1136年岳飛の第二次北伐からやるで
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六年、太行山忠義社梁興等百余人、慕飛義率衆来帰。飛入覲、面陳:「襄陽自収復後、未置監司、州県無以按察。」帝従之、以李若虚為京西南路提挙兼転運、提刑、又令湖北、襄陽府路自知州、通判以下賢否、許飛得自黜陟。
(紹興)六(1136)年、太行山の忠義社の梁興ら百人余りが、飛の義を慕って衆を率いて帰順してきた。飛は天子に拝謁し、面と向かって述べた「襄陽を取り戻して以来、まだ監司を置いておらず、州県には按察使がおりません。」
帝はそれに従い、李若虚を京西南路提挙兼転運使、提刑使に任じ、また湖北、襄陽府路の知州、通判以下の賢否を判断し、飛が自ら官職を決めることを許した。
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張浚至江上会諸大帥、独称飛与韓世忠可倚大事、命飛屯襄陽、以窺中原、曰:「此君素志也。」飛移軍京西、改武勝、定国軍節度使、除宣撫副使、置司襄陽。
張浚は長江の岸辺に行って諸元帥を集めたが、飛と韓世忠だけが大事を頼めると称賛し、飛を襄陽に駐屯させ、中原を窺わせて、言った「この人にはもともと志がある。」
飛に命じて軍を京西に移させ、武勝、定国軍節度使を改め、宣撫副使を任じ、襄陽に役人を置いた。
ゆるりとやっていく
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命往武昌調軍。居母憂、降制起復、飛扶?還廬山、連表乞終喪、不許、累詔趣起、乃就軍。
(岳飛を)武昌に行かせて軍を整えさせようとした。母の喪に服していたので、命令を出して起復(喪が終わっていないうちに戻らせて任につかせること)させようとしたところ、
飛はひつぎを守って廬山に帰り、何度も上表して終喪(三年の喪を終わらせること)を求めたが、許さず、何度も詔を出して出発を促し、こうして(岳飛は)軍に戻った。
これいわゆる奪情起腹というやつ
中国は両親が死ねば三年の喪に服すのが礼とされている
しかし緊急事態ならこうやってむりやり官職につかせることもあるんや
長いし清貧じゃないといちゃもん付けられるのほんとひで
章の頭は漢文訓読あったけどあれはちゃうんか?
あれ中国の『説岳全伝』という古典小説をベースに
オリジナルの設定加えたもんなんや
ワイが読んだところ七、八割くらい原作に沿ってる
はえー
サンガツ
イッチ訳も楽しみに追わせてもらうで
誤訳あるかもしれないからそこ注意してください
ワイが訳してるのは歴史書の岳飛伝、田中芳樹先生のは小説やから
その違いも見てみると面白いかも
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又命宣撫河東、節制河北路。首遣王貴等攻?州、下之、獲糧十五万石、降其衆数万。
さらに河東、節制河北路の宣撫を任じた。まず王貴らに?州を攻撃させて、これを下し、糧食十五万石を獲得して、その衆数万を降伏させた。
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張浚曰:「飛措画甚大、令已至伊、洛、則太行一帯山砦、必有応者。」飛遣楊再興進兵至長水県、再戦皆捷、中原響応。又遣人焚蔡州糧。
張浚は言った「飛は計画が雄大で、すでに伊、洛、すなわち太行山一帯の山砦に、必ず応じる者がいるようにさせた。」飛は楊再興に兵を進めさせて長水県に行かせ、二度戦ってすべて勝利し、中原は呼応した。また人をやって蔡州の兵糧を燃やさせた。
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九月、劉豫遣子麟、?猊分道寇淮西、劉光世欲舍廬州、張俊欲棄??、同奏召飛以兵東下、欲使飛当其鋒、而己得退保。
九月、劉豫が子の麟、甥の猊をやってそれぞれ別の道から淮西に侵入させると、劉光世は廬州を棄て、張俊は??を棄て、ともに上奏して飛を召して兵を率いて東に行かせ、飛にその鋒に当たらせ、自分たちは退いて守ろうとした。
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張浚謂:「岳飛一動、則襄漢何所制?」力沮其議。帝慮俊、光世不足任、命飛東下。
張浚は言った「岳飛が一たび動けば、襄漢は制圧されるはずがなかろう」努めてその議論を阻止しようとした。帝は俊、光世が任に堪えられないと憂慮し、飛を東に行かせた。
伝読んだことないからわからんが評判では有能とされてるみたいだ
ただ山賊あがりで平然と略奪をするとか
へーやっぱクズなんやな
そうやな
この人はあとで岳飛を嵌めるのに協力してるからそれで嫌われてるのもある
そんなわけで説岳ではリンチされチンコ噛み切られて死ぬぞ
えっぐ
>>286
リンチも岳飛を慕ってた市民が彼の肉を喰らうという方法
中国では相手の肉を食らうことで復讐にするとの概念があるみたい
肉を食らい皮を寝床にするという言葉がある
バイオハザードみたいなのを想像してしまうわね
その想像であってる
取り囲んで罵って一口ずつ噛みつく
最後に現れた壮士が噛みちぎったとこがチンコという流れ
ここらへん文化の違いとしか言いようがない
>>294
凌遅刑の肉も薬で売ってたりなんかようわからんとかあるな
石虎「お、そうだな」
王忠「せやな」
程昱「せやせや」
臧洪「まったくだ」
272: 名無し 平成31年 04/06(土)21:38:25 ID:Jdu
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飛自破曹成、平楊?、凡六年、皆盛夏行師、致目疾、至是、甚、聞詔即日啓行、未至、麟敗。
飛は曹成を破り、楊?を平定した、おおよそ六年、すべて夏の盛んな時期に行軍し、眼疾を患っていたが、このときになって、快復していたので、詔を受けたその日に旅立とうとしたが、まだ行かないうちに、麟は敗れた。
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飛奏至、帝語趙鼎曰:「劉麟敗北不足喜、諸将知尊朝廷為可喜。」遂賜札、言:「敵兵已去淮、卿不須進発、其或襄、鄧、陳、蔡有機可乗、従長措置。」
飛の上奏が届くと、帝は趙鼎に語った「劉麟の敗北は喜ぶに足りないが、諸将が朝廷を尊んでいるのがわかったのは喜ぶべきだろう。」
ついに書札を賜り、言った「敵兵がすでに淮に去り、卿は進発を待たず、あるいは襄、鄧、陳、蔡州に乗じられる隙があったら、ゆっくりと措置せよ。」
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飛乃還軍。時偽斉屯兵窺唐州、飛遣王貴、董先等攻破之、焚其営。奏図蔡以取中原、不許。飛召貴等還。
飛はこうして軍を返した。このとき偽斉は兵を駐屯させて唐州を窺っていたので、飛は王貴、董先らに攻めさせてこれを破らせ、その陣営を燃やした。蔡州を攻略して中原を狙いたいと上奏したが、許されなかった。飛は貴らを召し返して戻らせた。
忘れてた、これ第三次北伐ね
中国のウィキで北伐扱いにされとるけど
どうみても防御のために先制しただけだよな
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七年、入見、帝従容問曰:「卿得良馬否?」飛曰:「臣有二馬、日啖芻豆数斗、飲泉一斛、然非精潔則不受。
(紹興)七(1137)年、入朝すると、帝はゆったりとしながら質問した「卿は良馬を持っているか?」飛は言った「臣には二匹の馬があり、日にまぐさや豆を数斗も食らい、水を一斛も飲み、しかもきれいでなければ飲み食いとしようとしません。
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介而馳、初不甚疾、比行百里始奮迅、自午至酉、猶可二百里。褫鞍甲而不息不汗、若無事然。
鎧をつけて馳せ、最初はとても速いというわけではありませんが、百里を行くとはじめて奮い立ち、午から酉の刻まで経っても、なお二百里は進めます。鞍や鎧を脱がせると息をきらさず汗をかかず、なにもなかったようです。
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此其受大而不苟取、力裕而不求逞、致遠之材也。不幸相継以死。
これは飲み食いが多くても無駄に取るのではなく、力に満ちていてやせ我慢をしているわけではなく、遠くまで行けるよき馬です。不幸にも相次いで死にました。
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今所乗者、日不過数升、而秣不択粟、飲不択泉、攬轡未安、踊踴疾駆、甫百里、力竭汗喘、殆欲斃然。此其寡取易盈、好逞易窮、駑鈍之材也。」
今乗っているものは、日に数升しか食わず、秣を食べても粟は選ばず、飲んでも泉(ここでは河川や湖沼の水)は選ばず、轡をとっても安定せず、躍り上がって疾駆し、ただの百里で、力尽きて汗をかき息がはずみ、ほとんど倒れそうになります。
これは少なく飲み食いして簡単に腹いっぱいになり、強がっても簡単に力尽き、のろまな馬です。」
曹洪みたいな張俊の二人がいるから紛らわしい
初見殺しよな
なんでいきなりこんなキャラ変わるねんと思ったら
別人だったということがしばしば
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帝称善、曰:「卿今議論極進。」拝太尉、継除宣撫使兼営田大使。従幸建康、以王徳、?瓊兵隸飛、詔諭徳等曰:「聴飛号令、如朕親行。」
帝はよいと称賛し、言った「卿の今の議論はとても優れている。」太尉に任じ、つづいて宣撫使兼営田大使に任じた。(天子に)従って建康に御幸し、王徳、?瓊の兵を飛に属させ、詔で徳らを諭した「飛の号令は、朕の親征と同じである。」
宋史読めばそうなる
結局秦檜のことを良く書いてる部分がほとんどないからね
唯一の善行は偽楚建国に反対されて連行されたとこくらいかな
まともな戦力あった数少ない時期なのに
秦檜の粛清で結局また軍事力うんちになったからなぁ
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飛数見帝、論恢復之略。又手疏言:「金人所以立劉豫於河南、蓋欲荼毒中原、以中国攻中国、粘罕因得休兵観釁。
飛はたびたび帝に会い、(国土)恢復の方法を論じた。また手疏(親筆の上表文)で述べた「金人が劉豫を河南に立てたわけは、思うに中原を虐げん、中国をもって中国を攻めようとしたためで、粘罕〈ネメガ〉はそれで戦いを止めて傍観しているのです。
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臣欲陛下仮臣月日、便則提兵趨京、洛、拠河陽、陝府、潼関、以号召五路叛将。
臣は陛下に時間をお借りし、ただちに兵を率いて京(東京すなわち?梁)、洛(洛陽)に赴き、河陽、陝府、潼関に依拠し、召五路の叛将(宋からみて斉の人物は叛将)に呼びかけたく存じます。
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叛将既還、遣王師前進、彼必棄?而走河北、京畿、陝右可以尽復。然後分兵濬、滑、経略両河、如此則劉豫成擒、金人可滅、社稷長久之計、実在此挙。」
叛将を帰順させ、王の軍を前進させれば、彼らは必ずや?梁を捨てて河北に逃げますので、京畿、陝右はすべて取り戻せるでしょう。
それから兵を濬、滑州に分け、両河を攻略し、このようにすれば劉豫は捕らえられ、金人を滅ぼせ、社稷の長久の計は、まことにこの行動にございます。」
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帝答曰:「有臣如此、顧復何憂、進止之機、朕不中制。」又召至寝閣命之曰:「中興之事、一以委卿。」命節制光州。
帝は答えた「このような臣がいれば、よく考えても何も憂いることはなく、進軍と停止の機会に、朕は口出しする必要もあるまい。」
また召して寝閣(皇帝が休息のときに用いる別殿)に来させて彼に命じた「中興の事は、すべて卿に委ねた。」光州を統括させた。
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飛方図大挙、会秦檜主和、遂不以徳、瓊兵隸飛。詔詣都督府与張浚議事、浚謂飛曰:「王徳淮西軍所服、浚欲以為都統、而命呂祉以督府参謀領之、如何?」
飛がまさに大挙しようとすると、おりしも秦檜が和睦を司っており、ついに徳、瓊の兵は飛に属さなかった。
詔で都督府に召して張浚と議論させると、浚は飛に言った「王徳の淮西軍は(彼に)服従しているので、浚は彼を都統にして、呂祉を督府参謀にしてこれを率いさせたいが、どうだろうか?」
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飛曰:「徳与瓊素不相下、一旦?之在上、則必争。呂尚書不習軍旅、恐不足服衆。」浚曰:「張宣撫如何?」飛曰:「暴而寡謀、尤瓊所不服。」
飛は言った「徳と瓊とはもとより互いにへりくだろうとしておりませんので、一旦これを抜擢して上にしてしまえば、必ずや争いましょう。呂尚書(呂祉)は戦争に慣れておりませんので、恐らく衆を服従させられますまい。」
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浚曰:「張宣撫如何?」飛曰:「暴而寡謀、尤瓊所不服。」浚曰:「然則楊沂中爾?」飛曰:「沂中視徳等爾、豈能馭此軍?」
浚は言った「張宣撫(張俊)はどうであろうか?」飛は言った「暴虐で謀が少なく、とくに瓊は服従しないでしょう。」浚は言った「しからば楊沂中ではどうだ?」飛は言った「沂中は(王)徳と同じですから、この軍を御せますまい」
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浚?然曰:「浚固知非太尉不可。」飛曰:「都督以正問飛、不敢不尽其愚、豈以得兵為念耶?」
浚は怒って言った「浚は太尉でなければならないわけではないとわかっているぞ。」飛は言った「都督が正しいと思うことを飛に問われましたからには、愚かな考えを尽くさないわけにはいかなかっただけでして、兵を私有しようとは考えておりません」
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即日上章乞解兵柄、終喪服、以張憲摂軍事、歩帰、廬母墓側。浚怒、奏以張宗元為宣撫判官、監其軍。
即日上書して兵権を解き、喪が終わるまで服したいと願い出て、張憲に軍事を任せ、歩いて帰り、母の墓のそばに小屋を作って墓守した。浚は怒り、上表して張宗元を宣撫判官にして、その軍を監督させた。
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帝累詔趣飛還職、飛力辞、詔幕属造廬以死請、凡六日、飛趨朝待罪、帝慰遣之。宗元還言:「将和士鋭、人懐忠孝、皆飛訓養所致。」帝大悦。
帝は何度も詔で飛に職に戻るよう催促したが、飛は努めて辞退したので、詔で幕僚たちを廬に行かせて必死に(戻るよう)要請させ、おおよそ六日で、飛は朝廷に行って処罰を待ち、帝は慰めてから彼を遣わした。
宗元は戻って来て言った「将と士は精鋭で、人は忠孝の心を懐いておりましたが、みな飛の訓練と養育のおかげです。」帝は大いに悦んだ。
岳飛唯一の欠点は他人にへりくだれず正論を説くとこや
宗択のような人物に当たれば問題にならないがこれで秦檜に恨みを買ってる
これが直接の原因ではないとはいえ岳飛処刑の遠因ではないかと思ってる
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飛奏:「比者寝閣之命、咸謂聖断已堅、何至今尚未決?臣願提兵進討、順天道、因人心、以曲直為老壮、以逆順為強弱、万全之効可必。」
飛は上奏した「近ごろ寝閣の命を受け、みな聖断はすでに堅いと言っておりますのに、どうして今になってもまだ決断してくださらないのでしょうか?
臣は兵を率いて討伐に出て、天道に順じ、人心により、曲直をもって老壮とし、逆順をもって強弱とすれば(正しさによって強き者を味方にして、間違っている弱い相手と戦うくらいの意)、万全の成果は保証できます。」
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又奏:「銭塘僻在海隅、非用武地。願陛下建都上游、用漢光武故事、親率六軍、往来督戦。庶将士知聖意所向、人人用命。」
また上奏した「銭塘県(首都のある県)は海辺に存在し、戦いを起こせる土地ではありません。
どうか陛下には上流に都を建てられ、漢の光武帝の故事に倣い、おん自ら六軍を率いられ、往来して督戦なさいますように。多くの将士は聖意の向かうところを知れば、人々は命がけになりましょう。」
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未報而?瓊叛、浚始悔。飛復奏:「願進屯淮甸、伺便撃瓊、期於破滅。」不許、詔駐師江州為淮、浙援。
まだしらせが届かないうちに?瓊が反乱したので、浚ははじめて後悔した。飛はふたたび上奏した「願わくは淮河の流域に進軍して駐屯し、隙をみて瓊を攻撃し、殲滅したく存じます。」許さず、詔で軍を江州に駐屯させて淮、浙州を救援させた。
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飛知劉豫結粘罕、而兀朮悪劉豫、可以間而動。会軍中得兀朮諜者、飛陽責之曰:「汝非吾軍中人張斌耶?吾向遣汝至斉、約誘至四太子、汝往不復来。
飛は劉豫が粘罕と結託しているが、兀朮は劉豫を憎んでいると知って、離間させて動揺させられると思った。
おりしも軍中で兀朮の間諜を捕らえたので、飛は彼を偽って責めた「お前は我が軍の張斌ではないか?私は以前お前を斉に行かせ、四太子(兀述)を誘いに行かせるようにとの密約をさせようとしたのに、お前は帰って来なかった。
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吾継遣人問、斉已許我、今冬以会合寇江為名、致四太子于清河。汝所持書竟不至、何背我耶?」諜冀緩死、即詭服。
私は続けて人をやって問わせたが、斉はすでに承知し、今冬に長江で会合して長江に侵入するとの名目で、四太子を清河に来させるとのことであった。お前は書を持ってとうとう行かなかったが、どうして私に背いたのだ?」
間諜は死罪を許してほしいとこいねがい、偽って罪に服した。
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乃作蝋書、言与劉豫同謀誅兀朮事、因謂諜曰:「吾今貸汝。」復遣至斉、問挙兵期、?股納書、戒勿泄。
そこで蝋書(蝋で作った玉を蝋丸といいこれに封印された書)を作り、劉豫と共謀して兀朮を誅殺しようとしていたと言い、そこで間諜に言った「今はおまえを許してやろう。」
ふたたび斉に行かせ、挙兵の時期を問わせるが、股を割いて書を入れさせ、漏洩させてはならないと戒めた。
これ個人的には創作ではないかと思っている
劉豫を廃したのは(金で)既定路線だったのに仮託した感じか
>>320
そうそう
あるいは事実であっても岳飛の策は単なるきっかけに過ぎない
金には宋と和睦するプランが前々からあって
岳飛の影響力はそこまでではないと思うんや
今思ったがこの時期の宋金斉の立場をちょっと説明する必要あるな
◆
諜帰、以書示兀朮、兀朮大驚、馳白其主、遂廃豫。飛奏:「宜乗廃豫之際、擣其不備、長駆以取中原。」不報。
間諜が帰り、書を兀朮に読ませると、兀朮は大いに驚き、馳せて主(太宗。名は呉乞買〈ウキマイ〉)に申しに行ったので、ついに豫は廃された。
飛は上奏した「豫が廃されたこの機に乗じ、その備えなきを突き、長駆して中原を取りましょう。」しらせは届かなかった。
◆
八年、還軍鄂州。王庶視師江、淮、飛与庶書:「今歳若不挙兵、当納節請閑。」庶甚壮之。
(紹興)八(1138)年、軍を鄂州に帰還させた。王庶が江、淮の軍を視察し、飛は庶に書を渡して述べた「今年あなたは兵を挙げてはならず、節(軍権を表すもの)を返還して暇乞いするべきです。」庶は彼をとても意気盛んだと思った。
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秋、召赴行在、命詣資善堂見皇太子。飛退而喜曰:「社稷得人矣、中興基業、其在是乎?」
秋、召されて行在に赴き、命令によって資善堂に行って皇太子に会った。飛は退去すると喜んで言った「社稷(国家)は人を得た、中興の基業、それはここにあるようだな」
◆
会金遣使将帰河南地、飛言:「金人不可信、和好不可恃、相臣謀国不臧、恐貽後世譏」檜銜之。
おりしも金は使者を遣わして河南の地を返還しようとしていたが、飛は言った「金人は信じてはならず、和睦は恃みにしてはならぬもので、宰相(秦檜)は国を謀って悪くしようとおりますので、後世の謗りを受ける羽目になりましょう」檜は彼に恨みを抱いた。
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九年、以復河南、大赦。飛表謝、寓和議不便之意、有「唾手燕雲、復讎報国」之語。
(紹興)九(1139)年、河南を取り戻した(宋と金の間で和睦が結ばれ、宋は黄河以南を受け取る代わりに金に臣従した)ので、大赦した。
飛は上表して恩に感謝したが、それにかこつけて和議の都合の悪さが述べられており、「唾手燕雲、復讎報国(燕雲十六州は手に唾を吐くように簡単に手に入る、仇を討ち国に報いる)」の語があった。
いちいちかみついていくスタイル
(とはいえ高宗は考えがころころ変わる人なんで北伐も並行してやってる、
高宗が抗戦論に傾き一時失脚もしてる)
一方金も撻懶が政権を握って和睦を推進する
これによって斉を廃止したあと、金は河北を直接統治、
宋に河北と陝西を返還することで和平した
(不平等ではあるが逆に言えば金に統治できる能力が強まったともいえる)
それで>>322に繋がる
南宋メインエリアの江南は方臘の乱で荒れまくってたし
これ以上の北伐遂行は可能だったん?
無理やろ
厳密に調べたわけやないが
ワイの見た感じ北伐の余裕はあったっぽいわ
まぁ戦争は余裕ある内に和平しろって
マンネルヘイムおじさんも言ってたから・・・
岳飛好きと自称するワイがこれ言っていいのかわからんけど
ワイは和睦に賛成しとる
宋の完全勝利だったとはいえ
個々がバラバラの状態で河北にいけるわけがない
ただ和睦の内容があれすぎて秦檜は決して擁護できない
高長恭みたいな聖人じゃないとこがいい
聖人だったせいで殺されたけど聖人にならなければ
それはそれでガイジしかいない親戚一同に殺されてたし
たたき上げの岳飛との差はそこなんやろなぁ…
で、金にも宋には勝てないから和睦しようとする一派がいた
その筆頭が撻懶〈ダラン〉で、
秦檜はこの人と和睦の密約して逃がされたんではないかとされている
秦檜伝には撻懶の陣から逃亡し人質の妻子を奪い返し
八千里の道を逃げるのはおかしいんじゃないかという話がある
秦檜もうさんくさいなあ
金が滅ぼした遼の亡命政権やで
宋も挟撃に一役買ってる(とはいえほとんど金の手柄)
耶律大石の亡命中の軍に負けてるやんけ……
史書から全部読み取ったんか
せやけど誤訳あるかもしれんから注意してクレメンス
そもそもこの岳飛伝が和訳されてないんでこれ始めたけど
いかんせんワイ素人なんで
それもう大嘘だって言ってるようなものじゃないですかね...
関羽だって1000里逃げたからワンチャンあるぞ(適当)
おいしいネタいただいた
1秦檜=8関羽今度から使おう
8000×400m
の計算でええんか?
>>344
それであってるで
それでも鹿児島-北海道くらいあるから無理やろうなって
それに八をつけて強調しただけで実際の距離は無関係だったんちゃう?
その指摘の通り実際の距離に換算するのは無意味やな
とにかく長い距離を金人に捕まらず帰って来られた理由が疑われてる
横道にそれてごめん
再開します
◆
授開府儀同三司、飛力辞、謂:「今日之事、可危而不可安、可憂而不可賀、可訓兵飭士、謹備不虞、而不可論功行賞、取笑敵人。」三詔不受、帝温言奨諭、乃受。
開府儀同三司を授けようとしたが、飛は努めて辞退して、言った「今日の事は、危機を感じても安心するべきではなく、憂いても慶賀するべきではなく、兵士を教戒し、謹んで不慮の事態に備えるべきで、論功行賞をしていたら、敵に笑われましょう。」
三度の詔があっても受けず、帝が温和な言葉で勧めて、ようやく受けた。
◆
会遣士?謁諸陵、飛請以軽騎従洒?、実欲観釁以伐謀。
おりしも(天子が)士?(趙の宗室の趙士?)を諸所の陵墓に行かせたので、飛は軽騎を率いて掃除に従いたいと願い出たが、本当は隙をみて(敵方の)謀を阻止しようとした。
出る杭は打たないと自分が出世できないじゃん(諫言)
岳飛は贅沢するけど王には宝贈ってたのになあ?
白起→自害
韓信→処刑
関羽→戦死
張飛→暗殺
顔真卿→処刑
岳飛→処刑
センゲリンチン→戦死
悲しいなぁ
◆
又奏:「金人無事請和、此必有肘腋之虞、名以地帰我、実寄之也。」檜白帝止其行。
また上奏した「金人はわけなく和睦を請いましたが、これには必ずや肘腋(近く)に憂いがあり、名目は土地を我らに帰すものですが、内実は我らに寄生しようというのです。」檜は帝に申し上げてその行いをやめさせた。
◆
十年、金人攻拱、亳、劉錡告急、命飛馳援、飛遣張憲、姚政赴之。帝賜札曰:「設施之方、一以委卿、朕不遥度。」
(紹興)十(1140)年、金人は拱、亳州を攻め、劉錡が急を告げたので、飛を救援に行かせ、飛は張憲、姚政に赴かせた。帝は書札を賜って述べた「按排の方法は、すべて卿に委任し、朕は干渉せぬぞ。」
これ第四次北伐
岳飛伝では省かれてるけど
岳飛が救援に行く前に劉錡は兀述の十万の兵の七割を失わせる大勝してる
それで北伐許可が出たのだろう
自分の作った法律に阻まれて逃走できないで処刑されたとか
李斯みたいに韓非を自殺に追い込んだら
自分も冤罪で種無しマジックショーに参加されて腰斬られたとかあるから
中国の政争は遠くから眺める分には面白い
??「お前は70を越えてるが全王朝の血を引いている」
朱「いや恩もあるし」
??「謀反は起こしてないが起こしたいと思ったことがないとは言えないから
一族もろとも処刑だ」
◆
飛乃遣王貴、牛皐、董先、楊再興、孟邦傑、李宝等、分布経略西京、汝、鄭、穎昌、陳、曹、光、蔡諸郡、又命梁興渡河、糾合忠義社、取河東、北州県。
飛はそこで王貴、牛皐、董先、楊再興、孟邦傑、李宝に、手分けして西京、汝、鄭、穎昌、陳、曹、光、蔡諸郡を攻略させ、また梁興に黄河を渡らせ、忠義社を糾合させ、河東、河北の州県を取らせた。
◆
又遣兵東援劉錡、西援郭浩、自以其軍長駆以?中原。将発、密奏言:「先正国本以安人心、然後不常厥居、以示無忘復讎之意。」
また兵を遣わして東のかた劉錡を救援させ、西のかた郭浩を救援させ、自身は軍を率いて長駆して中原をうかがった。
出発するに及び、密かに上奏した「まずは国の根本を正して人心を安定させ、それからときどき敵地を攻め、復讐の気持ちを忘れていないということを示しましょう。」
◆
帝得奏、大褒其忠、授少保、河南府路、陝西、河東北路招討使、尋改河南、北諸路招討使。未幾、所遣諸将相継奏捷。大軍在穎昌、諸将分道出戦、飛自以軽騎駐?城、兵勢甚鋭。
帝はその上奏を受け取ると、その忠義を大いに褒め、少保、河南府路、陝西、河東北路招討使を授け、すぐに河南、北諸路招討使に改めた。いくばくもないうちに、遣わされた諸将が相次いで勝利を報告した。
大軍は穎昌におり、諸将はそれぞれの道から戦いに出て、飛自身は軽騎で?城に駐屯し、軍の勢いははなはだ盛んだった。
◆
兀朮大懼、会龍虎大王議、以為諸帥易与、独飛不可当、欲誘致其師、併力一戦。中外聞之、大懼、詔飛審処自固。
兀朮は大いに恐れ、龍虎大王(完顔突合速)と会って議論し、諸軍は与しやすいが、飛だけは防げないと考え、彼の軍をおびき寄せ、力を合わせて一戦しようとした。中外の人たちはそれを聞くと、大いに恐れ、詔で飛に決断を慎み固守するように命じた。
◆
飛曰:「金人伎窮矣。」乃日出挑戦、且罵之。兀朮怒、合龍虎大王、蓋天大王与韓常之兵逼?城。飛遣子雲領騎兵直貫其陣、戒之曰:「不勝、先斬汝!」鏖戦数十合、賊屍布野。
飛は言った「金人は方法が窮まっている。」その日に挑戦しに行き、かつ罵った。兀朮は怒り、龍虎大王、蓋天大王と韓常の兵を糾合して?城に迫った。
飛は子の雲に騎兵を率いてその陣を真っ直ぐ突き抜けるように命じ、彼を戒めて言った「勝てなければ、まずお前から斬る!」数十合激戦し、賊の屍は野に広がった。
岳韓に隠れるけど
間違いなく名将や
南宋の中期から末期の武将はたいてい岳飛らの割食ってるわ
孟キョウとか
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初、兀朮有勁軍、皆重鎧、貫以韋索、三人為聯、号「拐子馬」、官軍不能当。是役也、以万五千騎来、飛戒歩卒以麻札刀入陣、勿仰視、第斫馬足。
当初、兀朮には強力な軍があり、みな重い鎧をまとい、皮の縄を通し、三人を連ね、「拐子馬」と号し、官軍は防げなかった。この戦いでは、一万五千騎で来たが、飛は歩兵に麻札刀を持って陣に突入し、仰ぎ見ずに、ひたすら馬の足を斬れと戒めた。
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拐子馬相連、一馬仆、二馬不能行、官軍奮撃、遂大敗之。兀朮大慟曰:「自海上起兵、皆以此勝、今已矣!」
拐子馬は連なっているので、一頭の馬が倒れれば、二頭の馬は進めなくなり、官軍は奮撃し、ついにこれを大敗させた。兀朮は大いに悲しんで言った「海上で兵を起こして以来、すべてこれで勝ってきたが、今終わって(負けて)しまった!」
これつなげたのが拐子馬かな?
その簡易版みたいな認識でええんか?
>>379
せやな
史実にも連環馬は存在して十六国燕の慕容恪という人物がやっている
これは三十人を組ませて壁を作り出すというもので
突っ込ませる意図はなかった
(別の軽騎兵が左右から包囲してる)
水滸伝の呼延灼の連環馬は三十騎を鎖で繋いで突っ込ませるというが
果たしてできるかどうか
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方?城再捷、飛謂雲曰:「賊?敗、必還攻穎昌、汝宜速援王貴。」
?城でふたたび勝つにあたり、飛は雲に言った「賊は何度も敗北し、必ずや戻って穎昌を攻めるので、お前は速やかに王貴を救援しに行け。」
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兀朮益兵来、部将王剛以五十騎覘敵、遇之、奮斬其将。飛時出視戦地、望見黄塵蔽天、自以四十騎突戦、敗之。
兀朮は兵を増やして来て、(岳飛の)部将の王剛は五十騎を率いて敵をのぞみ、出会いに行き、奮起してその将を斬った。飛はこのとき出陣して戦地を見に行ったが、黄塵が天を蔽うのを望むと、自ら四十騎を率いて突撃し、これを敗北させた。
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既而兀朮果至、貴将遊奕、雲将背嵬戦于城西。雲以騎兵八百挺前決戦、歩軍張左右翼継之、殺兀朮婿夏金吾、副統軍粘罕索孛?、兀朮遁去。
すでに兀朮は果たして到着しており、貴は遊撃隊を率い、雲は背嵬(背嵬軍。岳飛の精鋭)を率いて城の西で戦った。
雲は騎兵八百を率いて真っ直ぐと決戦しに行き、歩兵を左右に張ってそれに続かせ、兀朮の婿の夏金吾、副統軍の粘罕索孛?を殺したので、兀朮は遁走した。
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梁興会太行忠義及両河豪傑等、累戦皆捷、中原大震。飛奏:「興等過河、人心願帰朝廷。金兵累敗、兀朮等皆令老少北去、正中興之機。」
梁興は太行忠義社及び両河の豪傑たちと会合し、連戦してすべて勝ったので、中原は大いに震撼した。飛は上奏した「興たちは黄河を渡り、人心は朝廷に帰すことを願っております。金兵は連敗し、兀朮らはみな老少(人々)を北に行かせたので、まさに中興の機会です。」
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飛進軍朱仙鎮、距?京四十五里、与兀朮対塁而陣、遣驍将以背嵬騎五百奮撃、大破之、兀朮遁還?京。飛檄陵台令行視諸陵、葺治之。
飛は朱仙鎮まで進軍し、距離は?京より四十五里で、兀朮と向かい合って砦を築き陣を敷き、猛将に背嵬騎五百を率いさせて奮撃させ、これを大いに破り、兀朮は?京に逃げ帰った。飛は陵台令に檄を飛ばして諸陵を見に行かせ、これを補修させた。
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先是、紹興五年、飛遣梁興等布徳意、招結両河豪傑、山砦韋銓、孫謀等斂兵固堡、以待王師、李通、胡清、李宝、李興、張恩、孫琪等挙衆来帰。金人動息、山川険要、一時皆得其実。
当初、紹興五年、飛は梁興らに恩徳の心を広めさせ、両河の豪傑を招いて結託させ、山砦の韋銓、孫謀らに兵を集めさせとりでを固めさせ、官軍を待たせ、李通、胡清、李宝、李興、張恩、孫琪らは衆を率いて帰順した。金人の動静、山川の険要は、一時すべてその内実を知り得た。
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尽磁、相、開徳、沢、?、晋、絳、汾、隰之境、皆期日興兵、与官軍会。其所?旗以「岳」為号、父老百姓争挽車牽牛、載?糧以餽義軍、頂盆焚香迎候者、充満道路。
磁、相州、開徳府、沢、?、晋、絳、汾、隰州の境はすべて、みな日を決めて兵を起こし、官軍と会合しようとした。
掲げる旗は「岳」として合図とし、父老百姓は競って車を引き牛を牽き、?糧(水分の少ない長持ちする食品)を載せて義軍に贈り、(香を焚くための)盆をささげ香を焚いて迎える者は、道に溢れかえった。
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自燕以南、金号令不行、兀朮欲簽軍以抗飛、河北無一人従者。乃嘆曰:「自我起北方以来、未有如今日之挫衂。」
燕より南は、金の号令が届かず、兀朮は簽軍を集めて飛に対抗しようとしたが、河北では一人として従おうとする者がいなかった。そのため嘆いて言った「私が北方で決起してから、いまだ今日のような挫折はなかった。」
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金帥烏陵思謀素号桀黠、亦不能制其下、但諭之曰:「毋軽動、俟岳家軍来即降。」
金将の烏陵思謀はもとより悪賢いと言われており、さらに部下を制御できていなかったので、(兀朮は)ただ彼を諭した「軽々しく動き、岳家軍が来るのを待ってすぐに投降してはならないぞ。」
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金統制王鎮、統領崔慶、将官李覬崔虎華旺等皆率所部降、以至禁衛龍虎大王下??千戸高勇之属、皆密受飛旗?、自北方来降。金将軍韓常欲以五万衆内附。飛大喜、語其下曰:「直抵黄龍府、与諸君痛飲爾!」
金の統制の王鎮、統領の崔慶、将官の李覬・崔虎・華旺らはみな部隊を率いて降伏し、禁衛の龍虎大王から下は??や千戸の高勇の所属まで、みな密かに飛の旗と檄を受け取り、北方より投降しに来た。
金の将軍の韓常は五万の衆を率いて従属しようとした。飛は大いに喜び、部下に語った「まっすぐと黄龍府(金の首都)を突き、諸君と痛飲するのみだ!」
これが「直搗黄龍」の語源
岳飛は本当に黄龍府を落とせるのかって中国人の議論だけで知ってたから
翻訳する前までは勘違いしてた
これ厳密な作戦立てたとかそういうわけでなくて
単なるその場の勢いでの発言だったんやな
金の都やで
結構がっつり行ってるよね
裏工作の梁興はそれまで一切知らなかったがかなり有能じゃね?
王貴や張憲の次くらいには活躍してるな