是時、劉備令關羽鎭守、專有荊土。權命蒙、西、取長沙、零、桂三郡。
この時劉備が関羽を鎮守させ荊州を専有させていた。孫権は呂蒙に命じ、西に行かせ、長沙、零陵、桂陽の三郡を取らせた。
ニュース
正史には載ってるかって疑問
蜀とかもよく荊益でわかれるって聞くけど
それらしい記述見つけられん
>>633
たしかに荊州閥、益州閥という言葉は実体はないと思う
言う通りそれを匂わせる記述が殆ど見当たらないんだよね
呉に関しては不勉強やけど複雑過ぎてどうも…
なんせ何度も言われてるように寄り合い所帯の性格が強いからなぁ
ワイは呉ですら見つけられんかった
そういうマイナーな人物ほとんどスルーしたからかね?
蒙移書二郡、望風歸服。惟零陵太守?普、城守不降。而備自蜀親至公安、遣羽爭三郡。
呂蒙が二郡に書簡を渡すとおそれうやまって帰服した。ただ零陵太守の?普だけが城を守り降伏しなかった。劉備が自ら蜀より公安に親征し、関羽を遣わして三郡を争った。
權時住陸口、使魯肅將萬人屯益陽拒羽、而飛書召蒙、使捨零陵、急還助肅。
孫権は陸口に行き魯粛に万人を率い益陽に駐屯させ関羽を拒ませ、書によって呂蒙を召喚し、零陵を捨てさせ、急いで魯粛を助けさせた。
初、蒙既定長沙、當之零陵、過?、載南陽鄧玄之。玄之者?普之舊也、欲令誘普。
初め、呂蒙は既に長沙を平定してまさに零陵に当たらんと?を過ぎ、南陽の鄧玄之を(馬車に?)載せていた。鄧玄之という者は?普と旧知で?普を誘おうと欲していた。
及被書當還、蒙祕之、夜召諸將、授以方略、晨當攻城、顧謂玄之曰「?子太、聞世閒有忠義事、亦欲爲之、而不知時也。
書によって帰らなければならなくなると呂蒙はこれを秘密にし、夜に諸将を集め方略を授けて朝に城を攻め、顧みて鄧玄之に言った「?子太(?普)は世間に聞こえた忠義のあるもので、またそうなることを欲しているようだが時勢を知らない。
左將軍在漢中、爲夏侯淵所圍。關羽在南郡、今至尊身自臨之。近者破樊本屯、救?、逆爲孫規所破。
左将軍(劉備)は漢中に居て夏侯淵に包囲されている。関羽は南郡にあり、今、至尊(孫権)が自らこれに臨んでいる。近くに居る樊本が駐屯し、?を救援しようとしたが、逆に孫規に破られるところとなった。
此皆目前之事、君所親見也。彼、方首尾倒懸、救死不給、豈有餘力復營此哉。
これは皆目前のことで、君が親しく見た所である。彼は首尾が逆さになって吊るされ(るような苦しみに遭い)、死を救ってもらうことも出来ないのに、どうしてこれ(忠義)を営む余力があるのだろうか。
今、吾士卒精?、人思致命、至尊遣兵、相繼於道。
今、私の士卒は精鋭で人々は命令を致さんとしており、至尊(孫権)は兵を遣わして道に相次いで来ている。
今子太、以旦夕之命待不可望之救、猶牛蹄中魚冀賴江漢。其不可恃亦明矣。
今、子太(?普)が朝夕の命で望むべきではない救援を待っているのは牛の足跡の中の魚が江漢(の水)をこいねがっているようなものである。それが頼むべからざるものなのは明白である。
若子太、必能一士卒之心、保孤城之守、尚能稽延旦夕、以待所歸者、可也。
もし子太(?普)が必ず士卒の心を一つに出来、孤立した城の守備を保ち、なお朝夕に(落城を)延長させ、帰る者を待つのなら、良いであろう。
今吾、計力度慮而以攻此、曾不移日而城必破。城破之後、身死何益於事。而令百?老母戴白受誅、豈不痛哉。
今私が戦力を計り考えを巡らせこれを攻めれば、日を移さずして城は必ず敗れるだろう。城が敗れた後、身は死して事において何の益があろうか。百歳の老母の白髪に咎めを受けさせることになり、どうして痛ましくならないのだろうか。
電撃和平→合肥に急襲の流れは魯粛の一世一代の大戦略やと思うわ
曹操は漢中に遠征し
まんまと合肥方面の守備を薄くしてしまったし
なお
???「遼来遼来!」
度此家、不得外問、謂援可恃、故至於此耳。君、可見之爲陳禍福」玄之、見普、具宣蒙意。普、懼而聽之。
計るにこの家は外のことを知り得ず、救援を頼るべきとし、このように至っただけなのだ。君よ、これに見えて禍福を陳述するのがよかろう」鄧玄之は?普に見えてつぶさに呂蒙の意を述べた。?普は恐れて聞き入れた。
玄之、先出、報蒙、普尋後當至。蒙、豫敕四將各選百人、普出便入守城門。
鄧玄之が先に出て呂蒙に報告し、?普が後からやって来ると言った。呂蒙はあらかじめ四将に各々百人を選ばせて?普が出たらすぐに入って城門を守るようにさせた。
合肥を拔く度胸もないのか
それができれば苦労はねぇんだよなぁ
攻める指揮官に問題がるのでは?
誰なんだ、孫家の方々はお怒りだぞ、ねぇ陛下
須臾普出、蒙迎執其手、與?下船。語畢、出書示之、因拊手大笑。普、見書、知備在公安而羽在益陽、慚恨入地。
すぐさま?普が出てくると、呂蒙はその手を取って迎え、共に船に下りた。語り終えると書を出してこれを見せ、手を叩いて大笑いした。?普は書を見ると劉備が公安に居り、また関羽が益陽に居ると知って、恥じ入って地に伏した。
※ここでは呂蒙が劉備や関羽が救援に来られない状況だと嘘を言って?普を降伏させている
『孫子』にも戦闘せず敵を屈服させるのが最上とあり、真に兵法に適っていて彼の才覚の程がわかる
蒙、留孫河、委以後事。?日引軍赴益陽。劉備請盟、權乃歸普等、割湘水、以零陵還之。以尋陽、陽新、爲蒙奉邑。
呂蒙は孫河(孫皎?)を留め後事を委ねた。即日軍を引いて益陽に赴いた。劉備が盟を請い、孫権は?普らを帰させ、湘水で分割して零陵を返還した。この功により尋陽、陽新を呂蒙の奉邑とした。
※
同時期に曹操が張魯を降したので
公安に留まっていられなくなったため
劉備は荊州を断念して孫権と和睦した
ここで疑問となるのが孫権の方が零陵を返還していることである
孫権の言い分によれば
劉備が荊州を返還しなかったための戦争であり
また劉備は撤退せざるを得ないため
孫権がかなり有利な条件で交渉出来るにも関わらず
孫権の方が土地を差し出しているのである
劉備がさらに土地を返還するなら理解できるが
孫権が零陵を割譲するのは意味がわからない
思うに孫権が荊州を貸したというのは言いがかりであり
蜀を守りに行かなければならない劉備が
仕方なしに孫権の言い分を聞き入れたのではないか
そもそも荊南四郡は劉備が自力で切り取った土地であり
孫権に貸し与えられたものでは無い
孫権としても不義によって土地を奪ったことがわかっており
劉備を怒らせて戦争になるのを避けようと
零陵を返還したと考えれば
一応筋が通るものとなる
勝ってるほうが土地を差し出すとかわけわからん
>>660
推測するしかないけど
やはりこの時点では
劉備を同盟者として力を削ぎ過ぎるべきでは無いって
認識やったんじゃないかな
呉蜀あわせて北進するのが基本戦略やった筈やし
もう一つは、
曹操不在の内に合肥を抜き
揚州北部を制すって大目的の元動いてたからかな
そのために交渉に時間をかけられないので
劉備サイドの言い分も最大限に考慮し速めに切り上げた
今思いつくのはそんくらいかな
だったら最初から荊州狙わなきゃいいじゃん
なんで中途半端に攻略して
不利でもないのに返還するのかと疑問だ
ビビらしたら獲れるやろ的な適当な見通しで始めたら
キレられたから大慌てで削り合いを避けたとか
頭に孫権の判断でって書くと
本当にそれっぽい感じになるなぁって
これもありそう
要は良く考えてなかったんと
全て理詰めで考える事はできないし、
当人達も流れの中でやってた訳やしなぁ
当初は勢いで三郡を制したけど
後に零陵だけは譲ってもええやと思いなおしたとしか言えないかな
零陵は地理的にも突出してる事もあるし
>>685
なるほどね
結果からみればおかしいけど
それはわからんしな
以外と呉もカツカツだったから
もう一戦やったるされると非常にまずかった
劉備ブチ切れで魏と和睦してでも殺すとか失言した話が耳に入った
一部部下名士層からいくらなんでもゲスい死ねとか言われて
空気がめっちゃ悪くなった
むしろ魏からあいつら卑怯卑劣な蛮族ですよとか言われて
名士の一部が噂流しまくった
どれか一つはかする位はするやろ
>>667
うーん
戦わずに勝ってるから一番上はなさそうだし
あるとしたら二番目かな
でも劉備が曹操につくのもどうなんだろ
何故か納得出来てしまった
劉備にビビって妹差し出したって話もあるし
劉備が公安に駐屯して焦ったんかな?
師還、遂征合肥。既徹兵、爲張遼等所襲、蒙與?統以死扞衞。
師団が帰って来たので遂に合肥を征伐した。既に撤兵したところを張遼らに襲われる所となり、呂蒙と凌統は死ぬ気で(孫権を)護衛した。
後、曹公又大出濡須。權以蒙爲督、據前所立塢、置彊弩萬張於其上、以拒曹公。曹公前鋒屯未就、蒙攻破之、曹公引退。拜蒙左護軍、虎威將軍。
後に曹操はまた大いに濡須に出征した。孫権は呂蒙を都督として前に立てた塢に拠らせ、強弩一万張をその上に張らせ、曹操を拒ませた。曹操の先鋒が駐屯しないうちに呂蒙は攻めてこれを破り、曹操は撤退した。呂蒙は左護軍、虎威将軍を拝命した。
魯肅卒、蒙西屯陸口。肅軍人馬萬餘、盡以屬蒙。又拜漢昌太守、食下雋、劉陽、漢昌、州陵。
魯粛が亡くなり、呂蒙は西に行き陸口に駐屯した。魯粛軍の人馬一万余りのことごとくが呂蒙に属した。また漢昌太守を拝命し、下雋、劉陽、漢昌、州陵を食邑とされた。
蜀からは裏切り4人衆の1人として罵詈雑言を受ける事になる
糜芳・士仁・潘濬をコイツを一緒にするってやっぱガバガバやわ
裏切り者にランクはつけられんかったんちゃうか(適当)
與關羽、分土接境。知羽驍雄有?兼心、且居國上流、其勢難久。
関羽と領土を接するようになった。関羽が強くて勇ましく、こちらを併合する心があると知っており、かつ国が上流にあったので、その形勢は久しくならないと思った。
初、魯肅等以爲、曹公尚存禍難始搆、宜相輔協、與之同仇、不可失也。
初めは魯粛らが曹操は尚も存在して、禍がもたらされ始めていたため、お互いに補佐し協力するのが良く、仇敵を同じくして、(互いを)失ってはならなかった。
蒙乃密陳計策曰「今、征虜守南郡。潘璋住白帝。?欽將游兵萬人、循江上下、應敵所在。
呂蒙が密かに計策を陳述して言った「今、征虜将軍(孫賁)に南郡(※)を守らせます。潘璋を白帝(※)に住まわせます。蒋欽に遊撃部隊一万を率いさせ長江の上下を巡回させ敵の所在に応じさせます。
※南郡も白帝もこの時は孫権の領地ではないがこう書かれている理由は『呉志』の制作経緯にある
陳寿が『呉志』を書く際に韋曜ら呉の人物が著した『呉書』を参考にしている
『呉書』は自国の人間を賛美し正当性を主張する内容が多く、文章も他の史書と反したものもかなり見て取れる
これも呂蒙の先見の明を示すために後から挿入した逸話のため、領地のことを間違ってしまったのであろう
蒙、爲國家、前據襄陽。如此、何憂於操、何賴於羽。
呂蒙は国家のために前線の襄陽に拠ります。こうすれば、どうして曹操を憂いて、どうして関羽を頼るのでしょう。
且、羽君臣、矜其詐力、所在反覆、不可以腹心待也。今羽所以未便東向者、以至尊聖明、蒙等尚存也。
かつ、関羽の君臣は詐術と武力を矜持とし、所々で裏切るので腹心の待遇をすべきではありません。今、関羽が東に向かう所とならないのは至尊(孫権)が聡明で、呂蒙らが存在するからです。
関羽ひどい言われようで草
今不於彊壯時圖之、一旦僵仆、欲復陳力、其可得邪」權深納其策。
今(自軍が)強壮な時にこれを計らず、一旦倒れれば、再び力を陳述しようにも、それを得られるでしょうか」孫権は深くその策に納得した。
又聊復與論取徐州意、蒙對曰「今操遠在河北、新破諸袁、撫集幽冀、未暇東顧。徐土守兵、聞不足言、往自可克。
またとりあえず徐州を取る意志について論じたが、呂蒙は答えて言った「今曹操は遠く河北にあり、新たに諸々の袁氏を破り、幽州、冀州を慰撫して、東を顧みる暇がありません。徐州の守備兵は不足しているとの言葉も聞こえますので自ら赴けば勝てるでしょう。
>>678
このタイミングで
袁氏が出て華北を慰撫してるからって言うのも変な感じやな
やっぱこの一連の発言は後付けっぽいのかね
呉志には後付けと思われる箇所が多々あるし
そうかもしれん
然、地勢陸通、驍騎所騁。至尊今日得徐州、操後旬必來爭、雖以七八萬人守之、猶當懷憂。
しかしながら、土地は陸路に通じ、強い騎馬の馳せる所です。至尊(孫権)が今日徐州を得ても、十日も後になれば曹操と必ず争うこととなり、七、八万の守備兵がいるといえども、なお憂いを抱くべきです。
不如、取羽、全據長江、形勢益張」權尤以此言爲當。
関羽を取り、長江を全うして形勢を益々盛んにすることには及びません」孫権はこの言を当たっていると思った。
及蒙代肅、初至陸口、外倍修恩厚、與羽結好。後、羽討樊、留兵將、備公安南郡。
呂蒙が魯粛の代わりになるのに及び、初めて陸口に到ると恩を厚く納めることを倍とし、関羽と友好を結んだ。後に関羽が樊城を討ち、将兵を留めて公安、南郡を守備させた。
蒙上疏曰「羽討樊而多留備兵、必恐蒙圖其後故也。蒙、常有病、乞分士衆還建業以治疾爲名。
呂蒙は上表して言った「関羽が樊城を討伐するというのに守備の兵を多く留めているのは、必ず呂蒙が後ろから計るのを恐れているからです。呂蒙には常に病があるので、病を治す名目で兵士を分けて建業に帰らせてください。
羽聞之、必撤備兵、盡赴襄陽。大軍浮江、晝夜馳上、襲其空?、則南郡可下、而羽可禽也」遂、稱病篤。
関羽がこれを聞けば必ず兵の備えを撤収させ、ことごとくを襄陽に赴かせるでしょう。大軍を長江に浮かべ、昼夜をかけて馳せて上り、その空虚を襲い、南郡を降せば、関羽を捕らえられるでしょう」遂に病が篤いと称した。
權、乃露檄召蒙還、陰與圖計。羽果信之、稍撤兵以赴樊。
孫権はこうして檄を露わにして呂蒙を呼んで返させ、密かに計を練った。関羽は果たしてこれを信じ、少しずつ兵を撤収して樊城に赴かせた。
魏使于禁、救樊。羽、盡禽禁等、人馬數萬、託以糧乏、擅取湘關米。權聞之、遂行、先遣蒙在前。
魏は于禁を遣わし、樊城を救わせた。関羽は于禁らのことごとくを捕らえ、人馬は数万となり、糧秣が欠乏したことに託けて湘関で米をほしいままに取った。孫権はこれを聞き、遂に行動を起こし、先に呂蒙を遣わして前軍とした。
>>700
ここで関羽から略奪を受けたと言ってるが
あくまでそれは呉の主張
問題となった湘関という地は
零陵桂陽の境にあり
関羽さんサイドからすると
問題ないという認識だったかもしれない
あるいは孫権が兵糧輸送に対して検問をかけ
それを強行突破したため「奪われた」と強弁した可能性もある
いずれにせよこれを大義名分の一つにした訳やから
額面通り信じられないな
正史は一つの国ばかり見ると正当性があるのかわからなくなるよな
全て調べてようやく正しいと思われるものが見つかる
ワイが自力で訳してわからないところは
ちくまと徳間で調べる形式でやってる
原文の種本は何
四庫全書くらいしか思い浮かばなかったけど
こんなサイトあったのかいいなあ
ひぇ~原文載ってるんか
ちょっとワイはこれ読めんなぁ
蒙至尋陽、盡伏其精兵□□中、使白衣搖櫓、作商賈人服、晝夜兼行。至羽所置江邊屯候、盡收縛之。是故、羽不聞知。
呂蒙は尋陽に至ると、精兵を□□(船の種類)の中にことごとく伏せ、白衣の人に櫓(船を動かすための道具)を漕がせ、商売人の服を着せて昼夜兼行した。関羽の設置した長江の辺の駐屯所に至ると、これを縛ってことごとくを接収した。これゆえ関羽は聞知しなかった。
□の部分エラーになるからとりあえずこうした
船の名前だけど気になったら自分で調べてクレメンス
蒼天のここのシーンめっちゃ好き
商人の腕ではない!て肩つかまれて
うぐぅ・・・てなる呂蒙可愛すぎる
遂到南郡、士仁、麋芳皆降。蒙、入據城、盡得羽及將士家屬、皆憮慰、約令軍中不得干?人家有所求取。
遂に南郡に至ると、士仁、麋芳は皆降伏した。呂蒙は入って城に拠ると、関羽の将士の家族のことごとくを得て、皆慰撫し、軍中に人の家のことに干渉したり(物を)取ろうとしてはならないと命令した。
和尚「将軍に斬られた関所守たちは誰を呪えばいいのか」
蒙麾下士、是汝南人、取民家一笠、以覆官鎧。官鎧雖公、蒙猶以爲、犯軍令、不可以?里故而廢法、遂垂涕斬之。
呂蒙麾下の兵士が、汝南の人であったが、民家から一つの笠を取り、官の鎧を覆った。官の鎧は公のものとはいえども、呂蒙はそれをしてなおも軍令を犯したとし、同郷だからと言って法を曲げてはならないと遂に涙を流しながら斬首した。
於是、軍中震慄、道不拾遺。
これにおいて、軍中は戦慄し、道に落ちているものを拾わなくなった。
蒙、旦暮使親近、存恤耆老、問所不足。疾病者給醫藥、飢寒者賜衣糧。羽府藏財寶、皆封閉、以待權至。
呂蒙は朝夕親近の者を使って老人を哀れみ、不足している所を問うた。病気の者には医薬を与え、飢えと寒さがある者には衣と糧秣を送った。関羽の府にしまってある財宝は皆封印し、孫権が来るのを待った。
兵の略奪禁止って
結局これのせいで
関羽の兵は戦えなくなったからね
羽還、在道路、數使人與蒙相聞。蒙輒厚遇其使、周游城中、家家致問、或手書示信。
関羽が帰還し、道半ばに居る時、度々人を遣わして連絡をさせた。呂蒙は常にその使者を厚遇し、城内を周らせ、家々に質問させ、或いは手紙で音信を示させた。
羽人還、私相參訊、咸知家門無恙、見待過於平時。故、羽吏士無?心。
関羽は使者が帰ると、個人的に参って(現状を)尋ね、皆家門がつつがなく、平時を過ぎた待遇に会っていることを知った。こうして関羽の吏士は闘争心が無くなった。
會權尋至、羽自知孤窮、乃走麥城、西至??、衆皆委羽而降。權、使朱然潘璋、斷其徑路。?父子?獲、荊州遂定。
孫権が尋ねて来るころ、関羽は孤立したことを知り、麦城に逃走して西に行き??に到ったが、兵士は皆関羽を棄てて降伏した。孫権は朱然、潘璋を遣わしてその退路を断たせた。すぐに関親子は共に捕らえられ、荊州は平定された。
以蒙爲南郡太守、封孱陵侯、賜錢一億、?金五百斤。蒙固辭金錢、權不許。
呂蒙を南郡太守とし、孱陵侯に封じ、銭一億、黄金五百斤を賜った。呂蒙は金銭を固辞したが、孫権は許さなかった。
封爵未下、會蒙疾發。權、時在公安、迎置?殿、所以治護者萬方、募封?有能愈蒙疾者賜千金。
爵位に封ぜられぬうちに、呂蒙に病気が発した。孫権はその時公安に居り、迎えて内殿に置き、病気を治す者をあらゆる方向に求め、封土内で呂蒙の病を治癒できる者を千金を賜ることで募集した。
時有鍼加、權爲之慘?。欲數見其顏色、又恐勞動、常穿壁瞻之。見小能下食則喜、顧左右言笑、不然則咄?、夜不能寐。
時に鍼を加えることがあり、孫権は惨たらしく思った。何度もその顔色を見ようとしたが、気苦労をさせることを恐れて、常に壁に穴をあけてこれを見た。少しでも食事が出来るのを見れば即ち喜び、従者を顧みて笑い、そうでなければ嘆いて、夜も眠れなかった。
大好きやな
ここだけ見ると
乙女孫権なんだよね
気を使わせないようにしたろ←わかる
壁に穴開けて覗いたろ←?
心労で死んでますね…間違いない
病中?、爲下赦令、羣臣畢賀。後更增篤、權自臨視、命道士於星辰下爲之請命。
病が癒えると、大赦の令を下し、群臣がことごとく慶賀した。後に(病が)さらに篤くなると、孫権は自ら臨み見て、道士に星の下で命を請うこと命じた。
年四十二、遂卒於?殿。時權哀痛甚、爲之降損。
年四十二にして遂に内殿において亡くなった。その時孫権は哀痛はなはだしく、(寝台から?)降りることを損なった。
物凄い寵愛っぷりやな
孫権からしたらぺーぺー時代からの付き合いで
共に呉と自分達も大きくしていった同志って想いが強かったんやろうな
周瑜や魯粛の時ですら
これほどの様子は見せなかったからね
かなり愛してたんだと思う
蒙未死時、所得金寶諸賜、盡付府藏。敕主者、命?之日、皆上還、喪事務約。權聞之、益以悲感。
呂蒙は死ぬ前に、金、宝物、諸々の賜り物の得た所を、ことごとく府の蔵に入れた。主だった者に命じて、絶命した日には皆返上し、喪は事務的にするよう約束させた。孫権はこれを聞いて益々悲哀にくれた。
蒙、少不脩書傳、?陳大事、常口占爲牋疏。
呂蒙は幼い時、書と伝を修めず、大事を述べる度に、常に口頭で上奏文としていた。
未練あってもいらん演出や
しかもあれ普浄に説法されて悟り開いてから
呪い殺してるんだよなぁ
成仏とはいったい
>>751
しかし結果だけ見れば
関羽は裏切りの末に無念過ぎる死を遂げた訳で
伍子胥や屈原、あるいは菅原道真や崇徳院のような
祟り神として後世から畏れられるには十分だった
だからまぁ演義のアレも納得できる
むしろ祟り神で終わらず
その後も超神格化されまくるのが関羽の凄いところ
ちょっと関羽の人品を疑う改悪なんだよなぁ
新参にきびcし
常以部曲事、爲江夏太守蔡遺所白、蒙無恨意。及豫章太守顧邵卒、權問所用。
部曲の時のことを常に江夏太守蔡遺に明らかにされていたが呂蒙は恨みに思わなかった。豫章太守顧邵が亡くなるに及んで孫権が用いる人材を問うた。
蒙、因薦遺、奉職佳吏。權笑曰「君、欲爲祁奚耶?」於是用之。
呂蒙は蔡遺を勧め、職を奉るすぐれてよい吏だと言った。孫権は笑って言った「君は爲祁(※)になりたいのか?」こうして用いられた。
甘寧、?暴好殺、既常失蒙意、又時違權令、權怒之。
甘寧は粗暴で殺人を好み、常に呂蒙の意にそぐわず、また時に孫権の命令にも違え、孫権はこれに怒った。
キングダムの桓騎みてえなやつだなお前な
漫画の盛られたキャラと比べられるのはやばないか
史書の甘寧も大概でしょ
蒙、輒陳請「天下未定。?將如寧、難得。宜容忍之」權遂厚寧、卒得其用。
呂蒙はその度許しを陳情し「天下は定まっておりません。甘寧のような闘将は得難いものです。堪忍されるのがよろしいでしょう」孫権は遂に甘寧を厚遇し、遂に用いることを得た。
蒙子霸、襲爵、與守冢三百家、復田五十頃。霸卒、兄琮襲侯。琮卒、弟睦嗣。
呂蒙の子呂覇が爵位を継ぎ、守家三百家とまた田五十頃が与えられた。呂覇が亡くなると、兄の呂琮が侯を継いだ。呂琮が亡くなると、弟の呂睦が継いだ。
呂蒙の孫子達の名前全然ピンとこんな
と思ったが、考えてみれば孫権が自ら抜擢した将の殆どが一代限りなんだよね
もともとの地盤が無い人間は呉ではやはり厳しいって証左でもある
孫權與陸遜、論周瑜魯肅及蒙曰「(※中略)又子明少時、孤謂、不辭劇易、果敢有膽而已。
孫権が陸遜と周瑜、魯粛及び呂蒙を論じて言った「(※中略)また子明(呂蒙)が若い頃、私は軽重を辞さないで、果敢にして胆力があるだけだと思っていた。
及身長大、學問開益、籌略奇至、可以次於公瑾。但言議英發、不及之耳。圖取關羽、勝於子敬。(※中略)」
身体が大きくなると、学問をして益となし、策略は素晴らしくなり、公瑾(周瑜)に次ぐべきものとなった。ただし、言論の英明さを発揮するにおいて及ばないだけである。関羽を取るのを謀り、子敬(魯粛)には勝っている。(※中略)」
陳寿の評
呂蒙、勇而有謀斷、識軍計、譎?普、禽關羽、最其妙者。
呂蒙は勇猛にして謀を断じることが出来、軍計を知り、?普を欺き関羽を捕らえたのは最も妙味なるものである。
謀断の断は名詞用法で決断力の事じゃないですかね
そうなんか?
補足ありがとやで
今ちくま見たら「ちゃんとした策略を立てることができ」で、
徳間見たら「作戦の決断力に富み」になってた
参考にしてクレメンス
初雖輕果妄殺、終於克己、有國士之量、豈徒武將而已乎。
初めは軽々しくみだりに人を殺したといえども、しまいには己に克ち、国士の力量を有し、どうして徒に武将であるだけといえようか。
おまけ曹昂伝
豐愍王昂、字子脩、弱冠舉孝廉。隨太祖南征、爲張?所害、無子。
豊愍王曹昂は、字を子脩といい、弱冠(20歳)にして孝廉に挙げられた。太祖の南征に随行し、張繍に害され、子はなかった。
?初二年追封、諡曰豐悼公。三年、以樊安公均子?、奉昂後、封中都公。其年徙封長子公。
黄初二年(221年)追諡され、諡を豊悼公といった。黄初三年(222年)、樊安公曹均の子の曹?を、曹昂の後継に奉じ、中都公に封じた。その年長子公に国替えとなった。
五年追加昂號、曰豐悼王。太和三年改昂諡、曰愍王。嘉平六年、以?襲昂爵、爲豐王。
黄初五年(224年)曹昂は号を追加され、豊悼王といった。太和三年(229年)曹昂は諡を改められ、愍王といった。嘉平六年(254年)、曹?に曹昂の爵位を継がせ、豊王とした。
正元景元中、累增邑、?前二千七百?。?薨、諡曰恭王。子廉嗣。
正元景元(256-264年)中に、何度も邑を増やされ、前と併せて二千七百戸となった。曹?は亡くなり、諡を恭王といった。子の曹廉が継いだ。
今日も乙やで~
お気に入りは呂蒙かな
実力的には陸遜か周瑜やと思うけど
お気に入りは死ぬ直前の扱いから見ても呂蒙やね
正史はそんなもん
典韋「ん?」
見てくれた人サンガツ
ほな、また
おつやでー