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お家取り潰しにならなかったのは何故?
抵抗したからじゃないの?
>>9
さらに抵抗されたら困るからじゃないかな?
せっかく、名実共に天下人になり
これから政権の安定化を計らなくちゃいけないときに
延々と籠城戦されるより、政治的にはよいじゃん?
上杉も、島津も取りつぶしになってないよ。
真田も城に籠もって、助命されている。
>また復活する例も少ないと思うが、
西軍について復活したのは、例が少ないどころではなく、
立花宗茂ただ1人だよ。
岩城貞隆・・・
おお、調べてみたら一旦廃絶の後、再興しているものが何家かありますた。
私の読んだ本には、そう書いてあったので確認せず、鵜呑みにしてました。
情報有難うございます。
毛利輝元(宇津井健)たち毛利一族のヘナチョコぶりに激怒して
大坂城を去るシーンが忘れられない。
あの時、大阪方が篭城戦を試みたらどうだったろう。
やはり最後は、講和して同じ結果に‥
でも豊臣恩顧の大名は、あいてが三成だったから戦ったわけで
さすがに秀頼のいる大阪城は攻められず、家康も困ったのでは‥
秀忠の徳川本体も合流しちゃうから、関ヶ原のようなチャンスに恵まれない。
そこが面白みには欠けるけど、確かに秀頼を巡っての政治的な駆け引きが
どうなったかは興味深いね。
それでも、大坂の陣より勝ち目がある!
まぁ、毛利がそれをやる義理は無いけれど。
秀吉、家康も彼を認めていた。関が原で西軍についたが、最終的にはいいとこに落ちていた。
家康も戦国武将。侍が好きだったんだろうね・・・と思う
立花道雪と高橋紹運、かっこええ。
ステキな親父が二人いる……この男はすげぇうらやましい。
本人は大変だったと思うぞ。親が偉大過ぎて。
真の武士道を貫徹した世界に誇れる人物だと思いました。
宗茂は戦国最強と謳われた島津に屈せず、撃退した唯一の武将だった。
野戦、城攻め、篭城戦と、全ての戦い方が得意という能力の高さが光る。
また、道雪、高橋両人が耳川の戦に参加していたら、大友は落ちぶれなかった
かもしれない。
でも、宗茂個人としては、キリシタンにかぶれて没落した大友はそのまま
倒れてくれていた方がよかったかもしれないが・・・。
宗茂は朝鮮の役では、岩屋城で親父をヤっちゃった島津義弘に援軍を申し入れているし、
関ヶ原の退却時には義弘の船を護衛するように先導したという話も残っている。
改易後さまざまな家から引く手数多だったのも素直にうなずける。
更に、もう一つ良い話がある。
明治期に、宗茂の子孫にあたる加納久宜という人物が県知事として鹿児島に派遣され、
身銭を切ってまで産業や教育の発展に尽くし、「勧業知事」と県民に慕われた。
死ぬ間際まで「鹿児島のことで何かあれば冥途へ電話せえ」といっていたらしい。
立花という家はまさに”忠”と”義”、それ以上の言葉があればそれら全てを
もってして表したい家だと思う。
秀吉の言う”その忠義鎮西一。その剛勇鎮西一”はまさしく、という感じだ。
感動しました。
なんせ、あの”まつ”の息子が十万石で召し抱えたがってたらしいし。
前田利長が、宗茂を10万石で召抱えたいと彼に使者を送った。
そしたら「裏切り者の家になど仕えることはできん」と即刻使者を追い返したらしい。
この辺を昨年の大河で取り上げてくれたらなぁ(藁
浪人生活が共感を呼び
領地回復が希望を生む
朝鮮出兵で日韓関係悪化。
日韓関係を無理に友好的にする必要はない。
両国民が自由な目で歴史を見てこそ、真の友好関係が迎えられるというものだ。
その点、反日教育を国教としている、韓国、朝鮮とどうやって友好になろうというのだ。
反日を教え込まされている国と無理に友好的になる必要はない。
>宗茂は戦国最強と謳われた島津に屈せず、撃退した唯一の武将だった。
当時はそんなこと言われてませんがな。
あと島津と豊臣の決戦では少数の因幡や山陰の武将が
島津兄弟勢ぞろいの大軍を見事撃退してます。
確かに、島津を撃退できたのは豊臣の後ろ盾があったからだよね。
ところで、
>島津兄弟勢ぞろいの大軍を見事撃退してます。
というのは、何処での戦の話ですか?
島津が兄弟一門の他、親類の北郷氏まで参加して20000人。先陣が義弘。
上方が宮部継潤の4000を基幹にした15000。
何か勘違いしてないか?根白坂の戦いというのは
野戦ではなくて、豊臣軍の大軍に包囲されていた島津側の城を救援するために
島津軍が味方の城へ到達するルート上にある豊臣側の砦を攻略するための戦。
すぐ側には島津軍の何倍もの豊臣の大軍がひしめきあっている状況
そのため豊臣側の砦を一晩のうちにおとさなければいけないという島津側にはハンデがあった戦い
朝が来れば島津軍は砦を守備している豊臣軍だけではなく、島津側の城を包囲している豊臣軍とも
戦闘しなければならないからだ。
宮部側もよく戦ったが、島津軍が撤退を余技なくされたのはタイムリミットが来たことが理由だよ。
そんなに数に差はありませんよ。
高城周辺は秀長の全ての軍勢が集結できる程広くない。
島津軍は負けたわけではなく、>>94で述べたように朝になり
豊臣秀長本軍が本格的に戦闘に加わる前に戦闘領域から撤退した。
それから豊臣軍が島津軍を追撃しなかったかということからも敗退ではないことは明らか。
人間はふつうに歩いて1時間で4キロ進むといわれている。
すると1キロ先から秀長本軍がやってくるのにゆっくり歩いて15分で来る距離だ
もしも島津軍が敗退していながら、こんな近距離なのに追撃しないはずがないではないか?
イメージ的には
島津義弘→ラオウ
小早川隆景→トキ
竜造寺隆信→獄長
鍋島直茂→サウザー
大友義統→ジャギ
か・・・いや、適当だけど。
>>107
誾千代は、自ら鉄砲五十丁をもってなる女鉄砲隊を組織したといわれている
立花道雪の勝気な1人娘。
ま、女鉄砲隊は伝説だろうけど、体格が良く、目のパッチリした唇の小さい
美人だったといわれている。
関ヶ原の時は、柳川城をでて宮永の館に住んでおり、宗茂とは別居状態。
夫婦仲は完全に冷え切っていた。
それでも、西軍につくべきか東軍につくべきかと、
立花家で討議されている時、彼女は徳川家に味方すべしと進言している。
女性ながらも今回の戦は徳川優位、と正しく情勢を見抜いていた当りは
さすが道雪の娘と云わざるえない。
しかし、宗茂は今こそ豊家の恩顧に報いる時として、西軍についてしまった。
西軍が敗れ宗茂が柳川へ戻つた時、なんとあの誾千代が
侍女たちを中心に二百名余りで、宮永の館をしっかりと警護し
進撃してきた加藤清正軍に備えていた。
しかも、失意のどん底にあった宗茂を少しも攻める事はなかったという。
けなげな女性だ。
それを言うなら
立花道雪VS真田昌幸
立花宗茂VS真田幸村
を見てみたい
自分とこの家老になって欲しいと言われたらしい
大友遺臣の取り込み策でしょう
後の肥後領主細川氏も
松野氏や田北氏を家臣に迎えていますし
黒田氏も一万田氏にラヴコールを送っています
ぜひ碧蹄館の戦いもやってほしいね
このタイプのスレではお約束の、大河ドラマ企画「立花二代記」
1月 立花道雪と大友宗麟
2月 二人の父、宗茂誕生
3月 宗茂少年時代、道雪との出会い
4月 立花家の養子となる、誾千代との蜜月・初陣
5月 秋月・竜造寺戦、道雪の死
6月 岩屋城攻防・島津追撃戦
7月 柳川城主、肥後一揆鎮圧、西の立花・東の本多
8月 朝鮮出陣、碧諦館
9月 秀吉の死、関ヶ原
10月 牢人時代、誾千代の死、徳川家召抱え
11月 大阪夏の陣、柳川城主復帰、秀忠御談判衆
12月 晩年、島原の乱、病没
立花道雪には、人を感動させる逸話が数多く残っており、これを初回から
放映すれば、視聴者は充分に引き付ける事が出来き、視聴率は稼げると思う。
とにかく見所泣かせ所一杯のドラマになると思うんだがなあ。
一個人としてこれほど波乱万丈・七転び八起き・山あり谷ありの人生は
確かに稀有だな。
最後は見事にハッピーエンドだし、ドラマ化したら受けると思う。
どうせやるなら宗茂の実父高橋鎮種もメイン級にすえないと・・・
餅の論だよ。つーかしごく当然の事だから敢て書いて無いだけ。
岩屋城落城の時、敵将島津忠長が紹運の首を前にして、感服つかまつった、
惜しむべしと頭を下げたというエピソードは、いいね。
あと、立花家へ養子にいく宗茂に
「明日から道雪殿がお主の父。万一わしが道雪殿と敵対する事あれば、真っ先
にこの刀でわしを討ち取れ。卑怯未練な事は絶対するな」
と言って刀を授けた話は、是非やって欲しいよ。
当時の事とて神罰だとか考えて普通なら隠居でもしそうなもんだが、
逆に輿を担がせて各地の戦線で陣頭指揮に当たる所とか?
立花道雪は部下の育て方が上手かったというエピソードもたくさん残っているな
平時に来客のいる席において、若い武士が不調法をしたとき、
道雪は、わざと客の前にそのものを呼び寄せ、笑いながら、
「道雪の家中の者はとかく平時の奉公はふつつかでありますが、
ひとたび戦場に出でれば火花を散らすがごとく見事であります。
このものの槍の入れようなどお目にかけたいほどでござる」
と言って、槍をしごく真似をして褒められるので、その者は涙を流して感激し、
この主人のためならいつでも命を捨てようと励んだのである。
道雪自身見事な武将だがその旗下の将もまた格好良い。
道雪の臣で立花四天王と呼び讃えられた一人・由布雪下は
本来は道雪と同格の大友家直臣であったが道雪を敬慕し、
所領を嫡男に継がせた後は道雪の旗下に入ってしまった。
その後は立花家の為に尽くし、彼が推挙した者を
雇い入れる知行が道雪に無かった時、由布は自身の知行を
割いてその者に与えるよう主に進言している。
(後その者は道雪の家老になって雪下と共に立花家に尽くした)
>>171の逸話が残るような道雪だからこそ雪下もこれほどまでに
道雪を敬慕し付き従い立花家に尽くしたのだろう。
道雪の没後は続いて宗茂に仕え、宗茂が所領を失った後も
彼に付き従った。
小西行長を救うために露梁津の海戦で立花宗茂は島津義弘と共に奮闘しているんだよね。
宗茂の「行長を朝鮮の露とするには惜しい。皆が帰国しても私はここにとどまり、
生死を共にしよう。これは行長の為でなく日本の為だ」という言葉に義弘が感動し
共に戦ったそうだ。
カッコいい~ぞ!
何かいいなあ。
その言葉は確か義弘が言ったのではなかったかなあ~?
そう言う説もあるようですけど、どちらが先に言い出したかはこの際
どうでもいいのでは。
過去の経緯を忘れ、生死を共にしようと誓ったところに、この話のいい
ところがあると思う。
確かにどちらが言ったかは別にしてこの二人が日本軍を救ったのは
間違いないね。
島津義弘と言えば
関ヶ原の後、宗茂は大坂から引き上げる時、敵中突破してきた義弘と
出合った。宗茂にとり島津は実父の仇だったから、家臣の1人が
「島津軍は少数。今こそお父上の仇を討つ絶好の機会ですぞ」と言った。
しかし宗茂は、その意見を退け義弘に使いをだし
「昔の事は少しも恨みに思っておりません。ともに力を合わせて九州へ
かえりましょう」と伝えた。
僅かな供回りしか連れていない義弘にとって、この言葉は心強く感激して
宗茂に対し
「国元へ戻られるには、途中黒田家の領内を通られねばならず、困難が予想
されます。一緒に薩摩に行き共に戦いませぬか」と提案している。
まさに、昨日の敵は今日の友ですね。
ある意味間接的ながら宗茂も明治維新に貢献して
いるのでは・・
もし義弘が殺されていたら島津が取り潰されてる
可能性が大きいよ。
>>225
義弘が殺されても、兄の義久が健在だよ。
こっちのほうが常識があるような w
もちろん宗茂が、
過去のことを水に流したのは、カコイイ!!と思うけどね。
豊後・大友氏家臣。吉弘鑑理二男であるが、
謀反を起こし跡絶えた高橋鑑種の跡を継ぎ筑前・宝満城に入る。
1585年、侵攻する薩摩・島津軍5万余に支城岩屋城にて囲まれるが、
寡兵7百余にてよく守り降伏にも応じなかった。
しかし翌年、ついに残余の将兵50余名と共に、城内にて自刃して果てた。
宗茂は関ヶ原の後敗走する父の仇の義弘と出会い
討つどころか助け合って帰還しています。義弘はこの事に感激して
家康に攻められた時は援軍を出す申し出もしています。
宗茂と義弘。やっぱり魅力的だわな
道雪と共に戦争狂という説もあるね。
それはともかく、あまり統治を得意としていなかった印象があります。
戦上手の面ばかりいわれる道雪だが、内政オンチだったら立花山城は任せられんだろう。
貿易港博多の入口である立花山城主が博多の経営に全く関与しなかったとは考えられない。
九州屈指の商業都市・博多からの収益が大友家の財政をどれだけ潤すかということを考えれば、
内政にもそれなりに通じた城主を配置すると思うのだが。
栗のいがが刺さったのを、家臣由布雪下に抜いてもらおうとした
ら、逆に由布が「これでもか」と栗のいがをグイグイ押し付けた。
関ヶ原敗戦後、19名の家臣とともに放浪の旅に。飯に汁をかけ
て出した家臣に、宗茂、「飯だけでいい」。
家臣が干し飯を縁側に出したまま外出。大雨が降ってきたので
殿様(宗茂)が取り込んでおいてくれるかな、と言ったところ、同僚
が「そんなこまかいことに気づくようでは、殿様の御武運も尽きた
も同然だ」と答えた。案の定、宗茂はずぶぬれの干し飯には気づ
かず、読書をしていた。
知名度は圧倒的に不利
幸村は知名度あるだろ
信繁の知名度は低いが
立花宗茂って改易される以前の戦上手ぶりが取りざたされることが多いけど
むしろ改易された後の方に凄さを感じるものがあると思う。
もしあそこで改易されなかった場合大阪の役でも豊臣方に付くのが筋となるわけだから清正みたい
に急死するか真田信繁みたいに派手に散ってたかしてただろうし、例え徳川についても裏切り者
のそしりをうけざる得なかったはずだったんだけど改易されて徳川家に仕官したことで徳川方に付いて
当然の立場になっていた。しかも秀忠、家光の2代を通して御談判衆(将軍の相談役みたいなもの)を
勤め外様大名でありながら幕閣並に信頼されるという、明らかに改易されなかった場合よりも立場が
好転している。
なんつうか人間関係の達人とでも言うのかな、親に期待され、主君に信頼され、他大名とよく友誼を
結び、幕臣からも頼られ、家臣はよく働き、領民にも慕われる。
まあ運と実力あってこそなんだろうけど、ある意味究極の処世術を体現した人なのかもしれん
>>388
>もしあそこで改易されなかった場合大阪の役でも豊臣方に付くのが筋・・・・・・
>例え徳川についても裏切り者のそしりをうけざる得なかったはず
福島正則でさえ豊臣方に付いてないし、その他多くの豊臣恩顧の大名及び
その子孫や西軍で改易を逃れた者が、家を守る為に豊臣方に付いてない。
よって裏切り者のそしりは受けない。宗茂も自身や家臣の為に徳川家に仕えて
家を再興している。当時は我々が考える以上に御家が大事だったと思われる。
豊臣方に付いた長宗我部ら浪人も、御家再興が狙いだったかも?
真田信繁は例外
>明らかに改易されなかった場合よりも立場が好転している。
確かに改易されなかった場合、或いは関ヶ原で東軍に付いていた場合は
幕府に信頼されず、あぼ~んされてた可能性がある。
秀忠、家光の2代で結構あぼ~んしたから、改易されて徳川家に仕官して正解
>>389
闇千代様は7歳で立花山城の城督となってた人だからねえ、プライドが高かったんだろうね。
個人的なイメージとしては、なかなかデレないツンデレって感じなんだが
実際どういう人だったんだろうね
頑固で我が強い性格だったんだろうね
当主をさしてでしゃばるなっていう意識が宗茂にもあっただろうし
闇千代にしても一度は家督を継いだっていうプライドもあるわけだし
磁石の同じ極どうしで反発しあっちゃったのかなぁ
闇千代は道雪が死ぬときまで当主だったということで、
婿である宗茂にもそのように接していたと何かで読んだことがあります。
ましてや2人は幼馴染ゆえ、遠慮もなかったことでしょう。
美人でありながら父譲りの気性の激しさ、今だと誰が
イメージに近いだろうか?
旦那を差し置いてというなら、ヒラリー・クリントン
父譲りの気性の激しさなら、田中真紀子かな
晩年になってからは将軍家光のお気に入りで、合戦談義をせがまれていたとのこと。
病気になったときは、屋敷まで将軍が足を運んだり、蜜柑を届けたりしたそうだ。
島原の乱では70歳を過ぎて鎮圧に参陣しているから、若い連中にとっては戦国の
生き字引きとして尊重されたんだろう。