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戦国期だと村上、伴野・海野(もっと前かな?)。
>一応城下町
否、陣屋町。1万石しかなかったもんで。
>>37一万六千石(臼田一万二千石、三河に四千石)
そういやー臼田って旧本陣の家って見ないけど何で?
「佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」
海ノ口城、海尻城のこと?村上氏とかじゃないの?
笠原氏は北佐久志賀城、額岩寺氏は北佐久布引城を本拠地とした土豪。
一度佐久を制した武田氏に叛旗を翻し滅ぼされた。
ちなみに村上氏は佐久衆に影響を及ぼしてはいたが、主君ではない。
佐久。ちなみにうちの先祖は村上氏→武田氏と主人を変えてるが・・・武田氏(性格には部下からの)からの戦役感状を後生大事に持ってる。
上田原は、たしか小県郡ではなかったか。
ばあちゃんの家の近所に内山城があって、小さいころ親父と一緒に
ひーひー言いながら登った記憶がある。
懐かしいな、内山城。あの城もやっぱり信玄に滅ぼされたのかな?
>>17の内山城って・・ワラ
昔よく登ったよ。頂上(城跡)でキャンプしたり。
内山はおもいっきりオレの地元だ。内山城址は目と鼻の先。
で、「もうひとつの五稜郭」龍岡城。小学生の頃に行ったぞ。小学校になってたよな。
どうして海ノ口の平賀氏や
岩村田の大井氏、野沢の伴野氏、
武田の家臣となった依田氏の名前が上がらないんだ?
野沢に伴野君っていたわそういえば・・・依田なんて聞かないな。滅亡したのかな?
依田一族は家康にくっついて江戸にいって旗本になりました。
漏れはその子孫です。
井出も神津も、信玄が甲斐から連れてきた植民。
信玄は佐久の百姓から土地を強制的に取り上げて、
甲斐の百姓を連れて来て植民させ地侍(地主)とし、佐久の百姓を農奴にした。
全国の戦国大名でも、占領地の百姓にこんな苛斂誅求なことをしたのは、
武田と長曽我部だけ。他の戦国大名は、当然ながら百姓には手をつけない。
ていますが本当なの?
やるの?佐久のお寺は高すぎる.龍雲寺は本当に高いよ、武田信玄の遺骨が
あるからなの?教えてください。
院居士で葬式するとメニューがでてきて100万以上するって、簡単に
死げんぞ 他の宗派の人達教えて?
>>65曹洞宗の中でも永平寺と総持寺の系列に分かれているみたい。どちら
ですか? 総持寺系が問題ありか?世の中すべて二極化で、きちんとお勤めしている
住職もいれば酒、女、ゴルフに明け暮れ、なかにわ高級ゴルフ会員権をお布施
で堂々と購入 .お布施が馬鹿、馬鹿しいどのように感じますか?葬式仏教の
皆さん感想お願いします。?まじめな住職の意見も聞かせてください?
永平寺系らしいです。大きな寺と永平寺系って事で分かる人にはわかってしまいますが・・・檀家が多いので安いのかも。
まじめで立派な住職さんですよ。
>>123
室町期なら岩村田の大井氏。
依田氏系の豪族を従え、鎌倉公方を保護擁立し、信濃の戦乱(大塔合戦)を仲裁停止させるほどの実力があった。
千騎の大将と云われていたらしい。
しかし同族の伴野氏と争い、さらに北信の村上氏と戦って衰退した。
戦国期だと小領主が小城に拠って割拠状態→武田→織田(滝川氏)→後北条(大導寺氏)→徳川となる。
徳川勢力にあって後北条方と戦い、佐久を制したのは芦田を本拠にした依田氏。
一時は大名になるも(佐久郡、後に上州藤岡)改易され、旗本になったとか。
聞かない気がするのですがほとんど仕官できなかったのでしょうか?
>>126
地侍の去就。
佐久の一円支配に成功した依田氏の幕下となる。
依田康国は徳川氏の関東移封に従い上州藤岡に移転。 現在でも当地には佐久系の氏族が多い。
残留組は、依田氏に変わった豊臣系の仙石氏に仕え、関ヶ原、大阪の陣に出陣してるね。
大名となった依田氏も改易され、家臣は離散。
江戸期は旗本クラスに数家がランクインするも、まああまりぱっとしないね。
こうした節目に武家として仕官を選ばず、領地に残った土豪も多かった。
豪農としてかつての郎党を農奴として従え、用水開削や新田開発の中核となって名を残してますな。
苗字は分かりますか?
土豪っていうと?これも苗字は分かりますでしょうか?
旗本となった佐久の武士。
依田氏(松平氏)の改易後、その家臣であった佐久出身の武士の多くは幕臣に。
芦田衆と称され、その長には大井氏が就いた。
旗本になった氏族は依田氏、大井氏、平原氏など。
「寛政重修諸家譜」などで調べるのがいいかも。(たまには図書館にGo!)
特に名門ってことも無いでしょ。
市川、木内、なんて苗字が多い気がしますけど。
寄進は最近のだからな・・・ほとんど没落してるのでは?次点で木内や油井、篠原etcと聞いたが・・・南佐久だね。
野沢行くと伴野や木内が有名かもね。依田とか。どう?
市川、木内、小林、井出なんてのがありますね。
ちなみに木内酒造なんていうのもありましたよね?
>>159
真田氏の勢力は小県郡どまり。佐久には進出しとりませんな。
真田が独立勢力になった時の佐久郡って、碓氷峠から小諸に進出した後北条軍と、甲州から北上してきた徳川軍が合戦を繰り広げ、とても自立したばかりの真田昌幸には手が出なかったみたいです。
郡境に小兵力を出してちょっかい出したみたいだけれど、拠点は作れずじまい。
真田領になってたら、それはまたスリリングだったかも。
内山村は平賀郷の村落。
15世紀中頃に平賀氏が滅ぼされると大井氏領となり、代官(依田氏)支配となった。
大井氏宗家が衰退するとこの依田氏は内山氏を名乗り独立。
武田氏の侵入時は大井貞清が内山城に篭城するも、攻囲十一日で降伏。内山氏は村上氏をたよりこの地を去った。
後の江戸期には幕府旗本になってますな。先祖の地は忘れず双方連絡があったとか。
武田氏は佐久支配の拠点として内山城を整備。家臣小山田備中守が在城していた。
現在の内山集落は城下町(極めて小規模であるが・・)の趣を残してます。
小山田氏は武田滅亡の数ヶ月後に後北条氏に追われ、内山を落去。
簡単ながら、戦国時代の内山村。
室町中期のこの地の領主で信濃守護代、大井持光は登場しないのね・・・
足利永寿王(成氏)を匿って養育したんだよね。
結城氏朝の乱で結城方としたけども、嘉吉の乱で事無きを得たのですかね?
永寿王匿った件は幕府(守護)側にバレてなかったのかな?
将軍・義教が在命なら、義教の威光で守護・小笠原政康により討伐されていたのかな?
小笠原政康は北信国人一揆(村上氏ら)の抵抗を排除し、
結城討伐の際、ほとんどの国人達が政康に従軍しているところ信濃守護として勢威を持っているだけに・・・
>>190
確かにその頃は珍しく守護が信濃をまとめてますね。
ただ結城合戦は利害の係わらない遠方での争乱だったからなぁ。
国人領主もあまりいちゃもん付けられなかったのでは?
大井氏の反幕は公然としたものではなかったのかも。
子供一人匿う位は出来たのではないかと。
運良く成人した成氏には恩を着せられたし、やるなあ、持光。
後の記録見てると名主になってるけど、移封後は新領主に認められなかったのか?
いきさつご存知の方いますか?
>>252
兵農未分離の最後の形態であったのかな。確かに興味ある事例ですね。
街道筋で本陣を務める名主クラスの家は、仙石氏に従って大阪の陣に出陣しています。
陣夫や雑兵ではなく、騎馬武者としてしっかりと武士あつかい。
幕末の動乱時と比べると明らかに異質。
>>267
名主といっても変遷がありますね。 江戸初期と幕末ではかなり入れ替わりがあるかと。
大阪の陣出陣の名簿は「信濃史料」あたりにあったかと。または仙石氏の地元だった上田の市教委あたりに「仙石氏史料集」の所在を聞くとか。
>>273もう自分で調べました。名主の変遷ですが私の地元ではあまり変わってはいないですね。本家の衰退等ありますが
大体同じ一族で交代名主を勤めてます(一村2、3家で交代)。
冬の陣、夏の陣とも私の直接の先祖はおりませんでしたが高祖母の実家等血統的には2名いました。
冬の陣は202名ぐらいで云っているようですが召し出し自体は少ない人数ですね。
ただ当時の名主の総数ってのが分からない
もうひとつ資料的には武士のくみ分けとありますが・・・
端っこの庄屋ばかりだね。
>>286
佐久郡一円支配とはいえ仙石氏に対して、名主層は軍役を負っていたのでしょうか。
もちろん家臣ではなく、「被官」としてある程度の義務は負っていたとは思いますが。
街道筋の名主層は、小諸の殿様と関係を保つために手弁当で出陣した可能性もあるかと思います。
山崎哲人氏>すでにお読みでしたか。 佐久郡は武田、村上、後北条、徳川と強豪の馬蹄に次々とかかりました。
天文年間に見える氏族と慶長頃の氏族とは大分交代がありますね。
時々思わぬ遠方に移住しているのが見受けられます。 氏族の消長を研究されるのも面白いかもしれません。
>>287
郷土資料で公にされてるものを見ると後に名主になっている家は仙石氏から禄を賜ってるのが多い。
多いが全てでは無いのは記録が残っていないからなのかもしれない。
ほとんどが仙石氏移封後帰納と書いてありますが後甲府藩領支配時に禄を持っている家もありますが後、天領になり帰農
また、大阪の陣での資料によると信州小諸の城主仙石越前守秀久公御領分中より召し出され候云々 とあるので
何か義務的な感じもありますし色んな思惑があるかも
もうひとつ名主の変遷なのかもしれないが大坂の陣の庄屋ですが偏りが気になりますね。今でも有名な家も多いですが
他にもっと有名な家もある・・・まあ、今度其の家の江戸初期辺りも当たってみますね。
>>288
夏の陣に関して、佐久郡の名主で出陣者名簿を以前拝見したことがあります。
史料にあたる方法は、ネットよりも地域の図書館、歴史資料館にお休みの日にでも足を運ばれてはいかがでしょうか。
「信濃史料」「信濃史料叢書」だけでもかなり参考になる文書がありますね
佐久地方を最終的に統一したのは、徳川の支援を受けた芦田の依田氏でした。
このとき後北条側にたった氏族が佐久を追われ、あるいは滅んでいます。
依田氏の転封に伴い、佐久を去った氏族もいるようです。
依田氏に代わって佐久郡に入った仙石氏は豊臣系の大名で、信濃にはゆかりも無い人物でした。
現在の小諸城を築城し、過酷な支配をおこなったため、人心は離反し、「佐久郡逃散」が起こりました。
一揆寸前のストライキ状態です。
農村部の有力者は、領主である仙石氏に対してかなりな反感があったであろうと推測されます。
知行百貫は武士でもかなりな高禄です。過分な恩賞で出陣を賞するその裏には懐柔の要素があったのでしょう。
>>289
「佐久市志 歴史編(二)中世」は近年の研究の集大成です。
とても面白く読めました。お勧めします。