戦国トイレ事情
鎌倉、室町時代に全数の影響により書院造りができたが、トイレが雪隠と称し独立した部屋として造られはじめたのは戦国のはじめの頃だった。
雪隠というものは「孤独感」や「安心感」を得られる独特の居心地のよさがあり、中には、雪隠を広めに造り畳を敷くなど、当時のVIPルームとして凝った造りにした武将もいた。
北条早雲は清掃を厳命し雪隠を清潔に保ち続けた。また、臭いを消すため香を焚いていた。
伊達政宗は巻物や書を携え雪隠にこもり読書をするのが好きだった。
嫌なことがあると雪隠に逃げ込むこともあった。
武田信玄は雪隠をとても気に入ったらしく、中で一日過ごしたこともあったという。
その際、部下に指示を与えるのも雪隠の中からだった。
その他、お尻に事情持ち(男色的な意味で)の武将たちも雪隠を愛用したという。
戦国武将にとっての雪隠は、単なる便所ではなく憩いの場のひとつだったのかもしれない。
ニュース
トイレで漫画読むのいいよな
信玄はトイレを「山」という隠語を使って表していたんだって
で、近習達が「山には草木(臭き)が絶えぬのうww」とかこっそり言ってたとか
今ではあんまりそういうのを感じなくなってきた
遊郭と家康
駿府の城下町に遊郭ができ、徳川家の旗本御家人に大人気となった。
家康は内心御家人の遊蕩を苦々しく思ったが、遊郭が城下町の繁栄に貢献していることもあり、特に取り締まりはしなかった。
しかし、家康が遊郭を放任したことで、御家人の中には遊郭の借金で首が回らなくなる阿呆が出る始末。
そこである作戦を考えた。
ある時駿府町奉行から、
「上様が遊郭の遊女の踊りを御覧になりたいので、上様の御前で選りすぐりの遊女による踊りを披露せよ。」とお達しがあった。
数日後遊女たちは家康の御前で見事な踊りを披露し、家康は遊女一人一人に菓子を自ら与えるほどの上機嫌ぶり。
そして、遊郭に帰ろうとする彼女たちに町奉行はこう言った。
「上様はそなたたちの魅力にメロメロになられたそうだ。そなたたちの内から上様のお側仕えに何人か召し出されると思うので、その準備だけはしておれよ。但し、この話は内密にな。」
この話を聞いてすっかり有頂天になった遊女たちは、早速客の御家人たちにその話を自慢した。
それを聞いた御家人たちは、
「こんなに口が軽い遊女たちが上様のお側仕えになれば、俺たちの遊蕩も洗いざらい上様にばれるに違いない。」とすっかりブルッてしまい、その日を境に御家人の遊郭通いはピタッとなくなりましたとさ。
(名将言行録)
初鹿野伝衛門の陣羽織
武田信玄の使い番に初鹿野伝衛門という勇者がいて、背に「香車」と書いた陣羽織で有名であった。
信玄は「自ら「香車」と名乗る伝衛門は思い上がった男だ。」と彼を叱ったこともあるが、猪突猛進する伝衛門の働きは正にその異名に恥じないものであった。
しかし信玄は「前ばかり行って戻らないのでは真の勇者とは言えまい。戻ってきてこそ真の勇者であろう。」となお渋いことを言う。
それを聞いた伝衛門はさっと陣羽織を裏返してみせ、「金になって戻って参ります。」と返答した。
伝衛門の陣羽織の裏には「金」の文字が書かれていたのだ。
これを見た信玄は満足そうにうなずき、周りの武将もドッと笑いましたとさ。
(関八州古戦録)
うめぇwwwwwww
どんだけ仕込んで来てるんだwwwwwwwww
槍の又左っていう武将の陣羽織は、表も「金」・裏も「金」だったらしいぞw
又左は金の使いどころ間違ってるよな