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みんなの一番好きなティムール朝の君主は誰ですか?
彼の著した『バーブル・ナーマ』はチャガタイ・トルコ語文学の最高峰と呼ぶにふさわしい。
ティムール朝のスレって定期的に立つけど長続きしないんだよね…。
>>6
バーブルはいちおうティムール朝に数えてもいいんでは。
サマルカンドを統治してたこともあるんだし。
スルタン・フサインあたりが有名どころか。
久々に立ってるねえ。ティムール朝スレ。
ティムール朝ってトルコ・モンゴル系の遊牧民勢力とムスリム中心の定住民勢力の
微妙なバランスの上に成り立っていたと思わないかい?
トルコ・モンゴル的分封制をとり、ともすれば分裂傾向の強いティムール朝におい
て、君主位を継承するには、両勢力をまとめ、自分の正統性を主張する必要性があ
ったなじゃないかなあ。その辺について語ってみようよ。
より細かく言えば、
トルコ・モンゴル系の遊牧民、イラン系ムスリムの都市定住民、
農村定住民の三者かな。
サファヴィー朝史研究者の羽田正氏が「東方イスラーム世界」の
社会構成要素として挙げておられますね。
細かく言えばそうなりますね。
マー・ワラー・アンナフルに限定すれば、定住民はトルコ・イラン系
といった方がよいのではないでしょうか?
それとティムール朝期の農村研究ってあまり進んでないように思われ
るのですが、どうでしょうか?
ティムールは自分の正統性を主張するために、
①チンギス家の人間を名目的なハーンに立てた。
②チンギス家の女性を妻に迎え、キュレゲンの立場をとった。
他にもまだまだあるよ。
ティムール家は別名バルラス家といって、チンギス・ハーンがチャガタ
イに与えた四個の千人隊の一つであるモンゴル系の名家ではありますが
チンギス家とは言えません。
ティムール家の人間が積極的にティムール家と婚姻関係を結んだのは、
自分の家の家格を高める為だったんでしょうね。
シャー・ルフとウルグ・ベグは親子ながらこのことに対する考え方が異
なっていて面白いです。
シャー・ルフ:キュレゲンの立場をとらなかった。
ウルグ・ベグ:チンギス家と積極的に婚姻関係を結んだ。
ということだよね。
シャラフ・アッデイーン・アリー・ヤズディーのZafar namaを始めと
するティムール朝期の史書によればティムール家とチンギス家はトゥ
メネイ・ハーンという共通の祖先をもつらしい。
またトゥメネイ・ハーンにはカチュリ(ティムール家の祖)とカブル
(チンギス家の祖)の二人の息子がいて、カチュリの系統が軍事行政
権を、カブルの系統がハーン位を継承する誓約がなされたらしい。こ
れが有名な権力二分論ってやつだね。
勿論、これらの伝承については、後代にティムール朝の後継者達によ
って意図的に操作されたことは間違いないんだけどね。
チンギス・ハンの先祖の兄弟の末裔でチンギス・ハンの家臣筋と自称した。
教えてくれい!
世界史全体といえるかどうかはわかりませんが、
イスラーム世界においてイラン・イスラーム文化から脱却した
中央アジア独自の新たなイスラーム文化であるトルコ・イスラ
ーム文化を発展させたことでしょうか。
オスマン帝国の膨張が早くなる
オスマン朝の膨張が早くなったというよりも、
ティムールが1402年のアンカラの戦いでオスマン朝の英主
バヤジッドⅠ世を破り、オスマン朝の拡大を抑えたという
方が正しいのでは?
よくこの戦いのおかげでビザンツ帝国が50年延命したというだろ。
アンカラの戦いはティムール朝の膨張を一時的に止めたことは事実です。
ただ、ムラトⅠ世、バヤズィードⅠ世の時代に早急に拡大したオスマン朝
が後の失地回復の半世紀を経て支配組織を固め、バルカン、アナトリアに
またがる帝国中核地域を生み出し、このことが更なる帝国拡大への出発点
となったともいえるのではないでしょうか?
一時的にせよ、中央アジアを中心にイラン、キプチャク草原な
どを包括する帝国が出来たことは、モンゴル帝国後の東西交流
の復活に貢献したのでは?まあ中央アジアはその後のヨーロッ
パ(特にロシア)諸国の進出で周縁化されてしまいましたけど
ね。
やっぱり今も講談社現代新書の間野英二『中央アジア史』が第一かな?
ちょっと古いのが気にかかるが。
『中央アジア史』は名著ですね。
今でも十分入門書としての価値ありです。
僕は現役の高校生です。
ティムール朝は最近学校で習いました。
ティムール朝ってとてもマイナーな気がするんですけど、
このスレの人たちってティムール朝に詳しそうな人多そうですね。
サーヒブ・キラーンさんは学生だそうですが、
他の人はどのような関係の人なんですか?
これからちょくちょく質問とかさせて頂きたいのですが
構わないでしょうか?
歴史ド素人でも構わないですか?
世界史大好き!さん、はじめまして。
最近ティムール朝を学ばれたそうですか。確かにティムール朝を始めとして、
シャイバーニー朝、サファヴィー朝、ムガル朝などはイスラーム史を専攻する
者にとっては有名過ぎるぐらいですが、高校生の皆さんには少し馴染みがない
かもしれませんね。私もティムール朝に関心を持ったのは高校生のころでした
ね。質問はもちろん大歓迎ですよ。わたしもまだまだ未熟者ですからご期待に
添えるかどうかはわかりませんが。
質問なんですが、
ティムール朝の時代区分というか、
歴史の流れの捉え方というのは
どのようにみればよいのでしょうか?
あとティムールの大遠征ってすごいですね。
ティムールのライバルってどのような人物がいたのでしょうか?
ティムールのライバルというと、
キプチャク・ハーンのトクタミシュと
オスマン朝のバヤズィト1世かな。
どちらもティムールに敗れていますけど。
世界史大好き!さん。『中央アジアの歴史』を読まれてますか。この本を読んで
少しでも中央アジア史への理解を深めていただければ幸いです。
ティムール朝の基本的な流れですが、私が考えているのは「分裂と統一の繰り返し」
です。ティムール朝はトルコ・モンゴル的分封制・君主位継承制(一族の最も有力
な者を君主とする。)に立脚しているため、常に地方領主たる皇子達の独立・反乱
の危機にあり、また現君主の没後は一族間で君主位継承抗争の状態が生じました。
そして一族間の抗争に勝利した卓越した才能を持つ新たな君主が混乱した帝国を再
統一するのです。しかし初代ティムールほど優れた君主は現れず次第に領土は縮小
していきます。このことを簡単にまとめると以下のようになります。
ティムールによる大帝国の樹立
→ティムール没後の君主位継承抗争
→シャー・ルフによる再統一、息子ウルグ・ベグへの君主位継承
→ウルグ・ベグ暗殺後の君主位継承抗争
→アブー・サイードによる再統一
→アブー・サイード暗殺後の君主位継承抗争
→帝国はマー・ワラー・アンナフルのサマルカンド政権とホラーサーンの
ヘラート政権(スルタン・フサイン)に分裂
→ウズベク族のシャイバーニー朝により双方とも滅亡
もちろん帝国の存続期間全てを通して常に分裂へのベクトルが作用し続けました。
流れは大体このような感じです。
ティムールのライバルについては代表的な人物だけでもその数はかなり多い
ですよ。例えば・・・
マー・ワラー・アンナフル統一期:
トゥグルク・ティムール・ハーン(モーグリスターン、東チャガタイ・ハン国)
アミール・フサイン(チャガタイ・ウルス、西チャガタイ・ハン国)
など
大遠征期:
マリク・ギヤース・ウッデイーン(カルト朝)
バグラト(グルジア王)
ザイヌル・アービデイーン、シャー・マンスール(ムザファル朝)
トクタミシュ・ハーン(ジョチ・ウルス、キプチャク・ハン国)
スルタン・アフマド(ジャライル朝)
カラ・ユースフ(黒羊朝)
スルタン・マフムード(トゥグルク朝)
スルタン・バルクーク、スルタン・ファラジ(ブルジー・マムルーク朝)
バヤズィードⅠ世(オスマン朝)
など
まあこんなところでしょうか。
訂正
58 誤 ムザファル朝→正 ムザッファル朝
彼は明遠征も考えていたから洪武帝や永楽帝もライバル視
してたかもしれませんね。
支配の正統性を主張しようとしたのでしょうか?
まあ実力さえあれば関係ないんでしょうけど・・・。
チンギス家の娘と結婚して「婿」を自称したの。
ソユルガトミシュやスルタン・マフムードなどの
チンギス家の傀儡ハーンを立てた。
>>89>>92>>96
まとめると
自身はあくまでチンギス家の婿の立場をとる
つまりハーンにはならない(彼はアミール・ティムール・キュレゲンと言った)
傀儡としてチンギス裔の人間をかつぐ(ちなみにソユルガトミシュはウゲデイの
後裔でチャガタイ・アミールたちにとってはそんなに意味がない)
おまけ「サーヒブ・キラーン」は「幸運なる二星の交合の持ち主」
の意味でティムールの称号として有名
>>89
>ティムールってチンギス家の人間ではないのにどうやって自分の
>支配の正統性を主張しようとしたのでしょうか?
モンゴル本国では、非チンギス裔のエセンがティムール同様、ハーンの婿を名
乗ってましたが、エセンの場合はハン号を冒したとたん秒殺され(1453-55)、
チンギス裔とハン号の権威は後代までまもられましたが、マーワラーアンナフ
ル以南(特にアフガン以南)ではティムール朝の時代に急速にチンギス裔の権
威は失われ、ハーン号もちっぽけな小豪族宛に乱発される、ちょっとした名誉
号にまで落ちぶれてしまいました。
アフガンやパキ、インドのムスリムの中にはカーンさんがぞろぞろいます。
>>89
通りすがりのものですが…さん。ティムールがいかに自分の支配の正統性を主張
しようとしたかについてですか。私の考えを簡単にまとめると以下のようになり
ます。(まだまだ未熟者ですのでたいしたことは言えませんが…。)
ティムールが自身の支配の正統性を示すべき対象は大きくは
①トルコ・モンゴル系の遊牧民勢力
②トルコ・イラン系ムスリムを中心とする定住民勢力(都市、農村はまとめる。)
に分類される。(もちろんマー・ワラー・アンナフルは多様な社会ですからこのように
分類するのにはいささか抵抗があります。ここではこの地域以外はあえて除きます。)
遊牧民勢力に対してはみなさんのご指摘通りに
名目的なハーン(ソユルガトミシュやスルタン・マフムード 但しオゴデイ系)を
立て、自身はハーン位につかず、自身あるいは一族の者たちとチンギス家(チャガ
タイ系、ジョチ系、オゴデイ系など)との婚姻関係を強めたり、或いは伝統的慣習法
たるヤサを遵守し、彼らの利益を擁護したりするなどモンゴルの伝統を守る事に努めた。
定住民勢力に対しては
彼らの政治的、経済的、文化的重要性を熟知しその保護・繁栄に努める。また宗教的には
イスラームの擁護者としての立場をとる。
都市においては大バザールの建設や都市間を結ぶ通商網の拡充に努め、商業の振興を図り
また宮殿やモスクやイスラーム学院などの建築活動を積極的かつ大規模に展開し、地方に
おいては運河の構築や灌漑設備の整備などを行なった。
サマルカンドやキシュなどの中央アジアの大都市には帝国内から富や高名な学者や職人、
芸術家などといった人材を集め、また熱心に学芸を保護する事で中央アジアの文化の飛躍
的な発展の基礎を築いた。
イスラームについてはウラマーやサイイドや神秘主義者を厚遇し、またワクフ寄進などの
慈善活動を積極的に行い、ムスリム達の支持を獲得した。このような例としてティムール
自身のサイイド・バラカへの帰依、テルメズのハーンザーデ家の保護が挙げられる。
これらに加えてティムールの大遠征も自身の正統性の主張(というより支配基盤の強化で
しょうか?)に重要な意味を持つのですが、それは今度の機会にお話したいと思います。
下手な説明で申し訳ありません。明日も忙しいので来られるかどうかはわかりませんが
ご容赦ください。
この二星とはティムール家とチンギス家を指すのか?
チンギス家と預言者(ムハンマド)の家系を指しているのではという
意見がある。
あの称号は占星術の中でも特に上位のものをさすのであって、
ティムール家とチンギス家の交わりを指すものではない。
が得意なんでしょう。モンゴルと同じなのだろうか。
あと、アンカラの戦いって合戦的にはどういう戦いだった
のですか?かなり一方的な戦いだったようですが。
トルコを滅亡の一歩手前まで追い込んだと聞き
ますが、そのまま滅ぼさなかったのは何故でしょう。
別スレ「オスマン朝」に同じ質問と解説があります
確立しましたが、私が思うにまだまだ有力な勢力が残存しており、ティム
ールの支配はまだまだ磐石なものではなかったのではないでしょうか?テ
ィムールはこのあたりをどうやって解決していったのでしょう?
みなさんお久しぶりです。最近研究が忙しくてここに来る時間がありませんでした。
>>122
ティムールは1370年にアミール・フサインを破りとりあえずチャガタイ・ウルスの
第一の有力者となりましたが、他にもまだまだ有力な諸部族が残存しており、まだ
まだティムールの権力基盤は磐石なものではありませんでした。当時のチャガタイ
・ウルス内における遊牧諸部族は個々にウルス内外の諸部族と密接な関係を有して
おり、反乱等の行動を起こすときはまとまって行動するのが常でした。よってティ
ムールにとって敵対勢力に対するあからさまな抑圧策、攻撃は下手をすれば彼らの
集団的反乱を招く自滅行為につながる恐れがあったのです。ここでティムールがと
ったやり方には例えば以下のようなものがあります。
①有力勢力に対しては懐柔策を旨としたが、やむを得ずこれを攻撃する場合には、
彼らの結束を崩すように様々な策を講じ、また制圧し、リーダーを捕らえた場合に
はしばしばこれを赦免するなど寛容な君主の立場をとった。
②度重なる反乱を起こす者に対し、処刑せざるをえない場合にも自分の手を汚すの
ではなく、敵対勢力の下にこれを引渡し彼らが処刑するのにまかせ、遊牧諸勢力の
自分に対する非難を回避した。
③マー・ワラー・アンナフル統一直後には、モーグリスターン、ホラズム、ホラー
サーン等の近隣の諸地域に遠征して打撃を与え、ウルス内の諸勢力が外の勢力と結
びつくのを防ごうとした。
もちろん部族連合体であるチャガタイ・ウルスを統治するのに以上のようなことだ
けでは十分なはずがありません。ティムールの大遠征は中央アジアにおける自己の
権力を確かなものにするために必要なものであったのです。
ティムールの大遠征について
その大義名分は「イスラームの伝播」と「モンゴル帝国の復興」とよくいわれるが
その実はマー・ワラー・アンナフルにおいて確立した自分の支配権とその正統性を
より強固にするために行なわれたと考えられます。
①遊牧勢力に対して:
征服活動によって得られた土地や戦利品を彼らに分配して懐柔するとともに、彼らに
遠征従軍義務を課したり、配置換えを盛んに行なったりして彼らを封領から切り離し、
勢力削減を試みた。
また征服した土地の多くにはトルコ・モンゴル的分封制に基づき一族の者達や自分の
股肱の家臣達を分封し、自己に比較的忠実な新興エリート階層を創出した。(もちろん
彼らの反乱に対する策も同時に講じた。)
定住民勢力に対して:
帝国の拡大は商人達の活動範囲を広げ、通商を活発させた。
また征服地から富や人材をマー・ワラー・アンナフルに集中させたことは、征服に
よる同地域の他のイスラーム世界(特にイラン地域)に対する政治的優越と共に、
同地域の住民達の精神的・文化的独立の契機を与え、またティムールや彼の後継者
達の熱心な学芸保護は、新しい主要文化としてのトルコ・イスラーム文化の発展に
大きく貢献することにもなった。(つまりそれまで抑圧されていた中央アジアの定
住民勢力が帝国において新たな支配階層となったわけです。)
③両勢力に対して:
またティムールは大遠征を通してモンゴル帝国の旧領を回復する事で自らがチンギス
・ハーンの正統な後継者であることを皆にアピールした。集団をまとめ、皆を危険から
遠ざけ、常に戦いに勝ち、皆に等しく利益を分配するティムールの姿は配下の諸勢力
に自身の実力を十分に思い知らせるものであった。
説明になってないかもしれませんが、以上が私のティムールの大遠征に対する基本的
認識であります。