そう考えれば機動力ある八旗軍ならウィーンはおろか、パリ、ベルリン、ロンドンも包囲できたかもね。
コーヒーならぬ、餃子がヨーロッパに流行ったりして。
まあ、出先のコサック兵だけどな。
それって、朝鮮出兵の時に現地の朝鮮に投稿したサヤカが朝鮮に鉄砲技術を伝えるとともに、彼の子孫が清の先達となって、ロシア兵と戦ったんだよ。
もし清朝の軍事技術とオスマン・トルコの軍事技術が同程度だとすれば清朝軍がパリやロンドンまで進撃しえたかどうか疑問。
この条約はオスマン・トルコが決定的に衰退期に入ったことを示すと言われる。
敗因には色々あるがこのころからヨーロッパの軍事技術の優位が歴然としてきたことも一因とされる。18世紀になるとオスマン・トルコはヨーロッパに対して完全に受身になった。清朝はそのような時期に「全盛期」を迎えたわけ。
その清朝軍がヨーロッパ諸国の本国の主力軍に勝てたとは思えない。
カルロヴィッツ条約は、オスマンが「はじめて」譲歩した条約を結んだわけで、衰退が決定的になったわけじゃないと思うが。そもそも1683年の敗退は軍事技術というより、政争の一貫として物見湯算的に行われた遠征だったことに敗因がある。
1699年は、拡大の一路にあったオスマンが停滞に至る分岐点であって、まだ衰退とは言えない、というのが最近のオスマン研究論調のはず。
18世紀前半のオスマン領土は一進一退だったので、このあたりの期間が「軍事的に」欧州と互角だった、と言えるのではないか。衰退が決定的になった目安は1774年でしょう。
18世紀初頭にはチューリップ時代なんてのもあったし、1736年にはベオグラードを奪還したりしてるよね。でもやはり「斜陽」の感は否めないと思う。18世紀前半にトルコの砲兵隊がかなり強化されたのは事実だがそれもボンヌヴァルというフランスの軍人に依存していたという所にトルコとヨーロッパの力関係の変化が象徴されていると思う。
西欧の影響を衰退の目安とするなら、西欧の影響下で国力をつけた明治期の日本はなんだったのか、ということになる。軍事における銃は、16世紀からオスマン、サファビー、ムガル、明、日本に伝わっており、スレイマーン治下、既に西欧とイスラームの優劣がオスマン朝にて論じられるようになっていた。つまり、西欧の影響を、東洋の衰退と見るなら、オスマン朝も清朝も、18世紀以前に衰えていた、という見方も可能になる。
アウラングゼーブの存命中は各地の諸侯の大部分は渋々ながら彼に服従していた。彼の死後は諸侯は公然と皇帝の命令を無視したり、さらには逆に自分が皇帝を傀儡化する者さえ現れた。18世紀後半にはムガール皇帝の実権はデリー周辺にしか及ばなくなっていた。
ともかくも大部分の諸侯を実際に服従させているのと、首都周辺にしか実権が及ばずときには逆に諸侯に傀儡化されるのとでは根本的に事情が違う。アウラングゼーブによるカリスマ的統一とはそういうこと。
確かに西欧から文化的影響をうけることはただちに「衰退」を意味しない。
しかし西欧から不平等条約を押し付けられたり、領土を割譲させられたり、政治的、経済的に従属させられるようなことになれば「衰退」といわざるを得ない。そして大部分のアジア諸国はそういう意味で「衰退」した。
日本だけは積極的に西欧の文化を吸収して何度かの戦争にも勝って西欧諸国から対等の「列強」として認められ、不平等条約の改正にも成功した。
そういう意味で日本だけは「衰退」を免れたといえる。
メワール太守やパシュトゥーン人などは公然と反乱しているけど。
こちら不勉強なので申し訳ないが、「大部分は渋々ながら」の部分を具体的に教えていただけると助かります。
別に喧嘩を売っているわけではなく、ムガルのような社会・政治体制の「解体」と、オスマンのような(あくまで比較の上での話しだけど)集権国を同列に扱っているように思えるので、質問を続けているのです。
オーランゼーブはカリスマというより、「狂った奴を相手にしても仕方が無い」というのが本音だったように思えるのですがね。
越南やビルマ相手に大損害を出している
とてもヨーロッパ制服は無理
それに比べればオスマン・トルコのほうが常にヨーロッパと交流してそれなりに兵器の改善もしていた。それでも18世紀にはヨーロッパに対抗出来なくなっていた。
東でサファヴィー朝に破れ、ヨーロッパでは無益な消耗戦を繰り返し
17世紀後半にキョプリュリュ家の活躍で盛り返して最大領土になるも
上に書いてあるとおりハンガリーを失って衰退が決定的に
まだ産業革命は起こっていなかったが、砲兵、工兵のような軍事技術ではそれが既に応用されていた。そのため非ヨーロッパ諸国が努力して一時的に追いついても、すぐにまた追い抜かれるという事態が生じていた。
清朝ほそのような時代に成立したわけでただ地理的にヨーロッパから遠かったおかげで18世紀の時点では「繁栄」を謳歌することが出来たに過ぎない。
そのような大改革を行う可能性が同時代の中国にあったとは思えない。
ヨーロッパではプロシアのフリードリヒ大王が奮戦したが、より視野を広げると、イギリスとフランスの覇権争いという面があってアメリカ大陸ではフレンチ・インディアン戦争が行われたし、インドのプラッシーのの戦いもその一環だ。イギリス艦隊がマニラ(当時スペイン領でスペインはフランスの同盟国)を占領したこともある。清朝が周辺諸国にチョコチョコ出兵して十全武功などと言ってる間にヨーロッパ人は世界の覇権をめぐって世界的規模で戦争をしていたことになる。18世紀清朝の「繁栄」はまさに「井戸の中の蛙」。
おそらく林則徐も世界史的にはタレイランに負けないくらいの偉人だが、
環境によるスキルは、もんの凄い隔たりがありそうだ。
それは洋務運動の成果。
ただ、7千程度の八旗軍で10万の明朝軍を一夜で壊滅させたサルフ戦を考えると、淋しい限りだ。 どの王朝の末期にも言える事だが。
俺が思うには1600年の関が原の合戦の時点では欧米と日本とでは軍事技術はほぼ同等だったが100年後の元禄期には大差をつけられていたんじゃないか。
貿易で金持ってからは輝いてる
ヨーロッパが俄成金になったのはアメリカ大陸の銀山を手に入れてから。
特にジャガイモ。
なんにせよ新大陸発見で旧大陸の歴史も大変動した。
当時最も大砲を活用してたのがオスマンだから、そのオスマンに隣接するイランが、さらにその隣のムガールより大砲が発達してても自然だろう。
意外もなにもイランは伝統的に尚武の文化で、
ムキムキマッチョな男が尊敬されるし、
どこの街にも男をムキムキマッチョに鍛える道場がたくさんあって繁盛してる。
その後あまり進歩しなかったのかな。ムガールの全盛時代といわれるシャー・ジャハーンの時代でもムガール軍は火器の劣勢のためイラン軍に苦戦させられている。
ヨーロッパ人の宣教師を使って新式の銃砲を作るというような事は考えなかったのかな。
インド統一したらもうあまり軍備に力入れる必要が無いんじゃないか?
イランやオスマンはもう四方八方にいろいろ隣接してるから
軍備には手抜きできないだろう。
オスマン・トルコ 3千万
インド 6千万~8千万
イラン 500万~800万
この人口でオスマンやムガールと対等に戦争をしたんだから
イラン人は強いし兵器も優れていたと思う。
何処で対決するの?
とても大軍を動かせる場所じゃないな。
サファヴィー朝やシャイバーニー朝と戦う度に惨敗してるじゃん。
一方の清は過少評価。
17世紀末の清はアルバシン要塞のロシア軍を駆逐し、更に中央アジアまで遠征して遊牧帝国のジュンガル部にも圧勝してる。
当時の清は陸戦なら世界最強国家だよ。
大きな犠牲を出している
ジュンガル戦の勝利でさえも
ジュンガルより大きな犠牲を出している
質より量だ
軍事的には(相対的に見て)ヌルハチ~ドルゴンだと思う
山海関は超えられなかったが
規律などはこの時代が一番よかったと思う
劣っていた中国が世界最強国家とは思えない。
量と物資では最強クラスではあったと思う
この間のころの清だったらヨーロッパにも勝てたとは思う
産業革命以前だよね
イギリス相手は、クロムウエル対ドルゴン、負けそう。さらに海戦だとすでにイギリス最強。清如きでは到底勝てない。
フランス相手だと、リシュリュー時代だが、防衛線なら勝てそうだが、攻め入って明みたいに占領できるかというと無理
ドイツは30年戦争だね。ワレンシュタイン対ドルゴン。1対1なら互角だが、うまく相手を孤立させれば勝てるだろう。
イタリアは苦もなく占領できそう、でも海軍に苦労しそう。
スペインは衰退期だが、ナポレオンさえ苦労してるからどうかね。
ロシアはいけるだろ、クリミアハン国に捕虜にされてトルコで奴隷に売られてた時代だし。
そのヌル八チの軍隊がヨーロッパに勝てたとは思えない。
明との戦いのときでも
火器には
塹壕で対抗していたらしいし
康熙帝時代の清軍なら物量でヨーロッパの軍を圧倒できるよ。
同時代のオスマン・トルコ軍の実績をみるとどうかな?
同時代のオスマン・トルコ軍っていうと北方戦争でロシア軍に勝った頃だろ。
そのオスマン・トルコ軍よりも清軍は更に強い。
そりゃ、オーストリアに惨めに連戦連敗してハンガリーどころかベオグラードまでも奪われたオスマンよりは康熙帝時代の清のほうが強いだろ。
でもそれじゃオーストリアと互角ってことで、イギリスフランスを相手にすると到底勝てないと思う。
明朝が清朝に交代してもそのような条件が変わったとは思えない。
「質より量」でヨーロッパを征服するなんて不可能。
彼は大砲の改良に熱心で砲兵隊を革新したといわれている。
おそらく清より兵数でも装備でも劣っていただろう
ミャンマーやベトナムやグルカは清相手に善戦できた
これを考えるに
戦い方によっては装備で劣る清もヨーロッパに勝てるかも
最後は人海戦術になりそうだが
侵攻作戦の場合は通用しない。
やっぱ蒸気船が実用化されて地球の反対側まで兵力を比較的楽に送りこめるようになったのが大きいと思う
阿片戦争で広東の沖合いに押しかけた40隻のイギリス艦隊のなかに蒸気船は数隻しかなかったといわれている。
イギリスはインドの方が忙しくて1819年にラッフルズがシンガポールを取得するまで東アジアに拠点がなく、東アジアに軍隊を送る余裕がなかった。
兵力差があれば勝てる可能性があるという事例だが
欧州勢より強いという事例ではない
強弱を測るまともな判断材料にはならない。
暴論。
ヨーロッパに片足突っ込んでるトルコだって繁栄していた。距離の問題だけじゃない。
18世紀はヨーロッパの躍進が加速した時代でもあったが、アジア的な大帝国が最後の繁栄を謳歌した時代でもあった
18世紀のトルコはヨーロッパに押されて、既にこの世紀の後半にはヨーロッパ諸国から「病人」扱いされていた。18世紀末にセリム3世が改革事業を始めて失敗しているが、そのような改革が試みられたということ自体がトルコの衰退ぶりを示している。
ムガールも1707年のアウラングゼーブの死後急速に解体現象が進んで18世紀中葉にはムガール皇帝は有名無実化していた。
イランは1722年にサファヴィ朝が滅亡して短命王朝が興亡する状態。
ジャワは18世紀中葉には既にオランダに平定されていた。
中央アジアは世界の表舞台の座から退場。18世紀のアジアで繁栄していたのは東アジアと、東南アジアの大陸部だけ。
ムガールの解体が始まったのはオーランゼーブ死後じゃないよ。
即位後のヒンドゥーへの人頭税課税などへの圧倒的な人数のヒンドゥー民の離反と無理なデッカン遠征中の諸地域の反乱から解体は始まっていた。
それはわかっているがアウラングゼーブの存命中は彼のカリスマ的威信によってなんとか統一は保たれていた。
脱線するけどアウラングゼーブのあとを継いだバハド-ル・シャー1世は軽視されがちだね。在位僅か5年だったけど彼の在位中はムガールの威信はなんとか維持されていた。しかも彼は宗教的にも寛大だった。
突飛な仮定だがアウラングゼーブが30年早く死んでバハドール・シャーが即位していればジズヤの復活もなかったろうし、ムガールの寿命ももう少し伸びていたかもしれない。
オーランゼーブのカリスマ統一というのは矛盾した内容だと思うけど。
威信や権威による統一ということなら、清朝は末期まで持ち続けたし、サファヴィー朝などはガージャール朝成立頃まで権威を持ち続けた。
ムハンマド・アリーもオスマンのスルタンを尊重し、その配下にとどまった。
国の衰退とは、社会や経済、政治体制のことも含めての話であって、オウランゼーブ治下のムガルの解体と18世紀のオスマン衰退とは同列には語れないと思う。
もっともこれはムガルの権威が続かなかったということを意味しない。18世紀に入ってからもムガル朝の権威が続いたのはご指摘のとおり。
ムガールやトルコは17世紀までだな
チューリップ文化も最後の爛熟って感じだし
ルネサンス末期のイタリアみたいなもんだろ
17世紀後半の神聖同盟との戦いはやっぱりダメージでかいよ
それ以前にも負けることはあったが
オスマンの大軍があそこまで連戦連敗することそれまでなかったからな
国力が急に衰退はないだろうが
あれでかなり自信失ったろうな
18世紀はトルコが弱くなったというよりヨーロッパが強くなったというのが正解か
アワド太守のように解任されたのにそれを公然と拒否する者を現れる。
デカンのハイデラバード王国のように皇帝が任命した太守を殺害して作られた国もある。アウラングゼーブはともかくもジズヤの復活を強行したり諸侯に出陣を命じる力を持っていたが彼の後継者達は諸侯に対して何の手も打てずムガールは彼の死後たちまち空中分解の形になった。
マールワールやメワールが反乱を起こしたのはもっと後の話。
参考になります。ありがとうございます。
ただ、ジスヤの復活は1679年、メワールの反乱は1680年頃だと思います(以後継続的
に続く)。
デカンはオーランゼーブ治世中から反乱していたはずで、ハイデラバード国は最初からムガルの領域外(宗主権は認めていたかも知れないが)なので、ムガル直下の太守とは同列に論じられないのではないでしょうか。
細かいことかも知れませんが、「オーランゼーブ死後急速に解体」ということと、「オーランゼーブ治世中に解体が始まった」ということの違いは、オーランゼーブ治世がなんだったか、という点で重要な論点でもあるので、再三記載させていただいている次第です。
アウラングゼーブはデカンのビジャープルやゴルコンダのようなイスラム王国を滅ぼし、シヴァージーの後継者サムパジーを捕らえて処刑して一応デカンを平定してるよ。ただしマラーターのゲリラ戦は長く続いてアウラングゼーブを絶望させたのは周知の通り。またハイデラバードの王国はムガールの大臣だった人物が建てたもので(その際マラーターの助力を得たが)これも一種の分離現象といえる。
という部分ですが、軍事的制圧と、「解体」とは別物だと思いますよ。
オーランゼーブの場合は、無理な外征がそのまま解体に結びついているので、彼の外征・支配領域拡大=衰退のはじまりとの認識があります。
そういう見方も可能だと思う。アウラングゼーブの存命中からいわば求心力が弱まりだしていたことは事実。それでも彼の存命中は大部分の諸侯は少なくとも表向きはムガールに服従していた。彼の死後は諸侯は皇帝の意思を全く無視して貢納しなくなったり勝手にその地位を世襲化したり更には諸侯自身が皇帝を傀儡化したりした。アウラングゼーブの存命中は弱まりつつあるとはいえ、存在していた一定の求心力が彼の死によって一挙にゼロになった。俺が言うカリスマ的統一とはそういう意味。
ありがとうございます。だいたい理解できました。
>>各位
ところで、ムガルの解体と産業革命前の欧州の対決という本題に順ずる話題に戻りますと、解体後の各国や南方各国は、それなりに力を持った国もあったように思うので、ムガル解体=欧州優位 とは直ぐにはならないように思うのですが、このあたりはどうなんでしょうね。
インドってはっきりいって弱いでしょ
目と鼻の先にあるオスマンは19世紀まで西欧勢の本格的侵入を抑えたけど
インドは18世紀の時点で喜望峰周らないと行けない程遠くて兵力もたくさん送りこめない状況なのに
英仏はどんどん領土拡大して他人の庭で戦争してる状態だからな
まさにやりたい放題
英がうまいこと立ち回っていつのまにか支配されてたんだから
強い弱い以前の問題。はっきりいってバカ。
うまく立ち回ったら征服されたじゃダメなんだよ
そもそも現地人が協力したってのも現地人が西欧勢が魅力的にみえたわけだからな
西欧が大したことなかったら協力なんてしない
これも戦争しまくって征服したわけだからおかしいわ
現地人が使ってるけど現地人使っちゃいけないってルールもないしな
石油が出る前のオスマン領アラブ地区に対して魅力があったとは思えないし、イランなんぞにも価値はなかったでしょう。その点インドは16-18世紀当時の欧州にとっては魅力だったので力を入れて進出しようとしたんじゃないのかな。
あまり関係ないと思うよ
西欧勢がアラビア進出した時はまだ石炭が主流だったし
相手を支配する場合は、相手に絶対こいつには敵わないって思わせることだよ
オスマンと違って西欧の耐性がなかったインドは少数の西欧人の技術力に圧倒されて
ほいほい配下になったんだろな
もちろん経済的な問題とか他にもいろいろあるんだろうけど
ポルトガルの時代から欧州と接触してるから
現地勢力に欧州製の武器が流れててもおかしくないよな
ただ運用能力がね、インド人兵士はずぼらで火器を濡らして使いものにならなくなっても平気だったり
プラッシーの戦いも英人900人、仏人50人で残りは現地兵力を使ってたし
こんなんで数億のインドを征服するんだからやっぱりイギリスはすげーよ
統治能力、組織力が半端ないな
ブリテン島はドイツ人が王様になってるけど揉めてないでしょ?それはドイツ人の王とは別に議会に権限を与えているからだ。それと同じく、インド支配に当たって、インドの奴隷とイギリスの白人様の間に「均衡」構造を持ち込んだ。だから成功した。
それとインドなんて最初からやる気ないからアメリカ人がやってきたら、そいつらに服従してるだろ。というか現在すでになってるかwインドに買って喜ぶのはストⅡでダルシム相手に連勝して喜ぶようなものだろ。イギリスのすごさはこの奴隷スクラップ・インドに鉄鋼生産・アヘン生産をさせて世界の覇者として利用できたところかな。
イギリス艦隊の半分はコレラの蔓延などで崩壊寸前だった、清の内部分裂がなければ普通にイギリス負けているだろうな
17世紀に戦争してたら100%清が勝つ。オランダやロシアは清の辺境軍(明の残党)に完敗しているんだし
オランダは1200で鄭成功は2万5千、
コサックは500程度で清は1万
勝てなきゃバカだろ
そんな有利な状況であるにもかかわらず本気で戦えなかったということが
すでに清朝の命脈が尽きてたということだ。
ミニエー銃もまだない頃だしな。機動性の高い野砲で差が付くぐらいか?
目だって苦戦したのは住民が決起して作った平英団相手の時ぐらいで
その時は豪雨で銃が使えなくなった
全体の戦況みるかぎり少なくとも戦闘に関してはイギリス軍の圧勝にしか思えん
どっちも滑腔前装銃でしょ。英軍は雷管式かもしれんが。
軍事を語るとき、よく物量が全てみたいな言い方をする奴が多いけど、実はソフト的な部分がかなり重要だと思うんだ。
もちろん、どれほど優秀な兵士でも銃とバター無しでは何もできないのは事実だが。
逆に銃もバターもなんでもそろっていたのに、何もできなかったのが近世アジア諸帝国なのかなと。
物量があっても、それを管理する兵站、ロジスティックのノウハウが無ければ、いたずら物資を腐らせるだけだからな。
近代軍は義務教育との両輪ではあるけれども、やっぱソフト部分の比重は結構でかいんじゃねーかなあ。