亡くなった時は息子達も既に家を離れており家系は断絶。
葬儀をしてくれる者もいなかったので哀れに思った
細川藤孝が名乗り出て執り行ったと以前何かで読んだ。
前の征夷大将軍がそんな晩年とは・・・。
うむー
戦国の世の無常観だな
ニュース
>断絶
そこで足利藤孝に戻ってやれば良かったものを
藤孝は足利将軍家での結城秀康だな
>>114
長岡藤孝と結城秀康は、ぜんぜん違うでしょW
秀康は幕府が正式に認める将軍家の庶兄。
長岡の場合は、足利義晴の子との噂がある程度でしょう?。
足利家の系図にも藤孝の名が書き込まれることはないし、足利義輝も足利義昭も長岡が兄弟なんていう認識は全くなかっでしょう。
島津や大友の始祖が頼朝将軍の庶子と同類の作り話じゃない?。
藤孝が義晴将軍の庶子って言ってみたかっただけだと思うよ。
はるか格下の三淵家から細川家を継いだんで出自を装飾したかったんだと思うよ。
代々の細川家の家臣に軽くみられないように。
藤孝の父・三淵晴員は細川家からの養子で、藤孝は本家へ戻った形になります
>>115
あのタイミングで死ぬなんて。
三好家には不運であり、織田家には幸運だった。
道三から始まり、信長にとって目障りな人物はなぜかタイミング良く死んでいく
まさに魔王・・・
それらの人間が死んだとき、その機会を巧みに活用しただけだ。
タイミングを良くする為には
そのチャンスを物にするだけの努力が無いと何にもならない。
将軍になるために信長を頼った時点で日本史にとって大変な影響だわな。
足利義昭と織田信長、どちらが正義か?
当然、足利義昭でしょう
織田なんか尾張守護の斯波武衛家の家来でしかないんだから、まず斯波武衛家を盛り立て、斯波家の有力な家臣として足利将軍家を下から支えるのが正しい行いというものだろうに戦国だか下克上だか何だか知らないけど、反逆者じゃないの?
家来の家来の・・・暴挙だね
軍才があるからといっても、やってはいけないことだ
才能は正しく使うべき
残念だよっ
君の視点は正しい
ただし幕府側からのみの意見として
でもほんと、そう思っていたかもね
本気で
斯波武衛家の家来筋織田
ごときに倒される足利さん
は信長が本能寺で明智に打たれたことを笑えるのかな
家臣の家臣に倒される足利幕府はあの時代においてもはや機能不全だったんだよ
>>139
斯波武衛家は足利氏の分家
織田氏とどのような関係があるか分からんが
尾張斯波武衛家は織田氏とある程度婚姻関係を
結んでいたと思われる
つまり多分足利の血は多少信長も授かっていると考えるのが普通だ
源義国の末裔である新田や足利が義国の縁組で主人筋である
頼朝幕府を滅ぼしたことは信長や家康が行なった事と
大差はないと思う
家康だって本当かどうかわからんが新田氏の末裔らしいし
新田の末裔=足利の縁戚ってことだよ
信長と対立する大名の武力を借りたことなんだよな
だから、仮に信長が倒れたとしても、誰かが征夷大将軍の権威など
担保にも何にもならんと気づいてしまったらおしまいなわけであって
そういう意味ではかなり危ない橋を渡る行為なんだけどな
義昭公が管領または副将軍とまで言ってくれているんだから有難く拝命すべき。
織田なんぞ朝倉と同レベルなんだから
朝倉が斯波の家来の分際から越前守護になったみたく尾張守護任命でも褒美をあげすぎくらいだよ。
斯波の家来の家来の分際なんだから命がけで主筋のために働いて当たり前!。
>>162
信長>>>>>>>義昭
だから義昭は信長を「頼った」
信長>>>>>>>義昭
だから義昭は信長に殺された
信長>>>>>>>義昭
それを受け入れられなかった義昭は暗愚
義昭>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
の間違いじゃない?。
信長は義昭を助けて、あたりまえ!
上の上の上の義昭に弓を引くなんて反逆者裏切者もイイとこ!。
斯波を利用し義昭まで利用した信長は、卑怯者で姑息。
斯波や義昭を利用せず、あの地位まで到達できたとは、とても思えませんけどねぇ(笑)。
室町将軍の陪臣(家来)としての正しい行いの話がしたいの。
三好も織田もダメでしょ。
家来失格!。
主筋を陰ながら支えるのが家来の役目。
細川京兆家や斯波武衛家を盛り立て、管領の名で天下を平定するのが筋。
陪臣自体が目立っちゃうようじゃ陪臣失格!。
ましてや信長の家は将軍家の家来の斯波家の家来の織田家の家来の織田家なんだから。
>>168
美しい流れ…とかナントカ前の大河でGackt謙信が言ってましたが
まぁあの時代にそれを押し付けるのは難しい、非常な難しい。
大なり小なり下克上が各地で横行していた時代だけに…
赤松氏を追い落とした浦上・別所、
また浦上を潰した宇喜多、主家を見捨てた細川幽斎
数えるのも面倒な位いますから。
下克上って本来の美しさ、無いですよね
でも現代風に見れば実力次第でどのような職業・地位にも就ける訳で
木下藤吉郎が豊臣秀吉になれたのもそういった風潮の結果だし。
また足利幕府の元を辿れば鎌倉幕府を倒した上に朝廷を裏切った。
>>169
足利尊氏公は大覚寺統支持から持明院統支持に転じただけで
天皇家全部を裏切ったわけではない。
自論は持明院統のほうが
大覚寺統よりも嫡流であるといえると考えている。
後醍醐天皇の子孫だけが皇統を継承するのが
正しいありかたであったとはどうも思えない。
天皇家の抗争に武士が従う、或いは武士が天皇家の抗争を利用する。
まあ捉え方はどっちもアリで実際にも両面があったとは思いますが戦国期の武将は大抵は朝廷の臣下として行動してますよ、形の上では。
天皇制に実質的に対抗しようとしたのは信長くらいじゃ無いかな?
信長にしても朝廷に敵対しようとした形跡はあってもその前に殺されてしまってるから確証は無いし。
木曽義仲の場合は短い期間しか在京できなかったし実質としては朝廷の臣下として行動してたと考えられますね、ただ源頼朝は将軍(幕府)を軍事政権として国内の行政権を天皇家から剥奪したとも考えられる訳で、国司から守護・地頭に地方行政を移管した点で後の戦国大名を生み出す素地をつくりましたね。
個人的には源頼朝は朝廷からの影響をダイレクトにしない為に鎌倉に幕府を開いたと言われてますしかなり慧眼ではあったと思います、そういった面から見て室町幕府は京都に置かれたので室町期の文化としては芳醇ながら幕府としての押しの強さは欠けていたようにも。
実際、倒幕されたのは鎌倉と江戸ですよね、室町幕府は自然崩壊。
天皇とかくだらないよな本当に。
今の天皇は模範のような出来た人間だから天皇という立場を別にして尊敬に値はする。
でも昔のはひどいよな。
よく秀吉とかは廃さなかったな天皇。
俺だったら独断ではやらないけど権力者の多数決とかが取れるんであれば天皇を廃してるな。
>>186
維新後は臣民の模範たるよう養育されていますが、一方で戦前の立憲君主制にしても戦後の象徴天皇制にしても、陛下自身の情報が結果的であるにせよ統制されてしまって…
また天皇制を排するには合議よりも独裁の方がより可能性があったでしょうね。
秀吉は信長が身分制を崩した結果、実力によって立身したにもかかわらず関白になってからは刀狩りなどで身分制を復活させています。
また関白太政大臣という天皇制の下での身分で政権を持った人で、天皇制を廃するのは不可能でしょう。
実力者の合議といっても互いに天下を狙う者同士の合議はあり得ないでしょう。
わたしも自然崩壊賛成なのですが・・・違う意味かも
室町幕府は信長が京都から足利義昭を追った時点で終わったとは思っていません。
豊臣政権下で自然崩壊したのかなあ・・・と
秀吉も自身関白太政大臣なので、あえて格下の将軍を消すまでもなく
足利将軍家は嗣子にめぐまれず自然崩壊したのだと思っています。
嗣子がいれば高家のような存在か羽林として朝廷に残っていたのではないかと思います。
>>177
豊臣政権下で自然崩壊というのは、より正確な表現だと思います。
義昭は天正16年に将軍を辞めてますね。その後、准三宮の称号を朝廷から受けてます、これは臣下でありながら皇族のあつかいを受けるという事です。
もちろん、形式的なものだったようですが・・・
それから山城填島において1万石の領地を秀吉から与えられてます、息子もいたようで薩摩で島津家に仕えたようです。また別の息子(?)は出家して大乗院門跡を継いだとも。
個人的には徳川幕府の喜連川氏のように残ってほしかったんですけどね。ただ、元将軍って位置の人は扱い難かったとも思いますね。
それと朝廷に貴族としての復帰はまづ無かったと思いますよ。
源氏といえば清和源氏、ですよね?中でも河内源氏が。でも貴族の源氏としては村上源氏が上位だったようです。またその村上源氏のながれを汲む北畠氏は公家社会に復帰しようとした時は二度(江戸時代・明治維新後)も阻まれています。
もちろん前将軍、という時期なら不可能ではないでしょうね、でもある程度の力を残した状態で無いと・・・と思いますね。
>>178
お褒めいただき有難うございます
たしかに息子は多くいたようですが足利家を継承できるほどの格式の生母を持った継嗣がいなかったのが断絶の理由だと思います。
秀吉は信長と違い義昭に好意的だったので、もし相応しい後嗣がいれば関白太政大臣の力により、堂上に残れたのではないかと思います。
天皇を崇拝する秀吉が天皇家の大恩人である足利家を粗末に扱うはずはないと思うので。
北畠氏は江戸初期に中院家からの養子により既に復活しているので、いつでも家名の復活は出来たと思います。ただ堂上の久我家や中院家から相続者が出ないと難しいと思います。
地方武士と婚姻を重ね、叙爵も絶えて久しい北畠家の家系の流れを汲む者程度では、元々殆んど不可能に近い可能性だったんじゃないでしょうか?
血筋と家は別だと思います。堂上が断絶しそうになると同じ家格で同流の家から養子をとるのが理想的で一般的だと思うので、血の繫がりがあるだけの地下がいきなり堂上になることは考えられません。
話長いとこ申し訳ないが、足利尊氏は天皇を利用するだの、まして臣下だののレベルの人物じゃねーぞ。
そんな小さいところは新田・楠木程度に任せとけばいい。
後醍醐天皇の息子は二人も殺すわ、本人騙しておびき出した上に監禁し、神器強請るわ。
持明院統にも「俺が立ててやったのに、生意気な」と怒りを発する。
少し苦境になると「皇統なんてどうでもいいから」と梯子外すような和平も辞さない。
尊氏は尊氏の論理と力で終始行動し、天皇はその途上にあっただけ、と印象が強いな。
尊氏公がいなかったら持明院統は正史にも記されず歴史の片隅で消えて行ったと思います。光厳天皇も光明天皇も崇光天皇も正統な天皇なのに。現実に持明院統は栄えていますから。
ん…なんと言えば良いのか。
持明院派さんと暫く会話してた者なんですがね。
人それぞれモノの見方に偏りがあるのは否めないと思うんです。
だから私も極力自身の嗜好とかを排除して話してるつもりで
だから上の方で出てた話に近いんですけどね、血統と家は違うんですよね。
皇統は護持されるべきだけど持明院にせよ大覚寺にせよ天皇となる地位にあった訳で。
ただ何と言うか南朝大好きな私には…難しいですね。
公方の大義名分は有り難いものだったんだろうな。
ところで義昭(義秋でもいいけど)の偏諱を受けた
武将ってどの程度いるんだろう。
義晴、義輝のそれは全国に有り余る程いるのだが。
・二条昭実(公卿)
・細川昭元
・畠山昭高
・三淵秋豪(藤英の嫡子)
島津義弘・一色昭国・葛西義重・石川昭光・宗昭景
だいたいが追放以前だろうかな。
島津義弘も義昭の義とは知りませんでした。
三管領家や四職家も名をつらねてますね、立派な「大」将軍ですね。(ここだけ見ると)
将軍になってからも最後まで諦めず頑張ったと思う。
信長は将軍家の家臣の斯波氏の守護代の、さらに家臣の身でありながら
分をわきまえず、あまりにも自分勝手に行動した謀反人。
それなりに治まっていた地方の大名に、むやみに戦をしかけ世を乱した犯罪者。
同じ斯波氏家臣の朝倉程度の尾張守護職拝命でも過分の恩賞であった
のに、それ以上を望むとは増長するにもほどがある。
それで自分に臣従させられれば万々歳だからな。
おそらく、それが信長にとっての理想だったんだろう。
信長にとっては、義昭が自主的に自分に服従してくれれば、将軍が家来になったという威、将軍と幕府に残っている権威や権限もそのまま吸収して天下統一はもっとスムーズに進んだだろうから。もちろん義昭の側にも言い分はあるから、それをもって義昭をどうこう評価する気はない。
しかし、義昭がもう少し愚かで元亀大乱を引き起こしたりしないか、もう少し賢明で諦めがよい性格なら、信長も義昭をもっと厚遇したんじゃないかね。ちょうど豊臣政権における義昭が、権力はまったくないがお飾りとしてもそれなりに重く遇されたように。
個人云々以前に、信長の上洛により室町幕府の機構は(信長の権威によってとはいえ)復活し機能し始めたんだから、どうしたって信長権力と幕府権力はどっかで対立せざるを得ない。
それもそうですが信長は斯波氏の家来=将軍の家来だから
信長のほうが、ひかえなくてはならない。
秀吉は、足利幕府と関係ない出自なのに足利義昭に丁重で、優しい。
織田は、足利の代々の陪臣なのに、信長の行動は謀反いがい何ものでもない。
尾張では斯波氏を追放し、京都では足利将軍家を追放するとは最低の家臣だ。
織田の先祖は泣いていると思う。
織田の謀反と、明智の謀反では、信長の方が悪質だと思います。
三好は傀儡とはいえ、別の将軍を立て、将軍家内部の戦いにしているから
罪は遙かに軽い。
>>219
秀吉も所詮は百姓、将軍の陪臣の陪臣どころか
その陪臣に服属しなきゃならない領民な訳で
厚く遇しても、天下人となる事自体がダメなんじゃ無いですか?
あなたの考えに則れば…
主家の細川氏を下克上。さらに将軍義輝追放。次の将軍置かずに政治を裁断。
足利義維と足利義栄のことじゃない?。
>>222
じゃ、信長だって同じだな。
信長は天皇から、「天下静謐の儀」を任されている。これは本来将軍に求められることで、つまり信長は天皇から将軍義昭に代わってお前が天下をどうにかしろと委ねられたわけだ。
すでに天皇によって「天下静謐の儀」を剥奪された将軍は、新たな天下人の邪魔者と看做されて追放されたと。
足利将軍の大義名分を天皇によって確保するのなら、同じく天皇から大儀を確保した信長の行為は全く問題がないね。天皇からしたら、新たに任命した天下人信長に敵対する将軍義昭の方が朝敵だ。
天皇の命で倒幕し、別の天皇に将軍に任命されたからいいんじゃない?。
別の天皇からすれば、楠木新田の方が朝敵ともいえる。
小説の『流れ公方記』じゃないが
義昭擁立のために頑張った義輝側近たちは
義昭が将軍になったときになんというか満足というか
目的を見失うかしてしまったような。
真木島氏は義昭流浪には付き合ってたっけかな?
その後の身の処し方は兄弟説云々とは別の問題かと。
そうだったとして
将軍になっただけで目的を見失うとは情けない
幕府の再興が真の目的のはず
長岡は途中から自分の利益に走っただけだと思う
明智の行動は
本来長岡の仕事のはず
>幕府の再興
これは義輝の思想と違うけれども
義昭の将軍補任で達成されたともできる。
三好一党は京周辺から退けられているし。
義昭・信長政権は幕府再興と当世では考えられなくもない。
むしろ信長に敵対した義昭の時代認識(このスレのテーマである
暴挙か、あるいは勝算ある博打か)に義輝旧臣はついてこれなかったんだろ。
今日の我々から見れば分かるが信長上洛から時代は変わっている。
義輝時代のそれではない、天文・永禄年間の凶作を通じて地域のブロック化も進んでいるし。
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