古代といっても中世といってもしっくりこない移行期王国。
世界史的にもマイナーですが、なんとか語りましょう。
参考文献は
「世界歴史大系 フランス史 1」(山川出版社)第2章・第3章
「メロヴィング王朝史話 上」(岩波文庫)
「メロヴィング王朝史話 下」(岩波文庫)
他にいい本あったら教えてください。
末期の王たちは12、13,14歳で父親になり、へい妾たちの遊びものとなって夭折したなんて記述があったけど、
正直萌えた。
傀儡としても、王の血統が必要だったから、早めに女あてがったのかな。
5世紀末成立したメロヴィング朝も、
7世紀半ばには幼王が即位したりして、グダグダ。
689年のテルトリイの戦い以降は、宮宰一族の完全な傀儡。
で、751年、最後の王が王位剥奪の上、修道院に追放。
カロリング朝が成立する。
簒奪に教皇の権威を借りるぐらい簡単に思いつきそうなものだが
当初はキリスト教の権威もそれほどではなかったのだろうか。
ものの本に「良心が咎めた」って出てたよ。
>当初はキリスト教の権威もそれほどではなかったのだろうか
中世初期のローマ教皇は、「キリストの代理人」ではなく「聖ペテロの代理人」
と名乗っていたぐらいだからな。
ローマ教皇が「キリストの代理人」を名乗るようになるのは、インノケンティウス
3世(在位1198年 - 1216年)の時代から。
霊威への信仰が非常に厚かったという事の方が大きかったかと思います。
メロヴィング家の最後の王の追放は、キリスト教の権威に頼るのではなく
王の霊力の源であると考えられた長い髪を切り取る事で行われました。
それにしては、メロヴィング期は暗殺がやたら多かったな。
国王・宮宰がやたら暗殺され、そのたびに局面が変わる。
特に6世紀段階。
フランスもカロリング朝・カペー朝以降は
国王が殺されることはまず無いのにねえ。
髪を切ったというのはそういう意味があったですか
メロヴィング家を丸ごと放逐するのとはワケが違う。
メロヴィング朝の継承方法では兄弟間の対立は必至だから、王が死ぬって事が
不自然に感じられなかったという事もあるんだろう。
髪を切るのは、まあ、象徴的な処罰・失権の烙印として、おこなわれていた。
宮宰でも、髪を切られ、修道院追放された者いるから、
長髪は当時のゲルマン王侯貴族の風習なのか??
トンヌラも言っているが、髪は霊力や権威の象徴と考えられていた。
グレゴリウス歴史十巻は大きく寄与しているとされる。
衣装とか見ると、5世紀のローマは既に中世っぽい装束だから、
グレゴリウスによって与えられたイメージがなければ、
5~7世紀くらいは、同じようなローマ社会が見られたのかもね。
ただ、そもそも歴史映画などで大量に出回っているローマ帝国の
イメージが、2世紀以前のものだから、4,5世紀のローマの映像が
もっと出回れば、そもそも後期ローマ帝国のイメージが変わり、
より、「移行期王国」との連続性が印象上でも、見られるかもしれないね。
逆に、ゲルマン的要素を、グレゴリウスがあれだけ強調してるのは、
6世紀段階でも、ローマ的基盤がしっかりしてたのでは。
グレゴリウスの感じだと、「ゲルマンの野蛮人風情が!!」
ってニュアンス濃厚。
所詮、ガリアに流入したゲルマン人は人口的に圧倒的少数派。
一種の征服王朝でしょ。
ちなみに、グレゴリウスのおかげで、メロヴィング諸王のイメージ、
かなり下落してるような。
南部にはゲルマン人はあまりいなかったが
北部は相当数いたらしい
ゲルマン人はローマ時代もあわせて1000年かけて北仏に移住してきたからね
実際、仏語単語の15%はフランク語起源といわれる、しかも基本語や生活関係語が多いことから
ゲルマン人がラテン化したことを示す
たりせず王朝がもったと思うよ。
当時の西ゴートなんかは国力弱かったのかな?
政略結婚のおかげだろうか?
ジギベルト1世の妻は西ゴートの王女だったし。
弟のキルペリックも真似をして西ゴートから王女を迎えたけど、あまり魅力のない
女だったせいか飽きて殺しちゃったんだよな。
それ話が逆。戦時罰令権の通常時への伸張がメロヴィング朝の王権確立に繋がったの。
出てくるね。
クローヴィスがまだキリスト教に改宗する前、略奪品の中で壷を分け前に
くれるように戦士達に言ったところ、一人が「籤が正当にあなたに当たえる
もの以外に、あなたはここから何も取ってはいけません」と叫んで戦斧を
壷に突き当てた。
国王といえども、略奪品を自分の好き勝手にはできなかったという話。
でそのあとしばらくして、
閲兵中にその戦士に手入れがなっていないと難癖をつけて武器を叩き落とし、そいつが拾おうとしてかがみこんだ瞬間に斧で一撃して曰く
「ソワソンではこんなかんじで壷に一撃食らわせたよなw」
その壷というのが掠奪先の修道院長からそれだけは返してくれと頼まれたので分け前として要求。
それを知ってた他の部下はおkと言ったのに、そいつが原則論を振り回したせいでクローヴィスの面子が潰れることになった。
いつの時代にも空気の読めないバカはいるということか。
それは王の根回し不足が原因だったのに逆恨みしただけの様な…
というか、一度正当に配分してからでも、代価を払って返還させれば済んだことを
王権を振りかざして特別扱いを押し通そうとしたことが問題なのでは?
なんか、同類の話あったよね。戦時には、王といえでも、
勝手な処罰できないので、戦争終結して、みんなが集落に帰還した頃に、
問題人物あぶりだして、処罰したとか。
それ話が逆。戦時罰令権の通常時への伸張がメロヴィング朝の王権確立に繋がったの。
「わが勇敢なフランク軍を率いて、おれがその場に居合わせたら、キリストのお受けになった危害に復讐せずにはいなかったろうに」
と叫んだ。
いいですね。素朴な感情を発していて。
人気取りのための建前だがな
現在のベルギーにあたる地域、スケルト、ムーズ、モーゼル、ライン等の流域に根を据えていたフランク族にゆかりの各部族は、それぞれメロヴィング系に属する独立した王に統治されていた。
クローヴィスは彼らを束ねてアエギディウスの子シアグリウス、アレマンニ族、アルモリカ族、ブルグンド族、西ゴート族などを破ってフランク王国の版図を広げ、東ローマ皇帝アナスタシウスからローマ執政官の称号を授けられる。
クローヴィスはラテン語は全くダメなんだっけ?自民族語のゲルマン語だけだったっけ?
西ゲルマン語の東フランク方言を話してた可能性がたかいらしい
俗ラテン語とラテン語は理解できたが
文字は読めなかった
フランスは中世から強国だったけど
圧倒的に強かったのは17世紀だけだな
それゆえフランスの真の王家はメロヴィング王朝のみなのだとかいう・・
もしもフランク王国が分割相続されずにメロヴィング王朝が残ってたらこの王朝は日本の天皇家のような代物になったんではないかと思えてしょうがない逸話だった。
ゲルマン人とガリア人が別々の言葉話して生活していて
言語のモザイク状態だったらしい
カペー家の祖先は記録の上ではサクソン族まで遡るみたいだ
クローヴィス(ルイス)、クロタール(ルーサー)くらい?
女性名のガルスヴィンタとか、ブルンヒルドなんて見る影も無く残ってないね。
かわいいじゃないか
欧州では日本の大河ドラマみたいなのはあるんだろうか。
大河でなくても映像作品で風俗とか見てみたいんだが…。
大体、源平以降だろう
確かに日本の大河でも一番古いもので平将門(十世紀)どまりだからなあ。
メロヴィング朝はちょっと時代が古すぎるのだろうか。
「メロヴィング王朝史話」、「ピピンーカール・マルテルーピピンのカロリング三代記」、カロリング朝になってしまうが「カール大帝」(←単発ドラマならありそうだ)、などをやったら面白そうだと思った。