足軽の身から貴族になった豊臣秀吉
食の身から皇帝になった朱元璋
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川
それを1人で全てやった朱元璋
まさにチャイニーズドリームの体現者
朱元璋は民政に力入れたから、民衆の人気は結構良かった。
建文帝から簒奪した朱棣が逃げるように北に遷都したのも、朱元璋-建文帝路線への支持が強くて、その亡霊から逃れるためだし。
>民衆にとってはいい時代だった
明初は、元末の争乱や靖難の変の争乱などの相次ぐ争乱で土地は荒廃していたと思うが。洪武帝が行った政策は、そうした荒廃した農村を立て直そうとするものであったことは確かだ。
しかし、農村を立て直し、王朝の財政基盤を確立することが目標だったとはいえ、税の滞納がないように農民に連帯責任を負わせる里甲制、ひたすら皇帝への忠誠を説いた六諭などの政策が、はたして民衆にとって本当に良い政策だったのか?
里甲制や六諭というのは、豊臣秀吉の太閤検地や刀狩と同様に、農民を支配者に対して従順な税源、労働力にするためのものだろ?
一般の民衆が自身の手で記録を残すことがほとんどなかったとはいえ、一般の民衆からの視線を考えずに「民衆にとってはいい時代だった」とか、「民衆の人気は結構良かった」などと言い切っていいのか?
・・・いやいや、
朱元璋という重しが無くなったとたんに靖難の変という大混乱か。
漢は呂雉という重しが無くなっても全国的な混乱にはならなかったもんな。
斉王が挙兵して、大軍を率いて討伐に向かった潅嬰も不穏な動きを見せるとか、ほぼ内乱状態だったんだけどな。早期に収拾したのは、長安でクーデターが起こって、斉王が西に進軍する理由が無くなったからだし。
クーデター後、斉王ってどうなったんだっけ?
皇帝になる気満々だったけど、大臣たちに警戒されて代王が皇帝になって、失意のうちに帰国。
劉邦の嫡子の系統が途絶え、しかも真っ先に反呂氏の挙兵をした以上は
皇帝になれると思ったのも無理は無いか。
確か、長安の有力者たちと、「次の皇帝は斉王様です」って密約を結んでたはず。
クーデターの時も、長安にいた斉王の弟が参加してる。
永楽>>>>洪武
「永楽」もたいがい物騒だが。
万暦 何時まで経っても料理が出てこなそう
劉邦にせよ秀吉にせよ朱元璋みたいに
天涯孤独で餓死寸前ってほどではないし
ジンギスカンじゃないのかな
ほとんどルンペンで読み書きもできず
食料の取り合いで兄弟まで殺したのだから
一応王族の出らしいけど、
あの時代のモンゴルの王といっても、いくらか使用人がいたら勝手に名乗れる
レベルだったのではないかな
劉邦、朱元璋、豊臣秀吉、毛沢東くらいだよな
孔子の子孫がいるくらいだし
朱鎔基元首相とか(朱元璋第十四子の子孫とされる)。
出世といえばバシレイオス1世、エカチェリーナ1世、イヴァイロ、馬殷。
秦・晋・隋・元の血統は断絶してしまったが
元の血統=クビライの血統は少ないけど残っている。
チンギスの血統ならロシア貴族の家系中心にわんさか残っている。
英国がムガル帝国の帝位を要求したときって、
ロシア経由のモンゴル皇室の血統を掲げたって話だね。
えらく無茶な論法には違いないけど、ムガル帝国皇室相手なら、いちおう「うちだって親戚だ!」ということにはなるわけか。
劉邦と秀吉と毛沢東は富農
特に劉邦は史記の記載が正しければ名主レベルの豪農
秀吉の実家も寺ヘの寄進の記録などから村の序列で上位をしめる大人衆と呼ばれる
顔役だったとわかっている
劉邦は文字の読み書きができたので、最下層の役人になることができ、同じく役人の蕭何や曹参と知り合うこととなる。
秀吉も文字の読み書きができなければ、信長の家来になれたかどうか自体が怪しく、なれたとしても重臣にまで、ましてや関白にまで出世できることは絶対にない。
新唐書の記述が正しければ、劉邦の曽祖父は魏の大夫
樊噲のようなならず者にも蕭何のような役人にも人望がある。
呂公のような大名士にもぜひ娘をもらってほしい、と頭をさげられる。
当然、女にもモテモテで、気に入った女を抱きたい放題。
漏れなら、天下取りなんて危険極まりないことに手を出さず、安楽な生涯を望むけどな。しかし、そんな考えの香具師がこんなにも魅力的な漢なわけもないか。
漢書にしても新唐書にしても、秦が魏を侵略したときに、豊に魏人が移ってきたことは確実で、そのうちの有力な一族が劉氏。
〜先生門下生という肩書きが今の日本の〜大学卒業の肩書きに匹敵した。
一応国立学校もあったけど、出てもあまり出世できなかったとか
当時の武将一般は読み書きができるのはあたりまえとしても算術は苦手とする者が多かった。そんな中、秀吉は算術ができたからこその活躍が目立つ。
秀吉の場合、漢文に弱いってのが出世してから身につけた知識じゃなくて、幼少期に寺子屋あたりでならったものだというのがわかるね
農家の子供がみんな寺子屋に通ってた思ってる現代人にはそれが豪農の印だとわからないようだけど
秀吉は苗字も姓も無い身分だったみただし
(木下姓はねねの一族からもらったって説有り)
実際どうだったんだろうね。
秀吉の前歴は中村の「百姓」ということしかわかってない
木下藤吉郎として頭角を現わすまでの経緯は信頼できる史料には皆無
当時の「百姓」とは土地を持った自作農を指す言葉で
苗字帯刀する者も少なくない
そして上にもあるような傍証から上層農民と推察される
いくら国内戦争で鍛えられた猛者共や大量の鉄砲があるとはいえ
相手は東アジア最大の帝国
実際に通り道である朝鮮すら完全に撃破することができなかった
某医者が、あれは典型的な認知症の初期症状例だと書いていた。
一見正常に見えるから発見を見落としやすいそうだ。
秀吉は朝鮮出兵で、朱元璋は粛清で減らした