李牧です
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李牧者、趙之北辺良将也。常居代鴈門、備匈奴。以便宜置吏、市租皆輸入莫府、為士卒費。日撃数牛饗士、習射騎、謹烽火、多間諜、厚遇戦士。
李牧は、趙の北辺の良将である。常に代の鴈門におり、匈奴に備えた。便宜的に吏を置き、市租はすべて幕府に納めて、士卒のための費用とした。日々数頭の牛を殺して士卒に食べさせ、射騎を習わせ、烽火を厳重に管理し、間諜を多くやり、兵士を厚遇した。
市租訳してなかった
言葉でわかると思うけど市場の税金ね
ニュース
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為約曰:「匈奴即入盗、急入収保、有敢捕虜者斬。」匈奴毎入、烽火謹、輒入収保、不敢戦。
約束ごとを決めて言った「匈奴が侵入したならば、急いで収保(「保」は「堡」に通じる。防衛と貯蔵を兼ねた施設)に入り、賊を捕らえようとした者は斬る。」匈奴が侵入するたびに、烽火を厳重にし、ただちに収保に入り、戦おうとしなかった。
キングダムスレで大抵その話題になるの草
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如是数歳、亦不亡失。然匈奴以李牧為怯、雖趙辺兵亦以為吾将怯。趙王譲李牧、李牧如故。趙王怒、召之、使他人代将。
そのようにして数年が経ち、損失もなかった。そのため匈奴は李牧を臆病だと考え、趙の辺境の兵もわれらの将は臆病だと考えた。趙王は李牧を責めたが、李牧はもとのやり方でやった。趙王は怒り、彼を召し、他人を交代させて将とした。
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歳余、匈奴毎来、出戦。出戦、数不利、失亡多、辺不得田畜。復請李牧。牧杜門不出、固称疾。
一年余りが経ち、匈奴が到来するごとに、戦いに出た。戦いに出たが、しばしば負け、損失が多く、辺境では田を作れず家畜を飼えなかった。(趙王は)また李牧を行かせようとした。牧は門を閉ざして出てこようとせず、病と称して固辞した。
将軍同士の友情は熱いものがあるわ
藺相如は外交屋のイメージ強いけど
軍事も行けるとか春秋時代の卿みたいやね
せやな
史記読んでるとこの時代は軍政が分離してないような印象受ける
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趙王乃復彊起使将兵。牧曰:「王必用臣、臣如前、乃敢奉令。」王許之。
趙王はそこでまた強いて起用して兵を率いさせようとした。牧は言った「王がどうしても臣を用いようとなさるのであれば、臣は以前の通りのやり方で行い、命令は遵守いたしません。」王はそれを許した。
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李牧至、如故約。匈奴数歳無所得。終以為怯。辺士日得賞賜而不用、皆願一戦。
李牧は到着すると、昔の約束ごとの通りにやった。匈奴は数年しても手に入るものがなかった。(匈奴は)結局は(牧を)臆病と考えた。辺境の兵士は日々賜物を貰いながら用いられなかったので、みな一戦を願った。
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於是乃具選車得千三百乗、選騎得万三千匹、百金之士五万人、?者十万人、悉勒習戦。大縦畜牧、人民満野。匈奴小入、詳北不勝、以数千人委之。
そこでつぶさに車を選んで千三百乗を確保し、騎馬一万三千匹を選び、百金の士(百金を得られるような勇士)五万人、弓を引き絞れる者十万人を、統率して戦い方を習わせた。
大いに牧畜を放ち、人民で野を満たした。匈奴が少しく侵入すると、敗北したふりをして勝たず、数千人を好きにさせた。
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単于聞之、大率衆来入。李牧多為奇陳、張左右翼撃之、大破殺匈奴十余万騎。滅?襤、破東胡、降林胡、単于奔走。其後十余歳、匈奴不敢近趙辺城。
単于はそれを聞くと、大いに大軍を率いて侵入してきた。李牧は奇陣を多く設け、左翼右翼を張ってこれを攻撃し、大いに破って匈奴十万騎余りを殺した。
?襤〈タンラン〉を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降し、単于は敗走した。その後十年余り、匈奴は趙の辺境の城に近づこうとしなかった。
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趙悼襄王元年、廉頗既亡入魏、趙使李牧攻燕、抜武遂、方城。居二年、?煖破燕軍、殺劇辛。
趙の悼襄王の元年、廉頗は逃亡して魏に入っていたので、趙は李牧に燕を攻撃させ、武遂、方城を攻略した。二年して、?煖は燕軍を破り、劇辛を殺した。
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後七年、秦破殺趙将扈輒於武遂、斬首十万。趙乃以李牧為大将軍、撃秦軍於宜安、大破秦軍、走秦将桓?。封李牧為武安君。居三年、秦攻番吾、李牧撃破秦軍、南距韓、魏。
七年後、秦は趙将の扈輒を武遂で破って殺し、十万を斬首した。趙はそこで李牧を大将軍とし、秦軍を宜安で攻撃させ、大いに秦軍を破り、秦将の桓?を敗走させた。李牧を武安君に封じた。三年して、秦は番吾を攻めたが、李牧は秦軍を撃破し、南は韓、魏を防いだ。
補足忘れとった
桓?はキングダムの桓騎(文字が使えない変えたのかな?)
戦国策では死亡とあるけど史記ではその後正史不明なんや
名前忘れたけどケイカに首やった亡命者と同一人物説もあったな
樊於期かな?
そいてや
キングダムやともうでてたからその説はとらんみ
たいやな
ついでがやばそう
これ少数民族かな?
かなりの有力勢力やったらワイの李牧評に拍車がかかってしまう
東胡はそこそこ強くなかったっけ
冒頓のエピに出てきたやつ
や牧N1
林胡は武霊王のころに一度手懐けた遊牧民やったと思う
そうか
この時代勉強不足なんで助かります
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趙王遷七年、秦使王翦攻趙、趙使李牧、司馬尚御之。秦多与趙王寵臣郭開金、為反間、言李牧、司馬尚欲反。趙王乃使趙?及斉将顔聚代李牧。
趙王遷の七年、秦が王翦に趙を攻めさせると、趙は李牧、司馬尚にこれを防がせた。秦は趙王の寵臣の郭開にたくさんの金を与え、離間させ、李牧、司馬尚が反乱を起こそうとしていると言わせた。趙王はそこで趙?〈チョウソウ〉と斉将の顔聚を李牧と交代させようとした。
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李牧不受命、趙使人微捕得李牧、斬之。廢司馬尚。後三月、王翦因急撃趙、大破殺趙?、虜趙王遷及其将顔聚、遂滅趙。
李牧は命を受けなかったので、趙は人をやって密かに李牧を捕らえさせ、斬った。司馬尚を罷免した。三か月後、王翦は趙を急襲し、大破して趙?を殺し、趙王遷と将の顔聚を捕らえ、ついに趙は滅んだ。
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太史公曰。知死必勇、非死者難也、処死者難。方藺相如引璧睨柱、及叱秦王左右、勢不過誅、然士或怯懦而不敢発。相如一奮其気、威信敵国、退而譲頗、名重太山、其処智勇、可謂兼之矣!
太史公(司馬遷)は言う。死を知れば必ず勇ありというが、死ぬのが難しいのではなく、死に対処するのが難しいのである。まさしく藺相如は璧を持って柱を睨み、秦王の側近を叱るに及んで、当然誅殺されるにすぎないとわかっていたが、士のある者は怯えて惰弱で行動しようとしない。
相如が一度勇み立てば、敵国に威信を示したが、退いては頗に譲ったので、名は太山(泰山)より重くなり、その智勇を用いること、これらを兼ね備えているといえよう!
王翦伝を続けたければやるけどどうする?
ワイは春秋時代がすこなんやが
三国と宋史の岳飛伝だけ
あと三国演義の翻訳は人気なくて終了
個人的には唐宋が好き
はえ~
三国は正史の方が人気あったんか
>>199
正史は少なくても十人、多ければ二十人を超える人気シリーズ
演義はつねに三・四人、多くても十人超えないレベルやからな……
春秋なら伍子胥と孫武がすきだからいつかやろうとは思ってる
なるほど
伍子胥と孫武は楽しみやで
>>204
今中国史名将列伝なるものを作っていて
個人的な興味もあって翻訳してるんや
機会があったらやるからぜひ見にきてやで~
ところで王翦伝はどうする?
ワイはいつも遅く寝てるんで続けてもいいし明日に回すのもええで
無頼気取ってたころやろか
ほぼ同世代やな
王翦伝(李信つき)は明日やりますのでよかったら見にきてください
ほな、また
また明日楽しみにするわ