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豊臣の直大名になった時に
「わしは長年檜山館の家来だったがお前は晴れて天下の将軍(本当にこう表現してる)の直臣になったんだな」と喜びながら天才丸(のちのry)に拝礼したことと
はるか未来で現当主が陸軍「上等兵」として人知れず戦死したぐらいしか逸話がない気がする・・・
蠣崎・・・・ちょっといい話・・・か?
●秀吉に謁見した際、徳川家康に褒められた綿入れをその場で家康に献上し、蝦夷支配のための強力なコネを作った。(太閤の後は徳川だという先見性)
●アイヌから「鮭」を詐欺まがいの交換レートで大量に搾取した。
●九戸征伐で、率いたアイヌ部隊の毒矢の威力が凄まじく、諸大名を震えあがらせた。
函館の役所とか図書館ならなにかありそうだが地元の人、なんかある??
鮭の皮使ってなかったけか
陣羽織ってのは正装で日本からの綿繍か清の蝦夷錦
普段着は樹皮衣が主で獣皮衣や魚皮衣も地域によっては着てる感じだったはず
チェプケリというらしい
美味しそうな靴ですな
本多忠勝が娘婿の真田信之が父と弟の助命嘆願した時、強く取りなしたとかなんとか。
大久保長安は、武田家臣だった時の恩を忘れず、信玄の娘の信松院(松姫)の暮らしを支援したそうな。
文亀年間の頃、九条政基がその所領である、和泉国、日根庄に下向していた頃の話。
和泉守護と九条家は、その領地の境界を争っていた。ある時、日根庄内の入山田村の住人二人が、和泉守護細川氏の家臣によって拉致されると言う事件が起こった。
政基はすぐに、家臣の塩野兵庫助を、守護の滞在する堺へと派遣した。
くどくどと言い訳をする守護側に、塩野はこう言い放った
「所領問題に気に入らないことがあるのなら、それは百姓の責任ではない、和泉細川家と我が九条家の問題である。九条家の家来である私が今ここにいる。私を拘束し、かわりに百姓を開放しなさい!」
同じ頃京では、政基の工作により、細川の本家である京兆家から「九条家は報復として、和泉細川家の係累を人質に取るといい。我々も協力する。」との言質を取った。和泉細川家は追い込まれた。
結局、守護側は何も出来ず、拉致した百姓を開放した。
当時は公家であっても、地下の領民のためにすら、これだけのことをした、と言うお話。
ここまで体も張って、面倒な立ち回りもするなんて・・・イイハナシダナー
そんな面子の問題。
ちなみにこの後、守護方が入山田村に襲撃をかけるという噂が立ったときの、九条政基の言葉
「守護が私に対して武力で攻撃すれば、入山田を含む九条家由緒の五ヶ村が、昔のように九条家領になってしまうことは目に見えているではないか。
私とともに討ち死にする者たちには気の毒だが、私が討ち死にこそ、幕府の処断によって九条家領が回復される絶好の機会となる。私はむしろ、それを望んでいると言っていいくらいだ。
このようなことは、馬鹿でもわかる話だ。」
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