劉淵⇒石勒は、信長⇒秀吉に似ている
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>>107
確かに、劉曜なんか柴田勝家まんまだと思う
張賓が竹中半兵衛で、徐光が黒田官兵衛あたりか
凄まじい調略の仕掛け方も、秀吉っぽいぞ>>石勒
殺戮に殺戮を重ねて新たな時代を築こうとしているようにしか見えない暴れっぷりに惚れる
劉曜は軍事的才能だけで評価すれば、東晋十六国通じて10本の指に入る戦巧者だろうね。
洛陽、長安を攻略して河南方面での漢の勢力拡張に貢献しているし、石勒陣営の320年代№2石虎、№3石生を立て続けに撃破、その上冉閔の父親石瞻を討ち取るという凄まじい寄せを洛陽争奪戦(328年)で見せている。
最終的には石勒との直接対決で敗れてしまうが、従容とした死に様はある種の美しさすら感じさせる。
しかし、娘は12歳で石虎に攫われたっつーのが……orz
酔って戦い石勒に敗れるあたりがまたいい
北朝は北魏、南魏、西魏、北斉、北周となってるし
桓温の建てた楚王朝は三ヶ月余りで終っているから
楚を正規の王朝とは認めてないんじゃない?
でもま、三ヶ月じゃあなぁ
ちなみに『竹馬の友』とか『断腸』とかの言葉も桓玄と関係深いし。
それと『臭を万年に遺す』も有名だし。
臭を万年に遺すは桓玄らしい台詞だよな
まさに野心家の面目躍如w
この台詞は野心を燃やして
夜、寝付かれぬまま呟いたんだと言われているんだって。
自分が見出だした謝安にその野心を阻止されたんだから皮肉なものだ。
同じような立場でも王導と王述の場合とは全く正反対だな。
宋王朝を建てる際、桓温の楚が80日余りでこけたのを劉裕は反面教師にしたりしてるし
ホント歴史っておもしろいな!!
>>128
ご指摘はありがとう、確かにそうかも・・・
チベット系テイ族の首長苻洪は後燕の石虎の下に雌伏していたが息子の苻健が後趙の滅亡に乗じて長安に拠って自立したのが前秦。
苻健の死後その子の苻生が天王となってたがかなりDQNだったので従兄弟の苻堅がこれを倒して357年天王の位
についた。
しかし、民族的寛容になりすぎ、しかも先を急ぎすぎたことにより苻堅の天下統一の理想は脆くも崩れ去ったんだよな。
苻堅といえば王猛
そして二人と慕容垂の係わりが面白い
>>131
慟哭して吐血では
苻堅は王猛を劉備が孔明を得たのと同じように大切な存在と引き合いにだしてだしてるし、苻堅がシ肥水で惨敗した時慕容宝が苻堅を殺して自立しようとすすめた際、慕容垂は苻堅には大恩があるからそんなことは出来ない自立、王朝復興は関東ですればいい、苻堅は関西へ帰してやろうと言ったんだよな。この時代には珍しく仁義あるエピソードですな。
苻堅を初めて知ったのが孫子の注釈本。
その中の客、水を絶り来たらんとせば~半ばシ斉らしめてこれを撃つが利なり。の解説で引用されてたのが、シ肥水の戦いで謝玄が「少し後退してわが軍を渡河させていただけまいか。そのうえで堂々の勝負をしたい。」申し入れたのを承諾。
苻堅は東晋軍が河を渡りかけたところを叩くつもりでいたが秦軍が後退する際、朱序が「秦軍は負けたぞ」と嘘を叫んで回った為に秦軍は浮き足だってしまい逆に東晋軍に追撃される羽目に。
それを読んだ時は87万も率いて8万の東晋軍になにやってんだってこいつというのが苻堅に対する俺の第一印象だった。
その後どんな人物か調べるうちに天下統一の為に結構大規模な構想で持っていたんだなって凄く見なおしたよ。まあそんな苻堅もこれ以後悲惨な末路を辿るんだよな。王猛の忠告を聞かなかったばかりにorz
王猛の逝去がもっと先で苻堅が民族融和をじっくりと時間を掛けて行って、東晋が楚か宋に簒奪されるまで待てば天下統一も夢ではなかったかも?
>>142
七十一歳かな
圧巻は参合陂で、慕容宝と慕容徳が北魏に大敗すると、なら、と自ら軍を率いて、北魏の都平城を陥しちゃうところ。帰還途中に上谷で没したけどね
垂の人生はドラマになるよね
北魏は後燕から広寧、上谷を獲得、山西省を領有、東方でも常山を獲得するなど勢力を急激に拡大して、華北の勢力分布は大きく変わっていったんだよな。
垂が一矢報いたけど、大勢は北魏側に流れていたんでしょう
併せて宝と子の会の争いが更に拍車をかけた
あれだけの人間が死ねば、影響はでかすぎるだろうね
なかなかの名将で、垂の片腕的な存在
内紛後南燕を建国するわけだけど
惜しいのは二代12年で国が滅んだことかな・・・
何だかんだ言って、慕容部最高の傑物は慕容恪だろう
段遼、冉閔を撃破して、桓温、王猛をして前燕侵攻を挫折させる武威の持ち主
(イメージ的には智将の姿が流布しているが、実際は猛将タイプだよなあ)
内紛を回避するため、ひたすら低姿勢を貫き通す思慮深さ
長生きしていたら、王猛や桓温と激突したんだろうか?
石虎の存在ってこの時期の人物達にどれだけ影響与えたんだろ?
慕容儁の石虎に対する憎悪は病気染みているほどだったが
一人の人物の死が、歴史を一気に動かした点では、稀有な人間だよな >>石虎
>>153
慕容恪は臨機応変な奇策を得意としたし、苻堅も彼をはばかって攻めてこれなかったんだろ。王猛としてもかなり苦戦しそうだな。桓温は慕容恪の見込んだ慕容垂に負けてるし結果は同じじゃないかな?
石虎は軍を率いるのに優れ後趙が華北を広く征覇出来たのは彼の力が大きいが傍若無人だしな。その石虎も死後、自分の子孫38人を冉閔に殺され、その冉閔も石虎を憎む慕容儁に殺されるとはなんとも皮肉な話じゃない?
慕容恪→慕容垂の流れで順調に行けば良かったのにね
やはり慕容評が問題だ
こんな奸人を重用した日韋も問題だが
どちらかというと、太子石邃の方が最初傍若無人なんだけどね
石虎はどちらかというと、止める立場だったが
それが石邃、石宣を殺して・・・
別に石虎を誰かと比較したかった訳じゃないし…
〇〇と比べたらとか言うのなら、南斉の六代目宝巻、東昏侯の方が目茶苦茶な人物だってなっちゃうし。
こちらも比較する気などさらさらないんですがね
ただ、石邃は酒色にふけり、臣下の妻妾を犯し、官女の首を切り・・・その他諸々
石虎の息子だからの部分もあるでしょうが
弟の石宣らが父に寵愛されることを恨み、挙句父をも恨み、病気見舞いに来た父の使者である、女官を撃ち殺した
それでも親父の石虎は、石邃の側近を殺しただけで、息子を一度は許し、なおも謝りもしなないので、仕方なく流刑後殺害
このあと石虎がおかしくなって行ったというのが、私の見解
まあ石勒は高祖本記とか読んで聞かせて貰ってたし。
諸臣との雑談で「自分が漢の高祖に出会ったら恐れ入って臣従する」と言った関連だと思う。石勒自身は文盲だったけど史書を読んで聞くのが趣味なほどの歴史好き。
へぇ~そうなんだ。
石勒が劉邦の事に凄く関心を持ってたのは知ってたけど。
勉強家と言えば魏の曹孟徳が
有名。
孫子の注釈をしたり、陣中でどんなに忙しい時でも夜に必ず読書していたほどだし。
曹操
劉淵
石勒
符堅
劉裕 って感じ?
符堅
慕容垂
劉裕
蕭衍
宇文泰
実際に帝位についた初代という条件ならこの五名だと思う
つーか三国と十六国の前半・後半と南北朝で時代が隔絶してるだろ
先にめぼしいの上げたら多すぎたんで削ったら残ってしまった
高洋とか宇文ヨウとかも覇者といっても問題なさそうだけど
魏晋南北朝の五覇ねえ
曹操(対抗:劉備、孫権)
石勒(対抗:劉曜)
苻堅(対抗:桓温、慕容垂)
劉裕(対抗:桓玄、赫連勃勃、拓跋珪)
拓跋珪(対抗:慕容垂、赫連勃勃)
個人的には、こうなるな
苻堅に関しては、同時代の桓温、慕容垂も覇者の資格を持ってるから、評価が難しい
宇文泰、高歓の両名は仲良く喧嘩しすぎだ、決定力不足と言うべきか
その時代の唯一の統一者司馬炎がそいつらに劣る件w
司馬炎は統一してるから覇者の範疇に入らないからな
>>173>>176
司馬炎は統一王朝の皇帝とは言っても
彼自身はただ祖父の司馬懿、父の昭、伯父の師がお膳立てしてくれたのを受け継いだだけだろ?
炎は奢侈で淫行、後宮には一万人以上の女性を入れていたぐらいだし。
所詮、呉の孫晧と変わり無いDQNだろ?
陳舜臣氏が小説十八史略の中で
司馬家には放蕩の血が流れているようで
不遇のときは英明だが権力を手にすると酒色にふけると述べているし。
慕容垂より石勒の方が覇者と呼ぶにふさわしいと思うんだが。
結局のところ、慕容垂は後秦と華北を分けあって終わったわけで。
帝位につくまでの難易度も、徒手空拳の石勒と前燕の余録があった慕容垂とでは、かなり違うんじゃないの?
宇文泰と高歓なら、前者の方が優秀だと思う。
東魏が北魏の豪族・官僚をゴッソリと継承したのに対し、西魏は十分の一かそこらの人間しか集まらなかったし。
例1:禁軍15万の内、孝武帝の出関に付き合ったのは一部隊1万5千のみ。
例2:東魏(というか高歓)は、衆百万と号された葛栄の遺衆をそっくり吸収した。
例3:爾朱榮の旧部下、精兵の大半が高歓の配下になった。
例4:西魏の軍は賀抜岳の兵四、五万だけが元々の中核。人口不足は北周期にも改善されず、北斉侵攻時の総兵力も八万にすぎない。
…これだけ差があって互角に戦ってしまった高歓を、覇者として単純に認められるかと
いうと、個人的には疑問符が。
そんなに高歓は宇文泰より見劣りするの?
『財物、あに常には守るべけんや。』と言葉からして先見の明があり、のちに北魏の実権を握り北斉の始祖となる訳だし人物としてはなかなか思うのだが。
北斉の皇帝は後主と廃帝殷を除いて戦争には強いが酒乱で暴虐だよな。高歓も酒癖悪いし遺伝のせいか?
>『財物、あに常には守るべけんや。』と言葉からして先見の明があり、
その言葉が先見の明に当たるだろうか?
この時代、「義を重んじ財を軽んじ、施すを好み士を愛す」という類似の表現を使われる人物が相当数出ているのだが…。
高歓のピークは爾朱一族を滅亡に追いこんだときじゃないか?
これにしても、賀抜岳が西部戦線を担当してくれなければ危なかった(だから高歓は賀
抜岳を警戒して暗殺させた)わけだが。
ただ、北魏の実権を握るに至った将帥・政略家としての手腕は高く評価されるべきだと思う。問題はそれ以後、六鎮の乱を起こした原因でもある貴族と下級士族の対立状況を解消できなかった点か?北斉の「権貴VSたたき上げの将帥」の構造にそっくり引き継がれて、滅亡の一因になってしまったのは…。
西魏は西を吐谷渾、北を突厥、東を東魏、南を梁に包囲された状況で、しかも梁にはドサクサで漢中まで奪われてる至弱の国家だったことを加味すると、ここから天下統一の礎を築いていった宇文泰の能力は、相当傑出してると思われるが。
>>175
貴殿ほどの博学さならご存じかと思いますが?
高歓が件の言葉を吐いた経緯と以後の行動を。
北魏の辺境に土着していた高歓は伝書使となってたびたび都に上がっていたが、あるとき、都で将軍が暴徒に殺されるのを目撃した。彼は帰宅すると、財産を処分して徒党を集めはじめた時人に訳を聞かれて、都の様子と、それに対し朝廷は対処できないと説明して件の言葉をいったんだよな。
もし高歓がこの時、家産を守ることに汲々としてたら、よくて地方の豪族で終っていたはず。先見の明があるとはそう言う意味で言った