厨臭い強引なランク付けだが、この時代の人物たちを評価するならば
1:石勒(後趙高祖・明帝)
2:桓温(東晋大司馬)
3:苻堅(前秦世祖・秦天王)
4:劉裕(劉宋高祖・武帝)
5:慕容恪(前燕太宰・太原王)
6:王導(東晋司徒)
7:慕容垂(後燕世祖・成武帝)
8:王猛(前燕丞相)
9:劉曜(前趙皇帝)
10:拓跋珪(北魏道武帝)
個人的には、劉裕ぐらいまでが曹操に比肩するレベルだと考えている。
軍事手腕のランク付けだと、また微妙に変わってくるが。
ニュース
五胡~南北朝の軍人の単純な強弱であったならば
1 韋孝寛
2 劉裕
3 冉閔
これぐらいで落ち着きそう、宇宙大将軍は出オチすぎるだろう、戦績的に考えて曹操や石勒も上記三名の神懸り的強さとと比べたら、一歩譲らざるを得まい
個人的には、三国鼎立してたときの慕容恪、桓温、王猛のガチ対決が見たかった。そして、やっぱり陳覇先は過小評価されすぎ
ガチ勝負したら負けたほうが袁紹扱いされますよ
韋孝寛が戦場では歯が立たなかった斛律光が最強だな。
戦場で勝てないと分かるや否や、搦め手から情報戦を仕掛けて北斉の君主自らに粛清させるんだから、韋孝寛どんだけ化けモンなんだよ、って話だと思うんだが。「天才軍師」という「幻想」に最も実像が近い人物だと思う。
宇宙大将軍さまや王僧弁を撃破しているし
>>151
能力は十分すぎるほど高い、ただし協調性のなさは最悪
慕容評が奸臣として評されることが多いが、ありゃあ単純な善悪二元論じゃなくて慕容垂との熾烈な権力抗争だったと見るべきでは?
慕容評ひとりだけの問題ではなくて国家全体での問題だったのに、よくもまあ個人に罪を擦り付けたもんだよな、とは思う。
で、慕容評が慕容垂に対して激しく悪感情を抱いていた理由は、(慕容垂本人の意思とは無関係だが)彼が第2の慕容翰・慕容仁になることを恐れていたからじゃないのかな?慕容評は兄たちの骨肉の争いにより、兄弟のほとんどを失ってしまっている。国家経営の面で見ても、この時の損害はその後に大きな影響を残している。
「お前は、どうして慕容恪のように慎ましく陛下に仕えることができぬのだ。」
慕容評にしてみれば、折角自分や慕容恪が身を引いて幼帝を尊重しているというのに、なぜ慕容垂に限ってこんなにも自己主張が強く、才気煥発なんだか、内心苦々しく思っていたことだろう。
慕容恪の寿命がもう少しだけ長ければ、何とか人間関係は破綻せずにすんだろうに。
その尻拭いの最中に死んだり大変だよな
苦労しすぎ
西晋vs前趙
前趙
前趙vs後趙
後趙
gdgd
前燕vs前秦
前秦
gdgd
北魏vs夏
北魏
東魏・北斉vs西魏・北周
北周
隋
宋>東晋>斉>梁>呉>陳
って感じかな?
東晋の方が広くないか?
>>163
南朝の最大版図は、劉裕が東晋の武将だった頃(後秦併呑後)だから
あながち間違ってもいない。
陳はぶっちゃけ、広東からあそこまで領土広げているから、別の意味で凄い
つか、考えてみたらこの時代は歴史的名将がやたらと多いな。
>>169
いや、東西両魏の対立期は両国とも国力の疲弊が頂点に達して、決着をつける体力すら尽きて、決定打がついぞ出なかった消耗戦。決定的な名将が出なかった、というか小粒揃いだったと言わざるを得ない。
そんな中で、斛律光・韋孝寛の両名はかなりの高レベル
実質南朝崩壊の立役者の宇宙大将軍
274年
羯族の部落小帥・周曷朱の子として誕生。
漢人に能力を認められていたが、并州の飢饉戦乱で部落離散し洛陽に行商となる。
(このとき王衍とニアミス)
?年・・・司馬騰捕らえられた後、師懽(山東の民家)に奴隷として売られる。
しかし、師懽認められ自由の身となる。汲桑(師懽の知人)の元に身を寄せる。
301年
八王の乱に乗じて、群盗となり各地を転戦。
(この時の仲間が後の十八騎となる。)
305年
司馬穎配下の公師藩が起兵すると汲桑と共に合流。石勒と名乗る。
306年
公師藩が苟晞に討たれ、逃亡。
307年
司馬越と司馬騰打倒を名目に反乱。司馬騰を敗死させるが、苟晞に敗れ逃亡。
劉淵に帰順し、輔漢将軍・平晋王となる。更に烏丸を帰順させ、督山東征討諸軍事を加号される。同年、汲桑は晋軍によって敗死。
308年
劉聡の先鋒として壺関を陥落させる。劉淵が皇帝を名乗ると、平東大将軍となる。
漢人の張賓が参謀として加わる。
309年
劉淵から安東大将軍とされて開府した。鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集める。段務勿塵に大敗するも、その後の洛陽からの討伐軍に勝利し、劉淵から鎮東大将軍とされた。
310年
劉淵死去。劉聡が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封ぜられる。襄陽を攻略。
311年
洛陽を攻める。(永嘉の乱)東海王司馬越の葬列を襲って、西晋の太尉王衍を捕らえて殺した。他、10万人近くを殺害し、司馬越を棺ごと焼き払う。劉曜と王弥と合流し、洛陽を陥落。苟晞を破り配下にするも、謀反を起こしたため殺害。また王弥が自分を殺害しようとしたので、 王弥を誘い殺し(宴会)てその部下を併せ、襄国を拠点として幽州・并州の経略にあたる。劉t(を破る。 劉t(が、母の王氏と養子(石虎)を手に入れ、石勒の元へ送り届けて晋への帰順を促したが、 帰順はせず、珍宝でもって返礼とする。
312年
王浚の命をうけた段疾陸眷らと対決、段末波を捕らえる。段疾陸眷は段文鴦の反対を聞かず、段末波との交換で和睦に応じる。
314年
張賓の助言もあり、偽りの帰順で王浚を滅ぼして河北を平定。
318年
劉t(を滅ぼす。劉聡死去。大司馬・大将軍となる。後継ぎの劉粲が耀準に殺され討伐に向かった。耀準の後を継いだ、耀明を破ると劉淵と劉聡の墓を修復し、劉粲を葬った。劉曜が即位する。それにより、趙公となる。
319年
帰順の使者が讒言を信じた劉曜によって殺害されたため劉曜と対立し、趙王を称する。
323年
青州の曹嶷を滅ぼす。
324年
劉曜の前趙と交戦状態となる。
325年
洛陽を領有。
328年
洛陽で前趙軍を破る。(329年?)捕らえた劉曜を処刑する。
329年
前趙を滅ぼす。天王を称する。
330年
皇帝に即位する。
333年
死去。
※石勒が行商人の頃、王衍が通りかかった。通り過ぎた後しばらくして、”さっきの行商人の面構えが気になる。晋に災いをもたらすかも知れない。”と考え捕まえようとしたが、既にいなかった。
※王衍が捕まったとき”私に出来ることはなかった、よって罪はない”と、ありえない保身の弁明(王衍は大尉で晋の重臣)をするが、”いや、お前が原因だから”と言って殺害。
※劉コンが母と養子を送り届け帰順を促した時は、宝物を渡し、使者を丁重にもてなし”人には人それぞれの生き方がある、あんたは晋に尽くせ、俺は夷狄”
※劉曜が讒言を受け、石勒の使者を殺したときは”テメー俺がどんだけ劉家に尽くしたか知ってんのか?もともとお前の基盤も俺が作ったんだぞ!それが皇帝になった途端、邪魔者扱いかよ。趙王も趙帝も、俺が自分でなってやるわ”
※部下に自分の実力は?と聞いたとき、漢の高祖以上です、と答えられ”それはいい過ぎ、もし朕が高祖に会ったら、部下になる光武に会ったなら、張り合って雌雄を決するだろう。(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹操や司馬懿親子のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と。
※段末破を捕らえた時、丁重にもてなし"俺たちはもともと仲間だ。何で晋の為に戦うのかよ"と言って父子の契りを結んだ。段末破は死ぬまで石勒の方角を向いて小便しなかった
※劉曜は捕まった時、以前に戦争で捕らえられた親族(劉胤)が生きているのを知り"俺がこうなったのは当然だ。石勒は慈悲深い、俺はヤツの親族殺したのに"と言った
※石勒は字が読めなかったので人に読ませて聞いていた。ある日高祖の伝を聞いているとレキイキが高祖に各地に散らばった王族の子孫を各地に封じるよう助言した話が出た。それを聞いた石勒は"それは間違いだろう。そんなことしてどうやって天下取れるのか?"と言った。張良の助言で取り止めになった、と聞くと"それでこそ"
>>179
石虎の軍功が抜群だからだろうな。
耄碌してから惨敗の繰り返しだったが、少なくとも石勒の片腕として働いていたときは、幽州での段部攻略を筆頭に、青州、徐州、豫州そして劉曜敗亡後の関中併合と凄まじい活躍のしすぎ、ぶっちゃけ夏侯淵や杜預なんて格下と言っても良いくらいだ。
後の時代を見ても、慕容兄弟ですら石虎の獲得した領土は切り取れていないんだから、この時代のトップクラスの猛将として扱ってやって然るべき。
簒奪後の駄目っぷりとロリコンは擁護しきれないが。
石勒も一応死ぬ前に釘さしてるけど
石勒は親征あまりしなかったから、身内で使える石虎は大事だったのかも
信があったからかも。
白髭に赤目、神射と呼ばれる弓の達人
アル中で戦の最中でも呑んだくれ
石勒との決戦の時も飲み過ぎで酩酊、敗れる原因に
統率…慕容垂、石勒
武力…
知力…韋孝寛
政治…王導
魅力…
冉閔は姜維的な強さだから迷うよな
武力…楊太眼、蕭摩訶
知力…王猛、陳慶之
政治…王猛、元宏
魅力…苻堅
その人物が一代で獲得した領土で比較するなら
華北制圧組
苻堅(ただし王猛のアシスト大)、石勒、拓跋燾
関東制圧組
慕容恪、王猛、慕容垂、拓跋珪、高歓、韋孝寛
関中制圧組
劉曜、苻健、姚萇、赫連勃勃、宇文泰
僻地遠征組
慕容恪(高句麗・宇文部・段部・烏桓)、呂光(西域)、斛律光(突厥)
北伐組(領土を分捕った人)
祖逖、桓温、謝玄、劉裕
分類不可(領土は取れてないが、変態的な強さ)
謝艾、冉閔、陳慶之、宇宙大将軍
国さえ崩壊しなかったら苻堅の功績は滅茶苦茶凄えんだよな、本人も決して戦下手ではないし。
司馬炎死去
八王の乱
劉淵が漢を建国、李雄が成建国、張軌が涼建国
劉淵が皇帝を名乗る
劉淵死去
漢の劉聡が晋(西晋)を滅ぼす
司馬睿が晋(東晋)建国
劉曜が漢を趙(前趙)に変更、出自が異民族であることを告白
石勒が趙(後趙)を建国
後趙石虎により前趙滅亡
李寿が成を漢(成漢)に変更石勒華北をほぼ統一、皇帝を名乗る
慕容【皇光】が燕(前燕)建国
石勒死去
後趙の冉閔により後趙を滅す
前燕が冉閔(冉魏)を滅す
苻洪(蒲洪)が秦(前秦)を建国
苻建が秦皇帝を名乗る
懐柔する必要なかったの?
歴史シミュで西晋末期~北魏の河北統一あたりまで、シナリオ10個くらいに分けて作ってくれたら面白そうなのに
まあ商業的に売れなさそうなら、誰も作ろうとしないか……ゲームでも小説でもましてや映画とか
いやそら単純に、戦術は常に進歩してるわけで…
三国末に登場し当時としては画期的でその後陣のスタンダードとして晋代に学ばれる諸葛亮の八陣も唐代には学ぶべき「「古典」として扱われたりするわけで
三国時代の連中が五胡十六国時代の人に比べて戦術に劣るのは当然
五胡の連中も勝ったり負けたりだろ。
しかもちょっとした流民集団や、前線に孤立した西晋の遺臣にすら手を焼いてたり。
むしろ三国時代より劣化してる印象。
>>253
「軍隊」というシステムはかなり劣化した印象を受けるな、まあこれは三国時代(と言うか後漢末の群雄割拠のときか)も似たり寄ったりだが。
兵戸なんて、こいつらどんだけ悲惨なんだよ、って思わず同情しちまうわ。士気・戦闘技術という点では、古代の徴兵制度の方が優秀だったわけだし。
変わりに封建的な軍集団が登場してきて、そういう意味では中国史っぽくない、そこが実に面白い。
姚氏集団は清河県摂頭に所領を拝領して代々後趙政権に忠節を尽くしていた
わけで、もしかしたら中国でも封建制が成り立つ可能性があったのかもねえ、と思わずにはいられない。
羊 献容たんの人生劇場(女の花道)
286年 生まれる
↓
300年 14歳で恵帝の皇后となる
↓
301年 司馬倫が皇帝位簒奪→皇后廃位
↓
301年 司馬倫あぼーん→復位
↓
304年2月 廃位
↓
304年7月 復位
↓
304年8月 廃位
↓
304年11月 復位
↓
305年4月 廃位
↓
305年11月 復位
↓
305年11月 廃位
↓
306年6月 復位
↓
306年11月 恵帝死去。皇后位を去る
↓
311年
洛陽が前趙の劉曜らの攻撃を受けて陥落 → 無理やり劉曜の嫁にされる。3人の子をもうける。
↓
316年 長安が陥落して西晋アボーン
↓
318年
劉曜が皇帝に即位。皇后に立てられる。
劉曜「俺と恵帝と比べてどう?」
羊「あなた最高よ。ワイルドな男って素敵!あなたに逢えて良かったわ。ああん、幸せ!」
↓
322年 享年36。劉曜マジ泣き。立派な墓を建てる。
>無理やり劉曜の嫁にされる
これはラッキーだったと思うけどな。
301年~310年頃なんていつ殺されてもおかしくなかった。
>>258
劉曜は自らの容姿に結構コンプレックスがあったみたいだし、劉聡以外の一族からの評価も低かったようだから、皇帝即位以前は、現在ほどの評価は受けていなかったと見た方がいいと思う。(宮崎市定先生は割かし高評価だったけどね。)
羊献容はそれこそ人間扱いなんかされていない、完全にモノだ、モノ。皇太后の座をゲットしようと画策して頓挫する場面なんか見てらんない。バックも全滅しているから、実害なしと見積もられて生きながらえているし、ここまで扱いの悪い(と言うか軽い)元皇后も珍しい。
人外扱いの堅物と道具扱いの小娘、異色ではあるがお似合いのカップルだな。