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【戦国いい話2】出羽国横手城主小野寺義道&郡山城には人柱の代わりに百人一心の石碑が埋まっている

2022年7月11日

63: 名無し 2007/11/02(金) 23:49:39
郡山城には人柱の代わりに百人一心の石碑が埋まっている。
伊達輝宗の遺徳を慕い殉死が相次いだ。その中には低い身分から異例の出世をした者もいた。
謙信が佐竹義重の武勇をみて「我が武略を真に継げる人物はあなただけです。この長刀は老後に杖として使うつもりでしたがあなたに託そうと思う」と言って刀を贈った。
しばらくして手取川で織田軍5万を2万で破った謙信は死去した。義重はこの宝刀を大切に想い武神の魂としていつも手入れを欠かさなかった。
義重もいつしか歳をとり息子の義宣に我が武略の魂として長刀を与えた。
少し経ってから義宣に会った義重は何やら見た事がある刀を見かけて不思議に思って聞いてみた。「なんだその刀は見た事あるな?」
すると義宣はニコニコしながら答えた。「あぁこれは過ぐる日に父上からもらった長刀です。なんか長すぎて柄に収まりづらくて使いづらいから短く切断しました♪だいぶ使い易くなりましたよ!」
それを聞いた義重は悲しい表情をして空を仰いで「あぁ我が武神も去ったか」と嘆息した。その後義宣は常陸一国から転封され出羽秋田に飛ばされた。

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64: 名無し 2007/11/03(土) 12:13:20
>>63
それがかの有名な「小豆長光」なんですか?
だとしたら哀しすぎる。・゜・(つД`)・゜・。
※WIKI「小豆長光」上杉謙信の愛刀。なお、現在の所在は不明である。

 

75: 名無し 2007/11/30(金) 02:39:49
>>63
郡山城の石碑は百万一心じゃなかった?
※WIKI「百万一心」吉田郡山城

 

65: 名無し 2007/11/04(日) 01:33:49
ニコニコしながらではそんなふうになるのも無理はないな。

 

66: 名無し 2007/11/04(日) 03:36:49

まあ、その頃の武者達も長い古刀を扱いやすいように短くしていたのは事実だが、
一国の大将が扱い易さを優先って・・・。

大将が刀持って戦う時点で負け戦な訳で・・・。

 

67: 名無し 2007/11/04(日) 05:00:54

>>66
たしなみとして大名が剣術をやるのはおかしいこととは思わんが

むしろ自ら切りかかって北条勢を七人だか討ち取った義重のほうが実際は・・・
関ヶ原の時も義重が口出ししたせいでどっちつかずな態度になってしまったしな

 

68: 名無し 2007/11/04(日) 05:30:53
>>66
それやる人の違いで受け取られ方も違うんじゃない?
家康とかなら常に対処を怠らない例とかにされそう

 

69: 名無し 2007/11/04(日) 06:50:59
やっぱ北条家の汁かけ飯の話が好きだ。

 

70: 名無し 2007/11/04(日) 21:27:50
それ、いい話なの?

 

72: 名無し 2007/11/05(月) 17:46:22
>>70
計画を随時見直す器量があるって話だろ。
高度経済成長期の高速道路計画を当初の計画通り引きたがっている奴に見習わせたいね。

 

71: 名無し 2007/11/05(月) 01:20:58
そして秀吉は北条の滅亡を教訓とし串カツのソース二度漬けを禁止した。

 

73: 名無し 2007/11/06(火) 00:14:44
>>71
秀吉なら味噌カツのほうが好きそうだがw

 

86: 名無し 2007/12/16(日) 17:08:09
 天正十年の中富川合戦は、土佐から進攻してきた長宗我部元親と、十河存保を主と仰ぐ阿波三好軍団が死力をつくして対決した四国では最大の激戦であった。
敗色が濃くなった三好方の武将加賀須野与一高房は、追手の土佐勢から逃れるため、中富川に架かる橋の下に身を隠していたが、激戦つづきで風邪をひいていたので、
どうしようもなく咳き込んでしまった。橋上の土佐勢はすぐさま高房を捕えて首を刎ねたのであった。高房は死に臨んで「拙者は咳を止められず敵の刃にかかるが、死後は咳で苦しむ人々を助けてやるのだ」と遺言したという。いまも咳止大明神はその地に祀られ、「せきどめさん」として親しまれている。

 

91: 名無し 2007/12/17(月) 16:07:41
◆四国平定をめざす土佐の太守長宗我部元親は、阿波へ侵攻したものの、新開道善が拠る富岡(牛岐)城を攻めあぐんでいた。知勇兼備の新開道善を降すには謀略しかない、と考えた元親は、丈六寺において和談を開きたいと持ちかけた。
これに応じた新開道善は「四国平定のあかつきには阿波のうち勝浦郡を与え、富岡城を安堵する」という土佐側の条件を容れて両軍の和睦が成立した。
新開主従は土佐側のもてなしを受けてすっかり油断。
気持ちよく酔って城へ戻ろうとしたところを、床下に隠れていた元親の刺客が主従を襲った。
謀られた、と新開道善たちは覚り、数にまさる敵兵相手に勇戦したが、たちまち全員斬り殺されてしまった。
この時、縁の板に血痕が飛び散り、あとで拭っても拭っても落ちない。
そこで、縁からはずして、天井板にしたのだ、という。
新開忠之(道善)墓碑には「天正九年十月十六日」のことと刻まれている。
◆寺内を貫くように走る県道(堤防道路)の道沿いに新開道善の廟所がある。現在では「禁酒の神さん」として親しまれ、御神酒徳利を供えて願かけをする人もいるそうである。

 

89: 名無し 2007/12/16(日) 23:36:36
島津家臣 新納武蔵守忠元
鬼武蔵と言われた猛将だが戸次川の戦いのさい敵将長曽我部信親を討ちとるが長曽我部の家臣谷忠澄が遺体の返還を願い出ると涙を流しその遺体を返還した
更に岡豊城まで僧を同行させた。

 

92: 名無し 2007/12/23(日) 00:48:27

出羽国横手城主小野寺義道は、武勇あるも政治に疎く関ケ原において
仇敵最上義光と争い西軍についたことにより改易され石見国津和野に流された。
配流先津和野の領主は宇喜多家の一族である坂崎直盛である。
後に坂崎直盛は大阪の陣で戦功をたてるものの、その件(俗に言う千姫一件)によって自害、改易となった。

坂崎直盛の十三回忌、彼の墓を立てた者こそ、誰あろう小野寺義道であった。
江戸幕府により取り潰しにあった者の墓を建てる者などなかなかいる者ではない。
配流時代に遇してくれた坂崎直盛の恩に報いるためのことであった。

後に、小野寺一族は津和野の新領主亀井氏の臣下となり厚く遇されたという。

 

103: 名無し 2008/01/05(土) 15:45:47
>>92
これは本当にいい話だな。柳生宗矩といい。坂崎は人望はあったんだよな。

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