「命」の危機 世界で表面化 読売新聞
乾ききった地面の上に、場違いな木造の桟橋がぽつんと取り残されていた。米南西部のネバダ、アリゾナ両州にまたがるミード湖。船着き場ははるか400メートル先だ。異様な光景が目に焼き付いた。
「つい6年前まで、この桟橋の近くで本当に釣りができたんだ。信じられないだろうがね」。60キロ先のラスベガスに水を送る「南ネバダ水組合」職員、ジェイシー・デイビスさん(42)が真顔で言った。
ミード湖は1935年にコロラド川をせき止め、フーバーダムを建設した時にできた米国最大の人工湖。2000年以降、水源のロッキー山脈の雪解け水が年々減少、水量が豊かだった83年のピーク時と比べ、水位は29メートルも下がった。
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中国の内モンゴル東部にある西湖では、かつての湖底で枯れたヒマワリが揺れていた。養殖のコイがおいしいと評判だった外周約50キロの湖は、干ばつで01年に干上がった。「昔はにぎやかでよかった。今は水がないのに湖の管理ですよ。悲しいことです」と西湖管理所の李世民主任は声を落とす。
管理所で働く100人の最近の仕事は、湖底でのトウモロコシの栽培と植林。04年に干上がった山西省の文瀛(ぶんえい)湖にも今はトウモロコシ畑が広がる。
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氷河と雪の減少が進むアフリカ最高峰キリマンジャロ(タンザニア)。昨年11月、本社チャーター機から見ると、山頂のあちこちで山肌が露出し、気候変動の影響をうかがわせた。
昨年、記録的豪雨による洪水に見舞われたウガンダ東部の国内避難民キャンプでは、ドイツの緊急援助隊が作った井戸に人々が列を作っていた。井戸が壊れ、水不足に陥った被災者の一人はこうつぶやいた。
「水がなければ食事も作れない。水は命だ」
ニュース
織田さんが息子に信長ってつけちゃうようなもんだな。
本人大迷惑w
水がないのに湖の管理って思いっきり閑職だし。
荒れ果てた長安を再建する上に防衛線を維持するコスト考えたら、敢えて放棄したのは失策とは言い切れない。
唐だって隋末の混乱で長安が荒れ果ててたら都を置いたかどうか。
唐こそ長安じゃなく、洛陽に都したほうがよかったのじゃないかと…
隋末は河南が一番荒れてたから、長安をまず手中にしたとはいえ。
突厥対策もあるからねぇ
李世民と信玄は結構似てるような気がする
親父を蹴落としたのみならず息子に背かれてる所も似てるな。
李承乾は玄武門の変を再現しようとしていたのだろう。
後を継いだ息子が国を傾かせたのも
でも嫁さんしっかりしてたから、その辺から違ってくる。
親父幽閉しちゃったところとか、そういうところ?
親子関係とか
皇后に立てられた頃からか、高宗の死後か、それとも李世民に見初められた頃には既に持っていたのか。
この人が天下とってもそれなりに安定した国になってたと思う。
晩年猜疑心が強く成って自滅した人が?
ないない。
太宗も晩年は微妙じゃねぇ?
ものすごい自信家で漫画のキャラみたいなやつだったのかな
ちょっと小物らしいところがある
太宗は名君だけど、その末端に小物さを感じるのは粉飾のせいだと思う
「俺兄貴殺したよ、それがどうしたの?」って感じで開き直ればよかった。
下手に自分を正当化しようとするから小物っぽくなってしまう。
逆に開き直ったほうが大物ぽいよね
兄弟殺しましけど、それがなにか? みたいに
晩年はちょっと落ちてきてるよな。
麒麟も老いれば駑馬にも劣るってね。
なんといっても、李世民の輝いていたのは、秦王から天策上将軍だった頃だな。
光武帝も晩年は讒言をろくに裏も取らずに信じるようになってるし
宋祖の前歯バスターや買収で揉み消しをやらかしてる
唐宗の史書改竄とか太子問題とか洪武帝の陵遅三千刀滅九族ほどじゃないけど
親殺し、兄弟殺し、主筋殺しは儒教的に汚点なんだろうが俺的には減点要素ではないが、それでも永楽帝の粛清は汚過ぎで引く
燕賊簒位言われてムカツクのは分かるがやりすぎ
ふつーにグロだろ
建文帝の甘さに比べて永楽帝の残虐さが際立つ
そしてその弟が即位すると途端にコロッと死んじゃうんだよな
妙なタイミングの良さで
>>408
光武の血は短命がやたら多いから怪しいというほどでもないけどな。
光武の父は早死にしているし、光武の近い親戚の劉嘉の父も早死にだったし。
明帝自身も50前に死んでるし。
血筋や生まれ順関係なく割と均等に早死に、長生き(とはいってもせいぜい60前後)というのが分布してる。
郭后の子の劉輔と、明帝の同母弟の劉蒼は名声高く長生き。
光武の子で長生きしたのはこの二人くらい。
むしろ、太宗が劉蒼になる目はなかったのかという。
建成が譲るべき理由がどこにもないんだが
皇太子としての地位が不動のものだったとは
残念ながら言いがたい。
>>410
その通り。そして建成は軍功によっても父帝より皇太子として重用されている。
父親は、皇太子の地位が不動のものではないとしつつ、世民の軍功を、兄弟順を覆すほどのものだとは認めていなかったわけだ。
だからこそ世民は、帝位についてから、兄の軍功の抹消を計った。
功績の無い兄よりも、功績を建てた弟の方が帝位にふさわしい、と後世の人間を騙すために。
ならば、抹消されたとされる、具体的な功績はなんだったろうか。
その考証は?
洛陽に李世民を置き、東西に分けようとした意図はなんだったろうか。
長男で皇太子で、その存在が不可欠なのは周知のこととして、李世民がなしたのは、兄の「軍事的功績の抹消」ではなかったと思うけど。
有名な長安一番ノリとかでしょ?>世民に抹消された建成の功績
正しくは抹消っていうより情報操作だが
603年 世民の諱
615年 煬帝救出
617年 太原起義
626年 玄武門の変、突厥の侵攻
629年 突厥討伐
630年 頡利可汗を捕虜にする。天可汗に推戴
640年 高昌国を滅ぼす
643年 凌煙閣二十四功臣、李承乾の乱、侯君集処刑
644年 第一次高句麗遠征
645年 第二次高句麗遠征、玄奘三蔵の帰国
646年 張亮処刑
649年 崩御
若くして天下を取ってるから寿命を縮めたんだろうか?
ストレスもあるだろうね。兄殺しの不名誉を払拭するために必死で名君として振舞わねばならないし、晩年は息子達が昔の自分達同じように兄弟で争い始めるし。
何の努力もしてないのに玉座が天からふってきたようなものだ
父親が太宗李世民、妻が則天武后だなんてかなり恵まれてるよ
もっとも、父親や妻が李治をどう思っているかは不明だが
李泰を跡継ぎにしたら玄武門の変の二の舞だし、李治を選ばざるを得ない。
李世民としても李治なら兄弟を殺したりしないと判断したんだろう。
色々なエピソードがあるし。
その罪のない息子たちまでも処刑したのはひどいよね。
あと親父の李淵は死ぬまで幽閉状態だった。
南北朝以来の身内に対する残虐な血が流れているからな
唐代の史家には同情するぜ
むしろ息子の教育に失敗したのが痛い。
善政を施せば兄弟殺しを差し引いても名君と評価されたろうに。
建成の側近で、世民を殺すべきと度々進言していた魏徴が、玄武門の後、世民の前に引き出されてその件について詰問された時、皇太子が自分の進言を聞き入れていればこんなことにはならなかったって言ってるじゃないか。
つまり、建成は世民を殺す気はなかったわけだ。
被害妄想による過剰防衛だな。
すぐには殺されなくとも
天策上将としての王府を解体されるくらいはなったろうな
部下たちの人事を見直され、それに反発したというのもある
力を殺いでおいて、激発したら叛乱の名目で討伐。
よくある話じゃないか。
李世民の場合、そこまで見通せたから先手を打てたのだろう。
>>538
疑心暗鬼もいい所だな。
そもそも天策上将なんて称号を受けた時点で駄目だろ。
身を全うしたいならそんなものは断るのが常識。
ついでに張良や鄧禹のように自ら要職から身を引くくらいのことをせんとな。
そんな気は更々なく
それどころか兄と皇位を争う気満々な姿勢を見せつけておいて
挙句の果てに側近に世民を殺せと度々言われていたのに
却下していた兄を騙し討ち。
これが正当防衛なら反乱やりたい放題だ罠w
>>541
>>これが正当防衛なら反乱やりたい放題だ罠w
叛乱の大義名分は基本、正当防衛論と君側の奸を除く、に集約されるよ。
ようは、その行為をどのような成果に結びつけたかで評価が変わる。
「叔父殺しの汚名は着たくない」なんて言ってたから
永楽帝に負けたんだよな。
李建成も魏徴の言う通り、弟を殺せなかったが為に殺されてしまった。
これを解決するには世襲をやめるしかない。
文人の側近に過ぎんし。
建成の方が身を引くという選択肢もありうるわな。
>>545
建成が後ろ盾を無くしたとか、まるで功績がないとかなら劉彊と引き合いに出せるが、実際は李淵の覚えも悪くなく、功績だってあるんだから、そこまで謙虚になる必要がないわな。
結局、李淵が天策上将なんて世民に与えたからクーデターなんて起こってしまったんだよ。受ける受けないにかかわらず、そんな話が出たら世民の逃げ場なんて殆どなくなっちまう。
李淵は統一までは素晴らしかったが、ここ一番でポカしてしまった。まあ、後継者選びは世民も微妙だから血筋かも試練
いや、天策上将以前、李世民をあれだけ使った時点で避けられなかったと思うぞ。大抵の覇者は子供の使い方が慎重なんだが、李淵はそこら辺非常に下手を打ったと思う。
挙兵当初はやはり親族・姻族が一番信用おけたこと、李世民が有能だったことから仕方がなかった面もあるんだろうが。
例えば李孝恭は使ってもそれほど問題にならんし、功があっても議題にも上らん。
劉邦にとっての劉賈だろうが劉交だろうが、劉秀にとっての劉隆だろうが劉尚だろうが、曹操にとっての曹仁だろうが曹洪だろうが、子供を使う例とは全く別だ。