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【世界史のいい話】「春秋時代の覇者、楚の荘王」「酒の杯数を減らしたオゴタイ=ハン」など

246: 名無し 2012/12/17(月) 19:19:36.76 0

春秋時代の覇者 楚の荘王の話
ある日臣下を招いて宴会を開いていた。
皆が楽しく酔っ払ってきたころ宴会場に風が吹きこみ、
蝋燭の灯りが消えてしまい場は真っ暗になった
するとその暗闇の中で王の寵愛する女性の服を引っ張り、
セクハラしたものがいた。

彼女はとっさにその男の冠のひもを引きちぎって荘王にこのことを告げた
「蝋燭が消えた隙に、私に無礼を働いた者がおります。
私はその者の冠のひもを引きちぎりました。
蝋燭を灯しさえすれば、それが誰だかすぐわかります」

すると荘王は
「わたしはみんなに酒をご馳走して酔わせた、
それゆえに彼は無礼を働いてしまったのだ。
女の節操のあるところを見せようとして、
臣下に恥ずかしい思いをさせるのは宜しくない。
今日わたしといっしょに酒を飲む者は、
愉快にやるためにみな冠のひもを切れ。」
と命令した。
灯りがともると皆ひもをちぎっており、宴会はその後も楽しく続いた。

それから2年後、楚が秦に攻められた。
秦の勢いは凄まじく荘王はもはや絶体絶命の窮地に立たされた。
その時一人の男が荘王の前に立ち塞がり矢刀を受け止め、
敵の囲いを突破し荘王を救いだした
しかし彼は瀕死の傷をおってしまっていた。
荘王は彼を改めて見たが、
名前を思い出すこともできない将官だったので彼に問うた
「よくやってくれた。だが私は今までお前をそこまで優遇してきた記憶がない。
なのに何故お前は自分の命を賭してまで私を救ってくれたのだ?」

すると男は
「いいえ、貴方は私を御救いくださった。
私は先年の宴でお后様に無礼を働いたものです。
あの時王の計らいによって皆の前で恥をかかずに済んだのです
あの日以来私は命をささげ王の恩に報いようという気持ちでおりました」
と答え、にっこりと笑みながら息絶えた

名前も覚えられないような凡庸な者が
王の心遣いにより勇敢な忠臣に変わったのだった

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247: 名無し 2012/12/20(木) 22:16:23.69 P
>>246
春秋戦国時代っていい話多いよな
史記の方は報われない話が多いが

 

251: 名無し 2012/12/31(月) 15:13:02.45 O

ニハーヴァンドの戦いでペルシャを破ったイスラム帝国、
この快勝をカリフに伝える為に出された伝令はカリフの居る町に急いだ
やっとの思いで町に着いた伝令だが
そんな姿を見たみすぼらしい老人が何事かと伝令に声をかけた

老人
「それ程急いで何かあったのですか?」

伝令
「急ぎカリフに伝えねばならん事なのだ!そこをどけ!」

老人を振り切り先を急ごうとする伝令だが
老人はしつこくついて来ては伝令に何があったのか尋ねてくる
伝令はもはや老人と問答するつもりはなかったので無視し
併走しながらカリフの宮殿に到着、伝令は門番に対してこう言った

伝令
「カリフに急ぎ伝えたい事があり馳せ参った!カリフはいずこに御座す!」

門番
「カリフならあなたの隣におられるではないか」

そう、伝令にしつこくつきまとっていたみすぼらしい老人こそ、
二代目カリフのウマル・イブン・アル=ハッターブその人であった

 

252: 名無し 2013/01/05(土) 00:12:06.74 0
>>251
いや名乗れよじいさんw

 

253: 名無し 2013/01/05(土) 21:06:49.52 O
始皇陵は地下宮殿に財宝が集められ始皇帝を守るための
兵馬傭が築かれた。 しかしその建築には多くの人夫が犠牲になった。
彼を尊敬する人間はいない恐怖政治の産物と自己満足に他ならぬ
兵馬庸の数ほども、忠臣がいるならば王は恐れずにも
生きただろう。不老長寿を願うがばかり天下統一を成し
遂げたが、果たして彼が欲しかった安心感とは。ひとつの
人形兵だけでも棺を見つめているなら王の悲しみがわかるのだろうか。

 

254: 名無し 2013/01/06(日) 02:20:03.65 0

古代ローマも現代と同じで政治家が民衆の人気取りにばらまき政策を行っていた
カエサルも同じようにばら撒き政策で絶大な人気を獲得した

だがそのばら撒きに使った金は
カエサル自身の金であり莫大な借金をしてまで民衆に金をばら撒いていた

 

255: 名無し 2013/01/06(日) 10:13:35.09 0
>>254
借りた金なんだからカエサル自身の金じゃないと思う。
中国がODAの借款を受けながらアフリカ諸国に援助してたようなもので、
もちろん下心あり。

 

256: 名無し 2013/01/06(日) 11:27:46.77 0
しかも民衆派の政治家として人気があったカエサルへの
実質的な賄賂だわなw

 

257: 名無し 2013/01/06(日) 17:22:51.15 0
でもそれが巧いやり方なら現代の政治家も同じことするよね
民衆派の政治家が現代にいないだけかもしれないけど
戦利品とかなんだかんだで借金はけっこう返したしカエサルのは
まさしく「ちょっと」いい話だと思う

 

258: 名無し 2013/01/09(水) 00:56:59.90 0

一時期困窮していたユリウス・アッティクスであったが
偶然にも最後の家産
であった古家の床下から莫大な財宝が発見された。

その財宝は法に照らせば皇帝の物だったようだが、
アッティクスは密告を用心して包み隠さず報告した。

しかしネルウァ帝はアッティクスに
「遠慮せずにこの賜物を使え」と言った。
それでもアッティクスは
「一臣下には不相応に莫大ですから利用法が思い付きません」
と辞すので、ネルウァ帝は
「ならば乱費するがいい。汝のものだからな」と言った。

 

259: 名無し 2013/01/13(日) 09:46:10.07 0

モンゴル帝国第二代ハーンのオゴタイは酒が大好きで
色んなさけを毎日たくさん飲みまくっていた
チンギスハンの息子たちは権力争いをしていたが
比較的人望があった彼は他の兄弟からも好かれていたため
オゴタイの体調を心配し酒の杯数を減らすように忠告した
オゴタイは仲がけしていいとは言えない兄弟たちが心配してくれたことに感激し
酒の杯数を減らしたのだった

だが杯数を減らした代わりに杯の大きさを巨大にした

 

260: 名無し 2013/01/13(日) 12:00:39.59 0
そういうことじゃねぇw

 

261: 名無し 2013/01/14(月) 13:26:15.90 0

オゴテイの死因は酒の飲みすぎによる体調不良…
素直に兄弟の言うこと聞いておけば
ヨーロッパの国がいくつか消えていただろうに

酒が国を救ったといういい話だな(棒)

 

262: 名無し 2013/01/14(月) 17:55:51.77 0

酒で死ぬと言えば張飛もそうだった気が

保健の授業ってやはり大切なんだな、うむうむ。

 

263: 名無し 2013/01/14(月) 18:26:09.86 0
禁酒なんて簡単だよ
俺なんか、100回は禁酒している

 

264: 名無し 2013/01/14(月) 21:38:31.81 0
>>263
その道のエキスパートがこんなところにいらっしゃったとは!

 

265: 名無し 2013/01/20(日) 10:52:03.88 0

ニザーム藩王国のある藩王はハイデラバーディー・ビリヤーニー
(インドで著名なハイデラバードの郷土料理、スパイスの掛った炊き込みご飯)
が 大好物であったが不摂生だったのか糖尿病を患ってしまった
当然医者から食事制限の指導を受けるが
どうしてもこの好物を食べたい藩王は
医者に詰め寄りスプーン二杯だけと言う条件で好物を食べることを許可された

するとこの藩王はスプーン二杯という決まりは守ったが
王者とは思えぬようなことを始めた
大皿に乗ったビリヤーニーを藩王が必死になって
小さなスプーンに移して山盛りにし限界ギリギリまで盛ったら
作法も薙ぎ捨てて一心不乱に食したのだという

健康に悪いと分かっていても
王ですらやめられない美味
ハイデラバーディー・ビリヤーニーの話

269: 名無し 2013/01/21(月) 23:05:25.82 0

>>265
食は貴紳も狂わせますね。
藤原朝成(百人一首に歌有り)が、太り過ぎで
「夏は水漬け、冬は湯漬けでお食事を」と
言われてその通りにしたものの、
山ほど食べて意味無しという逸話よりはましですが。

味噌粥を食べたら美味過ぎたので
「これはいかん」と
わざわざホコリを入れて食べたという逸話があるくらい
食の魅力は恐るべきもの。

 

272: 名無し 2013/01/24(木) 19:07:40.51 O

ソクラテスは
「あの人があなたを悪く言っています。」と告げた人に、
「いいじゃないか。その男はよく言うことを学ばなかったのだ。」
と言った。

「あの人はあなたを中傷していませんか。」と言う人には、
「そんなことはない。私には覚えのないことなのだから。」
と言った。

ソクラテスは喜劇作家には
こちらから我々を話題にしてもらったほうがよいと言った。
彼らが我々の欠点を話題にするのならそれは我々自身を正すことになるし、
そうでないのなら、自分たちにはまったく関係のないことなのだから、と。

 

273: 名無し 2013/01/26(土) 00:49:53.96 0

加来 耕三
「忘れられたバンクーバーの慰霊碑」

だが、この「平和の祭典」の舞台で、同じ日本人がかつて、
生命(いのち)を懸けたもう一つの“物語”があったことを知る人は少ないようだ。
バンクーバーの代表的な公園スタンレーパークに、一種奇妙な記念碑が建っている。
「日本人義勇軍戦没者慰霊碑」とでも訳せばいいのだろうか。
碑文は、英語でつづられていた。
この碑については、多少の噺(はなし)がある。
ここにいう戦没者は、約70年前の第2次世界大戦の
戦死者ではない。その前の第1次世界大戦のおり、
日本の大正4年(1915)にあたる年の11月、
「加奈陀(カナダ)日本人同胞の権利獲得と名誉のために」
をスローガンに、募集された義勇兵に応募し、
カナダ軍に身を投じて、
連合軍側の一員として戦った日本人戦死者のためのものであった。
現在のカナダは、200以上の民族が暮らす移民の国として、
民族や人種の多様性を尊重する
「多文化主義政策」を採(と)っていると聞くが、
「晩香坡」とバンクーバーを書いた
当時=大正初期のカナダ=は、アメリカと同様、
「排日」の凄まじい嵐が吹きすさび、人種差別も重なって、
日本人移住者はカナダに帰化できても「公民権」を与えられず、
当然のことながら参政権も認められない状況下にあった。

にもかかわらず、カナダの日本人(大半はバンクーバー周辺にあった)は、
自発的に自分たちを迫害するカナダ人を助けるべく、戦場に向かったのである。

 

274: 名無し 2013/01/26(土) 00:51:12.47 0

もっとも、義勇軍の方も、カナダのために戦ったのではなかった。
彼らはただ、バンクーバー周辺に暮らす同胞=日本人=のため、
その次なる世代のために、自らの生命を投げ出したのである。
換言すれば、人間の尊厳を守るための戦いであった。
このような日本人の軍隊は、日本史上皆無ではなかったろうか。

義勇兵たちは、口を揃えていう。
「われわれカナダに暮らす日本人は、祖国を出てからこれまで、
何度も何度も失敗を繰り返してきた。
いまさら、おめおめと故郷へ帰ることはできない。
カナダを新しい祖国として、この国に永住することを決意した。
妻子ある者は一刻も早く、日本から家族を迎えたい。
そのためには、われわれは参政権を手に入れなければならない。
ここにくらす日本人の未来のために、われわれは征(ゆ)かねばならない。
われわれはカナダの土になる。
この戦いは、アメリカに暮らす同胞のためでもあり、
日本人民族としての、血税を払うことにも通じるはずだ」

ところが、カナダ政府・軍関係者は
「義勇軍を結成してくれたことは感謝するが、採用するつもりはない」
とつっぱねた。そのため、義勇軍は一度、解散に追いつめられている。

だが、ここで引き下がっては、
渇望する選挙権は未来永劫、手にすることができない。
義勇軍の中から、
「26ドルの旅費を自弁して、
個人的にアルバータ州カルガリー市まで出向いて、
軍に志願する者は採用する」
とのカナダ軍の言葉に、一縷の望みを託して、出頭することを決めた
日本人が43名いた。
ほかの義勇兵たちは、旅費が工面できなかったのである。

大正5年6月22日、彼ら第一陣はバンクーバーを出陣、征途の人となった。
「さらば、敬愛する全加奈陀在留同胞よ!
我等は勇んで英国に向(むか)って去る。我等の凡(すべ)ては健康なり」

 

275: 名無し 2013/01/26(土) 00:52:15.31 0

たとえば、龍岡文雄という義勇兵がいた。
彼は英国軍人が舌を巻くほどに優秀であり、
その上官の連隊長は、
「一兵卒にしておくには惜しい、1年の休暇をやるから
イギリス本国へ戻り、士官学校に入って、士官になるように」
と熱心に勧めた。
日本人義勇兵にとっては、空前の名誉といってよい。
だが、龍岡はこれをことわった。

<御厚意を深く感謝します。然(しか)れども義勇兵仲間からはなれ、
私のみが仲間から敬礼を受くるに忍びません。
殊(こと)に私は予備役ながら日本陸軍少尉でありますから、
祖国日本の命によらず、戦時抜擢とはいえ、
英国陸軍の将校たることは遠慮いたします。>

ことわられた連隊長は、龍岡の言葉に涙を流し、
「ならば曹長をやれ」と、小隊長代理を命じたという。
龍岡はその後間もなく、最前線で両足を吹き飛ばされて戦死した。

10数人ずつに振り分けられた義勇兵の許にも、仲間の戦死は知らされる。
しかし彼らは、 勇をふるって自らの生命を捨てる覚悟で、
前へ、前へとただがむしゃらに進んだ。
「白人碧眼(へきがん)を青くしてこそ、日本人の真価なり」。
多くの者が、カナダ兵の楯となり、 戦場に倒れた。

九死に一生、後方の病院に送られた戦傷者の日本人義勇兵は、
ここでカナダ人、連合軍の一員として、
はじめて人種差別のない、平等な扱いを受けた。

 

276: 名無し 2013/01/26(土) 00:53:32.94 0

このとき、病院を訪れたイギリス国王ジョージ5世から、
彼ら日本人義勇兵は幾人か、声をかけられている。
祖父江玄碩という兵士の場合は「何国の方ですか」と国王に問われた。
「日本人で御座います」
「加奈陀軍に属して、ビーシー州晩香坡から参りました」
とも答えている。

国王はうなずきながら、次のように言ったという。
「貴方が隊へ帰られたら、日本人の参戦を吾等が感謝致し居る旨、
日本人諸氏に伝へて下さい」
(山崎寧翁伝記編纂会『足跡』より)

国王は握手すら、祖父江に求めてくれたという。
翌日のリバプール・エコー紙は、
「唯一最大の光栄者」と見出しをつけ、祖父江のことを報じたという。
やがて大戦が終わり、日本義勇軍の人々はバンクーバーに帰ってきた。
戦死した「55名」も加え、199人全員が、
このときカナダ市民としての権利=選挙権=を与えられたのである。

 

279: 名無し 2013/01/27(日) 23:08:07.37 0

米軍で最も多くの勲章を受けた部隊が
WW2での日系人部隊って言うしな

有能指揮官の元での日本人部隊と、
女を守ることと男の矜持のかかったイタリア人部隊には逆らうな、
ということだな

 

281: 名無し 2013/01/29(火) 18:26:05.46 O
カエサルは平生より友人を愛想よく気軽に、かつ丁重にもてなした。
森林地帯を旅行中、随員のガイウス・オッピウスが突然病に倒れた。
カエサルはたった一件の番小屋をガイウスに譲り
自分は大地を枕にして眠った。

 

282: 名無し 2013/01/29(火) 21:57:52.60 0
>>281
2人でいっしょに寝ればいいのに。

 

284: 名無し 2013/02/01(金) 01:33:05.03 0

太平洋戦争終結後
インドネシア独立運動に参加するため駐留日本軍を離隊した
宮山滋夫氏が部隊に残した置き手紙。

敢えて大命に抗して独自の行動にい出んとす
言うなかれ敗戦の弱卒天下に用なしと
生を期して米英の走狗たらんよりは微哀に殉じて火による虫とならん
天道は正義にあり 歴史の赴くところ正義にあらずして何ぞ
敢えて不遜の行動に出ずるゆえん 乞うご容赦あらん事を 戦友諸君

宮山氏は東京帝国大学卒の俊英で日本軍に入隊後も士官になる道を選ばず
一兵卒でとおした。インドネシア独立軍では教官として軍で習得した陣地構築、
破壊活動、兵器製造などの技術を教え、
独立を見届けた後、無事日本に帰還した。

 

285: 名無し 2013/02/01(金) 02:37:24.91 0
インドネシア独立を手助けしたのは良い話だけど
能力があるならそれを活かせる役職についたほうが
結果的に多くの人を助けられるんだけど
こういう凄い地位につけるのにつきませんでしたっての
美談にしてるのに納得できない

 

286: 名無し 2013/02/01(金) 06:48:14.22 0
よく知らないんだけど士官学校行かずに兵卒で入隊した人も士官になれるの?

 

287: 名無し 2013/02/01(金) 08:53:14.78 O
一定の学歴があれば入隊後に幹部候補生試験を経てなれるよ。
後藤田正晴も内務官僚だったときに徴兵され後に主計将校になってる。

 

289: 名無し 2013/02/01(金) 12:28:38.96 0

14c中部イタリアの大商人の話。

優秀だが、お金がないため、大学にいけない
学生に、学費を出してやる。
もちろん、親戚でもなんでもない。

その学生は、法学の知識をたんと身につけ、
大学を終えた後は、
その大商人の最も信頼出来る顧問弁護士のような存在に。
年を経ると、お互い一番の親友のような関係に。

その大商人は、別の似たような学生にも、学費をだしてる。
今度は、医学部。
もちろん、その学生は、卒業後、
その大商人の最も信頼出来る主治医のような医者になってる。

まあ、当時の商人の生活の知恵のようなものか。

 

290: 名無し 2013/02/01(金) 12:33:39.24 0

人によっては、ヨーロッパ最初の革命ともいわれている、
叙任権闘争。

ベネディクトゥス7世を、
軍事的に支えたのは、
トスカーナ女伯のマティルダ。
マティルダは、他の人間を夫としたが、
ベネディクトゥスに思いを寄せていた可能性が高い。

世界史の一大革命が、
一組のカップルの秘された愛の成果であるかもしれない。

 

291: 名無し 2013/02/01(金) 12:45:24.50 0

イブン・シーナーの現存する主著は『治癒』

当時のアリストテレス的な、論理学、自然学、数学、形而上学
を一つの体系にまとめあげた浩瀚な書物で、
その影響は、いうまでもなく、スコラ学にまでおよんでおり、
イスラム世界の当時の知的水準の高さを示す至宝といえる本。

この本の出来たきっかけは次の通り。

この種の学問を身につけたくてしょうがない人物がいた。
この人物は、イブン・シーナーが、自分の学問の保護者を探して、
諸国を遍歴し、思うような保護者をみつけられず、
精神的に疲労困憊している時に、イブン・シーナーに出会った。

当然、この人物は、書物を通して、イブン・シーナーを知っており、
感激して、イブン・シーナーの世話を焼いた。

後にイブン・シーナーは、一国の宰相にまでなる。
もう哲学教育のための時間を持つことができない。
そこでかの人物は、授業がむりなら、
アリストテレス哲学の概要を書いてほしい、
とイブン・シーナーに懇願する。

で出来上がったのが、浩瀚な『治癒』。
『治癒』の膨大さは、
その人物に対するイブン・シーナーの感謝の反映のような
気がしてならない。
この出会いが、後のペルシア、中世ヨーロッパの思想史に大きな
影響を与えた、ともいえる。

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