陣の引き方
大阪冬の陣の折のこと、丘の上に陣取った前田家の部隊は、真田信繁の真田丸から、激しい銃撃を受けた。
家臣たちは丘の陰に移動するよう進言したが、藩主前田利常は
「敵の攻撃を受けて退くなど、前田家の名折れとなるぞ!」
と、いっこうにそれを聞き届けない。しかしそうこうしているうちにも、被害は増えていく。
幕僚達が困りきっていると、当時既に62歳の老臣、山崎長徳が進み出て、利常にこうささやいた、
「今日は、風が非常に冷たいので、このままですと風邪を引くものが沢山出るでしょう。今は大合戦の前ですのに、風邪引きで人数を出せなくなれば、前田家の恥はこの上もありません。丘の陰に移動して、この冷風を避けてはいかがでしょうか?」
すると利常
「うむ、たしかに。風邪をひいてはいかんな。」
素直に忠告に従い移動した。
喜ぶ幕僚達に、長徳振り向いて一言、
「こうするのじゃよ」
ニュース
柴田勝家の(かっこ)いい話
1570年のこと
六角義賢は長光寺城の柴田勝家を攻撃した
柴田勢は400人程度だったが、なかなかしぶとい
義賢は城内に井戸がないことを知ったので水の手を断ち兵糧攻めにした
しばらくして義賢は講和の使者を送り、様子を調べさせた
勝家は降伏するかどうか相談するので明日まで待ってほしいと言う
さて、使者が手を洗いたいと頼むと勝家は惜しげもなく水を使わせ余りは捨ててしまった
そのため義賢はこの戦いは長くなるだろうと考えた
だが実際はほぼ水は残っていなかった
勝家は全ての水を兵士たちに分け
「皆の者、水の蓄えはこれまでだ!」
と言って水瓶を叩き割った
明朝、打って出た柴田勢は見事に油断していた六角軍を敗るのだった
これを聞いた信長は感心したので、
勝家に与えた感状の宛名を「瓶割り柴田殿へ」と記した
脳筋のイメージがある武将でもたまにそういう機転を利かせた話が残っているよね。
三国志の張飛とかもそんな感じだ。
お市様が「瓶を頭突きで割れる人が好き」と言うのを平手の爺様に聞いて
特訓して、瓶を割れるようなったからじゃないのか
『殿といっしょ』のネタじゃないかw
こういうこともいいのかな?
永禄三年の話。
毛利元就が体調を崩していた。
当時は尼子攻め真っ最中。大変な時期である。
そんな元就を気遣ってか、将軍・足利義輝が医師を派遣してくれた。
名医とうたわれる曲直瀬道三である。
曲直瀬の治療の甲斐あってか、元就は無事体調を治し、元気に子供を作りましたとさ。
おしまい。
曲直瀬派遣の理由は元就が幕府や朝廷に多大な献金をしたこと。そしてこの時、曲直瀬が幼い頃の輝元に出会っていること。毛利家はこのときの治療に感謝し続け、書状や進物での交流を続け、秀吉の天下統一後、上洛した輝元が曲直瀬の屋敷に出向き、あらためて感謝を述べた事、などのエピソードも入れると話が膨らむね。
何て読むの?>曲直瀬
くせなおせ?
まなせ だろ
大阪冬の陣の折の事
徳川方の伝令、森権太夫は使いの帰り、徳川豊臣両軍の矢弾の飛び交う戦場の真ん中で、ぴたりと足を止め、大声でこう言った
「各々方!小便をしたいので射撃を止めてくれ!」
双方、あっけに取られ発砲を中止、権太夫はゆうゆうと用を足し終わると
「感謝いたす。では、戦を再開してくだされ」
と、再び大声で叫び、自分の陣へと戻っていった。
この大胆な行動に、敵味方とも感心する事しきりだったという。
大好きだ。
・領民を守った九条政基、蠣崎家のイイ話か微妙な話
・寺を守った僧「受連」、最上家臣「北楯大学」、被災者を救う伊勢宗瑞
・海老をすくい上げた酒井忠次、長曾我部家の禁酒法、板倉勝重のお触書
・勝新太郎の三味線、秀吉と鶴、細川忠興が隠居した頃
・土屋昌恒の忠誠、吉川元春と鮭料理、賃金を奮発する鮭様