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ここは現在でもフランス海外県。
濫伐で禿山が広がるハイチ側、今も緑豊かなドミニカ側。
フランス革命で出された「人権宣言Déclaration des droits de l'Homme etdu citoyen」は、正確に訳すと「人の権利と市民の権利の宣言」となる。
参政権があるのは市民(一年以上小郡に住所を有する25歳以上のフランス人男性で、三労働日相当額以上の租税を支払い、雇われの身分にない者」であって、貧乏人・女性・ユダヤ人・奴隷・有色人種はこの対象ではなかった。
ナポレオンが取り上げたけど。
1789年 フランス人権宣言採択
1794年 黒人奴隷制廃止決議
1608年 ケベックに拠点
1612年 南米ギアナに拠点
1626年 セネガルに拠点
1635年 カリブ海のマルティニーク、グアドループが仏領になる
1642年 レユニオン島仏領になる
1673年 フランス東インド会社、インドのシャンデルナゴルに拠点
1674年 フランス東インド会社、インドのポンディシェリーに拠点
1697年 カリブ海のサン=ドマング(後のハイチ共和国)、仏領に
1715年 モーリシャス島領有
1742年 デュプレックスがポンディシェリー総督になる
1744~48年 第一次カーナティック戦争
1750年 第二次カーナティック戦争、デュプレックス本国に召還される
1754年~63年 フレンチ・インディアン戦争
1758年 第三次カーナティック戦争
1763年 七年戦争後のパリ講和条約でカナダとインドを喪失
1791年 ハイチ(サン=ドマング)革命開始
1793年 サン=ドマングで奴隷解放宣言
1802年 ナポレオン、奴隷制を復活
1803年 米国にルイジアナを売却
1804年 ハイチ独立宣言
1830~47年 アルジェリア征服戦争
1838 フランス、ハイチの独立を承認
1842年 タヒチを保護領化
1853年 ニューカレドニア植民地化
1856年 アロー号事件、英仏連合軍北京占領
1862年 メキシコに宣戦布告
1863年 カンボジア保護領化
>>20の続き
1881年 仏領ポリネシア植民地化
1882年 サモリ・トゥーレの反仏抵抗
1883年 チュニジア保護領化
1884~85年 清仏戦争
1887年 仏領インドシナ連邦編成
1895年 仏領西アフリカ編成
1898年 ファショダ事件
1910年 仏領赤道アフリカ編成
1911年 第二次モロッコ事件
1912年 モロッコ保護領化
1920年 シリア、フランス委任統治領に
1926年 シリア南部、「フランス委任統治領レバノン」として分離
1943年 レバノン独立
1946年3月 マルティニーク、グアドループ、レユニオン、仏領ギアナ、フランス
海外県になる
1946年4月 シリア独立
1946~54年 インドシナ独立戦争
1953年10月 ラオス独立
1953年11月 カンボジア独立
三正面作戦スゴスギ。
映画『バリー・リンドン』で英陸軍がプロイセン軍を援助しに行く場面が出てくるが、あれは架空の話なのかな?
イギリス国王はハノーファー選帝侯も兼ねていたが、財政支援しかしていなかったんだろうか。
クセジュ文庫にスレタイの本がありますね。面白いですか?
イギリスとフランスの植民地政策の違いはどんな点でしょう。
帝国主義的侵出(進出でもある)と植民地政策と資本進出は似たようなものだけども微妙に違う。
>>26
クセジュ文庫のその本は読んだことがない、スマソ。
よくイギリスは間接統治、フランスは直接統治といわれるね。
フランスは最初「同化」政策を主張していたが、実際に植民地人がフランス市民権を獲得するためには完璧なフランス語の読み書き能力、官吏や軍人としての叙勲や議員として任期を務めたことなどの非常に厳しい条件がつけられていた。
ルクレール将軍に率いられたフランス軍は、黄熱病やゲリラ戦に悩まされて完膚なきまでに敗北。
エジプト遠征についてはロゼッタ=ストーンなどとともに必ず言及されるのにな。
ハイチ側も十数万人ほど死んでいるがね
戦争の勝敗は戦死者数の多少ではなく
戦争目的を果たせたかどうかにある
我が国の統治が、他国と比べて醜かったのでしょうか。
インドネシアとオランダの事をくらべていただきたい。インドネシアに対して、オランダはどのような政策をとってきたか。インドネシアが独立時にオランダがとった事は何か。我が国が大東亜戦争時にインドネシアに対してとった政策はオランダと比べて、醜いものであったか?
アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、オランダが他国に対してとった植民地政策はどうであったか。支那はどうであったか。御存じでしょうか。
朝鮮を我が国が併合したが、その政策は、他国からそれほどいわれるほど醜いものであったか。我が国が、朝鮮半島においてどのよう な醜い政策をとったといっているのでしょうか。具体的にお教え頂きたい。
フランス・・・海外県
議会への参政権あり。大統領選挙にも参加可能。
日本・・・外地
外地出身者にも参政権あり。国家官僚、軍官僚にも就任可能。
ただし選挙行為に関しては外地居住者は内地出身であっても選挙権は無し。(区別撤廃の法案改正は戦争で途絶)
被選挙権に関しては外地、内地居住者関係なし。(半島出身者にはハングルによる投票、選挙宣伝も許可)
イギリス・・・コロニー
イギリス議会への参政権無し。植民地籍から帰化すれば参政権発生。
中国・・・①自治区 ②一国二制度
①自治区
共産党の認定が受けられる限りにおいて、自治区にも全人代に議席を割り当て、共産党幹部にも就任可能。
②一国二制度
北京政府が認定する限りにおいて、他と異なる特殊な法制、行政制度を許可されている。
>>35
なんか時代がバラバラなんだが。
アメリカ(現代)……自治政府があり、市民権を持つが大統領、連邦議会参政権無し。
(プエルトリコ、ヴァージン諸島、グァム、サモア)
イギリスも日本と同じく「植民地籍、本国籍を問わず本国に住んでいれば選挙権あり、
植民地に住んでいれば選挙権なし」じゃなかったっけ?
植民地時代にインド人の下院議員が何人か選出されてるが、本国籍への
転籍が必要だったのかな?
鉱山を開発。農園を作る。
これを独占的にやるのかな?
市場としても、貧乏人ばかりだと売れない。
略奪以外には植民地は本当にもうかるのか?
経済進出のほうが効率がよくないか?
経済的利益が上がったのは英印と蘭印だけってよく言われてるね。
独立後の初代元首となったデサリーヌは、最初総督と名乗り、1804年には皇帝ジャック1世と称した。
彼が暗殺された後、ハイチ北部を支配したアンリ・クリストフは1811年、アンリ1世と称して王政をしいた。
現在ハイチに残るラ・フェリエール要塞とサン=スーシー宮殿は彼が建造したもの。
デュヴァリエ大統領が典型だけど、ハイチの政治家は、権力を握ったとたん暴君に変貌する例が多いような。
アンリ1世の没後暫くしてフォスタン・スルクが皇帝フォスタン1世として即位しましたな
この値段じゃ買えませんね。
そんなに値打ちのある本だったのか。買っといてよかった。
デュプレックスの活躍ぶりとか、面白いんだけど。
ウォリス。フツナ諸島は南太平洋にあるフランス領。
あと、カリブ海にあるセント・マーティン島の北部部分(南側部分はオランダ領だけど。)と、サン・バルテルミー島もグアドループに属するフランス領。
>セント・マーティン島
英語ですね。折角だからサン マルタンにしませんか。
ネデルラント語ではシント マールテン
ハイチの状況らしいがひでーことになってんな
独立認める代わりに一兆円払えとかフランスセコすぎ
トゥサン・ルヴェルチュールの絵もプロパガンダ臭くかっこ悪いのが多いし
フランスの植民地化の理論
現実には統一的な理論はないとはいえ、思想の流れは大きく三つある。各々の相対的な重要性は定まったものではないが、次の三つの言葉にまとめられる。つまり開発、同化、協同である。
開発というのは、実業界における概念で、おもにジュール・フェリーの言葉を通して表明された。つまり植民地化を資本投下の、一つの手段と位置づけるものである。フェリーの保護領の理論は、本国財政に配慮しながら植民地の経済開発をするのが可能であるという主張であり、開発という概念から導かれる必然の帰結である。(中略)
同化については、これが第三共和政の公式の教義としてとらえられることが多かった、といってよい。とはいえ民族的に同化することは論外である。主眼は政治的および行政的同化であり、「共通の祖国への愛」に言及されることもあった。もっとも、なかには黒アフリカも含めて、すべての植民地をフランスの県として本国の行政に組み込みたいと夢見る者もいた。こうした傾向は、植民地帝国の末期まで根強く残っていく。(中略)
協同は、開発と同化の中間に位置づけることができる。ギュスタヴ・ル・ボンやレオポルド・ド=ソシュールのような心理学者は、異なる民族の同化が不可能であると繰り返し説いていたし、先に指摘した一八九三年創設の植民地連合を着想したジョゼフ・シャイェ=べールは、重要なのは現地住民にも繁栄を約束することだと考えていた。さらに植民地と本国との関係が緊密になれば、それだけ経費はかさむと計算していた者もいた。事実一八九五年からフランスの国庫負担は毎年二億フランに上っている。
グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』pp.78-79
協同政策は、イギリスの間接統治と同じ考え方にもとづいているね。
仏政府:旧植民地出身者の軍人年金を平等化
フランス政府は27日、第二次大戦で仏軍兵士として戦ったアルジェリアやモロッコなど旧植民地出身者の軍人年金をフランス人の元軍人と同額に引き上げると発表した。これまで10分の1しか支払われていなかった例もある。白人軍人との差別をテーマにした映画「アンディジェンヌ」(英題「デイズ・オブ・グローリー」)の封切り日に重なる措置となった。
(中略)
旧植民地出身の軍人は第二次大戦中も戦後もさまざまな差別を受け、年金もフランス人元軍人の月690ユーロ(約10万3500円)に対し、セネガル出身者は230ユーロ(3万4500円)、モロッコ出身者は61ユーロ(9150円)など低い支給額となっていた。
政治家の映画産業支援も兼ねているのかな
戦後もフランスで暮らすなら兎も角植民地に帰るなら、植民地の物価水準に合わせた額でいいだろ、と思うのは間違いなんだろうか
海外青年協力隊での記憶。
旧イギリス植民地=治安悪い。泥棒市場アリ。盗まれた物はここで買い戻す。
旧フランス植民地=↑よりも格段に治安良し。
ハイチとジャマイカだとハイチの方が治安いいの?
ジャマイカはギャングによる暴力とか深刻な状況もあるけど、
政情不安定なハイチよりかはマシ。
仏領インドシナとオキュパイド・ジャパンの共通点
フランス大統領
↓
仏領インドシナ総督
↓
グエン朝皇帝(アンナン保護国皇帝)
グエン朝政府・アンナン保護国理事長官
↓
アンナン各省総督・各省のフランス人理事官
アメリカ大統領
↓
連合国軍総司令部最高司令官(GHQ/SCAP)
↓
日本国天皇(GHQ/SCAPに従属)
日本国政府・GHQ民政局その他
↓
都道府県知事・各県の占領軍民政部
模倣したわけね
インドシナと北アフリカが一番逸話が豊富そうだが、あとの
ポリネシアや西アフリカやインドはまだ登っていないね。
祖国はナチに占領されてるし、自由フランス軍に合流したくても出来ないし
一応日本とは宣戦布告してないから大規模な戦闘は無かったとおもうけど
日本軍の進駐後もベトナムにいた
ヴィシー政権が崩壊した後は
連合軍に寝返られるの恐れた日本軍によって
攻撃され、ベトナムを制圧された
マジか。という事は44年に宣戦布告してるわけか
これでミズーリの降伏文書調印式にフランス軍の代表がいた謎が解けた
ちなみにどんぐらいの兵力が仏印にいたかわかる?
パリが陥落したら日本側に殲滅される
北部(ハノイ、ランソン)に45000人、中部(フエ)に10000人、南部(サイゴン、プノンペン)に35000人
これに現地人警備隊5000人が加わる
結構な人数だね。植民地兵を抜いても2万のフランス兵か
やろうと思えば仏印全土で蜂起して北部方面軍だけでも昆明
とかに脱出できたんじゃないかな?
>>96
装備は旧式。唯一の装甲車両がWW1型のルノーFT戦車とか。
日本軍ですらも、骨董品戦車だと笑った代物。
まあ、フランス本国でも結構使ってたみたいだけど。
海軍部隊は、軽巡1隻と砲艦数隻、潜水艦1隻くらい。
本国降伏に乗じたタイ軍が侵攻してきたのと交戦して、撃退してる。
海軍部隊は、タイ海軍を壊滅させ、タイを降伏寸前まで追い込むきっかけを作った。
艦隊決戦が成立しかけた例といえる。
日本の外交介入で、停戦条件はタイ有利となりましたが。
太平洋戦争開始直後に、海軍部隊は日本軍に武装解除されてる。
接収だけはされないで済んだけど、港につなぎっぱなしで、戦争後期に米軍機の空襲で撃沈。
仏印武力処理
http://www.kaho.biz/main/taisen/butuin.html
中国領に逃げた奴もいたようだ。
1998年のヌーメア協定どおりならば、
独立を問う国民投票は2014年以降になる見込み。
ヴェトミンが大砲運び込んだ時点で勝ち目なし?
>>115
ディエン・ビエン・フーとかいうところに立てこもった時点で勝ち目なし
これは戦略上の失敗。暫壕戦に馴れたフランスは、兵力のすべてを地下に収容しようとした。しかし、ディエン・ビエン・フーは高地に囲まれた盆地。
補給は空路に頼るしかない。ここを攻撃しなかったら、ホーはよほどの馬鹿。
そして、ホーは馬鹿ではなかった。
なんかディエンビエンフーを勘違いしてるな
あれはそもそも敵の包囲を誘って、
のこのこ攻めてきた敵主力を優勢な火力で叩くための陣地なんだから
こんな奴らが原爆は非人道的だとか言ってるのが許せない。
これこそ60年前の現実なんだよ
フランスの戦後の国防政策や外交を見ていれば、「非人道的」
という評価にもなるさ。自ら核武装しても、とても追い付かない
何といっても東南アジアの植民地を蹂躙した敵国だからな。
アメちゃんの軍事行動と自らを一体化し共感できた或る意味では幸福な時代。
だって白人国家で日本に原爆が落ちたとき嘆き悲しんだ国なんて皆無でしょ
このとおじは黄色がウザイ早く死ねなんて考えは一般的だったはず
これのどこがパリ市民なんだよ
ただの米軍兵士たちじゃないか
情報ひねりだすための拷問だな。当時従軍した香具師等に言わせれば「現場を知らん現代人は 今好きな事言えるけどさあ」て感じらしいが。
france2 か france24 で Lepen がインタビューに応えてるのを見たが この去年の小籠包が意味のあることを言ってるのを見たのは これが唯一だった。
プエルト・リコやマルティニーク、グアドループが独立しないのと一緒で、独立してもやっていけないですし
プエルトリコやグアドループでは独立運動はあるね
グアドループの独立派グループなんてフランス本土で爆破テロしてたし
16世紀半ばオスマン帝国の属領となったアルジェリア・チュニジア・リビアは、一人のベイレルベイ(パシャ)の支配下に統括されていたが、1547年、三国別のパシャが任命されるようになる。後にパシャに代わって、トルコ系軍人集団、イスラムに改宗したキリスト教徒、ユダヤ教徒が土着化し手実験を握るようになっていくにおよんで、デイが実権を掌握、イスタンブールのオスマン帝国から自立していくようになる。アルジェリアでは、アルジェのデイの支配下に、東のコンスタンチーヌ、西のムアスカル(オラン)、内陸中央のメデア(ティターリ地方)にそれぞれベイがおかれていくようになる。これらのベイもまたデイからなかば自立した地方政権をつくっていった。
この状況が変化するのは、1827年に、アルジェのフランス総領事がベイから小麦の代金の未払いをめぐって扇で叩かれるという事件がおき、フランスがそれを口実にして1830年にアルジェに派兵してから。