93: 名無し 2007/12/24(月) 13:17:39
立花宗茂の実父高橋招運は息子宗茂が守る堅固な立花山城に撤退するように勧められるも小さな岩屋城で700かそこらで島津の大軍相手に奮戦し時間を稼いで全員玉砕。息子宗茂も島津軍を長期戦に巻き込み、豊臣軍の九州上陸で撤退する島津軍への猛攻に繋げた話は泣ける。父招運の自己犠牲が息子宗茂の運を招いた。
宗茂は関が原には西軍で参戦し(後方の為に無傷)撤退の際にボロボロの島津軍と一緒になり「この機会に父上招運様の仇を討ちましょう。」と進言する家臣の意見を退け、島津軍を警護して無事に九州まで送り届ける。その後、東軍側から攻められた宗茂を救援する為に島津が援軍を送った話も良い話では。
宗茂は関が原には西軍で参戦し(後方の為に無傷)撤退の際にボロボロの島津軍と一緒になり「この機会に父上招運様の仇を討ちましょう。」と進言する家臣の意見を退け、島津軍を警護して無事に九州まで送り届ける。その後、東軍側から攻められた宗茂を救援する為に島津が援軍を送った話も良い話では。
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372: 名無し 2008/06/07(土) 23:24:27
>>93絡みで岩屋城ネタ
岩屋城が落城して間もなく、敗戦を知ないまま立花山城から立花宗茂の使いの兵が高橋紹運宛の書状をもって岩屋城へきた。
が、時既に遅く全員玉砕の岩屋城。使いの兵は島津軍に捕らわれ、そのまま従うよう命じられる。
立花宗茂の使いの兵はそれを断りこう言った
「一つだけお願いがあります。その書状を読むのは私の首をとってからにしてください」
その答えに島津の将は心を打たれ、書状を読まずにその兵の縄をほどき、立花山城に無傷で送り返した。
岩屋城が落城して間もなく、敗戦を知ないまま立花山城から立花宗茂の使いの兵が高橋紹運宛の書状をもって岩屋城へきた。
が、時既に遅く全員玉砕の岩屋城。使いの兵は島津軍に捕らわれ、そのまま従うよう命じられる。
立花宗茂の使いの兵はそれを断りこう言った
「一つだけお願いがあります。その書状を読むのは私の首をとってからにしてください」
その答えに島津の将は心を打たれ、書状を読まずにその兵の縄をほどき、立花山城に無傷で送り返した。
373: 名無し 2008/06/08(日) 10:06:54
>>372絡みで立花宗茂ネタ
関が原の戦いで西軍に味方したため、戦後領地を没収され浪人となった宗茂。彼を見捨てず、虚無僧や物乞いまでして宗茂を支え続けた家臣達。
その主従愛に感動した徳川秀忠は、彼を筑後柳川十一万石の大名として取り立てた。
かつての領地に返り咲いた宗茂と家臣達は、さっそくかつての家臣を呼び寄せ、新たな家臣を雇った。たちまち宗茂の屋敷は家臣達であふれかえった。
そこで宗茂が浪人時代から支えてきた家臣達が進言した。
「家臣も増え、今の屋敷では手狭でございます。そこで屋敷をもっと大きく建て替えて、部屋も廊下も広くいたしましょう。」
関が原の戦いで西軍に味方したため、戦後領地を没収され浪人となった宗茂。彼を見捨てず、虚無僧や物乞いまでして宗茂を支え続けた家臣達。
その主従愛に感動した徳川秀忠は、彼を筑後柳川十一万石の大名として取り立てた。
かつての領地に返り咲いた宗茂と家臣達は、さっそくかつての家臣を呼び寄せ、新たな家臣を雇った。たちまち宗茂の屋敷は家臣達であふれかえった。
そこで宗茂が浪人時代から支えてきた家臣達が進言した。
「家臣も増え、今の屋敷では手狭でございます。そこで屋敷をもっと大きく建て替えて、部屋も廊下も広くいたしましょう。」
374: 名無し 2008/06/08(日) 10:25:39
>>373続き
だが宗茂は首を振って言った。
「いや、屋敷は狭いままで良い。」
家臣達は「何故?」と首をかしげた。
宗茂は目に涙を浮かべて言った。
「なぜなら俺が浪人となっても、お前達は俺を見捨てず、物乞いをしてまで俺を支えてくれた。俺にとってかけがえの無い、愛しい家臣だ。もし屋敷を広くすれば、お前達とこうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。それは嫌だ!それなら屋敷が狭いほうが、俺は嬉しいのだ。」
家臣達は涙で言葉も出なかった。
だが宗茂は首を振って言った。
「いや、屋敷は狭いままで良い。」
家臣達は「何故?」と首をかしげた。
宗茂は目に涙を浮かべて言った。
「なぜなら俺が浪人となっても、お前達は俺を見捨てず、物乞いをしてまで俺を支えてくれた。俺にとってかけがえの無い、愛しい家臣だ。もし屋敷を広くすれば、お前達とこうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。それは嫌だ!それなら屋敷が狭いほうが、俺は嬉しいのだ。」
家臣達は涙で言葉も出なかった。
694: 名無し 2008/08/18(月) 13:37:18
>>374
泣いた。・゚・(ノД‘)・゚・。
泣いた。・゚・(ノД‘)・゚・。
101: 名無し 2008/01/04(金) 00:24:23
豊後日出藩で伝えられる豊臣秀頼の遺子国松丸の話はどうでしょう?
初代木下延俊(ねねの甥)は遺言で日出藩3万石の内、1万石を嫡男俊治の弟延由に分け与えるように江戸家老長澤市之丞に告げるが長澤は「かしこまり
ました。5千石を延由様に分けます。」と答え「違う1万石じゃ。」と主君から言われるも「5千石確かに承りました。」と応えるのみで、遺言として5千石を延由に分封した。
日出藩では延由は島津に助け出された秀頼が一子「国松丸」を延俊が自分の子として匿っていた。との言い伝えが有り、その真偽は定かでは無いが長澤市之丞は主君延俊の死後22年を経て徳川幕府から正式に延由の分封を認められるのを見届けると「切腹」して自ら命を絶っている。
日出藩3万石の内1万石までの分封で幕府から見咎められるのを恐れ、遺言を変えて5千石にし、朱印を幕府から頂く事で自らの役割を果たし主君の命に背いて5千石減らしたお詫びに切腹したのではなかろうか?
ちなみに幕府へ「延由」を延俊の弟「延次」として申告している。
初代木下延俊(ねねの甥)は遺言で日出藩3万石の内、1万石を嫡男俊治の弟延由に分け与えるように江戸家老長澤市之丞に告げるが長澤は「かしこまり
ました。5千石を延由様に分けます。」と答え「違う1万石じゃ。」と主君から言われるも「5千石確かに承りました。」と応えるのみで、遺言として5千石を延由に分封した。
日出藩では延由は島津に助け出された秀頼が一子「国松丸」を延俊が自分の子として匿っていた。との言い伝えが有り、その真偽は定かでは無いが長澤市之丞は主君延俊の死後22年を経て徳川幕府から正式に延由の分封を認められるのを見届けると「切腹」して自ら命を絶っている。
日出藩3万石の内1万石までの分封で幕府から見咎められるのを恐れ、遺言を変えて5千石にし、朱印を幕府から頂く事で自らの役割を果たし主君の命に背いて5千石減らしたお詫びに切腹したのではなかろうか?
ちなみに幕府へ「延由」を延俊の弟「延次」として申告している。
105: 名無し 2008/01/21(月) 16:25:15
松永久秀と三好三人衆は12月25がクリスマスだったため停戦をした
106: 名無し 2008/01/21(月) 20:08:34
>>105
『殿~!今宵は栗酢益で御座いマス。』
『うむ!ならば休戦じゃ!足袋を用意せい!』
全米が鳴いたわ…。
107: 名無し 2008/01/21(月) 20:36:51
どっちも家臣に切支丹がいたからな
停戦中に初めて日本でクリスマスパーティが開かれたのは有名な話
停戦中に初めて日本でクリスマスパーティが開かれたのは有名な話
108: 名無し 2008/01/21(月) 21:57:07
>>105-107
ネタかと思ったらマジなのか
ネタかと思ったらマジなのか
112: 名無し 2008/01/24(木) 21:49:53
>>108
ただ、色々説はあって、久秀の相手は三人衆だったり義継だったり
後、一時期信長と争った際にもクリスマス休戦があったとか(これは日付的に無理があるが)
初めてっていうのは大内氏領内っていう異説もあり
109: 名無し 2008/01/21(月) 22:06:54
日本史上初の事だからな