朝鮮征伐を考察してみよう
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朝鮮軍の戦死武将(三品以上)
鄭撥、尹興信、宋象賢、洪允寛、李宗張、申石吉、元豪、元喜
柳崇仁、徐礼元、鄭湛、高敬命、趙憲、鄭運、金時敏
沈岱、金千鎰、崔慶会、黄進、元均、李億祺、李福男
任鉉、崔湖、呉応鼎、黄世得、郭越、李舜臣、李英男
明軍の戦死武将(遊撃以上)
載朝弁、史儒、廬継忠、楊万金、李寧(副総兵) 、李寧(参将)、廬徳功、鄧子龍
日本軍の戦死武将(一万石以上)
来島通総
日本軍には
へうげものの甥という大物将軍が戦死しているんだがw
へうげものの甥は13万石の大大名
中川秀政は鷹狩中に敵兵と遭遇して討ち取られているので
戦死とは言えません。

留都大将の李陽元(正一品)も退却途中で死んでたはず
李陽元は国王が明に帰化したという誤報を聞き
憤激のあまり食を断って自害してます。
なので戦死とは言えません。
これって東洋文庫の朴鐘鳴訳の懲毖録の訳注がソースだと思うけど
何を根拠にしてるのか不明
宣祖修正実録だと伊川郡に遁走する際に死んだとしか書いてない
それは知りませんでした
なるほど、手元にある「壬辰戦乱史」には
出典としていくつかの文献の名がありますが、
どれも後世のもののようです。
なので李陽元についてはとりあえず保留したいと思います。
阿蘇越後守
福原信濃守
稲井左京大夫は無視すか....
阿蘇越後守て沙也可ではないかと言われている岡本越後守のことですよね。
彼は敵軍に寝返ってあちらの武将として戦っているので関係ないのでは?
他の二人は知らないのですが
討死した人物ですか?それと一万石以上ですか?
下の二人ってだれ?
ググっても出てこないし
金澥 牧使 正三品
朴箎 弘文校理 正五品
尹暹 弘文校理 正五品
李慶流 兵曹佐郞 正六品
權吉 判官 従五品
李薦 左衛将 従二品
裵蘿立 助防将 正三品
元豪 助防将 正三品
李渾 兵馬節度使 従二品
柳崇仁 兵馬節度使 従二品
金貴栄 領府事 正一品
李瑛 兵馬節度使 従二品
黃廷彧 長溪君
黃赫等 承旨 正三品
李範 虞候 従三品
李錘 府使 従三品
文夢軒 府使 従三品
申希壽 奉事 従八品
李弘業 判官 正五品
なってないよ
明朝が滅んだのは錦州城の戦いで明の主力部隊が清朝に殲滅されたから
その分を補うために北京の部隊を遼東に送ったから
李自成に北京落とされて滅んだ
天下分け目のグレの戦いとかヌルハチの女真族統一は
対秀吉軍に忙殺されている間隙をぬって行われている
日本が攻めてこなかったらいつものように明側の介入で
後金自体存在しなかったかもしれん
半島の西部、西南部の沖合いの海路を伝った船舶による
兵員、武器弾薬、食料の迅速な輸送が出来ていれば…
小田原の役の際の海上機動なんかはその予行演習だったんだろうが
>>28
日本側の資料に初めから、全羅道側からの輸送計画はなかった。
逆の慶尚道側の沿岸から輸送したこともない。
文禄初期に遠征軍の水軍諸将も陸戦を戦ったり
砦の構築をおこなっていた。
神戸大学が確か西方海上輸送計画の頓挫なるデマを飛ばしているんだが
当然の如く、それらの根拠と為す資料の提示はない。
資料を示さない・・・これが答えだだろうな。
そもそも陸路は色々としんどい
そもそも、そんな記録は残っていない。
漢城への海路を使った輸送計画という与太を主張するのなら、
主張する側がそれの元になる一次資料を提示しなければならないのだが、
それがおこなわれていない。
国内とは勝手が違う。航路も、どこに港があるかもわからないんだし
陸地沿いに進んで集落を探すなんて
アマゾンの遭難者みたいな真似はできないでしょ
それはないでしょw
小規模の偵察襲撃をおこなってすぐに引き返す倭寇と、
正規の進軍する遠征軍とは条件が違いすぎる。
そんな余裕ないし
撃戦にしろあまり戦端をのばさずに
しっかり押さえていって欲しかったな
まあ朝鮮自体が目的地じゃねえしなあ
戦らしい戦なんかやらずに、簡単に実効支配できただろう。

現在でさえ人口分布の偏りすごいのに
秀吉が死んで終わっちゃったけど
三路作戦の大敗で明軍は数万の兵を失っているしな
猿の死が絶妙のタイミングすぎてドラマチックよな
これにより朝鮮では英雄との評価を受けることになった。
明に帰化したモンゴル騎兵と戦っている
やっぱり勝ったのかな?
>>97
稷山の戦いは黒田隊が85級、吉川隊が358級の首を捕ってるな
明朝鮮側の記録はまちまちで日本兵の首28級という記録から
首を捕らなかったけどそれ以外に殺した数は500以上という記録までさまざま
これが切っ掛けで日本軍が漢城に攻め込むのを止めたと勘違いした
明朝鮮は勝ったと思い込んだみたいね
対外侵略と言う理由もあり活躍の顕彰化はタブー扱い
小説や漫画媒体ではまだ大丈夫だがな
九州の若手大名や、加藤小西なんかもそうですね