関が原の戦いのときに九州の戦国武将立花宗茂は西軍について東軍の京極高次が守る大津城を攻めていた。宗茂はこの戦いで大いに活躍し、大津城を降伏開城させることに成功したが、肝心の関が原の合戦で西軍が敗退したとの知らせが入ったため、大坂城へ撤退することになった。
その際、味方の武将から東軍の侵攻を遅らせるために琵琶湖近くにある瀬田の大橋を焼こうという意見が出たが、立花宗茂は「古来より 瀬田の橋を焼いて勝ったためしがない。都人の迷惑になるからやめよ」と主張してやめさせた。
後にその話を聞いた家康は「宗茂はやさしき心がけのあるものかな」と感心した。
ニュース
時には非常に徹することも必要だろうに…
ひょっとしたら宗茂は毛利の腰砕けも予想できてたのかもしれんね。
宗茂が瀬田の橋を渡ったタイミングは、大津城の攻城戦直後。
つまり関ヶ原の合戦が終わって東軍が西進してくる、いわば撤退戦の状況だよ?毛利の対応を知ったのはその後、大坂城まで辿りついた時でしょ。
瀬田の橋のところで毛利家の対応を知っていたら、大阪城なんか寄らずに一目散に瀬戸内から九州まで逃げ帰るでしょ、普通。
要は極限状態にあっても、近隣の者達の迷惑を考えて橋を焼かなかった宗茂を、家康は評価したって話でしょう。
学問のこと
慶長八年ごろのこと、林羅山や遠藤宗務、松永貞徳といった人々、がそれそれの研究している「四書新注」「太平記」「徒然草」などの、一般の人々への公開講義を行う事を企画した。人々の間に、学問を広める事を目的とした者である。
ところがこれに、儒学を家学とする清原家などの、京の伝統的な学派が異議を唱えた。そして彼らはこれを禁止させるため、家康の元に、今川氏真を派遣した。
氏真は言う、
「学問とは、代々それを受け継いだ師が、その伝統の秘伝を含め弟子に教え伝えることで始めて成就するものです。それを公開し誰にでも学べるようにする、などと言う事は、学問そのものを破壊してしまいます。」
家康はこう答えた
「師につかなければ、学べないようなものは、学問ではない。芸だ。学問とは、何から学ぼうが、学ぶ者の努力次第で、天下万民、誰でも会得できるものでなければならない。」
こうして、公開講座は無事開かれた。さらにこの講義内容は出版され、日本全国に知的な興奮を巻き起こした。一部の人々にのみ伝わっていた「徒然草」が、日本人に「再発見」されたのも、この時である。
学問の世界が、中世から近世的なものへと切り替わった瞬間とも言われる、有名なお話。
同意
すんげえ先見性だ。
家康なしでは、明治の発展の基礎体力はなかっただろうね。
七本槍(これ付けないともっと地味なのいるんで)の派手なほうの加藤さんと地味なほうの加藤さん、陸戦担当の加藤さんと海戦担当の加藤さん
この2人当然のように朝鮮にいってるわけなのだが、地味なほうの加藤さんの戦果はあまり喧伝されていません
家来の日本一の褌男に「お前抜け駆けしろ。おれはそれ追っかけるふりして先陣切る」と吹きこんで、団を追っかけるふりをして敵旗艦を征圧し敵将を討ちとりそのままその船と自軍で敵船を百隻以上沈めるというある意味とんでもないことをしでかしているのですが、そのことも多く語らず「あの時俺の後ろにいた小姓が乗り遅れて溺死した。まだ15だったのに」としか言わなかったそうです
このように本当に根っから地味なのかそう装っていたのかわかりませんが当時から、この2人の加藤さん「同じ苗字なのに全然違うね」と結構話題になっていました(申し訳ないが光泰さんは話題に上ってなさそうだ)
ある日捕らえた虎を生きたまま秀吉のもとへ送ろうとしたとき(秀吉もうしんでるんだけど)陣中(名護屋)にはたまたま虎のほかに象さんがいました。象さんの鳴き声にびっくりしたのか美味しそうと思ったのか虎は突如暴れだし逃走。その眼前には派手なほうの加藤さんが。派手なほうの加藤さんは虎を睨めつけ威嚇。虎もしばらくにらめっこしていたのですが、威圧されたのかそのまますごすごと退散。「流石は主計頭よ」とまわりはやんややんや。
そこに声をかけたのが地味なほうの加藤さん
「なにかあったのか?」
「今、虎が来てな。わしが睨んだらすごすご尻尾を丸めて逃げよったのよ」
「そうかそうか」
と会話をすると、壁にもたれて眠ってしまった。
実は地味なほうの加藤さんもずっと派手なほうの加藤さんの隣にいたのだ。しかも寝てました。再び寝た地味なほうの加藤さんは虎が来たこととか全然意驚かない平静そのものだったそうです。実際のところは本当に眠かっただけの可能性も高いのですがその態度が対象的だったため、やはり加藤同士の逸話の一つになりました。
もっとも眠くてもそういうことがあったら多少意に介すると思うので地味でも度胸はあるということでしょう。のちの火箸の事件とかも含めて。
武辺者で武辺者を好み常に鍛えていた派手なほうの加藤さん
「武士なんて不器用なぐらいがちょうどいい」
「豪傑より弱くても責任感があるやつが好き。大事なのはここの功より団結力」
と言っていた地味ほうの加藤さん。
そんな考えではそりゃ地味だわ、とおもわないでもないですが、地味なほうの加藤さんは基本的に終世この考え方が一貫しており、それほど豪傑ではない人には仕えやすい君主だったようです
ガイシュツの火箸の件とか皿の件とかみてもわかりますが、奥さんも松山築城時に自ら出てきておにぎり配ったりするタイプです
全部書いてから別にいい話いじゃないなぁということには私も気づきました
正に「沈勇の士」
派手でなく不器用であろうとカッコイイ話だと思いますよ!楽しめました。
・秀吉様が臆病になられますように、米粒をいただきたい、焼き塩鯛の身を焦がしつつ
・元旦から不機嫌な信長と木下藤吉郎、長宗我部元親と羽柴秀吉の饅頭
・静御前が使ったといわれのある薙刀、伊達政宗の愛馬「五島」
・小早川隆景と黒田如水、信長「豆腐食う寺」、毛利の信義と大友の信義
・直江兼続「死ぬ気でやれば何とかなる」、長野業正の娘はいずれも美女揃い