後藤象二郎は若い頃は相撲をやっており怪力でもあった。
ある時人力車に乗って帰る途中別の人力車と衝突し、
車夫同士が喧嘩をはじめた。
後藤は相手の車夫の身体をひっつかむと、そのまま近くの交番に投げ込んだ。
机で仕事をしていた駐在は仰天して
「交番に人を投げ込むとは何事か」と怒った。
すると
「俺は後藤象二郎だ。往来の邪魔してるやつがいたので届けに来た」
とそのまま車夫に命じて走り去った。
ニュース
貧しいながらも女手一つで5男3女を育て上げた烈女である
ナポレオンが皇帝となった後、皇太后となり富と名誉を与えられても
ほかの家族はナポレオンを含め贅多な生活を送る中、
本人は財に手をつけず質素な生活を続けていた
ナポレオンがエルバ島に流罪となり皆没落した時、
それまでナポレオンから与えられた富に初めて手をつけ惜しみなく与えたという
ナポレオン最後の野望を支援してるんだよな
美人で兄想いとか羨ましすぎ
国際連盟が創設された時、
会議では各国代表の演説が延々と続くので
皆居眠りするのが普通だった。
その中でスウェーデン代表だけはいつも真面目に演説を聞いていたので
ある時イタリア代表からメモが回ってきた。
「君は確実に不眠症にかかってるから医者に見てもらいなさい」
いい話、なのか…?
「福沢先生はいるか」と尊大な口調で訊いたところ
門番は「いらっしゃいます」と言って邸の中に案内した。
福沢に会いに来た男は部屋に通された後、少しの時間待たされる。
そして、憧れの福沢先生といよいよ対面した男は
穴があったら入りたい心境にまで羞恥心に駆り立てられることになる。
何故なら最初にあった門番が(以下略
目下のものに対して横柄な態度とる奴っているよねー
人間性が醜いわ
学園漫画にそういうのしばしばあるな。
用務員や警備員が実は理事長だとか。
ナポレオンがオーソンヌにいた時、
その住まいの近くに理髪店があった。
同僚の士官たちはしばしばその店に行ったが、
その理由は店に艶妖な美人がいたからである。
ところが、ナポレオンは理髪の用事以外はまったくその店に行かず、
軍務の余暇は一日中一室に閉じこもって読書にふけり、
婦人に関心を示さなかった。
その為、彼女はナポレオンを頑迷だと忌み嫌った。
後年、ナポレオンは第一統領となり、大軍を率いてマレンゴに進んだ時、
たまたまオーソンヌを過ぎた。
彼は昔を懐かしんで件の理髪店に行き、婦人に問うた。
「あなたは私を知っているだろうか。私はボナパルトだ」
婦人はとても驚いた。
「はい、憶えています。当時のあなたはいつも一室に籠って、
私と語るのを嫌って避けていました」
ナポレオンは微笑して言った。
「もし当時の私があなたの言葉に応じていたとしたら、
今日の地位を占めることはなかっただろう」
前漢の李広には程不識というライバルとして比べられた同僚がいた。
李広が弓の名手、悲劇の名将として有名なのに対して
程不識はほとんど知られてないけど、良い対称関係をしてる。
厳格な程不識の軍は規律が厳しく、細かい軍律で兵士たちは縛られていた。
しかし規律と統制がとれた程不識の軍は当然強かった。
対して大らかな性格の李広軍の規律は緩やかで、
兵士たちは自由にのびのびとしていた。
しかし李広は兵士を大切にして苦難をともにしたから、
李広軍の結束は強く、やはり戦いではとても強かった。
程不識は李広についてこう言った。
「李広の軍は軍律が緩いから、匈奴の奇襲を受けたらひとたまりもないが、
兵士たちは彼の為に争って死ぬだろう
対して私の軍は厳しいが、だからこそ匈奴の攻撃を受けても動じないのだ」
有名な杉原千畝や樋口季一郎だけでなく、
東京裁判で処刑されたA級戦犯は全員がシンドラーです。
ユダヤ系難民の船が英国や米国で湾岸警備隊の武力行使で
接岸拒否され送り返された結果として
多くの人々が収容所送りとなり犠牲となった事例とは違い、
彼らは欧州から遙かな道のりを経て逃れてくるユダヤの人達を
人道的見地から庇う施策を閣議決定し
同盟関係にあるナチス・ヒトラー側からの再三にわたる返還要求を断り続けて
日本国内経由と上海ほかで累計2万人以上のユダヤ人達を匿い救った英雄です。
靖国神社に祀られている彼らについて意見は様々有りますが
この歴史事実を消し去って否定することは誰にも出来ません。
靖国と日本を批判する上で幅広く共感を得る為に
毎度ナチスとヒトラーを性懲りもなく持ち出して
声高に叫び続ける韓国と中国は
先ずその間抜けな歴史認識を改める必要性があり
彼らはこの上なく無知で馬鹿丸出しの人達なんだと
言わざるを得ない話でもあります。
ウィトゲンシュタインと投資の話
ウィトゲンシュタインの親父は国有数の鉄鋼王だったが、
世紀末のウィーンの時代に自分の資産のほとんどをアメリカに投資した。
その結果戦後の超インフレ期になっても、
一族は破産することなく暮らして行けた
そのごウィトゲンシュタインに大きな影響を与えた
イタリア人の経済学者、ピエロ・スラッファは
「自分は100%値上がりするという確証がないものにしか投資しない」
と言っていた
そんな彼が、思い立って投資を行ったのが
1945年、終戦した直後の日本だった
1967年頃、ソ連の彫刻家ヴィクトール・ゴンチャロフは、
モスクワの床屋で帽子掛けに使われていた
大理石像を見て仰天した
それは、フランスのウードンという彫刻家の作品のディアナ像で、
ナチス・ドイツがフランスを降伏させた
後に接収されてドレスデン美術館にあったものを、
さらにソ連が接収しが、接収と輸送のドサクサで
行方不明となっていた
(おそらく関係者の誰かが横領・売却してしまった)ものだった
その時点での所有者の床屋はその価値をわかっていなかったので、
ゴンチャロフはわずか3ルーブル
払うだけでそれを購入、貴重な美術品を保護することができた
ポーランド第2軍団第22輸送中隊のシンボルマークは
"砲弾を運ぶクマ"である
その由来は第二次世界大戦中、
イランで拾われたクマを引き取り部隊に"正式に"編入させた事から始まる
そのクマはヴォイテクと名付けられ他の兵士達と同様にテントで寝たり、
トラックの荷台に乗って移動したり、ビールやタバコを楽しんだりした
ポーランド第2軍団が激戦地である
南イタリアのモンテ・カッシーノに投入された時、
ヴォイテクも自らの"任務"を忠実に遂行して戦った
持ち前の怪力を活かして補給所から前線までを往復し、
重い砲弾や弾薬箱を一人で輸送して大活躍したのである
戦後、ヴォイテクは1947年に"除隊"して息を引き取る1961年まで
動物園に勤務する事になったのだが、
なぜか見物客の中にタバコを檻に投げ入れる者が続出した
もちろん彼らはヴォイテクの好物を知っていた
かつての戦友たちであった事は言うまでもない