ヴォー・グエン・ザップ。ベトナム戦争の英雄のはずが
20年前に党籍剥奪されてから消息不明。
生きてれば100歳だが・・生きているとも死んだともニュースはない。
張学良が100歳、ヘスが93歳まで生きてたから意外と生きてるかも・・
ニュース
たまに記念式典によく顔出したり、政府批判したりするのがニュースになるぞ?
最近は陸軍病院に入院してるけど
まだ生きてるんだ。サンクス。
詳しいね。ベトナム在住の人?
>>118
いや、海外ニュースのサイトで見かける
今年は韓国の新聞がインタビュー載せてた
ボー・グエン・ザップが消息不明って釣りかよw
孫がドラえもんにハマって、自分にかまってくれないって
インタビューでこぼしてたのはかなり有名だと思うが
100歳だから死んでるものと勘違いしてた。
ソフトバンクの孫がドラえもんにはまってる?って読んじまった。
100歳なら曾孫くらいか。
>>120
ちなみにあと12日で100歳
※2013年に102歳でお亡くなりになりました。
写楽も江戸時代の複数の史料に阿波の能役者だと書いてあったのに、
あれだのこれだのと諸説が立てられましたね。
現在では過去帳も発見されており、能役者説が有力な様ですが。
某推理作家の御大の小説では、オランダ商館員とされていましたが、
あれは洋画とは異なる、東洋画の線描の技術で描かれた作品です。
ノウハウがまるで違うので、清人や朝鮮人には描けても、オランダ人には無理。
勿論、行動範囲や滞在期間を考えれば、朝鮮人も有り得ませんが。
写楽ではありませんが、北斎朝鮮人説というものが、
韓国から出た事があったそうなので、一応申し上げておきます。
史書に墓のことも含めておおよその事跡がありますし、実在はしたでしょう。
事跡不明瞭といえば、
師升の方が年代的には早くて一応疑う理由もないというのに、
卑弥呼が日本史上最初の「人物」であるかの様な扱いを受けているのは不憫。
一行で終わる様な内容ですので、無理もないですが。
シベリアかどこかの修道院に入ったとの説があるだろう?
やたら宮廷社会に詳しい世捨て人がいて
その人が実はアレクサンドル1世じゃないか
って話ですな。
パーヴェル1世の庶子、つまり皇帝の兄弟だった人じゃないか
って説もあるね。
アレクサンドル1世は意志薄弱な偽善者という印象がある。
自由主義を信奉するようでいて農奴制はそのままだったし
屯田兵制度で農民を塗炭の苦しみに陥れた。
皇后も貞淑なふりして間男と密通する淫乱だった。
李自成軍に捕らわれて後行方不明。
処刑はされていないようだ。
彼はどうなったのだろう
本人のものとされる心臓をDNA鑑定にかけたら
本人のものと判断された様ですね。
ニコライ2世一家といい、ボルマンといい、
つまらないと言えば、つまらない。
死体が無いんで「行方不明」になるね
フリードリヒバルバロッサも
ハルツ山地で今もドイチュライヒを見守っているのだ!
コンスタンティノス11世パライオロゴスも
私の胸に剣を突き刺してくれるキリスト教徒は一人もいないのかって
最期の言葉がカッコいいな。
誰が聞いたんや~ってツッコミは無しで。
ヒッタイトはアーリア系語族じゃなかったことがわかったし
扶余もわからん
高句麗だって民族構成が未だに不明、扶余説から女真説まで
>>194
扶余系はアルタイ系らしいとはかなり言われてるけど
ツングースではないそうだ
ではトルコかモンゴルかと言うとそれとも違うと
それで海外主に欧州系の学者は
第4のアルタイ諸語って言う扱いで探ってるらしい
しかし余りにも不明確な部分も多いし未だ確固たる定説は無い様だ
高句麗に関しては王族っつうか支配層は扶余系って説が強い
被支配層がそれだけどの民族が居たのかに関してはこれも諸説紛糾して不明確
高句麗は後に上層部の連中が渤海を立てたりしてたけど
これなんか扶余とツングースの連合体って説が結構有る
何れにせよ高句麗と現在朝鮮とは直接的な繋がりはほぼ無いはず
辛うじて高麗文化の痕跡があるって程度
担い手の民族系統がよくわからないんだな
高句麗や新羅や百済って
まだ契丹や西夏のほうがあたりがついてる
李朝の廃仏が効いたね
高麗だけでなく新羅や百済の仏教関係事物が根こそぎ消された
仏教遺物は書物以外も歴史的価値のあるものの宝庫なのに
>>205
李成桂自身は晩年熱心な仏教信者となっており、
息子の反仏教政策には心を痛めていた様ですね。
ただ、官寺の数は限られたものの、
民間の寺院までもがことごとくつぶされた訳ではないそうです。
大蔵経は高麗版が有名ですが、大内氏が何度も朝鮮から招来していますし、
遺物も全く失われていた訳ではなかった。
>高句麗や新羅や百済
しかし、この辺りは、もっと史料が残されていて欲しかった。特に言語。
有名どころで...
西施
→中国古代四大美女のひとり、呉王夫差の妾。
生きたまま皮袋に入れられ長江に投げ込まれるが生存説あり。
フランソワ・ヴィヨン
15世紀フランスの詩人。
強盗・傷害事件を起こして、パリを追放されその後の行方は不明。
ロアール・アムンセン
→南極点一番乗りの探検家。
北極で遭難したノビレの探索に出かけ行方不明に。
(なお、ノビレはその後救出される)
崔承喜
→日本統治時代朝鮮出身の舞踏家。北朝鮮で粛清され消息不明になる。
ジム・トンプソン
→タイシルクを広めたアメリカ人実業家。マレーシアのコテージから突如姿を消した。
松浦潟達也
→昭和初期に活躍した力士。
東京大空襲で消火に当たっている姿が確認された最後。
遺体は確認されていない。
徳川剛
→紀州徳川家18代当主。レストラン経営に失敗して夜逃げ。
崔承喜は、韓国、日本の舞踊家や知識人らの働きかけのおかげで、
2003年に『人民俳優』として愛国烈士陵に葬られていることが公式に発表された。
ブルジョワ的修正主義者として粛清されたはずだから、
名誉は回復したということだけど、結局死因やなんやらはいまだに謎のまま。
落城、敗軍の中で行方不明となった人で有名なのは
建文帝、コンスタンティヌス11世、スパルタクスあたりかな。
アルゼンチン屈指のタンゴ歌手として有名だけど出生地があやふやなんだよね。
そういやぁスターリンも生年月日をごまかしていて
100%確実なものとは
証明されていないのだよな
まあ、9割がたこの日だろうというのを定説にしているけど
本人からして、ユリウス暦とグレゴリウス暦を混合して
あいまいなことを言っていたようだし
父親にしても、ロシア人の将軍との私生児だとの噂が流れていたようだけど
本人はそのうわさを取り締まらずに、放置していたようだからなぁ
同じようなことはブレジネフもやったらしい
ユリウス暦とグレゴリウス暦の違いを利用して
2種類のカレンダーがばら撒かれていたことがあったらしいし
平清盛も誕生日不詳だね。
日本は盛大に誕生日を祝う風習はなかったみたいだからな
信長くらいじゃないの
自分の誕生日だ、祝えと言い出したのは
太陰暦だから変動して面倒だった(閏月など)
15世紀以降、天皇や公家、畿内一帯の高位の僧侶は
「誕生日」を意識しています。
社参や読経、陰陽師の祈祷によって、生まれた日に更なる寿命を期待した日。
数え年でしたので、生まれ年はともかく、
生まれた月日はあまり意識されておりませんね。
古人には、わざわざ気にする、現代人の方がおかしいと思われかねません。
昔、大河ドラマの北条時宗で、
兄・時輔が二月騒動で時宗の軍に攻め込まれるシーンがあって、
時輔自身は脱出に成功し生き延びる。
その後、中国大陸に渡って、
こともあろうにマルコポーロなんかとも交流するという無茶ぶりw
確か原作者の高橋克彦がNHKのアナウンサーと対談する番組があって、
上記のことが話題に上がると、
高橋は
「時輔が屋敷から逃げるのに成功して生き延びたという伝承があった。」
みたいなことを語った。
どうやらその伝承に乗っ取って、作家なりの壮大なドラマにしたらしい。
まあ、伝承をドラマに取り入れるのはまだしも、
さすがにマルコポーロと会うとか無理にもほどがあるだろw
あの大河ドラマは、原作にない平和主義が酷すぎました。
あれ以降は、山本勘助のもの以外、見るに耐えません。
高橋先生もまず目的(主に東北礼賛)ありきの方ですが
作家としてはプロです。
確か昭和天皇が若かった頃はまだ数え年だった気がするし
競馬では21世紀にようやくやめたな。
その後どうなったか不明な人物だね。
ヤジロウが海賊稼業に戻ったという話は有名だと思ったが
宣教師に連れてこられたヤスケも
家康の全国指名手配を振り切ってどこに行ったんだろうな。
諸説紛紛で、台湾に渡って
オランダ軍と戦ったという話まであるようだが。
三浦安針の息子と娘も消息不明だな
壮大なファンタジーが創れそうだけど
三百石級の旗本の盛衰なんて記録に残ってる方が少ないんだから、
別段、珍しいことでもないような。
藩部出自の氏姓はランクが低い上に、
そもそも、三浦按針は無位無官無姓だし。
推古天皇、聖徳太子は実在したのかな?
隋書にはこの時代の日本の君主は男性だったと書かれているし、
聖徳太子に関する記述もない。
→日本書紀等は政治的意図の強い書物だが、
隋にとっては日本は外国で政治的配慮など不要だから、事実をそのまま書ける。
また当時、日本と隋は交流が盛んで、隋は日本の情勢を相当程度把握していた。
→隋書のほうが信憑性が高い。
→よって推古天皇、聖徳太子は後世において創作された人物である。
こんな説があるようだけど、どうなんだろう。
隋の時と唐の時とは日本の王朝が変わってるんじゃないの
新唐書には推古天皇が記されてる。
欽明之十一年、直梁承聖元年。
次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、
直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。
崇峻死、欽明之孫女雄古立。
次舒明、次皇極。
欽明の十一年は、梁の承聖元年(552年)に当たる。
次は海達。次は用明、 また目多利思比孤といい、
隋の開皇末に、初めて中国と通じた。次は崇峻。
崇峻か死ぬと、欽明の孫娘の雄古(推古)が立った。
次は舒明、次は皇極。
ある意味で出自不明なのが、秦の太子扶蘇・二世胡ガイ
始皇帝の后妃について司馬遷は記していない
あれだけ中国で歴史書が書かれていて、
肝心の君主の血縁関係が不明とか、
何でそんなことになるのかよく分からん。
扶蘇の子かと思ってたら違ったのか
韓信 劉邦 陳平
3人とも前半生が似すぎてワロタw
ふと思ったんだが、
韓信って実は韓の王族の傍流の末裔くらいの出自じゃないのか?
例のおばあさんがご飯を恵んでやった時、
史記原文では「王孫」と呼びかけている。
注釈書では「丁寧な呼びかけ」程度に言ってるけど
そのまま血筋のことじゃないのかね。
>>386
もし韓に遠くでも関わってたら
何かしら話が残るとは思うけどな。隠す意味もそうないし。
年齢的にも韓滅亡以前か滅亡後近いうちに生まれてる感じがするから
何でわざわざ楚まで行ってたのかよく分からん。
偶然韓王信がいるし話としてはいろいろ作れそうな題材だけど
本当に完全に無名で、何の後ろ盾もない男が、
一軍を任されたり、任された兵を天才的に操れたりできるか、
っていうと確かに疑問だわな
秀吉なんかでも、「実は結構豪農だった」なんて説があるし
白起
出自はおろか本名すら不明
普通に姓が白で名が起だろ?
「左伝」の僖公三十二年(前628年)に出てくる
秦の穆公の家臣の白乙丙が先祖だから出自としても低くないし
斎藤道三
フランク王国地域の貴族のほとんどが、
いくらさかのぼってもカール大帝以前にはさかのぼれないっていう
マルク・ブロックの記述には興味深いって思った
ザラスシュトラ
初期の世界宗教を起こした世界的偉人だが
生まれた場所も、いつ生まれたかも不明
彼を保護したヴィシュタースパ王や
そのカヴィ王朝も中央アジアの無名の部族の酋長あたりだったろうな
ダレイオス1世の父名と偶然(後者があやかったのかも)同じだったせいで、
アケメネス朝と混同されてしまったけどさ
周の4代王で、初代武王の曾孫にあたる
南征に向かったまま行方不明
>>516
その300年後、斉の桓公は
「300年前に昭王が行方不明になったこと、
3年前から楚が周に特産物を貢納していないこと」
を理由に楚に侵攻、楚軍は敗北する。
楚の使者は
「昭王?知らねえよ!川っぺりでも行って探せや!」
という言葉をオブラートに包み込んで弁解し、特産物の貢納も約束して、
兵を引いてもらった。
その直後、
斉は「勤王の戦に不参加であった」として蔡を攻めている。
しかし、何故300年も前のことを今更取り上げたのか?
特産物というのも祭祀用に濁り酒を漉す茅であり、
戦を起こすほどのものではなかった。
実はこれより先、桓公は蔡の公女を妻に迎えていた。
ある日、舟遊びをしていると桓公は舟が揺れるのを怖がって
妻に揺らさないように言ったが、妻は面白がって余計に揺らしてしまい、
怒った桓公は妻を離縁した。
パルティア王国の初代王アルサケス1世
のちにローマ帝国のライバルとなるこの大国の建国者に関しては
出自に関する同時代の情報がない。前後の状況からみてイラン系遊牧民の族長の
ようなポジションだったのだろうという歴史家、いやスキタイ人だろうという見方
ギリシア系かもしれないという憶測など、さまざまな説がある。
初代だけじゃなくて
歴代のパルティア王が全員アルサケスって名乗ってたから
余計分かりずらいよな
ここまでくると初代アルサケスも個人名っていうより
王のための特別な称号だったみたいな感じがする。
そもそも「アルシャーク」って英雄の意だし
やらんでもいい十字軍を起こして大負けし行方不明に。
これがきっかけでポルトガルという国自体が消滅するという
迷惑な王だったが・・・
うぃき見たら、日本人を奴隷として売買するのを禁じたってある。
いいとこあるじゃんよ。