一大名が天下を取るまでのし上がるまでの出来事とは思えない
なにが他の大名と違ったんだろ?
そこそこ時間がかかっているわけだけど
これが結論
政策が型破りだったこと
部下への評価が合戦での手柄重視だったこと
ただ、それだけのこと。
なぜならば、尾張を平定した時点で、
日本第二の平野である濃尾平野の支配が容易になる。
対抗馬の美濃は尾張に比べて
地形的に一つの勢力にまとまりにくいから
美濃から尾張を征服するよりも、
尾張から美濃を征服するほうが簡単だから。
日本第一の平野である関東平野は、日本の東の辺境にあるが
濃尾平野は、日本に中心部であり人口が最も多い畿内の征服が射程圏内になる。
しかも、畿内ってのは人口多いけど、地理的に複数の盆地や平野に分かれて
一つの勢力に統一されにくいので、濃尾平野の支配者にとって容易な草刈り場となる。
そんなこんなんだから、古代から尾張は中央政権の重要な一族の直轄領になった。
古代においては、皇祖ニニギの兄のホアカリの子孫で
嫡流とされた尾張氏の支配地域。
壬申の乱のときに勝者の大海人皇子を支援した最大の勢力は尾張氏の軍で
大海人皇子側の兵力の半分は尾張氏の傘下の軍だった。
中世においては、足利幕府の中では、
足利家の分家出身の諸侯で最高家格の名門とされた
斯波氏の直轄領とされた。
近世においては、徳川幕府の中では
将軍継承権を有する徳川御三家の筆頭にあたる徳川義直の子孫の
直轄領とされた。
平野が優位な土地と認識されたのは
まさに信長の時代以降。
それまでは天然の城壁である山に囲まれた盆地が
大名の拠点に相応しかった。
奈良盆地や京都盆地がそれ。
堺や津島などの経済力に目をつけた信長秀吉家康の頃から
海運に適した平野部が重視されるようになった。
大阪や江戸がそれ。
少し違和感が
京都なんか山に囲まれてるっていっても
平野部はかなりの広さがあるし、
水路も大阪湾から淀川 小倉池(当時)とあって
大阪に比べてもそこまで軍事的に有利で
経済的に不利とは思えない
鉄砲が原因なんでしょうか?
どうしても狭くなる山城よりも大きく築ける平山城、
さらに大きく築ける平城となったの?
(鉄砲の射程距離的に)
戦国時代は大名たちが治水工事を積極的に行って、
それまで湿地帯だった下流域も耕作地になっていた
というのがあるんでしょうかね?
尾張はまさにそうやって生産力を急速に増大させた土地
伊勢湾の干拓が始まって可耕面積が広がったのがちょうどこの頃
前田利家の生まれた荒子城は言うなればフロンティアの最前線
斯波氏が尾張国の支配権を保持しつづけたのならば
斯波氏のよって天下が平定されていたのかもしれない。
事実、斯波氏は、かなり最後まで、
尾張国での権力を維持し続ける可能性があった。
そうなれば、第二次足利政権が誕生していたかもね。
平野部もそうだが
伊勢湾を主体とした海商関連の記録もあるもんな
北陸方面なんて
越後上布の取り引きにも苦労してるあとあるもんな
位置的に京に近かったのは大きいと思う
その点では九州や東北の大名は不利といえるし
それから巧みな外交もあったと思う
相手が格上だと下手に出て貢物をし
戦力が整えば積極的にしかけていく
面子にこだわらない信長らしいやり方
両者が牽制しあっている間に
美濃をはじめとした地盤を固めることができた
これにより東の今川の心配をしなくてすんだ
仮に今川を攻めて領土にしたとしても、東の北条、武田と隣接したら
東の備えをしなければいけないから、負担が増えた
それを徳川にさせる事により西(京方向)へ注力できた
基本的に戦国時代の大半の兵士は農民
つまり春から夏は農業をおこなう
よって戦ができるのは秋から冬
上杉軍なんかは雪の関係で実際に戦ができるのは
9月~12月初旬位がいいところ
これでは天下統一は不可能
織田軍は金があるから傭兵を雇う事により
一年中戦ができる
③仏教勢力との決別
当時の仏教勢力は最大の利権団体
例えば公道に勝手に関所を作って交通料金をとったりしていた
よって商品の値段が跳ね上がり
市民が困っていた
又当時は武力を持って政治に対して自らの利権を主張拡大していた
残念ながら毘沙門天の化身の謙信とか
出家をした<信玄>なんかでは
仏教勢力の利権は切り崩す事ができない
信長以降現在の様に仏教勢力は平和団体に代わっていった
こんな所かな
なぜ長島では市民が仏教団体側についたのか。
ごめん 不正確やったわ
長島だけやなくって、
越前は一向一揆の国やし徳川の領地でも反乱はあったよね
と同時に仏教勢力が公道に勝手に関所を作って金を取ったり
座を設けてそこで権益を独占していたのも事実
事実かどうか知らんけど、
秀吉が針売りをしていたっていう話があるでしょ
あれは針やと手軽に持ち運べて大がかりにならず、
座の締め付けが少ないから
逆に油なんかやと、座の締め付けが強く、
座の許可を取らず無断で売ろうものなら
命の危険すらあった)
これを大きな社会のあるべき姿から見ると
やはり不自然不健全でしょ
当然個々の立場はあっても
信長のやろうとした事は大局で見れば正しい事やし
そこに多くの人間の支持が集まったと考えてるの
長島にしても越前にしても
座の権益を信長が奪い取っただけなんですけど
だから庶民は本願寺側についた
信長が正義になったのは戦いに勝てたからで
正義だから勝ったのではない
信長は自分に逆らったから殺したってだけで、
宗教勢力を除いて庶民を救うなんて発想はないでしょ。
本願寺の自治は、一方では町の治安を守っていることにもなるんだよ。
だから庶民がみんな本願寺側についた。
信長は自治を壊すテロ集団にしか見えないからね。
政教分離だと言う連中もいるが、
庶民にしてみれば領主が宗教団体だろうと大名だろうと関係ない。
信長が支持されたというが、
庶民は本願寺について信長に敵対していることを忘れちゃいかんな。
27の言ってる庶民ってのは多分農民の事じゃないかな
当然当時は農民が大部分を占めてるけど
商、工といった人は
座とか関所なんてない自由な商売を求めてたんじゃないかな
土地でいうと京 堺 大津
秀吉時代やと+博多
それに後の歴史から見ても
信長の政策ってのは正解やったと考えるのが妥当じゃない?
基本的に信長、秀吉政権ってのは
商業を基本として強くなった政権でしょ
逆に徳川幕府ってのは重農政権の色彩がつよいけど
勝ったから正義であって、
正義だから勝ったのではないってのは50%正解って
ところじゃない?
庶民の支持なしにずっと勝ち続ける事が不可能なんは
木曽義仲の例を見てもあきらかやし
信長も京に入った時は軍規をかなり厳しくしてるよね
それと<<27の宗教勢力を除いて庶民を救うじゃなくて
俺の考えは宗教勢力の利権をを取り除いて庶民を救うね
信長は宗教団体の存続は認めてるはず
そりゃ他勢力と比べてアドバンテージ大きいわな。
個別の戦闘で負けても、
何度も繰り返し兵士を動員して戦争できる体力を持てる。
やむなく戦った例は他の大名にもあるが、
積極的ではなかったし、懐柔策を取る場合も多かった
神仏に帰依するのが当たり前の時代、
そこまで冷徹になれたことは、信長が頭一つ抜きん出た
要素の一つだと思う
もっと罰あたりなのは高師直
程度の問題はあるにせよ信長の先輩はいるんだが
オリジナル主張するのはどうかと思うぞ
安土城城下町も元は東大寺の荘園領を没収したもの。
これで寺社に命じて執り行う
国家の祭祀事業のほとんどが中断してしまった。
また惣村が協調して領主に意見する自治を信長は嫌い、
虐殺略奪と上限設定のない果てしない軍役と軍事道路作りの賦役で
疲弊させ抵抗力を失わせた。
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で
寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を
浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが
大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を
45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら
越中中部~魚津・松倉の短い区間で
天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ
メッケルの軍事指導読めやw
謀略も参謀の責任の一つだ
斉藤…
クーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく
勝手に自落
伊勢…
今川…
六角…
信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家…
信長に助けを求める
播磨但馬丹波…
衰退した弱小勢力しかいない
摂津…
浅井…
上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。
石高はわずか10万石程度
波多野…
上杉…
武田…
甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
美濃は斉藤の元で既に統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば
簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000~の兵が篭る国人だらけで
篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2
長野県の面積: 13,590 km2
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が
甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
まともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して
三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが
三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき
有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので
長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、 畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。 そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
それまで信長に懐疑的だった連中が
信長を信頼するようになったってのは大きいだろうね
そうなれば元々の生産力は全国屈指の尾張
勢力を拡大させるのはそれほど難しくない
1位 陸奥 1,672,358石
2位 近江 775,359
3位 武蔵 667,126
4位 尾張 571,737
5位 伊勢 567,105
石高130万石だから。
伊勢や近江を抑えて、あっというまに200万石を突破した。
武田信玄なんて、広範囲の5か国を平定しても、山ばかりの地域だから
ギリギリ100万石だろう?
小田原の北条も関東の大半を抑えて、やっと200万石
毛利元就も晩年、九州や四国にも手を広げても170万石ぐらい。
それ表高で実高250万石くらいある。
家臣団も多いから相殺されるけど。
東北や越後の石高より高かったってこと?
地形に恵まれていたんだな、信長は
どのくらい正確かは正直よくわからない部分はあるけど
当時の稲作技術だと東北や越後といった寒冷地よりも
尾張や美濃の方が安定して米作りができたのは確かだろうね
正条植えの技術が上方から関東地方に伝わったのは
天保年間だというから、関東の生産性はとても低かった
関東ローム層とか
火山灰の影響で何回、開墾し直していると思ってるんだよ
美濃攻略は7年くらい掛かってない?
関西平定してから10年以上無為に過ごしてる
その信長の奇襲計の武功は当時、東海道の小大名であった
ため天下に知れ渡るとは思わないが。三国志演義の玄徳と
似たエピソードだ。むしろ信長の台頭は 斉藤義竜を倒し
浅井長政と同盟を結んで足利義昭を迎えいれてからだろう。
甲子園ベスト8ぐらいのインパクトはあるだろう
「初出場校、出場回数20回優勝3回の強豪校をサヨナラで破る」
当時の今川勢力圏と駿府って
今の愛知県と名古屋ぐらい影響力ありそうだし。
天下に知れ渡るとまでは行かんとしても、
「知らんヤツは情弱www」
と言われるぐらいの事件だよな、当時としては。
そりゃそうだが、
まだ武田信玄も成長途上の小国だった頃だし、
上杉謙信もさほど強大じゃなかった時代だ。
今川は全国有数の大大名ではあっただろ
なので支配下は松平元信など。家康や信長などの若い新鋭
大名を突っついてた感じだな。もし尾張を抜けたら上洛
ルートは美濃か伊勢どちらを通るつもりだったのか。
北畠か斎藤か。
上洛じゃなく領土拡大だろ
伊勢にはほぼ確実に手を出すはず
美濃には手を出すかどうか不明だが、全く無視ってことはないだろう
おおかた、武田と分け合って美濃分割にでもしたんじゃなかろうか。
尾張は実は伊勢からの徴兵もあったはずだ。
関西の兵は富貴な作物が実り石高が高いので、
東海道の広さだけの兵(もののふ)は弱かったと考えられる。
理由は武田の騎馬軍団。馬がなければ弱い。
もともと、今川と北条は仲が良かった、
今川が武田と同盟するまでは長く蜜月が続いてた
だから、北条を倒す選択肢はない
今川北条家と言ってもいいね。
北条家の方がはるかに筋が通っています。
最後の最後まで今川氏真にお味方したのは北条家。
それに比べれば今川義元はだらしないよ。一時
今川義元は甲斐と結び北条氏綱をカンカンに
怒らせているからね。
北条早雲以来、義理堅いのが北条家が300万石にまで
昇りつめた秘訣なのです。
北条家は武田との遺恨を捨てられずに反発した
しかし、あくまでも三国同盟の確立にこだわった義元が、
一時的に北条と争ってでも三国同盟の確立を、
という姿勢をとったのが、氏綱を怒らせた原因。
この三国同盟によって武田との関係改善に成功したことは、
北条家の勇躍に大きな効用をもたらした。
三国同盟なしには北条家が関東に覇権を確立できなかったかもしれないよ
快進撃は大国の尾張伊勢美濃を抑えてからだよ
桶狭間から飛躍したって思っている人が多そうだな
たしかにインパクトは大きかったかもしれないけど
将来の伊勢攻めを見越した準備も始めてるし、
畿内の大名たちの中に味方を作るべく外交交渉もかなり進めてるよな
美濃制圧が佳境を迎える前から
松永との同盟がすでに成立してるほどだ。
おそらく浅井との同盟は
美濃攻めをはじめる前から交渉を進めてたんじゃないか。
で、美濃攻めを始めてから
かなり早い段階で同盟は成立してたんじゃないかと思う。
どう考えても、武田との同盟より先に締結されてるよな。
当時の信長しか攻撃出来なかったんでしょう。
同盟なんて戦国時代にはナンセンス。単に勝てないだけ。
もし尾張を通過しても、斎藤道三の美濃を越えるのも難しく
上洛は仕方なくのセレモニーに近い。
桶狭間の頃は道三じゃなくて龍興だと思う。
当主は若年ボンクラでも、美濃勢自体は強いから、
簡単には通れないのは確かだろうけど。
武田領が甲斐一国と信濃のごく一部だけだった
頃に今川は三河の制圧をほぼ終了している。
元康はすでに家臣団に組み込まれてる段階だしな
尾張統一した織田にとって今川は本当に脅威だったの?
桶狭間の当時は尾張の1/3ぐらいは今川領だろ
義元は伊勢の北畠と緊密に連携取ってるんだよね
伊勢湾の制海権を掌握して、
信長を窒息させようというのが狙い
実際、信長は津島や熱田の現金収入に頼ってたわけだし
こうやって考えると、
信長にとっては出撃するしか選択肢なかったんだろうな
籠城してもその間に
津島や熱田が敵の手に落ちれば負け確定なわけだし
当時、市が定期的に立っていた町は
駿河:駿府、沼津
遠江:浜松、島田
三河:吉田、岡崎、刈谷
尾張:清洲、熱田、津島、岩倉、尾張一宮、犬山、国府宮、半田、起
伊勢:桑名、四日市、伊勢神戸、安濃津、松阪、宇治山田、亀山
美濃:加納、大垣、関、美濃加茂、鵜沼、羽島(大須)
静岡寄りの地域より名古屋寄りの地域のほうが商業が盛んで、
しかも尾張の場合、主だった集落や市は極端に西に寄っている。
もともと西尾張は水害が多く、たびたび戦乱も発生したが、
それでもこういう分布になったのは美濃や伊勢との繋がりが大きかった証左。
大和には六角。上洛を果たすには五年かかるはずだ。
全軍四万五千の兵の兵糧などについても疑問だし。駿河や
遠江については武田、北条の三同盟を解消され後ろから
こられたら今川は一溜まりもない。つまり上洛は四すくみ
状態での出陣だろ。 結局数年後氏真で
滅んだが。
領土拡大のためで、
長年にわたって争い続けてきた信長に
できるだけ大きなダメージを与えて
尾張における領土を一気に拡大しようとしたわけ
そっから先の近隣国は将来の課題。
その紛争に際し、
いくつかの勢力とは同盟しつつ
別勢力と戦うって点は信長と同じだが、
同盟相手は信長の場合とは異なるはずで、
戦争相手の構成は全く異なったものになる。
ところで松永の拠点は京都じゃなく大和だし
六角は大和じゃなく近江なんだが。
しかし考えたら上洛は
破竹の勢いなら一年もかからず成し得ただろう。
信長は1550年代尾張を統一するのに拱いていたからな。
圧倒的な兵力の差やキャリアの違いがあるのにも関わらず
奇襲でやられた。
信長の名は武田、北条、足利家を震撼させたに違いない。
尾張の おおうつけ が
日本の三分の一を統一するのは並々ならぬものだった。
六角や三好と戦いながら上洛した
今川は、同盟相手が異なっている可能性が高い。
六角や三好と同盟して
浅井や松永と戦いながら上洛だったかもしれん。
当初は那古屋を併合するだけでも精一杯。
なのに尾張に侵攻してきた今川をくだしてからの勢いで
美濃を攻略し浅井長政に近江南部を通過させてもらい
上洛。義昭を御輿にし堺の鉄砲軍団、雑賀衆を屈服させ
近畿を制覇してしまった。さらに室町幕府を潰した。
センセーショナルな一戦だぎゃ。
美濃攻めの後半に入ってからでしょ
遅くとも美濃攻めが終わるまでには、
天下を意識して、諸方面に同盟工作をしてる。
ただし、その時点での天下は、京都を支配するという意味でしかないが。
いわゆる天下統一、
日本全域を束ねようという意識を持ち始めたのは、
おそらく晩年に入ってから。
最大限に早く見積もっても義昭追放の前後が上限だろう
信長は室町幕府を滅ぼした。
いわゆる安土城に楽市楽座を設け
安土桃山時代を確立した訳だが。
浅井長政を倒し近江の国を光秀と秀吉に二分させて、
朝倉を姉川の闘いで滅ぼしたが
その時1573年前後
甲府の武田信玄が亡くなった。
確かに義昭を追放してからの領土拡大につき
後年秀吉のような小田原攻めや島津攻略とまではいかず
毛利水軍と対峙応援に駆けつける本能寺で、
チャビンの光秀に討たれた
それを活かす信長も流石だが
京都追放後も安芸で幕府は存続し権威を持ち続けている
当時の感覚では大内や三好のように
信長も一時的に京都を占領した奴の1人に過ぎない
義昭に同行せず京都残留、信長に従っていた
室町将軍15代に含まれない堺幕府が
幕府の官僚の少なからぬ部分を引き入れていたのと違い
鞆幕府(公方)としての義昭は幕府の名に値しない亡命政権。
将軍職を保持しているだけで政治的な実態はすでに失っている。
この時点で信長は、簒奪者・成り上がり扱いながらも、
すでに天下人であり、室町幕府に代わる新政権として広く認められている。
それゆえに、室町幕府滅亡とみなされるわけ。
ただその後織田信長が本能寺で討たれたから
もう少しで室町幕府の再興はあった
明智光秀は殷の紂王みたいな暴君信長を討ち取るという大義を掲げて
朝廷と幕府に忠義の士になれる可能性はあった
信長絶対史観の本能寺の変より
山崎の合戦がその後の日本の命運を分けたと思うね
織田信長は過大評価されてて
遅かれ早かれ謀叛を起こされた可能性は高いし