https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190527-00000028-san-l35
平成から令和へ、御代替わりに日本中がわいていたころ、南太平洋のガダルカナル島(ガ島)を、一人の日本人が訪れていた。
山口県柳井市出身の会社員、下村太郎氏(36)だ。16年前に亡くなった祖父、秀雄氏=享年85=は、さきの大戦中、船舶工兵としてガ島で戦った。仲間が眠るガ島に散骨してほしい-。死期を悟ったとき、最期の願いを託したのは、たった一人の孫だった。
4月27日夜、下村氏は成田空港から日本をたった。膝の上に、小さな骨壺を抱えていた。秀雄氏の遺骨だ。平成15年10月に亡くなった。
半分は墓に納め、残りを山口県柳井市にある実家の仏壇に保管してきた。
「長い間、待たせてごめん。やっと、願いをかなえてあげられるね」
胸の高鳴りを抑えきれず、ほとんど眠れなかった。
翌朝、パプアニューギニアの首都、ポートモレスビーに到着した。飛行機を乗り継ぎ、ガ島にあるホニアラ空港へ向かった。
空港はもともと昭和17年、日本軍が建設した。飛行場をめぐる戦いで、2万人以上の日本兵が命を落とした。多くは、食糧不足による飢餓が原因だったとされる。
その空港がだんだんと近づいてくる。気付くと、骨壺を窓に押し当てていた。
空港に降り立つと、日差しの強さと、湿度の高さに面食らった。カメラはレンズが曇り、使い物にならなかった。
ヤシの木が密集した風景を見ながら、思った。
「70年以上前、おじいちゃんもここに立っていたんだ」
感動や悲しさ、まして、うれしさでもない。よく分からない感情が押し寄せ、背中がぞくぞくした。
現地ガイドの案内で、島内各地の慰霊碑を巡った。水分摂取に気をつけていたつもりだったが、ホテルに着くと、頭痛とめまいに襲われた。
一晩で6リットル以上の水を飲み干した。それでも、全く尿意を感じなかった。
島の環境の厳しさを、身を以て実感した。
4月30日、平成最後の夜を迎えた。遺骨はまだ、手元にあった。ガ島に来て3日間、一緒に慰霊碑を回った。戦友とも再会できただろう。
大正生まれの秀雄氏は、平成まで3つの時代を生きた。
「おじいちゃん、もうすぐ新しい時代がくるよ」
骨壺を抱いて寝た。
5月1日、令和の時代が始まった。日の出とともに、チャーターした漁船で海に出た。島の北西部にあるエスペランス岬の沖合に向かった。
昭和18年2月、日本軍はここから撤退した。秀雄氏が、最後に踏んだガ島の地だ。
骨壺を傾け、灰と骨を流した。きらきらと風に舞いながら、青く澄んだ海に広がった。手を振りながら、去っていくように見えた。
涙があふれて仕方なかった。
◆戦争の記憶淡々と
下村氏は幼い頃から、自他ともに認める「おじいちゃん子」だった。
秀雄氏は戦前、南満州鉄道に勤務していた。徴兵されて中国大陸や太平洋の島を転々とした。
「ガダルカナル島やフィリピンのセブ島、マレー半島にも行ったんだよ」
世界地図を見せながら、教えてくれた。
「あちこち海外旅行に行けたんだ。いいね!」
最初は、無邪気にうらやましがった。きっと楽しかったに違いない。そう思い、当時の話をせがんだ。ほとんどが、ガ島の出来事だった。
秀雄氏は「ガダル」と呼んだ。
「ガダルではワニを食べたぞ。小銃で背中を撃っても貫通しないんだ。腹を撃ったら殺せた。鶏肉みたいな味だった」
「夜寝ていると、カニが頭の上をはうんだ。飯ごうでつぶして食べたな」
冒険譚(たん)を聞いているようだった。「ほかには? ほかにはどんなことがあったの?」
祖父は何でも話してくれた。
「食べるものがなくて、力が出ない。つえをついても、プールの長さぐらい歩いたら座り込む。休み休みでないと歩けなくなった」
「木陰でさっきまで休んでいた戦友が、死んでいるんだ。目と口にすぐウジがわいて。埋めてあげられず、心の中で『すまんな』と、手を合わせるだけだった」
どんなに悲惨な内容でも、淡々とした口調は変わらなかった。だから、耳をふさがずに聞き続けることができた。そう下村氏は思う。
散骨を終え手を合わせる下村太郎氏。「写真を残しておくべきだ」と現地ガイドが撮影してくれた
下村氏は平成15年、大学進学を機に、東京に引っ越した。祖父は4月の入学式に来てくれた直後、入院した。
5年前に肺がんが見つかっていた。秀雄氏は手術も延命治療も断り、ゆっくりと、死の準備をしていた。
半年後、夏休みで帰省し、病院に見舞った。少しやせたが、普段と変わらず穏やかに生活していた。
死を受け入れ、旅行にでも出かけるような雰囲気だったから、率直に聞けた。
「おじいちゃん、死んだら骨はどうしたい?」
数秒の間をおいて、秀雄氏は口を開いた。
「ガダルの海がいい。お前が一人前になったら、骨はガダルにまいてくれ」
戦後、秀雄氏がどんな思いで生きてきたか、少しだけ理解できた。
下村氏が「分かったよ」と答えると、安心したようにうなずいて、目を閉じた。その1カ月後に亡くなった。
◆御代替わりに決意
下村氏は大学を卒業後、金融機関に就職し、目まぐるしい日々を送った。結婚し、2人の娘も生まれた。東京暮らしが長くなった。
その間もずっと、仏壇に保管したままの遺骨のことが、頭を離れなかった。
祖父が自分を頼ってくれたことはうれしく、誇らしかった。だが、重荷だと感じたことも、一度や二度ではない。
なぜ、孫の自分に託したのか-。自問を続けた。
平成29年6月に御代替わりに関する特例法が成立したころから、いても立ってもいられなくなった。
「次の時代にまで、先延ばしにしてはいけない」
改元に伴う10連休が、祖父の願いをかなえる最後のチャンスだと思った。家族の理解も得て、1人で出かけた。
「やっと、肩の荷が下りた」。祖父との約束を果たした今の、率直な気持ちだ。
秀雄氏との「旅行」で、探していた答えに、ようやくたどり着いた気がしている。
「祖父はガ島で死んだ戦友を、片時も忘れられなかったはずです。救えなかった悔しさに、戦友の無念。口には出しませんでしたが、
こうした思いや体験を、私たち若い世代に伝えたい。そして、その先もずっとつないでほしい。僕は、それを託されたのではないでしょうか」
下村氏の娘は、小学4年と2年になる。いつか、おじいちゃんとの約束をじっくり話してあげよう。心に決めている。
極限状態での友情とはこうも厚いものか
同期の桜だよ
一緒に咲いて散るんだ
戦争を知らない世代は考えが及ばない気持ちなんだろな
なんか泣けてきた
長年暮らした故郷じゃなく数年間だけ居たガ島の海を選んだのか
よほどの出来事だったんだろうな
自分だけ生き残ったという罪の意識も相当あるって聞く
生き残ったらラッキーじゃん。何で一緒に死なないといけないんだ?
生き残ったのはラッキーだけど、申し訳ないという気持ちもわかるだろ。
この感覚がわからないのはネジとんでると思うわ。
まったく理解できない。自分が生き残れたんだから、『ラッキー、ラッキー』て思って
生きていくだけだ。何が申し訳ないんだ? バカバカしい。日本軍は死ぬ事ありきの
クソ軍隊だったから、おかしな洗脳をされてそう思う様になったんだろ。
そのおかしな洗脳をされてたんだから「生き残れてラッキー」なんて感情は無いんだよ
共に戦って酷い死に型をした戦友に対して罪悪感が生まれるのはその時生きた人の感情してはおかしくないと思うだが
向こうは死んで、こっちは生き残ったんだから、『ラッキー』以上の感情はないな。
当たり前だろ。今は流石に洗脳は解けてるだろうし。
うーん戦争未体験だろうし経験者の感情の想像力も無いようみたいだな
ラッキーしか感情が無いとか当たり前だとかだけだと罪悪感が生まれてしまう感情は理解出来ないよね
想像力が無いのはそれは仕方ない
お前だって戦争は未体験だろ? 分かった気になってるだけだよ。
生涯の中でも内容の濃い強烈な数年間だったんだよ
故郷より思い入れの強い地が死線をさまよう戦地なんてな
脳裏にこびりついて消えなかったんだろうな
>>12
平和な時代に気楽に生きてきた俺らでも今の会社や近所の人間と話すよりも
ガキの頃思い出したりとかあの頃の連中と久々に会えば楽しいだろうなーみたいなのあるだろ?
まして戦争なんて100年かけても味わえないような闇を短時間で
体験するからな、その時命預けたやつらや預けてくれたやつらはまた特別だろ。
若い奴から順に苦しむから戦争は悲惨だわな
明日は我が身だったから申し訳ないとは思わんだろうが亡くなった戦友の命を背負っているのは確か。家の祖父もそうだったが当たり障りのないように話を聞かせてくれて決して武勇を誇ったりはしない、最後に必ず孫には絶対に戦争を味わってほしくないが閉めの台詞だった
戦争経験者には未経験者には考えも及ばない思いを抱いてるものだよな
うちの母親なんかもそうだったわ
素敵な良いお祖父様だね
貴重な話とお祖父様の強い気持ちを聞けてよかったね
立派な家系だ
その時の武勇は人としてありえんことだからね
戦争は人を狂わす
これは日本も欧米も同じ
そうだな、空襲で逃げ回った親に
「アメリカ人は憎くないのか?」と聞いたとき
ないと言えば嘘になるが
それが戦争の狂気ってもんなんだよ
と言っていたな
映像が浮かんでくるわ(´・ω・`)
ね、ワイも見たいわ
敗戦と終戦で逃げかえった上官に厳罰を。
特攻の中島正、牟田口など数えれば卑怯者はきりがないが…。
ガ島なら辻だろう
辻はラオスからどこに消えたんだろう
やることなすこと狡猾なヤツだよな
牟田口といい最悪だな。自分の罪を一切認めず布団の上で死んだんだっけ?
牟田口は珍しい名字だから子供の代は苦しんだんだろうか
無能な指揮官が多くの日本人を南国の孤島で餓死させた
沖縄、台湾、フィリピンに軍を集結させて補給路を確保すべきだった
珍しい姓な割に海軍にもいる牟田口さん、旧士族には珍しくないって感じなのかもね
牟田口家って軍人を輩出した家系だったのかな
インパールじゃない海軍の牟田口さんはちょっと気の毒だな
死ぬまでにもう一度ラバウル行きたいって言ってたっけ
>>99
おれのじいちゃんもラバウル帰還兵だったわ。
ラバウルは戦闘機乗りは大変だったが、直接的に戦地にはならなかったから
じいちゃんも生きて帰って来れたが
家族どころか、ばあちゃんにすら、一言も戦争の話をしなかったわ。
激戦地にならなくても地獄のような飢えと、疫病が凄かったらしいからな。
ガ島なんか、それに加え艦砲射撃の雨あられ、米人の日本兵狩りだから気が狂うだろな。
サツマイモ作って自活できてたし、一番問題ないんで、終戦後も復員最後まで後回しで2年たってから帰れたんだよな。
>>106
俺の祖父はものすごく器用な人だったんだが
ラバウルでサツマイモ畑を耕すためのクワを作っていたらしい
靴下の糸をほどいて網を作って魚を捕ったとも言ってた
亡くなる数年前に戦争の話題を振ってみたら、意外にも饒舌に話してくれたよ
生きて帰ってこられて良かったな
傷痍軍人にもならず精神的ダメージも引きずられずにその後を送れたのであればすごいことだよ
アメリカは南方最大の基地ラバウルを放置し別の島を攻略していったので
ラバウル陸海軍6万人はパイロット以外ほとんど無傷で、食糧も自給しながら終戦を迎えたもんでな
戦って死ななかったこと申し訳ない気持ちが大きかったそうで
いうことをしなくなったので、防戦一方の中、戦力の小出しという頭の悪い戦略で疲弊して、消耗していった。
翔鶴・瑞鶴を主力とする第三艦隊は米機動部隊と二回に渡って交戦しているのだが?
有名だが強力な護衛艦隊は
いなかったのかよ
ていうか敵との最前線に飛行場つくっていてそこに守備兵を全くおかず、
飛行場の完成と同時にアメリカが上陸してきて奪われたってのがね。
アメリカもまさか無抵抗で飛行場を占領できるとは思ってなかったそうだ。
ガ島周辺では日本と連合軍の艦隊が何度も交戦し日本18隻、連合軍26隻の沈
没艦が海底を敷き詰めた。
それによって付近を航行する艦船の磁気コンパス狂ったので連合軍はこの海域を
IronBottom Soundと名づけたくらい激しい戦闘があったのを知らないのか?
父方の祖父は、亡くなる年の夏あたりからいよいよ具合が悪くなって、医者や周囲から入院
を勧められたが、「仲間は二十歳やそこらでみんなレイテ島で死んだんだ。これ以上長生き
したら申し訳ない」と頑なに拒み、そのまま世を去った。
母方の祖父は、葬儀で弔辞を読んだ戦友の方によると、亡くなる前の年に知覧の特攻記念
館を訪れた際、展示品を観ながらとめどくなく涙を流していたという。50代で祖母に先立たれ
た際には涙ひとつ見せなかった人だが・・・。
結局、この記事の御老人と同様に、2人に中では死ぬまで戦争が終わっていなかった、とい
うことなのだろう
リアルだな
おふたりともよく帰還出来て良かったけどそれで終わる訳じゃないんだな
どちらも立派なお祖父様だ
良いお祖父様を持ったな
オジさんがガダルカナルで戦死した。
川口支隊だった。
嫁がフィリピン人だからフィリピンのカリラヤ慰霊園には何度か行ったが、ガ島には行った事ないな。
1の感じだとフィリピンより蒸し暑く厳しそうだ。
勝てないだろうけど、少なくとも無駄死には避けれたはず
経験したことない人には理解できんな