でもこの戦いには実は謎が多いです。
啄木鳥戦法は本当にあったのでしょうか?
第4次川中島の戦いについては甲陽軍鑑くらいにしか
この合戦のことは載っていないとも言われています。
改めて川中島合戦についてみなさんで検討してみましょう。
川中島周辺の狭隘な地形に比べて兵数が多すぎるから不自然なだけで
両軍の実数を通説の半分程度に見積もれば妥当
逆に言えば両軍の実数が通説通りなら怪しい訳だ
まあ実数・戦法とも一次史料に無いから想像の域を出ないんだけど
霧のせい両軍方向感覚を失っていた。
上杉軍本陣を引こうと、間違って武田本陣方に下山。そこに武田軍と偶然遭遇、両軍大混乱。
霧で視界が悪い分、損害が予想以上に酷かった。
結論、川中島の戦いは事故
武田信玄(8,000人)
武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝、穴山信君、飯富昌景、内藤昌豊、諸角虎定、原昌胤、跡部勝資、今福善九郎、浅利信種、山本勘助
別働隊(12,000人)
高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田昌辰、小幡憲重
【上杉軍】
上杉謙信(13,000人)
通説はこうだろ
武田の主力は別働隊なんだから戦は別働隊が担うわけだ
となると主戦場は妻女山付近を想定していたと思われる
信玄本体は8000で半分が旗本と親族の軍勢なんだから実際に戦うと想定していた数は4000ほど
敵の全軍を食い止めるには数が少なすぎる
あきらかに信玄本体は後詰
それは軍記の設定であって、兵数も編成も一次史料には無い
謙信は軍役帳によると通常5~6000の動員
武田も川中島時の国力からすれば10000程度が妥当で通説の20000はかなり厳しい
某氏がよく言っている、弱い織田の兵なら追い落とせるかも?w
と言うか、実際行ってみると解るが、妻女山だけで数千もの兵が陣どれるのだ
ろうか。
その周辺にも陣を敷いていたのなら、啄木鳥と言う作戦自体が既に終わってな
いる気が。
個人的には、4次はあったと思うが、通説のような戦いだったんじゃないのでは
ないかと思う。
啄木鳥戦法はナンセンスすぎるよな
到底事実とは思えない
だが多くの軍勢は低い峰々に陣取っていたわけさ
いきなり本陣を急襲するのではなく峰の1つを攻撃するだけで十分だったのでは?
うーん、一つを攻撃するだけで、信玄の待つ陣の前に敵を追い落とすことが
出来るのかな?
それはそれで凄い緻密な作戦を立てないといけないよん。
しかも相手は上杉軍、大将は謙信で、そこまで出来るものなのか。
威力偵察しながら帰還しようとする謙信くん
うっかり出会ってさあ大変。
ちょうど勘助死んだから、軍師に祭り上げるかわりに信玄の失態を擦り付けとこう
それはそうと、城が丸見えの山に、砦とかは設けてなかったのだろうか?
それともすっごい不利な場所にも関わらず、上杉軍が攻めて陣を敷いたのだろ
うか。
ま~無理だわな
そしたら上杉も長期陣に嫌気が差して深夜から善光寺隊と合流しようと動いたら霧中で信玄本隊と遭遇。
戦いに発展。
上杉としてはただ合流が目的だからひたすら、突き進むだけ。
そこに異変を感じた海津城隊到着
単純にこれだけじゃないか
山登りはなかった、甲陽軍艦はただの私小説だ
「車懸り」は書かれてるけど「啄木鳥」は無いし
本文の半分は小幡父の武功自慢だし
勘助が滅茶苦茶な作戦を進言したことや、車懸りとか
信玄謙信の一騎打ちや三太刀切りつけられたけど団扇に八ヶ所刀傷あったなど
甲陽軍鑑の内容はそこらの小説と変わらんよ
「車懸り」は単語だけだし
勘助の作戦は只の迂回挟撃だし
見所は信玄謙信の一騎打ちくらいで
特に持ち上げてる様子もない
小幡昌盛とその敵、甘粕景持はすごく持ち上げられてるぞ。
信玄謙信よりも。
軍鑑の川中島は小幡父の武功自慢の前座って感じだな。
武田系の小説ならこの人のが一番好き
新田次郎は
昔の歴史小説家にしては珍しく
軍記に流され過ぎるでもなく独自の高察が中々鋭い
謙信が八幡原に多数の望楼を作って
戦局をつぶさに観察するのが印象的だね
数回続く川中島を押し引きしながら中弛みせず読ませてくれるし
傷を負ったのは、村上や上杉と戦ったときだろう。
上田原や砥石崩れや川中島の時に、負った傷か・・・。
いわゆるヒーリングだよね
お忍びで(隠れて)来たという事にしている
多数の兵を癒したのなら、隠し湯とは、言われないと思うけどね。
所詮は温泉の宣伝文句だから
普通に湯に漬かっていたら、その手法が当時としては割と珍しかったかも?
やや少ない兵力で損害を与え重臣を討ち取ったのは上杉だが
同じくらい兵力に損害を与えて微妙な位置にある領土を得たのは武田
上杉の活躍は称賛されて然るべきだが、この戦いで上杉が得た実益は皆無
しかも上杉にとっては侵略戦でも防衛戦でもない
武田相手のこんな割りに合わない戦争に面子だけで付き合ってくれる変人は上杉だけ
あんな大決戦ばかりしていたらいくら兵があっても足りないと思うのですが。
いつも激戦してるわけじゃないから問題ない。
どこまで激戦だったのかもはっきりとわかってないけどね…
ただ永禄4年の武田側は国境の戍卒までかき集めたとかは聞いた事あるけど
という説なら見たことがある
霧の中で偶然かち合って、被害拡大説が納得できるなぁ。
でも両軍移動中の鉢合わせなら両軍ともにノーガードの殴りあい状態になるし
おもに軍記史料でしか細かい被害載ってないが、武田にしたら足軽大将級の山勘はじめ兄弟、親戚、侍大将級の幹部まで死んでるのに上杉は荒川クラスの旗本馬回りレベルじゃ割に合わん被害だよ。
そこから思うに上杉方はしっかりした攻撃の意志、つまり攻撃体制、準備をしていたからこその賜物だと思う。
それと合戦での死傷者数にはかなりの水増しも感じますね。
お互い高度な戦術をしたと言われてる戦いが
実は全く真逆で全然軍を制御できてなかった
実際歴史ってこんなもんかもね
諸角とか戦場に出てるのが不可解なレベルの高齢だし
互い譲らずの名勝負にするには、そっち方面でバランス取らないとな。
和議違反だからね
しかも結局信濃平定したわけでもなし
それを果たせなかったんだから戦術的にも戦略的にも謙信の勝ち
川中島合戦の目的は越後防衛じゃなくて武田を信濃から駆逐する事。越後防衛はそれを兼ねてたってだけの話
上杉はこの2ヶ月前に北条から関東取れず戻ってきたばかりで、川中島は上杉から出陣したが武田の領土が増えただけ
この後、上杉は家臣の謀叛や相次ぐ遠征で国が乱れ暫く一揆の温床になる
さらには一向宗や椎名を信玄からけしかけられ過労になるほど防戦一方
対して武田は甲斐、信濃に加えて上野、駿河、遠江までまたがる大領国化
戦略を語るなら目的は複数あるし、流動的であり相対的なもの
戦略で見るなら謙信の敗北だよ。武田のみならず、北条にも
これだけ綿密な調略をしかけて自身も飯山城を攻めたけど、結局攻め落とせず撤退したのは信玄なんだがな
武田が小田原包囲したのと全く同じ
だいたいにして越後の周囲を調略したのは越後侵攻の為じゃなく、西上に際して信濃を荒らされない様に釘付けにする為なんだからダラダラ城攻めするわけがない
徳川と北条に同盟されたんだから
ただ最初の駿河侵攻があったから二回目で簡単に落とせたし、何より勝つ事を前提にした退却をして本当に勝てる武田の強さの証明にこそなれ失敗にはならない
この時期の武田は上杉も北条も敵だったけど、どちらも封じて北条には人質まで出させての徳川織田連合の撃破
飯山城を攻めるフリをして陽動をかけた上で
今川領へ奇襲をかけただけ。
その際に上杉に武田領を攻め込まれないために
椎名、越中一向一揆の扇動、繁長の謀反を煽って謙信を釘づけにした。
第一次駿河侵攻は、背後を襲おうとした今川が叩き潰して武田領の安全を確保したので大成功でしょ。
これにより上杉と今川の挟撃策を完全に潰えた。
信玄の戦略は緻密に見えて以外と行き当たりばったりだって書いてたな
なんだろう
信玄ってどこを攻めるにしても常習的に敵対勢力の背後を書状送った相手に
チクチク攻めさせて牽制させてる感じがする
よく云えば用意周到で手回しがいいのかもしれんけど、常に慎重で石橋叩く戦略で、
どこか回りくどくてスピーディーさを感じない
あくまで個人的な印象だけども
様々に試行するのを行き当たりばったりとするか、慎重な根回しと取るかの違いかね。
晩年の信玄のレベルには到底及ばない大名が殆どなんだから
そもそも歴史学者や作家の持論は後世に生まれて結果知ってるからこそ生じる先入観に無自覚なのが多い
晩年以外は行き当たりばったりってこと?
晩年も行き当たりばったりだとは思うけど
謙信と遊ぶかと思えば徳川と駿河せめて嫡男死んで北条参戦したら関東いって駿河行って北条の為に謙信と織田を味方にしようとしたら徳川と戦って謙信ときって北条と結んで関東の反北条はほったらかしで西上は朝倉浅井本願寺頼み
相手の後背と結ぶって一貫してるけど、対応が戦火交えてからだよね
今川滅ぼそう!その前に北条と徳川と話つけておこう!ってのがないんだよね
今川滅ぼそう!攻めた!北条が今川救援した!徳川と衝突した!どうしよう!そうだ!織田と北条と仲の悪い奴と結ぼう!
行き当たりばったりじゃないのこれ
機を見ると片っ端から敵対するけど、強いからそれが出来るって事でもある
上杉、北条、今川、徳川、織田に囲まれて好き勝手やれたのが信玄が暴君と呼ばれる所以
機会を見て弱体を攻めるからそりゃ相対的に強いよ
それは強いからそうしてるのではなくて弱くなった相手を選んでるから
言い換えると弱体化した相手にしか仕掛けられないってこと
正しい戦略だけど北条みたいに関東を志向したり織田みたいに近畿を志向したりじゃない
そこから考えれば行き当たりばったり
は?
弱体化してなくても西上作戦決めたら正面から北条も徳川織田連合も倒してるじゃん
なんでどさくさ紛れに毛利元就と同じレベルにしようとしてるんですかね
勝った負けたは問題にしてない
読み直して
八方ふさがりになりまくってんじゃんw
ただ単に相手が死んだりと運が良かっただけで。
秀吉が天下統一してなかったら明らかに三好長慶未満の評価しかなされていなかっただろうし
これの方がロマンがあって良いじゃないか、実は無かったなんて
夢の無い話だ・・・真相明かされない方が良い
上杉家の資料では「荒川伊豆守が~」ってなってて、武田家の方では「謙信が~」て書かれてるんじゃなかったっけ?
武田家が体裁を保つ為に1武将よりも謙信本人の太刀を防いだって事にしようとしたって読んだ事ある
糞小便の処理、水の確保、飯を炊くための薪の確保
これらの問題を解決する方法がないと山上に陣取るのは危険なんだが
丘みたいな大軍勢が一気に下りれる高所ならともかく日本の山みたいに木が林立していて
一気に下りれない山だと難しいのではないかと
関ヶ原の時毛利軍が南宮山の上に陣取ってるのを見て本多忠勝があいつらは戦う気がないと諸将に言った話や
三国志の街亭の戦いで蜀の馬ショクが山の上に陣取って水断ちくらって大敗した話とかでそう思ったので
まあ、関が原では松尾山の小早川軍が山から駆け下りて大谷軍殲滅してるのでケースバイケースなのかもしれませんが
水断ちされても高所から一気に駆け下りて平地の軍勢を撃つといいますが
川中島の時は結構長期にわたってみらみあってたということなので、それを実行するにはかなりきついのではないかと思うのです
信玄は水断ちしなかったのか?謙信は長期対陣になって水断ちされる危険性についてどう考えていたのか?
歴戦の武将である二人が考えないわけがないと思い、妻女山に陣取ってはいなかったのではと思ったのです
浅い知識で書き込みすみません
妻女山には他にも湧き水がでる地点が何箇所かある
いくら昔でレーダーがなくても何千人もの兵隊が動いたら、気が付かないわけがない
そんなの昔も今もいっしょ。むしろ昔の方が静かだから、ばれないわけがない
お前都会暮らしか?
田舎の闇夜だと見える要素ないぞ
そりゃ松明焚いてれば見えるかもしれんけども
だって北信濃の、今の長野市あたりの領有権をめぐって
戦ったんだからさ 被害は大きくとも、北信濃を領土にした信玄の勝ち
謙信は信玄の裏をかくのに成功した
だが攻め切れなかった
結果、信玄の粘り勝ち
あれ戦闘では実質謙信が勝ったじゃん。
主戦場から追撃受けながら撤退したのを、勝ったとは言わないやろ。
ナンバー2だもんね
武田軍は大損害を受けたが、戦後も善光寺平を支配していたから、戦略的には勝利。
信玄に「越後侵攻なんてとても無理」と理解させた謙信にとっても戦った甲斐はあった。
欲張った願望では「信玄を討てなかった謙信の負け」と同時に「越後征服を断念せざるを得なかった
信玄の負け」だったかも知れない。
関東志向の謙信にしてみれば、以後は信玄が南進・西進に転じて、信越国境から春日山を直撃される
脅威を排除できたから、こっちも戦略的には勝ちは勝ち。「信玄に追われた信濃国衆を助ける“義”の
戦い」なんて後世の謙信ファンが信じた精神論的解釈は別にして。
討ち死にしているんだね。
これは相当の損害だ。
浅井朝倉追撃戦で、
刀根坂の戦いで朝倉軍を壊滅させたのと匹敵するじゃん。大将は逃したが。
>>葛山安信(信玄の孫・葛山信貞の子)
ありえないだろ
桶狭間(大将死亡)>刀根坂の戦い(朝倉壊滅)>川中島>姉川の戦い
姉川の戦いでは夜間のうちに山を降りて、暗いうちに織田軍の前面へ展開、
明るくなってから一気に攻めかかっている。織田軍は正反対の横山城へ向いて布陣していたので
織田の馬回り衆(旗本)は後ろの方であり、そこへ浅井軍が夜間のうちに接近してきたから
朝から信長本陣への直接攻撃だった。
川中島では霧が多いそうだから、夜明けで暗いうちに接近して朝になっても霧が濃くて、
思わぬ接近戦の連続になったのかもな。
越後の上杉謙信に対して、うちの領土を狙うといっても、互いにズタボロになるから損のほうが大きいですよとアピールする狙いがあったからこそ、親族や重臣を多く犠牲にしても勝負に出る必要があったのだろう
信玄の目的が越後侵攻だったことは明白
川中島地方の確保は越後侵攻の通過点に過ぎない
信玄に痛打を与え越後どころか北信濃突破も許さなかった謙信の勝ちだよ
謙信は北条武田一向一揆同時に敵に回してたのにさ
どんだけ上杉強いんだよ
もはや武田勝頼に臣従してたと言っても過言じゃない
謙信さえいなければ、信玄も木曽義仲ルートで越後北陸道制して信長より先に上洛できた可能性はあると思う。
後年東海道を選んだ信玄もたぶんその頃は北陸での勢力伸長を考えていたと思う、東海には今川がいたしね。
海津城が出来た時点で川中島の戦う理由はなくなった
むしろなんで第四次が激戦になったのか?
上杉サイドが海津城を攻め落とすのが目的ならわかるが、そうじゃないしね
武田が西に方針転換して武田と上杉の争いがなくなったと言うが
こんなもん上杉からしたら武田との戦争を辞める理由にならんのね
むしろ北長野の取るチャンスなわけよ
つまりね1560年前後に武田が海津城を作りましたで終わる話なんよ
教科書にはいらん
大義だ越後防衛だか何だか良くわからない
(このレベルの武将としては)外交下手戦争下手
武田は北信への勢力を排除して信州手中で既に戦争目的は達成してはいる
しかしだからこそ戦争になる
敵として上杉は怖いから叩き潰したかった武田
外交戦略的にでたらめだが上杉の強さは異常、脅威は取り除かなければ
本当に越後に今回進攻できるとは思ってはいないだろうが
大きく叩ければ越後へ越中へそっからの上洛へ道が広がる
でそのために北条や一揆始め周到に根回し、上杉包囲網
海津城を作り負ける要素は薄い
ここまでやりゃ勝つ見込みは高い
越後を取るぞと檄を飛ばして川中島出陣
苦境に追い込まれた上杉もここが勝負どころ乾坤一擲の大勝負ここで負けられない弱味は見せられない
苦境の時にこそ敵を叩け越後よ結集しろで対陣
負ける要素はないはずの上杉に乾坤一擲の大勝負に出られ思わぬ大苦戦で
以降打倒上杉や日本海進出は完全に諦める
上杉も戦略ばっちり固めた武田の甲信には手を出せないで以降の両雄が直接全軍指揮しての対決はなくなる
互いに相手の脅威は恐るべきだが取り除くことめ諦めるしかない割に合わない避けるべき存在と完全に確認
両者にとって一度はやらなければなかった避けられなかった戦い
通過儀礼
良くも悪くもこのレベルで外交戦略戦術
軍隊指揮して戦える武将が全力で激突した上で一方的にならずバランス取れたのも戦国でここだけ
だからロマン
信玄「そろそろ終わりかな。撤収の準備せえや」
謙信「おっ霧が濃いな、前が見えへんやんけ」
上杉軍の兵士「下山の方向あってるの?逆じゃね?」
武田軍「霧が濃いな、こんな時に兵を移動させるバカはおらんやろ(鼻ほじー」
上杉軍「あっ」
武田軍「えっ」
上杉軍&武田軍「ああああああああああああああああああ」