跡を継いだ魯粛がその当時自分の実力では守りきれずやむなく劉備に貸し出す。
215年その劉備が益州を取り、呉も呂蒙などの人材も育ち、実力を持って荊州を守れるほどになった。
劉備は荊州返却を拒否、しかし魏に対抗するには呉蜀同盟は必須。
呉は周瑜の意思そして国土防衛の為、荊州奪還をする。
劉備の軽率な行動により魏は安定した国家になり三国鼎立という膠着状態になる。
荊州貸与ということが既定であるかのように語るのはやめれ
むしろ劉備は「涼州取ったら荊州返す」という事で呉側の領有権を認める譲歩をしてるとも考えられるんだぞ
周瑜の意思?
魯粛伝に周瑜が上疏してる。
仮にあったとしても、襄陽を攻めるのは盟約違反であり
関羽の北伐が成功した場合、南郡返却はその襄陽が飛び地なることで不可能になる
今度こそ返して貰える、とか信じる呉のお偉いさんが居たとしたら魯粛以上のお人よしだわ。
ここで重要なのは劉備が、荊州は呉の物だと認めちゃった事なんだよね
踏み倒す気があってもなくても、相手の物だと認めてしまった事が政治的に大きな意味を持ったと思う
それでも215年(216年?)だったかの和解で荊州の領有問題に関しては決着済み。
だから219年の荊州侵攻に関して215年以前の劉備の「涼州取ったら返す」発言は呉にとっての大義名分にはならない。
呉が第二次荊州侵攻から夷陵まで上手だったことは別にしてね。
別に和解なんかしてないだろ。
曹操が劉備を攻めたから停戦しただけで。
それに対して劉備は涼州取るまで待ってくれたら
荊州全郡を呉に与えるといってる
全郡の返還義務があることを認めた発言じゃなく
涼州を取るまで数郡の借用を認めてくれたら
借用対象じゃない郡も利子代わりに呉に譲りますよってことでしょ
>>18
呉主伝に明確に同盟を結んだことは記されている
呉側にとって停戦程度の認識だったなんて言い訳はきかないよ
呉のものだと認めちゃったというか、返す約束をするのは借りた時にするであろう事から、あの時点で認めたというよりは江陵及び南郡を借り受けたときに結んだ条約じゃなかろうか。
こっからは想像込みの話だが、借り受けた当時の劉備勢力は呉と比べ弱小なので、江陵と南郡を借りるだけで将来的には南部四郡を利子として荊州領を返却するという無茶苦茶な条約を結ばされたと。
これを劉備側から見れば当時の荊州の人材が劉備に流れていた事、呉の荊州における領土は少なく、単独での蜀遠征なんて不可能と判断しており、借りた事に大して恩義を感じていなかったと思う、なので力関係が対等になれば荊州領を全部返せという呉の論理に従えないもの道理であったろう。
私見ではるが事実南郡+江夏+その他程度しか領有していない呉では荊州防衛さえままなったかは疑問である。
それでも劉備が当初の荊州三郡譲渡を飲んでいればまた違う形へと進展した期待もあるが。まあ互いの視点なんてほぼ俺の想像なんでアレな話だが。
荊南四郡に土地的価値はあまりないぞ?
交通の要所という戦略価値ならともかく、
荊州南部は人口が多く四郡合わせれば戸数は約65万、人口は280万人(後漢調べ)
南郡が戸数約16万、人口約75万。
人口=生産力であった当時でみれば土地的価値は高く、江陵を維持する策源地としては非常に重要な拠点となる場所。
で言いたい事は最後の段落さえ見てくれれば。
いいや、だから後漢調べと書いてあるが、
それでも人口減に極端な差が無い限り200万以上の人口差は埋め難い。
南部四郡が他地域と比べて特に荒廃してるとの記述でもないしね。
荒れていてそれに比べ襄陽・南郡は中原地帯から難を逃れ知識人や名士が移動してきていた。
南郡は人材面、策源地ととても他に比べることができないほどの要所。
異民族が蠢動するのは統治の問題で、生産力の否定にはならんでしょ。
劉備・劉表が治めていた頃には大規模な異民族反乱の話も無いので、異民族さえ上手く抑えれれば問題ない。
また潘濬・呂岱が討伐したのも武陵の異民族で生産性が低い郡であり、他郡と同一視できないと思うが?
あと南郡自体の価値は否定してない、ただ南郡だけでは大軍を養う事は出来ないという事。
だから生産以前に江陵奪還するまでは納得も満足もしないだろうよ。
その代わりに呉も滅んで魏が一人勝ちしそうだが。
劉備との同盟を一方的に破ってる時点で問題ありだよ。道義の話を持ち出すならね。
荊州の問題は理ではなくて利。
なのに変に理を持ち出すから変になる。
劉備死後に諸葛亮が孫権と同盟したときも
最初は孫権は魏とも付き合いつつ蜀と同盟しているように
「魏と結んだら蜀との同盟は無効になる」という証明にはならん
本来なら同盟を無効にするなら明確に破棄を宣言しないと
だからそれは孫権側の都合よすぎる建前だろ。
大体、陸遜が陸口に着任した時に関羽に送った手紙の中にも魏を敵国と表現してる。
つまり二枚舌の二股外交をしてるわけで、その良し悪しは別にしても呉に道義があるというのはムリがありすぎる。
蜀にも元より道義無しなので道義とか名目飾る議論には無理があるような。
最初から道義を持ち出す人がいなければそれでいいんだろうけどね
どういうわけか初期の借用権を振りかざして蜀を責める人ほど、分割後の呉の行動を理より利で片付けて主張しようとする
そういうことなんだよね。
別に乱世なんだから自国の強化のために強かな戦略を取ることを別に非難はしない。
ただ、一方の都合の良い箇所だけ取り上げ都合の悪い箇所は無視し、他方を一方的に責めるその姿勢は非難する。
「相手が肩をぶつけてきたから、後ろからこっそりついていってナイフで刺し殺してもいい」というお考えの持ち主ならそう思うでしょうね。
口実を与えてしまった上に荊州を失った関羽には当然責められなければいけない点はあるよ
曹操も孫権も得意だしね。
梟雄の持ってるべき能力の一つだと思うよ。
確かに一部の奸臣(劉樟からすれば)の乗っ取り案に便乗しただけと言えばそれまでだが
間違いなくリアルタイムの民衆には同族の信頼を逆手に取った裏切りにしか見えてないはず。
つまり何を言いたいかと言うとこの時代に信義とか道義とか問うのが間違い。
だから劉備も孫権もえらく変わらんと言ってるんだと思うが?
為政者は誰でも良かったんだろ。
劉備の時も劉備に従っていたし。
二回目は劉備にやられたこと返したことにすぎない。
劉備が呉の隙をついて呉領に侵攻したのか?
いつ?
張勃が晋将である事があの記述に影響を与えるとは思えないが?
呉蜀の争いなど晋にとっては一方を贔屓する意味もなく、父が偽作を作った可能性があるなら、息子の作品も偽作であるというのはあんまり過ぎると思うが。
>陸口から隠密に船を使わず公安を攻めると大回りになる。
全然、陸口から素直に遡れば通り道に公安があるが。
劉璋が助けを求めたから益州に入ってあげたのに……
援助をケチったのでやっちゃいました。テヘッ
呉蜀同盟を強化しようと婚姻打診してあげたのに……
関羽が拒否ったのでやっちゃいました。テヘッ
要約すると
「劉備は孫権を批難できない 孫権も劉備を批難してはいけない」
ということだな。
蜀侵攻で騙してるっても、元々劉備を参加せないという形の蜀侵攻をやろうとしてた上に、劉備監禁案まで呉内部で出ていたとあっては共同遠征なんて「今更何言ってんだこいつ」ってなもんだろう。
まあお互いに初期から権謀を駆使しすぎたね、だから友好関係ガタガタになっていった。
・湘関の場所は不明だが湘という地域は江陵より南方
・食糧強奪事件は于禁捕縛後(呂蒙伝)
・于禁と捕虜は江陵に護送されている(呉主伝)
まず第一に関羽はハン城で包囲戦中で、わざわざ南方までいって強奪するのはあまりに不自然で、位置的に捕虜捕縛直後に強奪は不可能であり、捕虜は時期を置かずに江陵へと送られてるので、強奪自体は関羽が直接行った訳ではなさそう。
それよりも実際に捕虜が送られた江陵の方が食糧不足・食糧強奪が起きた現場である可能性が高い。
そして江陵太守の麋芳は内通してる旨の記述が関羽伝・呉録にあったり、城を挙げて降伏したりと内通の疑いが強く、以上の事から食糧強奪は大義名分を用意したい呉側が、内通していた麋芳にその旨を打診してやらせたやらせ疑惑
であったという陰謀説を唱えてみよう。
まあ関羽からの命令or本当に食糧に困ってやったっつー可能性も普通にあるけど。
麋芳が内通していたことで呉録を持ち出しても真偽が疑わしい。
呉録を書いた張勃の父が後出師の表を書いた可能性の人物で内容も季漢輔臣賛の丸写しに近く呉の行動も内通を前提に動いていない。
>呉録を書いた張勃の父が後出師の表を書いた可能性の人物
張勃に直接関係無いじゃん。
>内容も季漢輔臣賛の丸写しに近く
季漢輔臣賛伝では「関羽と仲違いし孫権を招いた」とあるだけで、
呉録での南郡での失火の件とか全然記述内容に違いがあると思うけど。
>行動も内通を前提に動いていない。
内通を前提に動いてないとは?
内通があろうとなかろうか位置的に公安を遡り江陵を突くっていう最短ルート
に違いがでるとは思えないけど。
>張勃に直接関係無いじゃん。
張勃は晋将であり、当時の時代で父の影響を全く影響を受けてないとは考えられない。
>季漢輔臣賛
ごめん。なにかと間違えた。
>最短ルート
陸口から隠密に船を使わず公安を攻めると大回りになる。
まず第一に関羽はハン城で包囲戦中で、わざわざ南方までいって強奪するのはあまりに不自然で、位置的に捕虜捕縛直後に強奪は不可能であり、捕虜は時期を置かずに江陵へと送られてるので強奪自体は関羽が直接行った訳ではなさそう。
「関羽が直接行った」かどうか正直どうでもいい。要は関羽軍が奪った。
そうだろうね
結局蜀を排除して呉だけで荊州を支配するという、明確なプランを立てられた呉側に軍配が上がったのが、全てと言ってしまえば全てなんだよね
呉蜀の勝ち負け以前に勝ち負けやってる時点で両者ともに
本来の目的と自分達の立場ってものを忘れてる。
呉の本来の目的を遂行しているよ。
そもそも、統一とか帝位とか狙えるわけないし
横レスでスマンが
> よく言う呉の目的は割拠だというのは単なる負け惜しみに過ぎない
これはどっちかというと呉を貶める時に使われてると思うぞ。
俺は呉は統一を狙っていたと思うし呂蒙が死ぬまでは巧くいってたと思う。
呉は夷陵を何とかして回避すべきだったんだよ。
呂蒙が生きてればもっと蜀に食い込めたかもしれないし
それが無理でも劉備が警戒して譲歩を引き出せたかもしれない。
そうすれば襄陽を維持できた可能性もあると思う。
襄陽を維持できたというのがよくわからんのだが
そもそも呉は襄陽を取ったことがないんじゃないのか?
攻め取った訳では無いが関羽の死後に陳邵と言う将軍が襄陽を占拠したらしい。
「らしい」のは曹仁伝に徐晃とともに陳邵を討伐して襄陽に入城した、と言う記述より。
関羽死んでから曹仁没する223年までのどのタイミングの話かは分からないが。
呉主伝だと曹操が死ぬと魏の部将梅敷が降ってきたとあるので、これ幸いと陳邵を送ったんじゃないかな?
南陽郡の一部も呉に帰属してきたとあるし。
でも魏と本格的に対決する気はなかったので、曹仁が討伐の任を帯びて南下してくるとあっさり引き上げたってところと推測。
ちなみに時期的には曹丕が魏王に就いた220年春2月から曹丕が曹仁を大将軍に任命した221年夏4月までの間の出来事。
むしろ逆だと思うんだが、呂蒙があそこで死んでくれた方が呉として良い。
益州への侵攻は困難を極めるので失敗する可能性が高い上に、下手に益州に食い込めば本格的に蜀と争いになるのは必須、荊州を失って益州も侵攻されれば蜀にとって致命的過ぎて同盟とかいう問題じゃなくなる。
何故呉オタは割拠が目的だと吠えてるんだ?
まあ、そこは理想と現実は違うということでw
もうすこし、勉強してきて。
結局孫権の行動は一貫性のある戦略ではなく、短期的な視野での領土拡大が主、配下の意見を取捨選択したといえば聞こえが良いが、良い所取りをしたいから孫権は常にグレーゾーンな選択をし、周瑜→魯粛→呂蒙とその時々の有力者の意見に引きずられ過ぎる所がある。
> それでも孫権の目標は天下統一であり、それを擁護したいから割拠が主目的論が現れる。
部下に発破はかけてるけど、国是とまではしてないんじゃないかな?
まあ公孫淵とかにちょっかいとか出してるから孫権個人の野望としてはあるんだろうけど。
意味がない、統一した晋以外、魏も呉も蜀も正しくないがFAだから。
それは暴論。
最終的に成功しなかったからといって過程が全て間違ってるということにはならんだろうに。
荊州奪還は呉の国是であり、荊州保持は蜀の国是であるから共に譲れなかった。
ここはこれでいいだろ・・・どっちが正しいとかどちらが間違いとかは無いよ。