聚楽第に諸大名が集まったとき、伊達政宗が金貨を皆に見せていた。
まだ貨幣が珍しかった時代である。兼続は得意顔の政宗から扇で受け取ると、その上でポンポンと羽根突きのように弾ませた。
政宗が「手にとって見られよ」と言うと、
「謙信公の頃から采配を振るったこの手に、卑しいものを持っては汚れます」
と応えた。
兼続の葬式、主君の景勝から銀50枚(350万円)、将軍秀忠からは銀70枚(500万円)の香典が下された。
本人は嫌っていたが、できるヤツには金は集まるものだ。
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>>722の逸話みたいに、政宗と兼続の仲が悪かったって逸話は他にもあるよね。
確か大阪城(だったかな?)の廊下で初めてすれ違った時、政宗が兼続に
「上杉の家臣が、大名の自分に会釈もしないのは無礼にも程がある。まさか俺の顔を忘れたか!」
兼続は「これは失礼致した。あなたとは戦場で何度もお会いしたが、いつも逃げて行く後ろ姿しか拝見したことが無かった物で。まさか伊達様とは思わず大変失礼致した。」とやり返した。
本当に仲が悪いつーか…兼続の矜持も相当な物だったんだろうな。
>>732の逸話を聞くと
「いやいやww政宗だったら初対面でも分かるだろw」と思ってしまう
どっちにせよ、イイ話というよりは、直江の品格に傷が付きそうな逸話だが
兼続も芯の強さは見せたが、侮辱的な言葉を吐いて礼節や品格に欠けた受け答えだな。
当時政宗はまだ二十代、兼続も三十代と青年武将同士らしいエピソードだね。
へつらう必要はまったくないだろ?
主君の景勝は5大老、自分は秀吉から陪臣の身ながら30万石をもらった。
政宗よりも兼続のほうが秀吉の覚えもメデタイ。
もうイッパツ金の話。
安土城に「御幸御殿」が完成し、新年会も兼ねた、見物会が催された。
事前に「礼銭100文(5000円)を持参するように」というお触れがでていた。
当日受付には、なんと信長自ら立ち、入場料を受け取った。
ふだん見られない信長の顔を間近で見られるのと、狩野永徳の名画、金作りの調度品などを、拝見できるのが100文では安い。
それよりも、信長の喜びを隠せない心境が垣間見えてなんとなくイイな。
その大判をセンスでポイっと投げて政宗に返したとかっていう逸話だよな?
この逸話聞いて兼続って立派だなぁと思う人っているんだろうか…
あと関係ないが30万石ってのは与力含めての数で、直江領はもっと少ない
違う、違う
羨ましかったけど、伊達家に嫌味を言っただけ
当時の上杉家は、伊達家とは違い財政面で上杉ほど困っていなかった。
上杉家はそれこそ財政難で金銭の工面に追われており、正宗も意地悪で金を見せびらかしていたと言われている。
それとは別に当時の金は大変不衛生で疫病対策のため身分の高いものは触れたがらなかった
しかも兼続が言った一言が各方面に伝わりデフレの原因になったんじゃなかった?
むしろ秀吉が生きてた時代だったら
上杉は佐渡金山抱えて金がガバガバ取れてた時代じゃねーの?
景勝が秀吉に献上した大判は全国の6割を占めて伊達を余裕で引き離して全国トップだったと思うが。
なんで金産出量トップの国のNO.2が大判を羨ましがらなきゃいけないんだ?
金そのものを披露したんじゃなくて、当時はまだ大判・小判とかそんなに造られてなかったから、「私が考案した大判でござる!」って感じのお披露目だったと思われる。
当時の上杉は秀吉に上洛免除され、大阪城や伏見城を手本に広島城と同規模の城を築くよう期待されてた。
佐竹も新城の築城協力の為に会津に派兵したし。
むしろ謙信以来の遺風に諸将も唸り感じいったと言える。
上杉家や自分自身への誇りみたいなものを表すエピソードになるんだろうけどねぇ