恐れ慌て奔走し、南に長江を渡ろうとしていた。
魯粛はこれを迎えに行き、当陽の長坂に到着して劉備と会い、孫権の心のうち、及び江東が強いことを述べ、劉備に孫権と力を合わせることを勧めた。劉備は甚だ歓喜した。
時に諸葛亮は劉備に随行しており、魯粛は諸葛亮に言った「私は子瑜(諸葛瑾)の友である」すぐに交流を結んだ。劉備は遂に夏口に到着し、諸葛亮を使者として孫権に遣わし、魯粛もまた復命しに行った。
※諸葛瑾は諸葛亮の兄
孫権に会うと、孫権は曹操が東征しようとの情報を得て諸将が議論していた。皆孫権に降伏を勧め、魯粛は一人言を出さなかった。
周瑜は天下二分やけど、このころ魯粛は天下三分を見据えてる
諸葛瑾を通じて、すでに天下三分の計の話し合いがあって、
劉備が荊州を短期間でも守ることができれば、呉が豫・徐州方面に兵を出すという
算段ができてたんじゃないかとワイは推測してるわ
これ面白い推察やな
話通じてたんなら間接的な後詰やないが
そういう確約あってもおかしくないな
おもろい
孫権は衣を直しに立つと魯粛はその下を追い、孫権はその意を知っていたので、魯粛の手を取って言った「卿(魯粛のこと)よ、何を言わんとするのだ?」
魯粛は答えて言った「群臣の議論から察するに、専ら将軍を誤らせ、大事を計るのに不足しております。今、魯粛は曹操に降伏出来ます。将軍は出来ないでしょう。
少なくとも赤壁の後に
荊南四郡をあっという間に平定出来る兵力があったからな
何をもってこれを言うかというと、今魯粛が曹操を迎えれば曹操は私を郷里に帰し、その位を品評し、なお曹操の下で従事を失わず、牛車に乗り、吏卒を従え、士と交遊し、様々な官職を受けられ、州郡を失いません。
将軍が曹操を迎えれば安全な場所に帰ることを欲することになるでしょう(安全ではいられない)。願わくば早めに大計を定め、群臣の議論を用いることのなきよう」
孫権は嘆息して言った「群臣の議論は甚だ私を失望させた。今、卿は大計を開示し、正に私と同じであった。これは天が卿を私に賜ったのだろう。」
周瑜はこの場におらんから、魯粛がおらんかったら、
三国志は三国志になる前にここで終わってたと思う
天下三分の計も含めて、ワイが異様に魯粛を高評価する理由や
遂、任瑜以行事、以肅爲贊軍校尉、助畫方略。
時に周瑜は命を受け?陽に到っていた。魯粛は追って孫権に周瑜を召して帰るようにさせた。遂に周瑜は事を行わせる(曹操と戦う)任を受け、魯粛を賛軍校尉にしてそのはかりごとを助けさせた。
曹操を破り敗走させると、
魯粛はすぐに帰還し、孫権は諸将に魯粛を迎えさせた。
短いwww
これで赤壁終了や
他の伝でもそうやけど
赤壁って実際は何やったかよくわからんのやで
魯粛は御殿に入り礼拝しようとしたが、孫権は立って礼を尽くし言った「子敬(魯粛)よ、私が鞍を持って下馬させ迎えれば、卿(魯粛)を顕彰するに足りるだろうか?」魯粛は小走りに進み出て言った「足りません」諸将はこれを聞き、愕然としない者はなかった。
座に着き、おもむろに鞭を挙げて言った「願わくば貴き人(孫権)よ、威徳を天下に広め、全土を統括し、帝業を成してくだされ。更に賢者への礼をもって魯粛を取り立てて下されば初めて顕彰となりましょう」孫権は手のひらを撫でて笑った。
※安車?輪=賢者をもてなすこと
しかし、魯粛が全土を九州と表現したのは漢代より前に中国大陸が九州に分けられており、それが全国を指す言葉として定着していたためである
この後、劉備が京城に詣でて孫権に見え、荊州を都督することを求めた。ただ魯粛が孫権にこれを貸し、共に曹操を拒むことを勧めた。曹操は孫権が土地を劉備に与えたと聞き、書を作っている途中であったが、地面に筆を落とした。
ここも周瑜だとおそらく認めず自力でやろうとする
孫権が劉備に譲渡したのは荊州全土ではない
赤壁の戦いの後、
劉備は武陵、長沙、零陵、桂陽の四郡を、
孫権は南郡のみを切り取った
正史には南郡を譲ったという記載はないが
劉備は麋芳を南郡太守としており、
どの時期かは不明であるが南郡を借りたのは明白
劉備は「涼州をとった後に荊州を返す」と述べており
荊州(南郡)借用を認めている
孫権は後に荊州返還を求めたが
その土地は長沙、零陵、桂陽で劉備が借りた土地ではない
孫権は荊州を攻め、劉備と争ったが最終的に和睦した
結果
南郡、武陵、零陵を劉備の所属とし、長沙、桂陽を孫権の所属とした
要約するに荊州領土問題は南郡を返還しなかった劉備と
南郡以外の土地まで返還を求めた孫権によって生じた問題であるといえる
正当性でいえば
劉表の後を継いだ劉琮が降伏した曹操が一番である
次いで劉琦を擁立した劉備に正当性があるが
劉琦の荊州牧は自称と変わらない
孫権に至っては劉表と対立しており正当性など全くない
ここで何故か周瑜の上奏(ほぼ遺言)が入るが
魯粛に関係ないので前半を省略
悲しいなあ
そもそも周瑜伝に載せるべき内容なんだよね
何で魯粛伝に載っとるんやろ?
瑜、隕?之日、所懷盡矣」?拜肅、奮武校尉、代瑜領兵。
魯粛の知略は任をこなすことに足り、私(周瑜)の代わりにすることを請います。周瑜は死ぬ日が来ても、思うところを尽くせます」すぐさま魯粛に奮武校尉を拝命させ、周瑜の領土と兵を代わりに統率させた。
周瑜の兵士四千余りと封土四県を皆魯粛に属させた。
程普に命令して南郡太守を領させた。魯粛は江陵に住まい、後に下って陸口に駐屯した。威と恩は大いに行われ、兵は一万余人まで増え、漢昌太守、偏将軍を拝命した。
建安十九年(214年)孫権が皖城を破るのに従い、横江将軍となった。
横の繋がり在ったから
この頃も士大夫は独自のネットワークで情報のやり取りや交換しとったんだろな
んで時には偽情報掴ませて騙したり騙されたりとか…
勢力間を超えた人物の繋がりってなんかロマンあるよな
簡潔に述べると孫権が蜀を狙ったが
劉備はこれを騙して先に益州を攻めたという内容
及羽與肅隣界、數生狐疑、疆?紛錯、肅常以歡好、撫之。
孫権は言った「狡猾な奴め、騙したな」
こうして関羽と魯粛は隣合わせとなり、何度も疑いを生み、
その境では紛争が起こり、魯粛は慈しみをもって撫安した。
備聞、自還公安、遣羽爭三郡。肅住益陽、與羽相拒。
劉備が益州を平定すると孫権は長沙、零陵、桂陽の返還を求めた。
劉備は承知せず、孫権は呂蒙を遣わして兵を率いて奪取させた。
劉備はこれを聞き、自ら(荊州の)公安に帰り、
関羽を遣わして三郡を争った。魯粛は益陽に駐屯し、関羽を拒んだ。
魯粛は関羽を迎え相見え、各々の兵馬を百歩の上に駐屯させ、
ただ将軍が刀のみを持って共に会うことを要請した。
魯粛は関羽を叱責して言った「国家は弱くなり、土地を卿(関羽)の家の者(劉備)に貸したのは、卿の家の軍が敗れて遠くから来たからであり、資本とするものが無かったからである。
今既に益州を得たのに、奉還の意が無く、
ただ三郡を求めただけでも、命に従わぬのか
※魯粛の言い分だと荊州全土を劉備に貸与されていることになっているがそもそも孫権が荊州南部四郡に兵を出した記録も無ければ四郡を切り取ったという記録も無い
多分やけど、兵や兵站を劉備に融通したんじゃないかな?
それがなければ劉備は荊州四郡を取れんかったとか
そういう考え方もあるのか
実際のところ記録ないからわからんけどそういう推測も出来るな
魯粛は何とか呉蜀の戦争にならんように苦慮したんだろうと思う
後で述べるけどこの話は創作やとワイは考えとる
ワイもこれは同意見や
魯粛と関羽のやり取りは無いと思う
あまりに呉に都合がよすぎる
「夫、土地者、惟德所在耳。何常之有」肅厲聲呵之、辭色甚切。
語り終わらぬうちに、座っていた一人の者が言った「そもそも土地というものは徳のある人の元にあるだけだ。どうして常たるものであるのか」魯粛は声を激しくして叱咤し、言葉と顔色は甚だ切迫であった。
関羽は刀を使って立ち上がり言った「これは国家のことで、お前に何がわかる」目配せしてさらせた。劉備は遂に湘水を境として土地を割譲した。これにおいて軍を治めた。
単刀付会だっけ?
劉備の方にも何か借りが無いと
ここで土地を割譲する理由が無いからな
せや
そもそも土地のことについて交渉するのに
その相手が劉備ではなく関羽というところがおかしい
また魯粛の言い分だと荊州全土を劉備に貸与したことになっているが
実際は南郡のみしか借り受けていない
傲慢で孫権すら見下している関羽が
このことについて反論しないのはありえない
この三点から作り話と言えないだろうか
演義の孔明の引き立て役魯粛きらい
演義は諸葛亮の主人公化に伴って
魯粛は伝書鳩みたいな役割になっとるからな
權、爲舉哀、又臨其葬。諸葛亮、亦爲發哀。
魯粛は四十六歳にして、建安二十二年(217年)に没した。
孫権は悲哀を挙げ、その葬儀に臨んだ。諸葛亮もまた哀悼した。
孫権が皇帝を称すると、
壇に臨んで公卿を顧みて言った
「昔魯子敬(魯粛)はこの道(皇帝になること)をさししめした。
事の趨勢に明るかったと言えよう。」
永安中、爲昭武將軍、都亭侯、武昌督。
魯粛の遺児魯淑が壮齢になると
濡須督張承は私の地位に到達するだろうと言った。
永安中、昭武将軍、都亭侯、武昌督となった。
後に建衡中、仮節、夏口督となった。
所在は厳整で、地方を幹する才能があった。
鳳皇三年(274年)に亡くなった。
子の魯睦が爵位を継ぎ、兵馬を領した。
評曰く。曹操は漢の丞相たる資質に乗じて天子を擁して群雄を掃討し、新たに荊城を揺り動かし、東方に威を帯びていた。この時議論した人に疑念を抱かぬ者など居なかった。周瑜、魯粛は独断の聡明さで人々の表に出て、実に奇才であった。
もし、魯粛が長生きしてたら、呉が蜀を裏切るのも全力で止めてると思うわ
魯粛の方針は
あくまで劉備に力を持たせて三分を維持しつつ勢力拡大やからな
呂蒙みたく蜀を狙わんだろう
やから、呉は魯粛までが天下を目指してたと思うんや
あそこで蜀を裏切ったら、呉の天下なんてほぼなくなるからな
荊州は揚州の川上で所謂玄関みたいなもんや
そこを敵対する勢力に握られるのは盗賊に門を貸し与えるようなもんで
呂蒙の方針も間違いやないいんやけどな
呉が天下を取るためには荊州で争わず北進すべきだというのは同意するで
見てくれた人サンガツ
質問があれば答えるんで何でも聞いてクレメンス
それと明日からちょっと忙しくなるんで
次の全文訳はしばらく出来そうにないわ、スマンな
やる気はあるんで時間があいたらまた再開するわ
こちらこそ見てくれてありがとうやで
豪族の集合体みたいなもんやからな
二宮の変もそれが一因やしなぁ
二宮の変って後継者問題に豪族が絡んで結果両成敗やからな
張昭や諸葛瑾が頑張ってた可能性が
その二人が抑え役やっとったから名君に見えたけど
孫権の本質は暴君やからな
帝位につく前は評判良かったんやけどな
多分横山がおっさんに書いたせいだと思うわ
魯粛 172年生
周瑜 175年生
呂蒙 178年生
陸遜 183年生
呉の都督連中って実は歳が大差なかったりする
昔横山三国志で見た時はこんなに長生きとは知らんかった
横山やと丁奉なんてちょい役やからな
呂蒙 関羽殺して荊州奪還
陸遜 夷陵で蜀軍を叩きのめす
魯粛の印象の低さってインパクトの強い功績が無いのが原因なのかも
確かに他の三人は大戦で勝ってるから魯粛は見劣りするわな
魯粛の時は丁度、大きな戦が無かったからな…
何かあれば違ったんやろうけど
まあ、呂蒙の場合はちょっと違う気がするわ
適当な言葉かどうかわからんが卑怯というか何というか
人形劇三国志の呂蒙は酷かったわ
ワイはあれで大人になるまで呂蒙=卑怯残虐のイメージ植え付けられたわ
あれ呂蒙さんが名誉毀損でNHK訴えたら勝てるで…
一応同盟関係にはあったけどあの時期はかなり険悪な状態やったから
一概に呂蒙ばかりが悪いとは言えへんけどね
呂蒙は孫権の望みを実行しただけやからな
そもそも天下三分の計がまず魏を叩く、やからな
呉蜀が争ってはその目的が達成できん
実際、魏を倒した後は雌雄を決したらええ、みたいな話し合ったやろ?
孫権と諸葛亮の盟約や鄧芝の話やな
それは劉備が死んでからの話や
ああ、劉備の死後やったか
でも、天下分割論者は南から中国を統一したかったんやと思うで
自分らが天下を担いたいという権力欲かもしれんし、ほかの何かかもしれんが
せやね
後ワイも呉蜀争っては魏に対抗出来ないって部分は同意や
黄忠・法正 定軍山の翌年に病死
張飛 夷陵前に部下に殺される
馬超 夷陵辺りでひっそりと逝く
馬良 夷陵で戦死
糜竺 弟絡みの問題で体調崩して病死
うーんこの
法正しんだの痛いな
法正長生きしてた、北伐は法正の仕事やったかもしれん
まあ、その前に諸葛亮に消されるような気もするが…
諸葛亮は反乱を企んだ李厳ですら
ギリギリまで使う人物やからそれはないで
でもな…劉備が重用した人物を、ちゃんとした理由はあるんやけど、
殺したり左遷しまくってるからな…
なんかすっきりせんもんがあるんよな
諸葛亮は秩序を乱すやつが大嫌いやったんやないかと思う
李厳の諸葛亮の陰謀なのでは、と穿ってみてしまうわ
李厳は諸葛亮に皇帝になれとそそのかしてる
この時点で処罰出来たけど
諸葛亮は冗談で返してそれ以降は普通に用いてる
また陳震が李厳に注意しろと言っても
諸葛亮は人材不足だから仕方なく使うと答えている
それに李厳の罪は明らかだったし左遷は陰謀でも何でもないよ
李厳はあくまでもワイの想像の話や
諸葛亮を悪人としてみた場合、
あまりに都合よく政敵になりうる人物が消えて行ってっるというね
だから、李厳に失敗の可能性の高い兵糧輸送を任せた、なんてねw
むしろそのイメージと真逆と考えて貰った方がええわ
諸葛亮は李厳伝や法正伝、楊儀伝からわかるように
問題となりそうな人物でも才能があれば重用してる
それに李厳、魏延、楊儀の失脚はそれぞれに責任があって
諸葛亮のせいじゃないで
やから、その真逆を考えて、
あくまでも小説的に悪人諸葛亮を妄想するとおもろない?という話なんや
ワイも史実の諸葛亮がそんな人物とは思ってへんで
ああ、空想の話か
意図が読めてなくてスマンな
もうちょい蜀大きくして魏を弱体化させれば
呉の天下もあったんやないか?
魯粛の場合蜀を保たせながら
魏を叩いて魏が弱体化したら蜀を叩くと思う
関羽は利用価値があるまでは生かしておくんやない?
呂蒙は隙を見せたら殺しにかかる姿勢だからなあ
金持ちのボンボンと斬るか斬られるかの世界で
生きてきた叩き上げの差やね
何があったんやろ
関羽の呪いちゃう(適当)
呉は孫堅以来有能の若死にがスタンダードやから…
まぁ例外も居るけど
呉に短命が多いのは長江には水銀が多く含まれていたからとか聞いたけど
実際どうなんやろ
あーなんか聞いたことある
こいつらも進んで飲んでたりしてたんかな
水銀は初めて聞いたな
ワイが知ってるのやと風土病が原因ってのがあるわ
曹操軍が赤壁で疫病にかかって撤退したのが根拠とか
どの本で読んだか忘れてソース提示出来ないんで鵜呑みにしないでね
曹操軍は巻貝の寄生虫もなかったっけ?
そういう説もあるんか
大概この時代の憤死て毒殺とか暗殺なんやろなあ
感情だけであんなに人は死なんよなw
夏侯淵 呂蒙 関羽とどの陣営も重臣が消えとるし
全勢力が天下を取るための決定打を失った年かもしれんな
漢中奪取から劉備の死亡まで重臣が死にすぎや
関羽の「老いぼれ」発言以外に根拠なかったよな?
それ以外に根拠なしや
正史では年齢不明の人物
過労死不可避の人やったから
人格に難ありでも使える奴は取り敢えず使わないと負担がね…
登山家「そこでワイの出番ですね!丞相!」
お前は黙ってろ
張飛は行けると思うけど、関羽はどうやろうな…
諸葛亮は劉封でさえ制御できんと考えてたからな…
張飛なら出来たはず、関羽は劉備でも無理
仲悪すぎだけど二人とも使えるという諸葛亮の頭痛の種
結果は誰も残らないという有り様
誰も幸せにならない世界
陳寿は、北伐は魏延に任せて諸葛亮は後方支援をすればよかったのに
ぐらいに考えてたんじゃないかと
孔明は蕭何になれたやろうけど魏延は韓信にはなれんやろなあ…
司馬懿どころか曹真にも対抗出来たかどうか
蜀に韓信か白起でもおればなぁ
趙雲こそ能力的にはよくわからん人物やで
個人の武勇はあって、ある程度の戦上手でもあるとは思うけど
後からアホみたいに活躍盛られたという事は
それぐらいされるぐらいの下地はあったと思っとる
盛ったのが『趙雲別伝』という
ひょっとしたら趙雲の子孫とかが書いたかもしれん書物
っていうのが問題でな…
趙雲は鎮東将軍まで上がったけど
これはどのくらい地位と見れば良いんやろ
方面軍の司令官クラスやな
ただ、蜀では任せる方面軍が無いけども
大将軍 驃騎将軍 衞将軍←現代の元帥クラス
前後左右将軍←現代の大将クラス
鎮東西南北将軍 定東西南北将軍←現代の中将クラス
とかだったような?…
うろ覚えやから自信は無い
劉備死亡後の重臣 魏延・楊儀・李厳
どの道孔明は問題児押し付けられる運命やんけ!
馬良や麋竺みたいなぐう聖が生き残っとれば良かったんやけど
夷陵関係で死んだからな
法正さんが生きてりゃ東征を止めてたやろかもね
楽しかったわ
ありがとうやで
こちらこそ見てくれてありがとうやで