周瑜伝いくで
ニュース
ネタバレになるからいわんけど
正史ではどうなるか楽しみにしててや
周瑜、字公瑾、廬江舒人也。從祖父景、景子忠、皆爲漢太尉。父異、洛陽令。
周瑜は、字を公瑾といい、廬江郡舒県の人である。祖父周景、周景の子周忠は、皆漢の太尉であった。父周異は、洛陽の令であった。
ほんと、四姓とは格の違う名家よなぁ
経歴から本当に完ぺき
周瑜って漫画の主人公みたいな人物や
曹真さんも憤死やったっけ?
だけど、曹真さんは体形からして確かに憤死しそうなんよなぁ
王朗とかはもはやギャグ
瑜、長壯有姿貌。初、孫堅興義兵討董卓、徙家於舒。堅子策、與瑜同年、獨相友善。
瑜、成年になると容貌が立派になった。当初、孫堅は義兵を起こして董卓を討伐すると、家を舒に移した。孫堅の子孫策は、周瑜と同い年で、特に親友となった。
>>614
イケメン・名家・親孝行・親友は麒麟児・戦上手・楽器できる
なにこのチート
なお寿命
きっと演義でも活躍してるんやろな(遠い目)
瑜、推道南大宅、以舍策、升堂拜母、有無通共。
周瑜は、道の南の大邸宅を渡し、孫策の宿舎とし、堂に上って(孫策の)母に拝礼し、無い物は融通して共有した。
瑜從父尚、爲丹楊太守、瑜往省之。會策將東渡、到?陽、馳書報瑜。瑜、將兵迎策。策大喜曰「吾得卿、諧也」
周瑜の従父周尚が、丹楊太守となると、周瑜は訪ねに行った。折しも孫策は東に渡ろうとしており、歴陽に到ると、書を馳せて周瑜に報せた。周瑜は、兵を率いて孫策を迎えた。孫策は大いに喜んで言った「私は卿を得たので、上手くいこう」
遂、從攻橫江當利、皆拔之。乃渡?秣陵、破?融、薛禮。轉下湖孰、江乘、進入曲阿。劉?、奔走。而策之衆已數萬矣。
かくして、横江、当利を攻めるのに従い、皆これを抜いた。かくして秣陵に渡って攻撃し、?融、薛礼を破った。湖孰、江乗まで転じて下り、曲阿に進入した。劉?は、逃走した。孫策の衆はすでに数万となっていた。
ヤダー外道坊主の?融さんじゃないですかヤダー
仏教界には貢献したらしいからセーフ
おk
因謂瑜曰「吾以此衆、取?會、平山越已足。卿、還鎭丹楊」瑜還。
このため周瑜に言った「私はこの衆がいれば、呉会を取り、山越を平定するには十分だ。卿は、丹楊に帰って鎮めてくれ」周瑜は帰った。
頃之、袁術遣、從弟胤、代尚爲太守。而瑜與尚?還壽春。
この頃、袁術は、従弟袁胤を遣わし、周尚と交代させて太守とした。周瑜と周尚は共に寿春に帰った。
嫡出子やし
きっとこれからの袁家を引っ張っていくんやろなぁ
なお袁術旗下には一人も名士はいない模様
袁術嫌われすぎ
術欲以瑜爲將、瑜觀術終無所成、故求爲居?長、欲假塗東歸。術聽之。遂自居?、還?。是?、建安三年也。
袁術は周瑜を将にしようとしたが、周瑜は袁術が終いには何も成せないと見て、故に居巣の長になることを求め、その道から東に帰ろうとした。袁術はこれを聞き入れた。遂に居巣から、呉に帰った。この年は、建安三年(198年)であった。
ちょっと頭と人望と能力が足りないだけで
ボロクソ書かれてて可哀想
なにがあるんですかね…
玉璽やろ
他力どころか無機物ですね…
策親自迎瑜、授建威中郎將、?與兵二千人、騎五十匹。瑜、時年二十四、?中皆呼爲周郎。
孫策は自ら周瑜を迎え、建威中郎将を授け、即座に兵二千人、騎馬五十匹を与えた。周瑜は、この時年が二十四で、呉の中の皆は周郎と呼んだ。
自身の権力基盤固めの一環かな
なるほど
この頃孫策の配下ではトップの人やからな
そのぶん孫権政権では邪魔だったんだよなぁ
きっと
そういう考え方もありか
孫権にしてみれば影響力が強すぎるからな
だから曹操の降伏勧告会議にも
魯粛が任地から引っ張り出してきたわけで
その話注釈にあったな
お前の手柄じゃないやろ
みたいな批判と共に
以瑜恩信著於廬江、出備牛渚、後領春穀長。頃之、策欲取荊州、以瑜爲中護軍、領江夏太守。從攻皖、拔之。
周瑜の恩愛と信頼が廬江で著しいことから、牛渚の守備に出され、後に春穀の長となった。この頃、孫策は荊州を取ろうとし、周瑜を中護軍、江夏太守とした。皖を攻めるのに従い、これを抜いた。
時、得橋公兩女、皆國色也。策自納大橋、瑜納小橋。
この時、橋公の二人の娘を得て、皆傾国の色気あった。孫策は自ら大橋を娶り、周瑜は小橋を娶った。
これサックは強引に妻にしてるけど
イケメンはちゃんと手順踏んでるんだよな
やっぱ孫家ってDQNだわ
孫権「じゃけん、後継者ちゃんと育てましょうねぇ~」
復進尋陽、破劉勳、討江夏、還定豫章、廬陵、留鎭巴丘。
また尋陽に進み、劉勲を破り、江夏を討ち、(軍を)返して豫章、廬陵を定め、巴丘に留まった。
五年、策薨、權統事。瑜、將兵赴喪、遂留?。以中護軍、與長史張昭、共掌衆事。
五年(200年)、孫策が死に、孫権が事を統べた。周瑜は、兵を率いて喪に赴き、呉に留まった。中護軍として、長史張昭と、共に多くの事を掌握した。
十一年。督孫瑜等、討麻保二屯、梟其渠帥、囚俘萬餘口、還備官亭。
十一年(206年)。孫瑜らを督し、麻、保二つの屯を討ち、首領を晒し首とし、一万余人を虜囚とし、帰って官亭を守備した。
もう(あと2年しか)ないじゃん…
どこもベンチャーっぽいけどな
なお喧嘩
過小評価されるけど張昭伝読むに
孫権にすら意見出来る重鎮って感じやったな
江夏太守?祖、遣將鄧龍、將兵數千人、入柴桑。瑜、追討?、生虜龍、送?。
江夏太守黄祖は、将鄧龍を遣わし、兵数千人を率いさせ、柴桑に入らせた。周瑜は、追討して攻撃し、鄧龍を生け捕り、呉に送った。
喪に服してたとか?
地盤固めるのと荊州に侵攻してるってのがある
十三年春、權討江夏、瑜爲前部大督。
十三年(208年)春、孫権は江夏を討ち、周瑜は前部大督となった。
其年九月、曹公入荊州、劉琮舉衆降。曹公得其水軍、船?兵數十萬。將士聞之、皆恐。
その年の九月、曹公が荊州に入ると、劉琮は衆を挙げて降伏した。曹公はその水軍を得、船団歩兵は数十万となった。将士はこれを聞くと、皆恐れた。
權延見羣下、問以計策。議者咸曰「曹公豺虎也、然託名漢相、挾天子、以征四方。動以朝廷爲辭、今日拒之、事更不順。
孫権は群臣を会させると、計策を問うた。議者は皆言った「曹公は豺虎ですが、名は漢の相で、天子を差し挟み、四方を征伐しております。行動は朝廷の言葉を理由としているので、今日これを拒めば、事は更に順じなくなります。
よく見てないけど
その地図も変やとは思わへんけどな
レスバは演義や
且、將軍大勢可以拒操者、長江也。今操得荊州、奄有其地。劉表治水軍、蒙衝、?艦、乃以千數。
さらに、将軍が大勢として操を拒んでいるのは、長江です。今曹操は荊州を得て、その地におります。劉表は水軍を治め、蒙衝、闘艦は、千の数もありました。
操悉浮以沿江、兼有?兵、水陸?下、此、爲長江之險已與我共之矣。而勢力衆寡、又不可論。愚謂、大計不如迎之」
曹操はそのことごとくを浮かべて長江に沿い、さらに歩兵を、水陸両方から下らせており、これは、長江の険をすでに我らと共有していることに他なりません。勢力の多寡は、論じるまでもありません。愚見では、大計として彼らを迎えた方がよろしいでしょう」
しかも朝廷のお墨付きの状態で
戦おうなんて思わないんだよなぁ
まさにそうやな
周瑜と魯粛が優れてたって断言できるのは
開戦を進言してさらに勝ったって結果があるからや
瑜曰「不然。操、雖託名漢相、其實漢賊也。將軍、以神武雄才、兼仗父兄之烈、割據江東、地方數千里。
周瑜は言った「それは違います。曹操は、名は漢の相ですが、その実は漢の賊です。将軍は、神武雄才をもって、さらに父兄の功烈により、江東に割拠し、土地は数千里もございます。
兵精足用、英雄樂業、尚當橫行天下、爲漢家除殘去穢。況、操自送死、而可迎之邪。
兵は精鋭で用いるに足り、英雄は業を楽しんでいるので、天下に横行し、漢家のために穢れを除去せねばなりません。ましてや、曹操は自らを死地に送っているのに、迎えるべきでしょうか。
請、爲將軍籌之。今使、北土已安、操無?憂、能曠日持久來爭疆?、又能與我校勝負於船楫可乎。
将軍のために謀らせてください。今、北土がすでに安んじられ、曹操に内の憂いがなく、長期の持久によって国境で争えるとして、また我らと船や楫で勝負出来ましょうか。
今、北土既未平安、加馬超韓遂尚在關西、爲操後患。且、舍鞍馬仗舟楫與?越爭衡、本非中國所長。
今、北土は安んじられておらず、加えて馬超、韓遂がなおも関西におり、操の後患となっております。さらに、鞍や馬を棄て舟や楫で呉越と争うのは、元より中国の長ずることではございません。
曹操の不利を強調するときに出てくる西涼軍閥すこ
馬超と韓遂が活躍していたと聞いてビックリ(白目
(函谷)関の西って意味や
まあ知ってるんやろうけどな
>>703
ホモ力とかいう謎ワード
何の数値やねん
涼州は実際曹操の後患やったから
そういわれるのはしゃーない
やっぱり韓遂は梟雄
演義だと
馬父子と韓遂は忠臣みたいに書かれてるけど
正史やとね…
韓遂さんの
最初はいやいや反乱の統領やってたけど
どんどん楽しくなってきてノリノリな感ほんとすこ
ノリノリか~
まあ言われてみればそうかもしれん
又、今盛寒馬無藁草、驅中國士衆、遠?江湖之閒、不習水土、必生疾病。此數四者、用兵之患也、而操皆冒行之。
また、今は厳寒で馬に藁や草がなく、中国の衆を駆り立て、遠く江湖の間を渡っているので、水土に慣れず、必ず疫病を生じさせましょう。この四つは、用兵の憂患で、しかも曹操は皆これを冒しております。
將軍禽操、宜在今日。瑜請、得精兵三萬人、進住夏口、保爲將軍破之」
将軍が曹操を捕らえるのは、今日にあります。周瑜に、精鋭三万人をお貸しいただければ、夏口に進んで駐屯し、将軍のためにこれを破ることを保証しましょう」
權曰「老賊、欲廢漢自立久矣。徒忌二袁呂布劉表與孤耳。今數雄已滅、惟孤尚存。
孫権は言った「老賊は、漢を廃し自らを立てようとして久しかった。ただ忌むのは二袁、呂布、劉表と孤だけであった。今数々の雄はすでに滅び、孤だけがなおも生存している。
孤與老賊、勢不兩立。君言當?、甚與孤合。此、天以君授孤也。」
孤と老賊は、勢力として両立しない。君のまさに撃つべしの言は、甚だ孤と合致している。これは、天が君を孤に授けたのであろう。」
時劉備、爲曹公所破、欲引南渡江、與魯肅遇於當陽、遂共圖計。因進住夏口、遣諸葛亮詣權。
この時劉備は、曹公に破られ、南に退いて長江を渡ろうとしたが、魯粛と当陽で遇い、共に計を図った。このため夏口に進んで留まり、諸葛亮を遣わし孫権に会わせた。
權遂遣瑜及程普等、與備?力逆曹公、遇於赤壁。時曹公軍、衆已有疾病、初一交戰、公軍敗退、引次江北。
孫権はそこで周瑜及び程普らを遣わし、劉備と力を合わさせて曹公を迎え撃たせ、赤壁で遭遇した。この時曹公の軍は、衆がすでに病となっており、最初の交戦で、曹公軍は敗退し、退いて江北に留まった。
瑜等在南岸、瑜部將?蓋曰「今、寇衆我寡、難與持久。然、觀操軍船艦首尾相接、可燒而走也」
周瑜らは南岸におり、周瑜の部将黄蓋が言った「今、賊は多く我らは少なく、久しくは持ち難いでしょう。しかし、見るに曹操軍の船艦は首尾を連ねているので、焼けば敗走しましょう」
それは創作や
Σ( ̄□ ̄;)鳳雛さんの見せ場が・・・
>>725
正史やと
なんでこれほど評価されてるのか
わからないくらい事績が少ない人
読んでみるとわかるけど
なんで法正と並べられてるんか
って疑問になる
むしろ法正が過小評価すぎる
ホウ統は名士やし、名声も十分やったし(震え声)
それはわかるんだけど
法正と同じ巻に来るかと気になるんや
さらに法正より前だし
火計は周瑜の策でも諸葛亮の策でもなくて黄蓋の策なんや
ここ注目してほしいで
そのおかげでパッとしない黄蓋さんも
演義やら無双やらで優遇されてるんやな
乃取蒙衝?艦數十艘、實以薪草、膏油灌其中、裹以帷幕、上建牙旗。
かくして蒙衝闘艦数十艘を用意し、中に薪や草を入れ、膏油をその中に注ぎ、帷幕で覆い、上に牙旗を立てた。
先書報曹公、欺以欲降。又豫備走舸、各?大船後、因引、次?前。
先に書で曹公に報せ、降伏を求めると欺いた。またあらかじめ走舸を準備し、各々大船の後ろに繋ぎ、次々と共に前進させた。
なお正史では普通に朝廷で出世してた模様
曹公軍吏士皆延頸觀望、指言、蓋降。蓋、放諸船、同時發火。時風盛猛、悉延燒岸上營落。
曹公軍の吏士は皆首を伸ばして望み見、指差して黄蓋が降伏すると言った。黄蓋は、諸船を放ち、同時に火を放った。この時風は強く盛んで、ことごとく岸上の陣営に延焼した。
頃之、煙炎張天、人馬燒溺死者甚衆、軍遂敗退、還保南郡。備與瑜等復共追。曹公留曹仁等守江陵城、徑自北歸。
この頃、煙と炎が天に漲り、人馬は焼け溺れて死んだ者は甚だ多く、軍は敗退し、帰って南郡を保った。劉備と周瑜らはまた共に追った。曹公は曹仁らを留めて江陵城を守らせ、自らは真っ直ぐと北に帰った。
こっからの曹仁VS周瑜もアツイよな、なぁ!
ここらへん呂蒙、甘寧、凌統など
多くの呉の英雄が戦うからさらに熱い
瑜與程普、又進南郡、與仁相對、各隔大江。兵未交鋒、瑜?遣甘寧、前、據夷陵。
周瑜と程普は、また南郡に進み、曹仁と相対し、各々大江を隔てた。兵がいまだ鋒先を交えぬうちに、周瑜はただちに甘寧を遣わし、前進させ、夷陵に拠らせた。
仁、分兵騎、別攻、圍寧。寧、告急於瑜。瑜、用呂蒙計、留?統以守其後、身與蒙、上救寧。
曹仁は、歩兵、騎兵を分け、別に攻撃させ、甘寧を囲んだ。甘寧は、急を周瑜に告げた。周瑜は、呂蒙の計(※)を用い、凌統を留めてその後ろを守らせ、自らは呂蒙と、遡上して甘寧を救った。
寧圍既解、乃渡屯北岸、克期大戰。瑜、親跨馬擽陳、會流矢中右脅、瘡甚、便還。
甘寧の包囲が解かれ、かくして(長江を)渡って北岸に駐屯し、期を決めて大いに戦った。周瑜は、自ら馬に跨って陣を攻め、たまたま流れ矢が右脇に当たり、傷は甚だしく、ただちに帰った。
なんでか陰謀感じちゃう
周瑜を殺してメリットがある奴っているかね?
程普が暗殺しようとした説とか面白いけど
後、仁聞瑜臥未起、勒兵、就陳。瑜、乃自興、案行軍營、激揚吏士。仁、由是遂退。
後に、曹仁は周瑜が臥していまだ起きぬと聞くと、兵を率い、陣に迫った。周瑜は、かくして起き上がり、軍営を巡行し、吏士を激励した。曹仁は、このため退いた。
それほど目まぐるしく状況が変わったんやろ
權、拜瑜偏將軍、領南郡太守。以、下雋、漢昌、劉陽、州陵、爲奉邑屯據江陵。劉備、以左將軍領荊州牧、治公安。
孫権は、周瑜を偏将軍、南郡太守とした。下雋、漢昌、劉陽、州陵を、奉邑とさせ江陵に駐屯させた。
劉備を留めて美人や玩具で楽しませ、関羽や張飛を離れて配置させ、土地を分け与えないよう進言
孫権は曹操に対抗するため、また劉備は留め置けないと考えたため、周瑜の進言を聞き入れず
周瑜は蜀を奪い、張魯を併呑し、馬超と結び、北を図るのがよいと献策
孫権はそれを許す
これが天下二分の計だな
そうやで
今回略しちゃったけど
瑜還江陵、爲行裝、而道於巴丘、病卒、時年三十六。
周瑜は江陵に帰り、行軍の準備をしようとしたが、道中巴丘において、病死し、この時年は三十六であった。
正史はそんなもんや
權素服舉哀、感動左右。喪當還?、又迎之蕪湖。衆事費度、一爲供給。
孫権が喪服で哀悼を挙げると、周りは感動した。遺体が呉に帰ると、蕪湖で迎えた。諸事の費用の、一切を供給した。
孫権の周瑜を弔う態度に心打たれたんやない?
多く取ってた方が有利だな
やっぱ軍師が多い袁紹って有能だわ
軍師が多い
(袁紹が使いこなせるとは言ってない)
どうなんだろうね
実際この記載からでは
何の病気か判別できんけど
後著令曰「故將軍周瑜、程普。其有人客、皆不得問」
後に布令を著した「故の将軍周瑜、程普。その人客(非公認の奴隷)については、皆問うてはならない」
これよくわからないけど
将軍が死んだら普通
人客は全部コロしてたんかな?
非公認の人員だから違法やけど
功績に免じて黙ってやるんやでの精神(適当)
初、瑜見友於策、太妃又使權以兄奉之。是時權位爲將軍、諸將賓客、爲禮尚簡。而瑜、獨先盡敬便執臣節。
当初、周瑜は孫策に友として見なされ、太妃もまた孫権に命じ彼を兄のように仕えさせた。この時孫権の位は将軍で、諸将や賓客の、礼は簡素であった。周瑜は、独り先に敬意を尽くしただちに臣の礼節を行った。
袁紹はカクトだというのに
カクカでもカクでもなくカクトなんだよな
この二人は袁紹を見限ったからいても変わらんか
軍師が多い(使いこなせるとはいってない)
軍師が多い(皆急に死なないとはいってない)
性度恢廓、大率爲得人、惟與程普不睦。
度量は広く、大いに人心を得たが、ただ程普とだけは不仲であった。
瑜少精意於音樂、雖三爵之後、其有闕誤、瑜必知之、知之必顧、故時人謠曰「曲有誤、周郎顧。」
周瑜は若くして音楽に精通し、三度酒を飲んだ後でも、弾けなかったり誤ったりすれば、周瑜は必ずそれをわかり、わかれば必ず顧み、ゆえに時の人は謡った「曲に誤りがあれば、周郎が顧みる。」
評曰。曹公乘漢相之資、挾天子而掃羣桀、新盪荊城、仗威東夏。于時議者、莫不疑貳。周瑜、魯肅、建獨斷之明、出衆人之表、實奇才也。
評に曰く。曹公は漢の丞相の地位を使い、天子を差し挟んで群雄を掃討し、新たに荊城を平らげ、威を東夏(呉)に向けた。この時の議論した者は、疑いを重ねた。周瑜、魯粛は、独断の明察を行い、衆人を抜きん出て、実に奇才である。
やっぱ正史だと魯粛の評価高いな
演義やと伝書鳩みたいやけど
正史やと当世の英傑やとワイは考えてる
っていう評価していた人がいたんやが
どう思う?
荊州問題からか?
ワイ的には蜀と和さなければ曹操は防げなかったと思うから
魯粛の考えや誤りやないと思うで
ワイが蜀贔屓だから
こういった考えになってしまうのかもしれんが
今日はここまでだから
お付き合いしてくれた人サンガツ
乙やで
こちらこそ乙やで