この中で一番古くから栽培されていたのはトマト。
トマトの和食ってどうしてできなかったのかな?
またトマトは雨が少なく土地がやせていればいるほど甘くなる。
干ばつの救荒食にもってこいだよな。
>>278
白菜ってそんなに新しいの?
昔からあるかと思ってた
菜っ葉の煮付け、とかいうときの「菜っ葉」て何?
白菜のことじゃないの?
白菜なんて、このスレじゃ最新オサレ野菜ですよ
菜っ葉っつったら大根葉か野沢菜ですよ
小松菜や三河島菜のことじゃないかな
三河島菜はほぼ絶滅したけど非結球白菜の一種
農家が八百屋に売りに行ったら
「臭いから持ち帰れ、営業妨害だ」
って追い返されたらしい
もったいないよね
トマト自体は水が切れるとわりとすぐ枯れるよ
農大の教授が丸くなるように品種改良したんだよね。
別種との交配や、それに拠る突然変異(つまり奇形)の中で人間に都合の良い雑種だけをより分けていく事になるね。
その種だけを選り分け延々植え続ける作業。安定したら「改良」
当たり前だけど。
大正時代の奈良女子高等師範学校(今の奈良女子大)の寄宿舎では理科(学科が文科、理科、家政科にわかれていた)の女子学生たちが新しい野菜としてトマトを自主的に育て寄宿生たちの食卓にも載せていたという記述が当時奈良女高師でまなんでいた人の著書にある。
---細井和喜蔵「女工哀史」より、女工の一週間の献立-----
曜日 朝 昼 夕
月 大根汁、たくあん 油みそ、たくあん ヒジキ、たくあん
火 かぶ菜汁、たくあん 金時豆、たくあん 豆腐豚汁、たくあん
水 梅干、生姜 数の子、たくあん 大根、たくあん
木 大根汁、たくあん 大根、たくあん 塩鮭、たくあん
金 菜っぱ汁、たくあん 里いも、たくあん 福神漬け
土 梅干、たくあん 豆腐汁、たくあん 大根、たくあん
日 豆腐汁、たくあん 干物、生姜 千切、たくあん
平日の昼間から数の子かよ
>>298
自分も女工哀史よんだが、主食は白米なんだよな。
米があまりとれない地域とか、小作農で米を年貢に出さねばならず、麦その他をまぜた飯しか食べられなかった地域の娘さんたちには、白米だけの飯が三度三度食べられるというだけで大変な魅力だったわけだ。ああ野麦峠でもそのへんは描かれている。
紡績業の寮飯は平成初期でも>>298のメニューのたくあんが
味付け海苔or生卵orたくあんの選択になった程度であまり変わらないよ
女郎も兵隊も女工もメシが食えるから行くわけで白米だけは食えたんじゃない?
寮の食事は質素でも昭和の中頃には休日には町で何か食べたり遊んだりするくらいの余裕はあった(西日本の話だけど)
あんまり食に文句言える空気じゃなかった気がするんだよね時代的にも
動物性たんぱく質は作業中に目の前の蚕をつまんでぽりぽり食っていたそうです。
現代では鶏卵は格安で購入できるけど昔は高値だったそうで
動物性のたんぱく質を摂るためいろいろな物を食べてたんでしょうね
そういえば絹をとったあとの蚕って繭と一緒にゆでてあるんだっけ?
あれ捨てるんだろうか食べればいいのに
ピーナッツのような味らしいよ。
日本では鯉釣りとかの集魚剤に使われていますよ
次はミリメシ
これを三日分背嚢に入れて行軍し、無くなると後から追いかけた自動車部隊から補給を受ける予定でした。
日本陸軍の特殊定量(携行糧食)一人一日あたりの定量は以下の通り
(出典は昭和16年7月陸軍省印刷『陣中経理要覧』から)
【主食】
精米580g
乾パン又は圧搾口糧210g
【副食】
・肉類
缶詰肉150g又は乾燥肉60g
・野菜類
乾物120g
・漬物類
梅干45g又は福神漬け45g
・調味品
粉醤油30g又は醤油エキス40g
粉味噌30g
食塩5g
砂糖20g
【飲料】
茶3g
【栄養食】
栄養食45g
【加給品】
清酒0.4ℓ又は甘味品120g
巻煙草20本
4000キロカロリーだったそうです。
で、これ前線に届いたの??
自分で担いでいくんだろ
届けている途中でガトー級潜水艦に沈められました。
ちなみにポリネシア人の間では漂着した日米両軍の物資が神様からのごちそうとして喜ばれたそうです。
昔、大昔、中途半端な、文献に残らない大昔って
農家の連中が何食ってたか本当に謎だよな
「稗と粟のおかゆばかり」「いや意外と良い物食ってた」
人によって言うこと全然違う
西日本と北日本じゃ同じはず無いしね
>>313
海と山でも違うよね
海辺に住んでる人は魚や貝を食べ放題で体格も良かったんじゃないだろうか
むしろタンパク質の摂り過ぎで肝臓やられたりしなかったんだろうか?
女工の食事記録も本当かどうか怪しいもんだけどな
麦の混ざった飯でも出てりゃ良い方だったんじゃないの?
あの時代、横領なんて普通に有ったろうし
何も知らない女引っ張ってきて都合良く使ってたワケじゃん?
安く上げて「こんなもんだ」で済ませてた可能性の方が高いと思うな
老人になるまで働いてるわけじゃなく何年かすると辞めて帰る娘もでてくるから
あまり酷い待遇だと噂が立つ
経費を浮かせるためには麦を混ぜるのではなく、
安くあがる輸入米(当時は南京米といった)を食事に使っていた。
しかし日本人が理想とする米とは味が違うし、輸送中の品質維持もいまだしだったから、比較的豊かな地域からきた女工さんたちにはやはり美味しくなかったらしい。
ただ、マズイ米でも白米は白米、として一応お約束は守られていたわけだ。
ちなみに明治20年(1888年)の米収穫量は、全国で650万トンくらいだそうだ。当時の人口は大体3900万人だそうだから、単純計算だと一人年間166kg。一日450g(三合)になる。
白米にすると一割目減りだし、お酒やなんかに加工したり輸出したりしてる分もあるけど、それなりにお米食べられてたと思うんだけどなぁ。
たとえば飛騨では稗飯や粟飯、山梨ではトウモロコシ飯など
飯に炊き込む雑穀もいろいろ。
危険だよね
アジア全般が米中心じゃん
大体温暖な所は米で寒冷な所が麦が主食
もっと寒くなるとジャガイモとかの代用食
保存性も良く流通性もいい
連作障害が無いのも大きいかも
それは分かるんだけど、常に基本米でなければダメだとか
いいとこ全部そぎ落として白米にしちゃって有難がるとか
ちょっとイミフだよね
>>338
胚芽精米とか七分づきにすればよかったのにね
それとも、白米たべてたのは江戸だけ?
脚気が江戸わずらいって言われたくらいだから、他所は玄米が多かったんじゃないかな?
お酒も玄米で作る並酒が多かったようだし。
室町の頃には既に贅沢病で脚気らしき記録が有るね
天皇家や貴族が悩まされるとか国あげてどんだけ偏食なんだと思うが
だから肉や魚をあまりとらなくても、米と多少の大豆製品をとるだけでタンパク質まかなえる優れものなわけ。
それは、たしかにそうだ
でもよく飢饉になるなら、サトイモ植えておけばいいのにって思う
里芋を植える土地があるなら年貢供出の為にも米を植えろってことだろ
ソースはまんがはじめてものがたり・・・
米作に向く土地とその他の作物に向く土地があるのかも
そうでない所は畑って感じだわ
って全国的にそうかも
うちは東京都下だがここから秩父辺りにかけては、関東ローム層とかいう富士山の火山灰地で米作に向かないので田んぼがあまりなかった。今でも畑はたくさんあるが水田はほとんどない。
学校で、明治後期に地元の小学校に通ってた老人たちの話を学んだが、家では普通に米飯をたべていたが、学校の弁当にはふかしたさつま芋一本か二本、がクラスほとんどだったそうな。米は畑の作物を売ったり副業で得た現金で買っていたと思われる。
>>355
千葉の大半も同じだよ。丘陵地の谷部は水田で丘はサツマイモかタバコを栽培していた
落花生が名産なのもその頃の名残りだ
自然薯を掘るとわかるが関東ローム層は1mぐらい積もっていて石ころも粘土も全く混じらない。それ以上掘ると粘土だらけ、縄文式土器の欠片がコツコツ当たる
昭和の話になってすまんが、うちの親実家は米農家だが戦中と戦後は供出&買い出しにくる人たちに放出してしまって家で食べる米がいささか足りず、田の畔で作った里芋をよく炊き込んでいたそうな。
親父が当時を思い出しながらたまに作ってくれたが、麦飯よりも美味いと思う。
里芋はタロイモの一種だろうが、キャッサバは日本に伝わらなかったのだろうか
特定の人間じゃないかなぁ。当時の帝大生とか今の東大生よりはるかにエリートだし。
特に文豪なんかには、昔はパトロンがついてるし、文化人が民間レベルで保護されてる。
壇一雄のエッセイにも、好き勝手飲み食いして支払いは?誰が払ったかわかんないとか。
昭和の将棋指しでどんな場所でも名前を言えば済んじゃうとか。そういう時代だったみたい。
>>384
料亭や旅館は有名人が来る店って評判が立つと繁盛するから
宣伝費や御布施感覚で只にする事もあるみたいだ
現代でも、貴乃花が食事した店から
「横綱からお代は頂けません」
って言われた事も多いと言ってたな
縄文人はかわいそう
嗜好や栽培効率をさっぴいても美味いと言えるレベルかどうか
それ言い出したらキリがないよ
野菜品種単体でなく
いまと食ってる物自体が全然違うもん
どっちがホンモノだとか本当に旨いとか言えない
縄文人はかぼちゃは食べられなかったろうねw
縄文人って、どんぐり食べてた?クリ食べてた?
どんぐりとクリはどっちが多かったですか?
どんぐりもクリも食ってた
どっちが多いかは地域によるんじゃないか
意外に土地を選ぶ植物だし
子供の頃は栗と言えば山栗、食用ドングリと言えばスダジイ、他にトチノミも食ったわ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
略
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
おかずがほとんどないなら足りないな
そうだよ?
親のお金で文化芸能娯楽芸術業界人
30過ぎても仕送り貰って作家気取り
現代の量産型と大して変わらん
今も昔も同じだなw
野口英世は医学生の分際で女郎遊びが趣味で借金を踏み倒したんだよね。
二葉亭四迷の「当世書生気質」に書かれたんだよね。
貧しい会津の百姓の息子なのに、よく金があったな。
英世を見込んだドクターがパトロンになってくれてた。
しかしパトロンからもらった医師試験の受験料や交通費を
すぐさま酒飲んで使い果たすありさまだったw
明治期の人たちって、結構食べ物に執心する人多かったみたいだね。
帝大の学生でのちに昭和天皇の教育係になった人のエピだが
大学の寄宿舎住まいをしてたが夏になると布団を質に入れ、その金で牛鍋を食べたとか
そんな話がやまほどあるね
どちらも明治のクズ男ということでご容赦を
だと思ったよw
突然出てきたからね
明治の偉人って、女も酒も食べ物も大好きだよね。