スケ-ルも同時期の百年戦争より大きい。
チェコ人だけの民族運動だと思ったら西スラブ人全体の民族運動だったのね
チェコのフス派とポーランドのフス派が「連帯」したんだと
ポーランド王国が両国のフス派を支援したんだってな
8千ほどの農民兵で火器と荷車を改造した戦車を使って
ジシュコフの戦いで撃破
「撃破」という表現はおかしい
十字軍側は統制の取れた軍隊ではなくて、
西欧各所の領主が郎党を連れてきただけ
この時代の戦争は、季節についても考えないといけない
作物の収穫時期や冬だと十字軍側は戦意がないから、
とりあえず教皇の勅命だから戦場に集まって
それでちょこちょこ攻撃を仕掛けてアリバイを作ったらあとは領地に帰ってしまう
これを見たフス側は「わが軍による撃破」だと”喧伝”した
だからさ、これって撃破じゃないんだけど…
具体的なソースが欲しいです
たった数千のフス派が数万の大軍をフルボッコにしたとでも
本気で信じ込んでんの?
そんなの当時のヨーロッパの軍隊や戦争のデフォだ。
逆に、常備軍としてやってたフス派軍こそあの時代は特殊だったんだよ。
フス派って農民が主力だった筈なのに
オールシーズン常備軍やってられたの?
常備軍だよ。
だから農民の負担が大きくて生活が大変だった。
でもそこは強烈な神への信仰で乗りこえた。
それだけにチェコフス派の過激派のターボル派は
過激なんてもんじゃなかった。
狂気だな。
兵農一致だったのかな。
農繁期には農業に精を出すけど、手の空いている時は軍事訓練に精を出し、
そしていったん招集がかかれば兵隊として戦場に赴くという感じで。
スイス国民兵みたいなもんか
それはフス派じゃなくて、ヨーロッパの騎士とその郎党の生活だ。
特にポーランドの人口の1割を超えていた
貴族シュラフタ階級の多くはそうだった。
日本の武士階級に似ているな。
そんな戦術は場所と状況が著しく限定されるし。
載ってたの?
俺は馬車は移動防壁だと思ってたんだが。
だな
フス派の馬車は戦車じゃないだろ
あれを横倒しにして後ろから槍を構えて、騎士の突撃を防ぐんだよな
移動するのに重くて大変だから馬に引かせた
傭兵だったジシュカ氏としては
そもそもの着想が都市城塞の攻防戦だったらしく、
どっちかというと「柵」というか「壁」だそうな。
はじめは唐棹と弩だったのが銃になり砲が増えていったらしい。
んで車両の間とか、台据え付けたとこから砲撃。
東欧では割と昔からあるよな
カルカ河の戦いのロシア軍とか
ビザンツと戦ったときのぺチェネグ族とか
まあ、だからこれ自体は特に目新しい戦術ではない
その有効な戦術を運用しきれなかった勢力が大多数であった以上、
特筆すべき点ではあるんじゃないかな
フス派は守る側なんで
長距離移動は必要ないからそういう馬車とかが使えた。
一方ハプスブルクの十字軍はヨーロッパのあちこち遠くからやってきて
攻める側だから、機動的な兵装しかなかった。
現物が残存している。
偽作だという説もあるが。
あとはまあ、百年戦争がなければ大シスマから
コンスタンツ公会議への流れが変わってたかもしれない程度には。
フス戦争のもう一方の当事者である
神聖ローマ皇帝ジギスムントの父カール4世とかになると
もうちょっと百年戦争に関わってるんだが。
祖父のボヘミア王ヨハンに至ってはクレシーで戦死してるしな。
ついでに言うとルクセンブルク家の分家は
百年戦争で主にブルゴーニュ派で結構活動してて、
ジャンヌ・ダルク捕らえた騎士もその血筋だったりとか。
ルター派とほぼ一体化しているようだが。
タボル派は穏健派によって皆殺しにされた。
穏健派という名前の割に穏健じゃないな。
カルヴァン派が一番多くて
次にローマ・カトリック
次にルター派
その次に東方正教会だっけか?
平民はカトリックとルター派、
次にカルヴァン派、東方正教会、
フス派兄弟団(ポーランド兄弟団&モラビア兄弟団)
の順だったと思う。
どこかで読んだ。
・隻眼の傭兵
・聖杯の旗
・異端十字軍
足りないのは美少女だけ!
どっちかというとアメリカ人が食いつく要素を感じる
これが日本におけるメジャーとマイナーの決定的な差
12世紀の北条政子は美少女だったのではないか?
そのまま肉体的にも精神的にも成長して大権を握ってたら
ジャンヌが今ほど人気あったかどうか
他国を巻き込むことはできなかったんかな?