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【戦国いい話57】日本最古の胴上げの風習、三好長慶を出迎える上杉謙信

2022年8月23日

526: 名無し 2008/10/16(木) 13:46:17
秀吉が小田原攻めに際し、浜松城に止宿した時、折りしも旅から帰った作左は、旅装束のまま諸将の前を進み、家康のところに来ると、大声で罵った。
「殿はいつからかくも愚かになり候や。国主の城を人に貸す事や候。されば、女房をも人に貸し給わんか!」
困りきった家康は
「あれは本多作左衛門と申すもので、家久しく睦まじいのであんなことを言ったまで。無礼の段お許しあれ」
と秀吉に謝って事なきを得た。
かつて榊原康政が、秀吉を「八逆罪の者」と高札を立て、後に秀吉から「武臣の義。汝にあり」と従五位下式部大輔に叙任されているが、作左も秀吉に招かれたものの頑として拒否した。
内心秀吉を恐れる家康は作左を上総に幽閉、後に下総の井野に移した。
作左はそこで生涯を閉じるが、秀吉の死後、その子成重を4万石の大名に取り立て、功に報いた。

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534: 名無し 2008/10/16(木) 23:14:37

景勝の実父長尾政景の逸話。
当時余所から来た婿養子というのは低く見られ嫌がられる風潮があった。
しかし他の地域から人が住み着かなくなっては町が寂れてしまう。
そこで政景はこの風潮を払拭し城下を発展させるためにある事を始めた。

その年に自領へ婿にやってきた者を集め、婿殿の体を皆で持ち上げ祝い讃えるように命じたのである。
これが日本最古の胴上げの風習であると伝わっている。

535: 名無し 2008/10/16(木) 23:21:45
>>534
ある種成人式に近いものも感じますな。

 

541: 名無し 2008/10/17(金) 16:17:36

有名だと思う上杉景勝の話。

秀吉、次いで家康によって禁教令が敷かれた頃だが、上杉領ではキリシタン弾圧が比較的緩やかだった。
景勝自身は仏教徒であり別にキリシタンに好意を抱いていた訳でもなかったが別段嫌っているわけでも無かったので熱心に探して弾圧する気はなかったらしい。
そして米沢に移されたあと、上杉家にも幕府から「領内のキリシタンを処罰せよ」と命令が来た。
しかし景勝はそれに対し「我が領内には一人のキリシタンもござらぬ」と回答し景勝の生きている間米沢ではキリシタン捜索も処罰も行われなかった。
景勝は家臣領民のうちにキリスト教徒がいることは知っていたのだが「有能な家臣を殺す事は国の衰退に繋がる」と考えキリスト教徒であることだけを理由に家臣を処断する事を良しとしなかったのである。

まあ家臣が付いてきすぎて財政を圧迫した藩なんで手放しに良い話なのかはちょっと疑問が残るとこだけど。

 

547: 名無し 2008/10/17(金) 18:15:46
>>541
いい話ですね。景勝の宗教関連の話はあまり知らないので、こう言う話は興味深いです。

 

542: 名無し 2008/10/17(金) 16:33:30
実際にキリスト教徒であったと伝わる家臣領民もいないと
ただの景勝美化に拡大解釈した妄想話に見える

 

543: 名無し 2008/10/17(金) 16:47:36

>>542
多分、景勝の家臣のキリシタンというのは、重臣の一人だった甘糟右衛門とその一族のことかと。ちなみにこの甘糟は、景勝の死(1623)の後に、キリシタンとして処刑されてるね。

>   北山原殉教地の十字架像の手前右には、十字架が刻まれた自然石が置かれている。その土台に埋め込まれた銅版には、次のように記されている。
「この十字碑は徳川幕府の切支丹禁令により寛永5年12月18日永遠の生命を求めてここで死刑に服したカトリック信者米沢藩士甘糟右エ門一族が無足町の自宅でひそかに信仰の対象としていたものであるそれが無足町の立身不動尊内に遺してあったので米沢カトリック教会内の北山原会が彼の処刑後335年目の昭和39年12月18日この地に移したものである」

景勝は甘糟をはじめとしたキリシタンの家臣を、信仰ゆえに切り捨てなかった(もしくは切り捨てることが出来なかった)のは、ある程度まで確かなんじゃないかな?

 

544: 名無し 2008/10/17(金) 16:59:01
キリシタン家臣が実際にいたのね
>>541の話だけだと名前が挙がらずそれがはっきり解らなかったから
怪しい話に見えたんだよ

 

554: 名無し 2008/10/17(金) 23:27:26

上杉謙信が初めて上洛した折の事

まず、京を支配していた三好長慶の屋敷に挨拶をしに行ったが、長慶は仮病や居留守を使い、けんもほろろと、相手にしなかった。

これに腹を立てた謙信、宿の主人に長慶とはどういう人間かを聞いた。あれこれ話しているうちに
「三好殿は普段どちらへお出かけするのか?」
「北野神社を信仰されており、毎月参拝されます。明後日もそのためにこの宿の前を通ると思いますよ。」

それを聞いた謙信、「ではお出迎えの準備をせねばいかんな」と、家臣に命じ、弓に弦をかけさせ、槍を磨かせ、鉄砲の整備をさせた。宿の主人はこれに驚き、長慶の屋敷に駆け込んだ。「越後の長尾様のご一行が、大変な準備をしております!」三好家も驚愕し、急遽家宰の松山新入斎を宿に派遣した。それを見た謙信

「やあ、やっと話の出来る奴が来たな」

そこで松山と談合し、将軍への謁見の段取りをつけさせた。

まあ江戸時代の軍記ものの中のお話ですが、ちょっと面白かったのでw

 

555: 名無し 2008/10/17(金) 23:50:47

北条氏邦の家臣、日尾城主の諏訪部主水助は秩父衆との取次ぎを任されている重臣だったが、酒癖が悪いところが玉に瑕であった。

永禄のころ、三国同盟が敗れて武田氏が敵方に回ると、甲武国境の日尾城は最前線の重要拠点となったが、主水助はある日来客があって酒を飲み、寝潰れてしまった。ちょうどこの日武田軍が兵を動かして城下にせまったため、家臣達は殿様を起こそうとするがまったく起きない...。
みんなが困り果てていたこのとき、主水助に替わって城兵の指揮を執ったのはなんと奥方であった。この奥方の勇戦によって武田の先鋒、山県昌景は兵を引いたという。

酒のんで寝てるところを夜襲されたとか、篭城戦で女武者が現れた話はよくあるが、白昼堂々眠り込んでた人は戦国時代通してそうそういなかったんではなかろうか?
なんかいい話とは言えないかもしれないが、こういうのどかな合戦もあったってことで。

 

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