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「マジ、馬鹿だろm9(*^ヮ^)キャハハ」
しか言えなくなる
↑これが破竹の勢いを持っている
>>12で既出か。
春秋と左伝を合わせて注にしているから読みやすいんだよね
ちょうど平凡社のを読んでたときにここ見つけたんでね。
時代の経緯が追いやすいとでもいうのかな。
その注の左伝だけでも相当の要領の書物だからね。
多層的な構造を有していて、その中に時代や学派の異なる
様々なグループによって様々な説が盛り込まれている。
伝来ら手写の過程で、本来は注釈の形で書いてあっただろうコメントが、
気が付くと本文の一部に紛れ込んでしまっている事もある。
それを最初に整理した書物を著した功績は大きいだろう。
これ以後の注も杜注から派生したものも多いしね。
でも名将。
馬も乗れないし弓も引けないけど学問が出来て戦略眼がある。
孫巉にならびますか?
杜預は呉平定戦において、その戦略には大きく携わっていたが、実際には荊州方面での支作戦に終始し、主力として主作戦を担当はしなかった。
しかしながら、一般的なイメージとして、呉の平定は彼の功績の如く扱われ、主作戦を担った王濬や敵主力を破砕した王渾の扱いは存外小さい。
これはどういった理由によるのだろうか?
それに王渾なんて同時代に複数いて紛らわしいし
あと、呉なんてもうガタガタだったんだから、戦っちまえば楽勝だったんだろ?
みたいなのが世間一般の認識なんだろう。誰でも出来たはず、みたいな
直接的な戦功を挙げた将も無視はできないが、
それら全てを統括していたという点で杜預を大いに評価しているんだろう。
戦略に大きく携わったと言っても、基本的には羊祜らの案に沿ったものだし、呉平定が杜預一人の功績の様に扱われる程ではないという気もする。
杜預が素晴らしい将領だったのは事実だが、蜀平定で鄧艾の働きを大きく扱っているんだし、王濬や王渾にももう少し目を向けて欲しいとはやはり思うね。
蜀平定は、鍾会が戦略立案し主作戦を担ったものの、姜維を撃破するという支作戦が失敗した為、主作戦も途中で頓挫。
急遽鄧艾によって立案された奇襲作戦が勝利の要因となったから、呉平定に比べ一指揮官である鄧艾の扱いが大きいのも頷けるんだけどね。
まあ、なんだかんだ言っても、杜預は(・∀・)イイ!!
鍾会の長史として参加してた。
鍾会の「諸葛誕も夏侯玄も姜維には及ばない」というのは、杜預に対して語った言葉。
鍾会が叛乱を起こすとそれを鎮圧、その後救出された鄧艾を殺害させた衛カンを痛烈に批判している。
個人的に含むところでもあったのだろうか。
トウガイ殺しは保身も含んでいるが、司馬昭の言葉が正しいなら、始めから衛カンはトウガイを(鍾会もだが)消すことを任務にしていたのかもしれないな。
鄧艾追い落としを謀り、捕縛に持ち込んだのは鍾会だよ。
衛カンは監軍としての職務に従いはしたが、その時点では鍾会に加担している。
ただ、彼が司馬昭に任じられた目付けとしての義務を果たしたのは
独立を図った鍾会を討伐したことでも証明できる。
杜預が彼を批判したのは適当ではないと思うな。
>>33は事実はどうあれ結果的にいえば鍾会の意に従ったことになる
って言ってんじゃないのってこと
胡烈が鮮卑戦で命を落としているとかの方がトリビアじゃマイカ
司馬伷…下邳→建業
王渾、周俊…寿春→江西
王戒…安成→武昌
胡奮…江夏→夏口
杜預…襄陽→江陵
王濬、唐彬…成都→長江を下降
賈充…中軍として襄陽に駐屯
晋の呉平定軍は六方面から呉に進入していて、これだけの陣容ならば呉の滅亡は必至とはいえ、短期間のうちに敗北したのは王濬、杜預らによる荊州の陥落が大きな要因といえるだろう。
陸抗が憂慮していたように西陵こそ巴蜀方面からの侵入に対抗する呉の一大防御拠点であり、ここを守りきる事が国防の最重要課題だったのにも関わらず孫晧は歩闡の乱の鎮圧後に慢心したのか、長江上流から流れていた大量の軍船の木屑を発見した吾彦の『晋は呉征圧をもくろんでおり、建平の兵員を増やしてほしい』という上奏を無視した。
その結果、王濬は西陵・夷道の守備軍を撃破、杜預軍も江陵で伍延軍を撃破したことで呉は武昌以西の長江流域を失陥し、健在の部隊は張悌軍のみとなってしまった。
杜預の「破竹の勢い」が成った要因には、少なからず呉の失策も含まれているな。
>>42
細かい指摘は良いとして、こっからが本題だな。
西陵の防御を固めて益州より東下する軍勢を抑えるというのは重要な事ではあるが、あれだけ大規模且つ多方面に侵攻されると、最早西陵如何で防衛の成否が決するレベルではない。
王濬が主作戦を担当していたとは言え、支作戦を担っていた各軍団それぞれが、敵に対する独立した攻勢が可能なレベル。
呉が行うべきだったのは、主要な拠点に戦力を集めて晋軍各軍団の侵攻を掣肘しつつ、機動戦力を結集して内線作戦を行い、晋軍を各個撃破する事だったと考える。
しかしながら、呉軍総勢23万とは言え、それら全てが防衛に回せるわけも無く、機動戦力を以って敵軍を撃破可能な指揮官も、侵攻する晋軍に対して適切な遅滞行動が可能な指揮官もいない。
また、戦う前から国内に纏まり無く、大規模な侵攻を受け士気も大きく沮喪していた。
既に軍事戦略でどうにかできる状況ではなかっただろう、とも思う。
だから結論としては大して変わらない。あの大戦での呉の失策は目に見えている。
杜預らの侵攻から呉を守るのは、鍾会らの侵攻から蜀を守るよりも難しかったと思う。
>>44
勿論、呉の滅亡は必至で結論は変わらないが、それでも最低限の備えをしておくべきだったという話。
そもそも晋の6方面攻撃自体、圧倒的な戦力差が無くては出来ないし、呉に対して威圧をかけるという、軍事以上の役割を担った出兵方法だと思う。
呉に晋軍と渡り合えるだけの指揮官がいないのは魏時代の王昶らの遠征を見ても確実だな。
私が思うには呉にとって唇と歯の関係にあった蜀が滅亡した時点で呉の運命は決まっていただろう。
>>45
呉が晋軍の侵攻に際し、執るべき対処を怠ったというのはあるね。
だが悲しいかな、例え対応していたとしても、呉の滅亡は変わらなかっただろう。
蜀の場合は対応によっては光明が見出せていたのと対照的だな。
まあ、仰る通り、蜀滅亡の段階で遅かれ早かれ呉の滅亡も決定的だったんだろう。
長い目で見れば滅亡の時期を先延ばしに出来る程度のことかもしれないが。
呉に限らず、蜀も貴族化する家が出てきたりしている事もあり、魏-晋に対抗できるだけの指揮官がいなかったといえるな。
>>47
蜀は明らかな失策が幾つかあったにもかかわらず、魏の勝利は紙一重だったからな。
呉の場合あっさり負けすぎて、「こうすれば何とかなった」というのが想像し難い。
話は変わるが、杜預には呉平定以外にも幾つか戦争を指導して欲しかったと思う。
呉平定だけでは、杜預の戦略思想・作戦概念というものが理解しづらい。
杜預は軍を率いた記述が結構あるぞ
呉平定以外には、西陵督張政を破った事くらいしか知らないが。他にもあったっけ?
ただ、張政の件だと彼の戦略等はよく分からないと思う。
条件が違うと言うことで、
一概には比べられんでしょ。
>陸抗
歩闡が叛乱を起こした際も即時西陵を包囲して陣営を築かせ、
その間に羊祜が江陵に攻撃をかけてきた際には
江陵の軍備状況と西陵の重要度を把握して戦を最善の方向へ導いた。
現場の判断に非常に優れた将軍だな。
陸遜-陸抗-陸機と、三代にわたって才人が生まれている陸家も恐ろしい。
そういった国の要がいなくなった時代に羊コと張り合った陸抗は軍才だけなら三国時代一なんじゃないかと思う
杜預もちょっとでも生まれた時代が早まってたら危なかったな
陸坑が長生きしてたら姜維のように、呉滅亡を防げなかった亡国の将の汚名を着ていたかもしれん
死んだ時期が良かったのかも
陸抗の時は、晋軍が投入した戦力は呉平定時の3分の一程度だし、
戦略正面も陸抗の時は西陵江陵間の約100kmに対し、呉平定は700kmと長大。
また、歩闡の反乱に乗じた突然の侵攻だったので、作戦計画もよく練られたものとは言い難い。
だから、陸抗が生きていれば防げたかどうかは分からないと思うよ。
何とか荊州正面の侵攻に対抗したとしても、史実の様に王渾の軍団が呉の主力を破砕してしまえば、
剣閣で鍾会を防いでいた姜維のようになった可能性もある。
とにかく呉平定戦は圧倒的な物量戦だからね。
700kmにも及ぶ兵線を動かせるほど晋国内が纏まっていたから
出来た出征だとも思うし、
何か後顧の憂いがあってそれほどの軍を動かせなければ…という可能性はある。
西方のキョウ族の反乱が終結したから、呉に全力を注げるようになったんじゃないの?
逆に言えば、晋は279年までは後顧の憂いがあって軍を動かせなかったわけで。
杜預は蜀平定戦にも参加してたようだから、ただの一兵卒という事は無いと思うが。
中央で度支尚書をやってた
破竹の勢いが使えず杜預に正しい評価が下されないまま凡将の扱いになった可能性はあると思う
前漢の杜周の子孫であること、
司馬昭の妹を娶っていることで出世が順調に進むのは自然な流れだと思うし
杜預の評価がなにも呉平定だけで高くなっているわけではあるまい。
>>63
杜周の子孫であることは関係ないな。
杜畿・杜恕の子孫であることは出世に大いに関係あるだろうが。
前漢や古代の名臣の子孫だということは出世などに影響しない。
でも歴史上で特別な人扱いされるのは『破竹の勢い』があったからだと思うぞ
凡将って言い方がまずかったとオモ
春秋左氏伝集解とか歴史的業績は呉平定除いてもまだあるし
慣用句の語源になるほどの軍事的功績を挙げたのは
確かに特別な人扱いされてる大きな要因だと思うし誰も否定はしてないっしょ
胡烈とか殺したり大活躍してた
晋が征呉に踏み切らなかった理由は国論の不一致に拠るところが大きいと思うけど。
国論の不一致の理由の一つに、鮮卑の反乱があったんじゃないの?
実は投入した戦力は諸葛誕の乱の方が多かったりするんだよな。
司馬一族はまさに神速を得意とする
陸氏は迎撃に出すと華々しい勝利を収める
諸葛恪は甚大な損失を被ったがな
城内の軍と救援軍の戦力は決して王基の兵力に劣るものではなかったのにも関わらず、
包囲が完成するのを待った結果、完全な閉塞状態に陥ってしまった。
もともと圧倒的な兵力差があったのだから、完全に包囲されれば為すすべが無くなることを
念頭に置いて戦うべきだったと思う。
思うに、諸葛誕には覚悟というものが足りてなかったんだろう。
自らの身の安全を保つ事のみに気を取られ、遠大な志など無かったように見受けられる。
一度叛旗を翻した以上、司馬一族の誅滅、延いては魏帝国の覆滅まで考えねばならないのに、
彼が考えるのは己の安寧のみ、これでは失敗は必定だろう。
この時の魏の作戦は、前衛にひとまず包囲を行わせつつ、
その後方、項の地で主力を集結した後包囲を完成させるというものであり、
鍾会らしからぬものであった。
諸葛誕に司馬一族誅滅の意志があったなら、まず敵の分散に乗じて前衛を叩き、
然る後敵主力との会戦に臨み、呉よりの更なる援兵を得て、
それを戦線に投入するか又は敵の連絡線に差し向けるなど方法はあったはず。
指揮官が常に戦いの主導権を握らねばならないのは、孫子にも述べられている事だ。
彼自身が平定した毌丘倹の乱にも同じことがいえる。
諸葛誕の軍は毌丘倹よりも戦力は上であり、上手く指揮を執れば
あそこまで短期のうちに壊滅させられることはなかっただろうから。
一つの失敗として、呉が援軍を寿春に差し向ける事に固執した事もあると思う。
大戦力で寿春を包囲し、黎奨水に沿って呉に対する防備も固めている状況を鑑みて、
荊州方面から敵線を突破し、魏軍の連絡線に指向するという作戦もありだろう。
王昶が施績をよく抑えていたが、呉が荊州の戦力を増強すれば突破できた可能性もある。
敵主力に向かわず、最小抵抗線又は最小予期線に沿って、敵の愛惜する点を攻撃する事で、
労せずして戦略的優位に立つ方法は、魏を囲み趙を救うという孫ピンの故事にも一致し、
また、後世リデルハートによって間接アプローチとして確立された戦略のセオリーでもある。
ただ、そういう事を魏が予期していなかったとも思えないので、
呉はそういう作戦を採らなかったのでなく、採れなかった可能性もある。
と、レスしてはみたが、諸葛誕の話はやはりスレ違いだろう。
スレ違い長文すまん
スレ違いではあるけど、杜預は羊コ・陸抗・カン丘倹・王濬あたりでまとめないと盛り上がりが・・・
確かに杜預だけだと話が続かないってのはあるかもな
後期無双スレでも一度出た話だが、石苞・州泰の防衛が堅かったとはいえ、
朱異の都陸の軍糧の失陥、連絡線の失陥など呉側は失策が痛かった。
朱異の処刑は諸葛誕の決意を堅くさせて救援の望みをつながせるためだと思うが、
司馬昭に看破されて城内を攪乱され、城内に弛緩が生まれてしまったのも
大敗に繋がる大きな要因だと思う。
>>88
あれは朱異が駄目だったのは以前も指摘したし当然だが、元より成功する見込みは無いと思う。
黎奨水の川幅がどれほどだったかは分からないので細かくは言えないが、
魏軍は二十六万もの戦力で包囲し、更に呉に対しても備えていた。
そうなると、たったの5万の軍勢しかいない呉軍が渡河し、包囲を解くのは至難の業だ。
ナポレオンも対オーストリア戦争において、オーストリア軍の目前でドナウ川の渡河を試みたが、
5万の前衛を渡河させ橋頭堡を対岸に築いたものの、9万のオーストリア軍の猛攻を受け、
更に増水と敵の砲撃で橋が幾度も破壊されてしまったので、結局渡河を断念し一事撤退、
4万4千もの兵力に加え名将ランヌを失うという結果になってしまった。
渡河作戦は事前の十分な準備と周到な作戦が必要になるという事だな。
杜預だけでなく、その周辺の時代に活躍した人物まで含めると、
無双後期伝スレとの違いが余り無くなるな。
住人もかぶってるだろうから、それほど気にする事でもないのかもしれんが。
どうでも良い話だが、光栄三国志の王濬の顔グラは、あまり美男という感じはしないな。
美貌の人物だったとはっきり書かれてるんだから、相応しいグラにして欲しいね。
たぶん王濬は最も活躍した時期が既に高齢なんで、それにあわせてるんだと思う
ゲームでは早い時期から登場するけど
>>87
グラ自体は30代位に見えるけどね。
凛々しい感じはするが、もうちょい線が細い方がそれっぽいと思う。