江戸城大広間で謁見の順番を待っていると、じっと政宗の顔を見る武士がいる。
その武士に「なぜそんなに私の顔を見るのか」と聞くと、
「自分は水戸家の家臣で『鈴木石見』と申す者です。主君(徳川頼房)のお供で来たのですが、奥羽の太守殿にお会いするのは初めてなのでお顔を忘れないようにと思いまして」
と答えた。
政宗は気になったので更にわけを聞いてみるとこう言った。
「水戸は奥州の先手であるので、逆心を抱く者に備えねばなりません。ご公儀に背く者があるとすれば貴方様をおいて他にはおりませんので、よくお顔を覚えておいてぬかりなきように心がけているのです」
彼の大胆な物言いに感じ入った政宗は
「全くその通り、背くとすれば私をおいて思い当たる者は他にないだろう」
と大笑いし、後で頼房に
「目利きの家臣をお持ちで羨ましい。あの者と是非話をしてみたい」
と告げ、後日頼房に断って鈴木石見を屋敷に招き夜通し語り合ったという。
ニュース
「いつ謀反を起こすかわからない俺かっこいい」っていう中二病的な露悪癖全開。
そういうところが好きだ。
るろ剣の宇水思い出した。
ある意味、天下取るより美味しいポジションだと思ってそうだよな
宝物を託す
明智光秀が山崎の合戦後に土民に殺され、娘婿の明智秀満は最期の一戦をするため坂本城に籠城し、寄せ手の堀たちは大軍でたちまち城を包囲した。
自刃を覚悟した秀満は、天守閣に秘蔵していた国行の刀・吉光の脇差・虚堂の墨跡などの名宝を風呂敷に包ませ、寄せ手の武将・堀監物に軍使を遣わし口上を述べさせた。
「寄せ手に申し上げる。この道具は私物としてはならない天下の宝物ゆえ、城もろとも焼いてしまえば天下の物笑いとなろう。ゆえに監物殿にお渡しいたそう。」
しばらくして、監物からの使者が来た。
「確かに、宝物を受け取りました。しかし、明智家の秘宝中の秘宝の郷吉弘の脇差がないのはどうしてですか?」
対する秀満の返事は、
「その道具は主君・光秀様の愛用の刀で、いつも肌身離さずお持ちであった。しかし、光秀様は心ならずもこの刀を置いたまま冥土に旅立たれてしまった。ゆえにそれがしがこの刀を持って冥土に出向き、冥土でお待ちの光秀様にお届けせねばならんのだ。ご了解あれ。」
坂本城の天守閣が炎に包まれたのは、それから間もなくのことであった。
(川角太閤記)
>>566の逸話で気になるんだけど、っても別に本当?とかそういうのじゃなくて・・
仮にも光秀は織田家でもかなりの実力者の部類と思うんだと、なると宝物と言えばたーくさんあったと思うのよね?
そいで秀満さんが
「俺達死ぬし、失っては勿体無いこれはアイツらに託し後世に・・」的な感じで渡した訳じゃない?
軍使を使わせてって事は時間もそれなりに開いたと思うんだ
その上で宝物の確認作業、これをしてるって事だよね?
A「アレはあるな、コレもあるし・・と」
B「明智家にはアレもあるそうですぞ」
A「あったあった、これな?」
A「あれ・・・?郷吉弘の脇差がねーよ!あいつ、ペチる気か!?」
で、おかしくない?って言いに行って
いえいえ、これは・・・みたいな感じで話をしたと
そいでやっとこさ炎が上がり、秀満さん達は自害しましたって事だよね?
待ってたの?今から死ぬよ!って覚悟を決めてからどんなけ時間経ってるんだよ、正に生き地獄じゃないか
そして堀さんどんなけ郷吉弘の脇差が欲しかったんだよ!って・・・
今から死ぬって人に「脇差し無いよ?」て言えるか?普通言えないだろ?
敗者は全てを失うのが戦国時代とは言え・・
多分秀満さんも思ったと思うんだ、堀は宝物チェックしたんか?って
今から死に往く人間に、何て言うか強欲な汚い部分見せたよね
そう気付いて、いい話~とパッと見て思ってたんだけど、これは残酷じゃないか・・・・
>>595
大名家には、基本その家の宝物の「目録」が存在する。この時宝物は、
目録と一緒に渡されているはずだから、目録と宝物を比較すれば、
何があって何が無いかなんてすぐにわかる。
特に「明智家と言えばこれ!」みたいな宝物が無いなら目立つし。
まああと、こういっちゃなんだが、川角太閤記は、江戸初期の歴史小説だ。
あくまで秀満の悲壮さ、忠誠心を強調する演出なので、あまり深刻に考えない方がいい。
>>595
まず使者が来て趣旨聞いた時点で寄せ手側が無理攻めする理由なくなるわけで
脱出許さない態勢だけとってれば自害までの間は最後の別れの宴でも、ってあたりじゃないの。
そもそも宝物渡します、って言われて何もチェックせずに持ち帰ったらガキの使いじゃん。
一番の名宝だっていうならそれを渡すのを忘れた(実際はそうじゃないのにそういう扱いされちゃう)秀満も受け取った本人も間抜け扱いだぜ?
>>566
実は、この逸話には続きがあって、堀さんは坂本城の焼け跡から郷吉弘の脇差を探させたんだ。
「どんだけ欲しいんだよっ!」て言いたいとこだけど、実は秀満が託した宝物の一部(大半?)は安土城からの奪略品でつい2週間前までは信長のものだった。
しかも、安土の金は光秀が家来・朝廷・京都五山に残らずばらまいたことは史実だから、秀満も宝物を城ごと燃やすのには抵抗あったんじゃないかな。
興味深いのは、秀満が義弘を渡さなかったこと松永久秀の平蜘蛛の爆破とダブらせている点かな。
一方で、別の本(武者咄聞書)では、「秀満と久秀の対応は雲泥の差だ」って言っている。
江戸時代から、秀満の対応には二通りの評価があったんだよ。
・日本最古の胴上げの風習、三好長慶を出迎える上杉謙信
・徳川家康「学問は天下万民、誰でも会得できるものでなければならない」
・片桐且元と占い師、小牧山への引っ越し、八丈島のちょっといい話
・前田利常の引かせ方、瓶割り柴田、小便をしたい射撃を止めてくれ!
・毛利元就の伝記、海賊退治の仕方、瀬戸内のジャンヌ・ダルク
・三河物語の著者「大久保忠教」、大岩祐夢先生、信長の大切なもの