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ネタを振ります。
漢書百官公卿表上の順番で。
丞相(相国)
一言でいうと宰相。「天子を丞けて万機を助理するを掌どる」
相国は丞相の上位互換。
漢で相国になったのは蕭何、曹参、呂産、董卓くらいか。
でも呂産や董卓の場合は少し問題あり。
漢では呂后時代や武帝の一時期に左右丞相を置いています。
>>5
後漢は三公がほとんどですからね。
三国時代にはいずれにも丞相はいましたが、左右丞相はいなかったようですね。
前漢でも左右丞相の時代の方が珍しかったようですし。
前漢では蕭何が初代丞相となり、後に相国に。
曹参が次に相国となり、死後左右丞相として王陵と陳平が就任、という順番ですから、最初は丞相は1名でした。
漢においては、左右丞相というのは建国の功臣などのパワーバランス等のために最高位を分置した、臨時的な措置だったのでしょうか。
ちなみに、前漢でもう一回だけ左右丞相が復活します。
それは武帝後期、劉屈釐の丞相就任の時の事です。(漢書66劉屈釐伝)
詔によれば、丞相府を二つに分け、左丞相を劉屈釐とし、右丞相には「天下遠方之選」、即ち天下より賢人が現れ見出されたらその者をあてる、というつもりだったとか。
これは多分、武帝の甥(兄である中山王勝の子)である宗室劉屈釐を丞相にする事への抵抗、違和感を緩和する効果があったであろう事と、(当時は宗室の要職就任は制限されていました)周公旦と太公望といった、「優秀な親族(宗室)と在野から見出された賢人」という古代におけるある種の理想的な組み合わせにしたかったのではないかと推測します。
かの有名な戻太子の乱を、長安内戦により破った官軍の司令官が彼だったからです。
周公旦も、実の兄弟を討伐しています。
こんなことまで劉屈釐は周公と同じになってしまったのです。
丞相の副官が長史(秩千石)2人です。
また、それとは別に丞相付きの行政監察官として司直(秩比二千石)がいます。
司直は各官庁(九卿、太守)を監察弾劾をしたようです。
この強力な監察官が丞相付きになっているのが、漢代宰相の特色かもしれません。
司直は、漢書84テキ方進伝によれば、もう一つの監察官である司隷校尉さえも弾劾しうる存在であり、朝廷全体を監視するような職だったと考えられます。
(司隷校尉も司直や丞相自身を弾劾しています)
これが丞相直下にあり、皇帝直下の司隷校尉とほぼ同格になっているのです。
(テキ方進伝によると、当時、司隷校尉の「位」は司直の下であり、 また会議の類の際には、司直と司隷校尉が中二千石の前に座って 丞相・御史大夫を迎えたという)
行政監察という点では丞相司直の地位の高さと職の重さは相当なもので、それはひいては当時の丞相の職務と権限の重大さと無関係ではないでしょう。
誰も見ていない予感。でもいいか。
丞相についてはまだまだ話はあるけど次。
太尉
丞相と同じく「金印紫繻」なので丞相と同等か。
「掌武事」というものですが、実のところ実際に何をしていたのかよく分からない。
何故なら、置かれていた時期の方が圧倒的に少ないから。
百官表では武帝建元2年に省いたとあるけど、それまでも何度か消えては復活しています。
で、問題はここからで、百官表ではその後に武帝元狩4年に大司馬を置くという記事が続いています。
ということは、前漢前期の太尉=武帝が置いた大司馬?
見てますよ。
易性革命って見方で行くと
漢って東西ともに立ち枯れって感じがするのですが
そうなった要因になり後に改められた制度って
思いつきますか?
>>14
前漢においては丞相。
後漢においても丞相。
・・・かもしれません。
正確には、前漢末から新への時代は丞相制度から三公制度への移行期で、新の官制もその中で産まれたものと理解できます。
王莽は当時の禅譲待望論の潮流に乗った面が大きいとも思うので、必ずしも制度面は主要因ではないように思います。
(丞相が王莽簒奪の要因というのは半ば冗談です)
一方、後漢末は前漢末以来の三公制度が丞相制度に復古した時代でしたが、丞相としての行政権と軍事権、録尚書事としての皇帝権への容喙、全て備えた曹操によって王朝にとどめを刺されました。
これもまた時代の流れだったにしても、三公制度をやめた途端にこのザマ、とも言えないこともないのではないでしょうか。
このザマ、ったって丞相復活自体が曹操肝煎りでしょうけど。
ただ、何故「丞相」なんて200年ぶりの官を持ち出したのか。
(前漢の丞相を復活させてしまえば
「(太尉≒大将軍+司徒+司空)×2/3」
くらいの権限が集中するからです。 多分・・・
権限の固まりです。
権力の集中が主原因ですか・・・
三晋みたいなもんなんでしょうか。
前漢の初期には丞相制度も
うまくいっていたようなのですが、
結局だんだん汚れて行くんでしょうね。
話題を止めてまで回答いただき
どうもでした。
>>17
前漢末も、三公制度を無にする「宰衡」などの一連の王莽による権力集中がありました。
丞相だから悪いのではなく、権力の一極集中が問題なのでしょうけど、丞相は制度どおりに運用されると十分すぎるほど権力が集中するのだと思います。
前漢初期などに丞相制度で上手くいっていたのは、そもそもやるべき仕事が少なかった(=権限自体が少なかった)ことや、皇帝による監視がそれなりに機能していたから、ということだと思います。
太尉と大司馬
漢書百官表で太尉の条に大司馬も載っていると書きました。
しかしこの時の大司馬自体には官属はなく、将軍に冠する一種の加官、称号の類だったようです。
実際のところは、驃騎将軍霍去病を大将軍衛青と同等にするために、両者に大司馬の号を与えた、というのが始まりです。(漢書霍去病伝)
なので、単なる「大司馬」ではなく、「大司馬(大、驃騎などの)将軍」と、将軍位と一緒になって初めて意味を持つ、おそらくは将軍筆頭、総司令官、とでも言う意味合いの号と思われます。
それまでの太尉が武事を統轄する職だったと思われますので、大司馬将軍も同様の職分を持っていたと言えるでしょう。
しかし、太尉はこの大司馬将軍に全て吸収されて廃止されたとは考えられていなかったようです。
何故なら、漢書循吏伝、黄霸伝によれば、丞相黄霸が宣帝に外戚の史高を太尉にしたらどうですか、と進言しているのです。
それに対し宣帝は、「太尉の官をやめて丞相に兼任させているのは、武をやめて(偃武)文を興すためである」といい、将帥の人事は俺の仕事だから口を挟むな、と叱責します。
(但しこの史高は後に大司馬車騎将軍になります)
なんと、太尉の職は丞相が兼任しているというのです。
しかしその一方で将帥としてはまた別に大司馬将軍を置いているのです。
もっとすっきりとした
体系だったんでしょうなぁ。
もしかして見てる人って俺含めて2,3人?まあいいか。
>>20
それはそうなんでしょうけど、
理由はともあれ業務量の増大に伴って色々新設や改組せざるをえなかった、という面が大きいと思います。
武帝がやったというよりは時代がそうさせた、という感じでしょうか。
太尉と大司馬将軍
この両者についてですが、太尉は丞相が兼任だとすると、一方で太尉と等号で結ばれる事もある大司馬との関係はどうなるのでしょう。
これは私見ですが、本来の太尉の職掌の内、総司令官としての職は大司馬将軍に受け継がれ、文書事務などの面は丞相府で管理した、という感じなのではないでしょうか。
例えば、軍の人事とか、給与事務とか、恒常的に続く業務については、常置の官ではない将軍ではなく、常置の丞相が統括した方が好都合という訳です。
そうだとすれば、太尉→丞相でありながら太尉→大司馬将軍という図式が成り立ちます。
よーするに太尉の職掌は二分された、という仮説です。
二人ぼっち・・・
寂しいですね。
私は貴君ほど詳しくはないので
質問しながら応援してます。
>>22
一人はさすがに寂しいので、今後もよろしう。
次は御史大夫
御史大夫は丞相の副とされ、三公制度においては三公の末席、司空となります。
御史大夫は丞相と比べると少し地位が下がり、「銀印青綬」(比二千石以上の印綬)です。
副官として丞と中丞の二つのポストが置かれています。
御史丞(中の付かない方)は御史大夫の純然たる副官と思われますが、御史中丞はそうではありません。
中丞は殿中の蘭台をオフィスとして「図籍秘書」を掌り、公卿の上奏文を受けて取次ぎ、文面点検やその弾劾をし、部刺史と侍御史を統轄しました。
御史大夫について
前漢においては詔は皇帝から御史大夫に下され、そこから丞相に送付され、
そこから九卿や郡太守へと送られるのです。
御史大夫なんざ通さずに丞相に直接渡せばいいんじゃないか、とも思うのですが、こうなってます。
これは、一つには御史が皇帝(王)の側近、秘書的存在として発展したという経緯が影響しているといわれます。
後の尚書のようなものです。
また、より現実的な理由として、前述のように蘭台が御史大夫(中丞)所管であることもあるかもしれません。
蘭台で詔の管理記録等をしたとすれば、丞相より前に通過しないと記録に差し支えます。
(改竄等を防ぐには、誰の手も加わる余地の無い時点で記録しないといけない)
御史大夫について
御史大夫が具体的にどんな仕事をして丞相の副として機能していたのか、いまいちよく分かりません。
ただ、時として丞相とは別に職務怠慢を責められたりしているので、丞相とは別の独立した職務を持っていたのは間違いないでしょう。
そして、武帝より後の時代ではほとんどの場合は御史大夫から丞相に昇進するのが通例になっており、丞相の仮免、待合室的なポストであったのは明らかです。
当時の官僚は、太守から九卿を歴任し、御史大夫となり、丞相となるのがスタンダードな出世コースでした。
浅い知識ながら。
>>38
首相と総務相ですか。
正直ピンと来ない気もしますが、かといってどう説明すればいいのか明言できないです。
むしろ皇帝の官房長と宰相といった関係だったんですよ、元々は。
ただ元々であって、前漢後半までそういった関係がある程度でも維持されたのかどうか・・・。
太傅等については、太傅そのものには実権が無いに等しいのは間違いないと思うんですが、漢では単に名誉職だった時期が意外と少ないですからねぇ。
後漢では幼帝の後見人としてある意味重要。
御史大夫の下にあるのが御史です。
御史には二つ有り、御史大夫の下で働く御史と、御史中丞の下に付く侍御史があります。
侍御史は臣下の上奏などの中の非違を調べて弾劾したり、朝会などの際に儀礼、規則違反などを見つけて弾劾したりします。
侍御史、御史中丞といえば後の時代では監察官の代名詞ですが、それは漢におけるこれらの職務が継承されたものなのです。
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ひょっとして俺が気づかなかっただけで前から読めた?
ほんとだ。
すごい、漢官も揃ってるし文献通考や元典章や大宋詔令集まで!
傷寒論とかも。長編もあるし・・・。知らんかった。前からありましたっけ?
たぶんこれまで有料だったのが無料公開になったんだと思われ。
うれしいけどぜんぜん読めねぇな、こりゃ・・・
>>30
なるほど。
検索できるのですか。現役時代にこんなのあったら楽だったかな?
太傅
天子の傅役。
前漢では呂后時代の王陵、審食其、そして王莽政権下で孔光がそれぞれ丞相または大司徒から遷った例と、王莽自身が孔光の後任となったのみの筈です。
「位三公上」(漢書百官表)と、位の上では丞相以上と思われますので、丞相の事実上の左遷、またはセミリタイア状態の長老格を就けるのには丁度良かったのでしょう。
後漢では皇帝が即位すると太傅が置かれて録尚書事を兼任し、後見人のような役割を果たしたようです。
意外にも(?)、これは王莽がその由来と思われます。
王莽は太傅、大司馬、領尚書事の官と職を持ち続けたのです。
後漢の太傅、録尚書事は、大司馬相当の将軍職を外戚が担った他は、王莽の時と似ています。
>>32
審食其は肉体関係はどうだったかはともかく、呂后が死ぬと太傅に祭り上げられ、呂氏誅滅から僅かの間だけ丞相に復帰しているんですよね。
少なくともその頃は、丞相から太傅になるのは実権を奪うことに他なりません。(漢書王陵伝参照)
唯一実権を持っていた太傅王莽の場合は、大司馬と領尚書事の実権であって、太傅のそれではなさそうですし。
それに対し、後漢では太傅が必ずしも単なる左遷先でもないらしいのが興味深いです。
後漢の太傅も録尚書事の職の方が重要なんでしょうけどね。
ただ、それにしても太傅の扱いが前漢と後漢で全く違うのが面白い。
で、太傅の仲間として太師、太保、少傅がありました。
位としては太師、太傅、太保、少傅で、これを四輔と称しています。
賈誼によればこれらは周制であり、太師は太公望、太傅は周公、太保は召公が就いたのだとか。
常に周公旦になぞらえられた(させた)王莽がずっと太傅であったのは偶然ではないでしょう。
そして、もう一度董卓が太師になっています。
太師は太公望が就いたとされるのですが、董卓は自らを太公望になぞらえようとしたのでしょうか。
蜀科というと、三国時代の蜀におけるものですか?
三国志伊籍伝によれば、諸葛亮、法正、劉巴、李厳、伊籍によって定められたそうですが。
中身についてはよく分かりません。
諸葛亮伝で伝える「諸葛氏集目録」に「科令」なんて項目があるので、この辺に収録されていたのかもしれません。
流民や東州兵、そして豪族といった、今までの漢律では(たぶん)対応しきれない対象のために、当時の政情に合わせた政令のようなモノだったのではないでしょうか。
残ってないでしょうね。少なくとも残ってると聞いたことないです。
何か知ってる人いたら教えてください。
そもそも、まとまった形で当時の律令が丸々残ってたら超級の史料です。
将来出土資料として何か出てくるのを願うくらいしかないのではないでしょうか。
万歳三唱、大いに応援します。
本日図書館で晋書から隋書までの職官部分をコピーしてもらってきて、帰った早々覗いてみたらここを発見。
本日は大ラッキーデーです。
しかしうちの県立図書館、二十四史を国際国流室とかに置いてるから今まで存在を気が付かなかったですよ。
県立図書館にあったのは中華書局版ですか?
官職部分をコピーとのことですが、相当の枚数だったでしょう。すごいッスね。
私は現在宋書まで買っとくんだったと後悔してます。
>>43
中華書局です。
宋書の女官部分含めてA3とA4で37枚370円でした。
唐以降はページ数が多そうななので、一回に一冊づつコピーしてもらうことになると思います。
漢文はちんぷん漢文ですけどね。
漢の将軍等武官については「秦漢法制史の研究」「秦漢隋唐史の研究」あたりでしょうか。
衛尉が中大夫令に改名されたのは疑問です。
衛士の長と大夫の長共通点がない。
>>46
唐以降はすごい数ですよね。たとえば宋史では数百ページ。全部合せれば。
衛尉の中大夫令への改名については正直よく分かりません。
大夫は郎中令の所管の筈ですし。
あるいはその当時は大夫が衛尉所管だったのかもしれませんけど、あくまで推測ですし、おっしゃるように宮門の衛兵と議論を掌る大夫の関係性が問題ですね。
ただ、各地から来る献策者を衛尉所管の公車司馬門などで(待詔公車という)皇帝からの返答、お召しを待たせる、という事がしばしばあったようなので、衛尉と議論は無関係でもないのかも。
いや、これは妄想に近かったですが。
次。
前後左右将軍
「前後左右将軍」と、漢書百官表に実際に書いてあります。
なんと、漢書百官表には将軍の説明はこの前後左右将軍しかありません。
兵及び四夷を掌る、とのこと。
他の将軍はどこいったのでしょう?
大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍が将軍では上から4つ。
これらの筆頭にはさらに大司馬が付きます。
ということで、これらの説明は大司馬=太尉の項目に吸収されたのかも。
他の将軍は基本的に臨時の官なので説明の対象にならなかったか?
大、驃騎、車騎、衛、前後左右以外は雑号将軍ではなかったかな。
続漢書職官志によればそうですね。
私が今紹介してる前漢では雑号将軍という語があったかどうか不明ですけど。
印象で言うと、ただの「将軍」がまずあって、
総司令、上級の将軍としての大、驃騎、車騎、衛、前後左右がある、と言う感じ?
で、「将軍」だけだと誰が誰だか分からないので任務などを表す色んな号を付けて呼ぶようになった、と。
それが将軍号のインフレ傾向と共に「雑号将軍」は価値が下落していったのでしょうか。
このころの官職の職掌は良くわからないですね。
則天武后や玄宗の改名は単なる改名みたいですが、
このころは職掌自体が変更になってる感があります。
字面から現代の感覚で考える職掌と実際の職掌に全く関連がない場合もありますし。
将軍、楚は上将軍、漢は大将軍この当たりの変化も興味深いです。
>>49
>字面から現代の感覚で考える職掌と実際の職掌に全く関連がない場合
これは確かにありますね。
主爵中尉を改組してどうして右扶風になるのか。
大鴻盧と典属国をわざわざ分置するのは何故か。
詹事と大長秋はどう違うのか。
言い出すとキリがないですけど。
楚官はまるで詳しくないですが、項羽の時代の楚系の官と秦・漢官はどうも体系からして違うような印象が。
詳しい人教えて。
>>52
憶えているのはないッスね。どこかにあるかもしれませんが。
三国時代なんかは官職の変遷がけっこう激しいし、不明な点も多々あるように思われますので、しっかりしたのはなかなか作るのも難しいかもしれません。
将軍。
前後漢とも、基本的に将軍は出兵の時に任命され、任務終了すると将軍位も返上します。
漢書百官表の「常置せず」、続漢書百官志の「事訖われば皆罷める」、というのはそのことです。
いわゆる大司馬将軍は昭帝即位以後はほぼ常置でしたが、これはそもそも出兵を前提としていないようなので例外でしょう。
奉常、というか太常。
「宗廟礼儀を掌る」とのこと。
これが九卿トップに来ているあたり、当時の祭祀の重要性を窺わせるかも。
名称は奉常から景帝中6年に太常に改めたんですが、
これって「奉」と「泰」の字形が似ていて、
なおかつ「泰=太」(意味、音とも。漢ではこの二字は通用する)だってんで
「奉常→泰常→太常」になったんじゃないだろうかと思ってしまいます。
前漢では列侯が就任するという慣習(?)があったらしいです。
それでいて「宗廟の瓦が強風で飛んだ」(昭帝の時、当塗侯魏不害)なんてけっこう理不尽な理由で罷免されたりします。
なかなか気苦労多くて大変な官だったんじゃないでしょうか。
ヘタすりゃせっかくの列侯位まで危ないですし。
そうなのかもしれませんが、どうも他のどんな官に似ている、という表現がしにくい気もします。
太常の下には太楽、太祝(祠祀、廟祀)、太宰、太史、太卜、太医(後漢では少府に属す)、博士(長を博士僕射、後漢では博士祭酒という)といった属官があり、前漢中期までは三輔近辺の皇帝陵県の県令まで太常に属していました。
天文・記録の官である太史、学識をもって仕える博士、さらには医局の長である太医まで含まれているように、漢の太常の占める位置はかなり大きかったように思います。
罷免理由のことですね?
確かに三公がしばしば天変地異を理由に罷免されたというのと、理不尽と言う意味では似ています。
ただし、三公の場合は、天が天子に下した譴責に対し、実際の国政担当者として責任を取らされた(実質はともかく名目としては)のに対して、太常の場合は不可抗力の事故であっても、それが宗廟・祭祀関係であれば不敬=職務怠慢だからという理由でのクビというところでしょうから、さすがに三公のそれとは比べ物にならないと思います。
>>57
三公ってそのために復活させたという説は本当かな?
年金という義務を怠っていた者が
大臣をやっていられる日本は
良い国なのかなぁ・・・
>>58
その説については知らないので詳しく教えてください。
太常
属官として、雍の五畤その他を管轄、警護する官なんかも含まれていたようです。
漢書郊祀志によれば五畤は白青黄赤黒の五帝の祠があるところで、それがあるのが右扶風の雍県でした。ここには五畤など303の祠があったそうで、(漢書地理志)
秦徳公がここを都とした事に始まるのだそうです。
そのほか、長安にも各地の祭祀を行う祠が建てられています。
これらの祭祀は元々は七国で行っていたものでしょうが、秦、漢が統一したことでその祭祀もまた秦、漢の皇帝の職務になったのでしょう。
そして、その各地の祭祀を皇帝から委任されているのが太常、ということになります。
太常の職務とは、皇帝の祖先祭祀関係のほか、こういった各種の祭祀全体の管理運営だったのです。
どこで読んだか忘れたので思い出したら書き込みます。
って、学者の著書とかでは無かったはずなので、さほど期待しないでください。
>>61
了解です。期待しないで待ってます。
太常
太常属官といえば博士もいます。
博士は元は四百石、後に比六百石。長として博士僕射(後漢では博士祭酒、六百石)がいます。
博士は五経の有力学派ごとに立てられたらしいです。
さらに、武帝の時に博士の下に博士弟子が置かれ、徭役を免除して学問に専念させ、優秀な者は官僚として取り立てようというものでした。
博士弟子は50人から始まり、前漢末では最高3000人。
経書を学ぶ者が増加していくのはこういった事情によります。
博士弟子の増加が経書を学ぶ者を増やしたのか、経書を学ぶ者が増加した事で博士弟子の員数を増やしたのか。
考え出したらキリが無い?
郎中令
「宮殿掖門戸を掌る」官。宮殿内の警護です。後で出てくるであろう衛尉、中尉とは警護する場所が違います。
宮殿内の警護は「郎」が行うので、その長官即ち「令」ということで郎中令。
武帝太初元年に「光禄勲」に改称。
郎は、宮殿の門戸を守り、あるいは外征時には「車騎を充たす」そうです。
車・騎ということは、歩兵にはならないということで、指揮官または騎兵のようなエリート部隊になるということでしょう。
郎は親衛隊であり、エリートなのです。
郎になるのは前漢では推挙または「任子」によるものがほとんどの筈で、特に任子による供給が目立つかもしれません。
任子とは高級官僚の親がその子弟を郎にできるというもので、この制度のために前漢では親が官僚になると子も官僚、という流れが生まれました。
当時、官僚になれるほどの知識を得られる経済力と師を揃えられるのは官僚くらいだったのでしょう。
(子への教育を自分または部下にやらせる事ができる)
つまり属吏から直接上級官にはなれない。
一方最下位の郎中でも比三百石と同じ本に書いてあったりもします。
すると三百石級の県長、署長以上はそれで良いとして、二百石級(下級の丞,県尉等)の任用はどうなっていたんでしょう。
まあ武官の屯長(比二百石:小隊長級?)などは下士官級から直に昇進したのかもしれませんけど。
私が知る中でおっしゃるような事が書いてあるのは宮崎翁の「九品官人法の研究」かと。
結局、キャリアとノンキャリ、または中央と地方の関係ってのは現代日本でもあまり変わらないということなんでしょうか。
>>65
下級の官吏の昇進なんてのは私はよく分かりません。
出土資料から分かるのかもしれないですが不勉強なもので・・・。
誰か教えてください。
郎中令または光禄勲。
宮殿内の警護を掌る光禄勲ですが、属官としては大夫、郎、謁者とあり、官名を見ても分かるように全てが衛兵ではありません。
大夫という、「顧問応対」(続漢書百官志)や使者となることを職務とする、通常の業務には携わらない皇帝のスタッフ職もまたここに属しています。
大夫は比二千石(光禄大夫)から六百石(諫大夫、前漢は八百石)まで取り揃えており、ポストの空席待ちや、左遷先としても機能していたと思われます(続漢書によれば定員は「無員」ですし)。
光禄勲は意味不明瞭でどういう意味で名づけたんでしょうね。
漢書百官表の注、応劭によれば「光者「明」也。禄者「爵」也。勲、功也」との事ですが・・・。
(如淳注によると勲を門番としてますが、顔師古に従っておきます)
「明爵功」→「爵・功を明らかにする」?
郎中令が持つ、65氏の言うような官僚の昇進というか爵位の上昇に関する機能を言い表したのでしょうか?
私も正直言ってハッキリした事は言えないです。他の方々のご意見も聞きたいところ。
筑摩の「漢書列伝選」や平凡社の「漢書・後漢書・三国志列伝選」の巻末の職官表では、郎中は比二百石となっていますね。
ちくま学術文庫の「漢書」百官公卿表では比三百石ですが。
秦の時代だったかもしれませんが郎中以外に、外郎だか散郎だかも存在していたと言う記述を見たことがあります。
あるいはこれは比二百石だったのでしょうか?
また中郎(比六百石)、侍郎(比四百石),郎中の三職、身分によって任用が違うとかあったのでしょうか?
それとも初任は原則郎中?
中大夫から改称された光禄大夫が比二千石、大中大夫が比千石、名称から言うと上下が反対ぽいですね。
後世は逆転してますけど。
>>69
漢書百官表、続漢書百官志ともに郎中は比三百石みたいなんですけどね。
何か他の典拠か研究があるのでしょうか?
漢書恵帝紀には、「外郎」という語が出てきます。
これはどうやら(漢書補注より)「中」に対する「外」と解釈するようで、
禁中にいた(と思われる)「中郎・郎中」に対してそれ以外の郎ということのようです。
これはあくまで恵帝期の話で、おそらくその後色々と郎についても変遷を経ているのだと思いますが。
漢の初期では、初任官としての郎は単に「郎」としか書かれなかったりしているようなので、どの郎になったのかといった事は正直私には分かりません。
光禄大夫と太中大夫ですが、光禄大夫は中大夫が改称したというより、一旦中大夫が廃止されて新たに太中大夫の上に光禄大夫が置かれたという感じなんでしょうね。
光禄勲というか郎中令。
中郎の長、指揮官が「中郎将」です。五官中郎将、右中郎将、左中郎将(比二千石)の三つがあり、これらの郎を合せて三署郎なんて言います。
一番有名な五官中郎将といえば曹丕ですね、関係無いですが。
また郎中の長が「郎中将」です。車将、戸将、騎将(比千石)の三将があります。
前漢では、どうやら郎中と中郎は所属自体が違うみたいですね。
後漢では郎中将は廃止されて中郎将に合わせられ、中郎将が中郎、侍郎、郎中全てを率いています。
郎について
漢書百官表、続漢書百官志によれば、郎は四種類。
議郎(比六百石)
中郎(比六百石)
侍郎(比四百石)
郎中(比三百石)
合計千人にも及ぶそうな。
また、それとは別に「期門」、平帝=王莽時代以降は「虎賁」がありました。
皇帝に付き従う郎であったようで、武帝初期に置かれ、これも千人にも及びました。
この虎賁郎にも虎賁中郎将が置かれます。
虎賁郎は子が父の後を継ぐような制度だったようです。
されに「羽林」。これも皇帝に付き従う郎。
(他の郎は宮殿の警護が職務であり、必ずしも皇帝の側にいるとは限らない)
これは武帝末期に置かれ、戦争孤児を養育して軍事教育を施した者と、
北辺の六郡良家子を抜擢した者(董卓がそうでした)とで構成されたようです。
これにも羽林中郎将が置かれ、その下の郎は「羽林郎」(比三百石)。
なお、羽林は騎兵が中心だったようです。
※関連記事「【鎌倉殿の13人】羽林って初めて聞いた」
職官表について、漢書列伝選(三木克己訳:初版1992年ただし訳者は1972年逝去)の方は参考資料についての注記なし。
漢書後漢書三国志列伝選(本田済編訳:初版1973年)の方は漢書百官公卿表をもとに通典、通考を参照して作成と書かれています。
どちらも特に注記がないので訳者が作成された表だと思います。
濱口重國氏著の「秦漢随等史の研究」によると、後漢の虎賁郎は虎賁中郎(比六百石)、虎賁侍郎(比四百石)、虎賁郎中(比三百石)、節従虎賁(比二百石)の四段階に別れていました。(後漢書百官志より)
更に隊長格の虎賁僕射、虎賁陛長(共に比六百石)が有り。なお羽林郎は比三百石一本。
臨時代理的存在の守長、守尉、守丞等は、郡の掾史(属官)から任用さていたようです。
この場合治績を上げれば、太守の推薦で他郡の正規の長、尉、丞等に任命されることもあったのでしょうか?
まあ太守の推薦を受けた掾史は、郎の方の人材供給源でもあったわけですが。
比二千石以上が親任官、比六百石以上が勅任官、比二百石以上が奏任官、百石以下が判任官といったイメージがあります。
すると同じ郎でも中郎はいきなり勅任官?
ところで郎って千人もいて普段はなにをしてたんでしょうね。
使者とかも務めたようですが、親衛隊員にしても給与の割に人数多すぎな気が。
尚書郎とかは本来は出向だったようですから、そう言う風に出向した人もいたんでしょうけど、おそらくそれも半分にもなりませんしね。
>>73
さて、郎中が比二百石という典拠はどこなんでしょうね。
羽林郎が一種類しかないというのは、羽林の成り立ちを考える上で興味深いです。
羽林は騎兵によって構成されていたようで、
(漢書百官表には「羽林騎」という表現があるし、続漢書百官志には羽林右騎、左騎とある)
皇帝の護衛としても虎賁その他とはこの点で違っていたのかもしれません。
細かいことかもしれないんですが、「守」というのは「臨時代理」というよりは「見習い、試行期間」という感じだったようです。
それがはっきり現れるのが前漢の三輔で、まずは「守」付きの三輔に就けられ、(官秩などは元の官のものだったようです)
一年経って問題が無ければ「真」になる(官秩などが本来のその官のものとなる)という制度だった筈。
そしてこれは三輔のみの話ではなく、広く郡県のポスト等で行われていた制度でした。
ということで、郡の属官から守丞等になった場合も、まずは就任していたポストで正規の官秩になるのでしょう。
他の郡というのはちょっと記憶にありません。
官秩と任官ですが、郎はそもそも就任する方法が特殊なのでなんとも言い難い気がします。
郎は普段は衛兵でしょう。
五日に一日の割合で「洗沐」といういわば有給休暇があるので、輪番の交代制だったと思われます。
また漢書楊惲伝には、郎は病休あるいは私用での休み一日ごとに文房具を自費で買って供出するということになっていたとあり、金持ちの郎は仕事に行かず金で休みを買っていたということだったそうです。
(なお、それを司馬遷の外孫楊惲が改革した)
こういった状態からも分かるように、千人といっても常に千人が職務にあったわけではないのでしょう。
濱口重國氏著の「秦漢随等史の研究」によると
(1)守令等は勅命官の資格をもたない者を仮に任じた。
(2)そのままでは何年在職しても真官にはなれない。
(3)郡太守により任命された。
(4)郡内の人が任用された。ただし該当の県の出身者は通常排除された。
(5)真官の令等は郡内の人間は任用されなかった。
と言うことのようです。
なお試守官は例えば四百石の県に三百石格の人を任命する時に使ったようです。
>>75
むむ。そうでしたか。これは失礼。
三輔やら太守やらのレベルでの「守」とは違うのでしたか。
共通するのは「守」がより低い官秩(資格)しか持たない状態からより高位の官に就く場合ということでしょうか。
濱ちゃんとかお持ちでしたらこれからも色々修正や補足お願いします。
真に臨時代理なのは「行○○(事)」ですね。
他の官にある者が、不在(欠員、病欠、出張その他)の者に代わって上奏、決裁などをするものです。
臨時ですので基本的にはその場限り。
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